試しに微笑む
文字数 4,668文字
アグリーが強姦されている間、アルカイクは近くの湿った草叢に横たわっていた。グレイソンに加えられた暴行の為に、唇や瞼には裂傷が生まれ、腕や腹部には青黒い痣が顔を覗かせている。
アルカイクは殴られることには慣れていた。実の母親から永い間、暴力を受けてきたから。
アルカイクの母親は、もと女優だった。売れない女優。彼女は女優業を諦めた理由が自分の才能の無さの所為ではなく、アルカイクが出来たからだと思い込んでいた。
アルカイクの父は気の弱い男で、アルカイクに自意識が芽生えた頃には既に無職でアルコール中毒だった。元々は健康食品のセールスをやっていたようだが、その気の弱さとどこか人を怒らせる性質の性格によって、追い出されるような形でその会社を去った。
這々 の体って、ああいうことをいうのよ。
母親は世界で一番臭いものを嗅いだ時のようなしかめ面で、夫たる男を見る。
お前さえ出来なければ、私はまだ女優をやっていただろうし、もっと良い男と付き合えたのに。
母親はよくそうぼやいた。最初の頃、アルカイクはその言葉が哀しくてよく泣いた。アルカイクが泣くと、鬱陶しい子、と母親はアルカイクを蹴った。だからアルカイクは徐々に笑うようになった。しかしそうすると母親はアルカイクの笑顔が不気味だと言って、また力一杯蹴るのだった。
母がアルカイクに暴力を振るっている時、父親は大抵黙って見ているか、どこかに酒を飲みに行っていて居なかった。
アルカイクは貧民街の中でも、特に貧しい地域で育ち、アルカイクの家の隣にはアグリーが住んでいる。
アグリーは濡れ羽色の黒髪と、美しい目を持っている。それに細い肩と、痩せぎすの身体に浮いた肋骨も。やはり家はとても貧しいが、その小さな乳房の奥に優しい心を隠した女の子だった。
確かにアグリーの髪と目は美しかった。だが、それに対して顎は少しだけ長過ぎた。それは作り手にとっては些細な過失だったかもしれないが、周囲に彼女を疎ましがらせるには充分すぎるほどの過失だった。
彼女は本当は、アグリーという名ではない。ただ、町の人達は彼女に呪いを込めるように、彼女をアグリーと呼ぶ。あまりにアグリーと呼ばれすぎて、彼女自身さえ自分の名がアグリーだと思い込むほどに。
アルカイクはアグリーに、君は「アグリー」じゃない、だって美しい目を持っているもの、と言う。そうして、アグリーは僕だ、僕は上手に笑うことが出来ないし、産まれてこなければ良かった存在だから、と。
そんな時アグリーは必ずアルカイクに、あなたの笑顔は素敵よ、と言ってくれる。
口元だけがにっこりと微笑んで、まるでお釈迦様の微笑みのよう。
アグリーとアルカイクは哀しいことや嫌なことがあると、家の近所の廃墟になったタイヤ工場に、こっそり潜り込んで遊んだ。
アグリーはよくそこで、いいことしてあげる、と言ってアルカイクの身体を触る。そういった時アルカイクの一部は必ず、—少なくともアルカイクにとってはということだけれど—、酷く醜く膨れ上がった。
アルカイクが恥ずかしがるとアグリーは、醜くないわよ、とそれに指を絡ませたり、キスをしたりした。アルカイクの心臓はどきどきと脈打つ。けれどアルカイクの顔は、歓びよりも苦悶の表情に似た反応を見せて、アルカイクにはいつもそれが不思議でならないのだった。
アグリーはアルカイクに、『いいこと』の他にダンスも教えてくれた。それは貧困の底に暮らす子供の空想が生み出した自己流の踊りだったが、見た限りではバレエと少し似ていなくもなかった。アルカイクにステップや指先の動きを教える時、アグリーは必ずこう言った。
いい? 私は昔、裕福なお嬢様だったの。その時にこのダンスを習った。この顎がもっと短くて、美しさも人生も均等がとれている頃にね。
これがルティレ。そしてエカルテ・デリエールからの、グリッサードよ。
きっとどこかで拾ったか盗んだかしたであろう本に書いてあったバレエ用語を使って、アグリーは出鱈目なダンスをアルカイクに叩き込む。時に華やかに、時に慎ましやかに。
アルカイクは十五歳になる頃には、ダンスの達人になっていた。アグリーは師匠としていつも喜んでくれたし、アルカイクは人生の悲哀や矛盾をそのステップやターンに乗せて表現することが出来た。それがこの世界中でたった二人にしか通じない出鱈目な踊りだったとしても。
アグリーは十四歳になる頃には、『いいこと』をやめてしまった。あれは本当に愛し合う二人がするものだから、と。逆にアルカイクの心と身体は『いいこと』を求めるようになっていた。その事実から逆算して、アルカイクは自分がアグリーを愛していることを知った。
母親の虐待は日に日に酷くなっていった。父親は何度も更正プログラムに送られ、そうして戻って来ては酒を飲んだ。父は死ぬことを望んでいるようだった。アルカイクは父が生きようと死のうと、自分には関係がないと思う。彼がアルカイクの人生に関わりを持ってくれなかったのと、全く同質量の無関心で(勿論そこには、父がアルカイクに持っているそれと同質量の罪悪感と自己嫌悪も含まれているが)。
母親はアルカイクに、お前の笑顔が嫌いだと言う。目が笑ってない、口だけで笑うな、上辺で笑うな、笑うならもっと幸せそうに笑え、と煙草の火を押しつけ、爪を剥がし、二階から突き落とした。
アルカイクはその度に笑うことを試みてみるが、暴力の嵐はどんどんとその雨脚を強めていった。幸せそうに笑え、はアルカイクにとっては一番皮肉で無理な相談だったから。
グレイソンは、醜い。見た目も醜いし、性格も醜い。その身体からはいつも酷い臭気がして、その小さなへこみのような目の奥から女の子達を舐め回すように眺めている。長い髪の毛はべたべたと頬にひっつき、毎日ふけが肩を白く染めていた。
アグリーはグレイソンが大嫌いだった。グレイソンはアグリーを見る度に、ようアグリー、今日もお前は醜いな、と言って笑ったから。
グレイソンは人の数倍も身体がでかく、創造主が彼を創った際、知性をつけ忘れたお詫びに人よりも多く筋肉を授けられたとしかおもえない体つきをしている。グレイソンがその醜さの割に、周囲の人間から醜いと言われないのはその筋肉の為だ。誰もが好んで殴られたりはしたくない。
ある日、アルカイクが学校の廊下を歩いていると、グレイソンが前からやってきて話しかけてきた。
よう、アルカイク。
やあ、グレイソン。
お前の仲良しのアグリーはどうした。
アグリーは、次の時間は選択した授業が違うから。
あいつは醜いけれど、良い尻をしてるよな。
アルカイクは黙った。グレイソンのその言葉に返せる言葉を持っていなかったし、返したくもなかったから。グレイソンは汚らしく、ひひひ、と笑った。
顔を見なきゃ、やれるな。
アルカイクは下を向いていた。廊下の大理石が、身体中の熱を奪っていくような気がする。喉の乾きと吐き気が同時にこみあげて、三日ほど寝ていない時のような体調不良が襲う。
何黙ってる。文句あるのか、腰抜け。
アルカイクは自分の足が震えていることに気付く。母から熱した鉄の棒を押し付けられたことも、椅子で殴られたこともあるというのに。それでもまだ自分は暴力を恐れていて、目の前の卑劣な男から大切なアグリーの尊厳を守ることすら出来ない。
窓の外で鳥たちが騒いだ。ぎゃあぎゃあ。その声でグレイソンは興醒めしたようで、ふん、と鼻を鳴らして去った。アルカイクはグレイソンが去ったあとも随分長い間、下を向いてその場に立ち尽くしていた。まるで時が過ぎれば、自分の弱さが目に見えない大きな存在に赦してもらえるとでもいうかのように。
それから一週間ほど後のことだった。
アルカイクは家の近くの人気のない林道を歩いていた。すると木陰から言い争うような声がする。
おそるおそる覗くと、そこにはアグリーとグレイソンがいた。アグリーはやめてよ、と叫んでおり、グレイソンは彼が唯一持っている汚いジーンズを下着と一緒に膝まで下ろしている。
アルカイクは思わず、グレイソンに体当たりをした。足は震えていたが、魂は怒りに燃えていた。
グレイソンはジーンズに足をとられ、前につんのめって倒れる。そうしてからゆっくりと起きて、更に飛びかかるアルカイクをがっしりと受け止めた。
アルカイクは殴られ、蹴られた。投げ飛ばされ、踏まれ、絞められ、嘲笑われた。最後は両手で頭をかばって、丸まった。身体中が痛み、恐怖が彼の身体を支配した。彼の魂からは怒りが引き剥がされ、すっかり萎縮して縮み上がっていた。
グレイソンは汚いジーンズを脱いでいて、下半身が丸出しだったというのに、それでもまだアルカイクの方が滑稽だった。
グレイソンは臆病者、と一言言って、それからアグリーを犯した。アルカイクの横たわるすぐ近くで。廊下で言っていた通り、後ろから、顔を見ずに。
グレイソンの荒い呼吸音、アグリーの啜り泣き、肉と肉のぶつかる音。アルカイクは横になりながら、少しだけ吐いた。
グレイソンが去ったあと、林道には泥と体液で汚れたアグリーと、吐瀉物 と血で染められたアルカイクが残された。
アルカイクは立ち上がって、大丈夫、と呟く。それはアグリーに訊いたというより、独り言のように林道に響いた。
アグリーは啜り泣いて、何も言わなかった。独り言に返答がないのは、当たり前のことだとアルカイクは思う。
アルカイクは踊り始める。アグリーに教わったダンスを。
ルティレ。エカルテ・デリエールからの、グリッサード。そして、スュル・ル・ク・ドゥ・ピエ。
アルカイクの頬に水滴が垂れて、濡れた前髪が生え際の絶壁から足をぶらぶらと投げ出す。林道に協奏曲が鳴り響き、空が赤紫に澱 む。林の中には黒く重たい緞帳 が降りて、観客の好奇の目からアグリーとアルカイクを隠してくれていた。沈黙する緞帳 の前で、アルカイクは身体を動かす。関節を曲げ、首を前後させ、飛び、指先を空に向けて伸ばす。
アグリーは啜り泣きの隙間から、しぼるように言葉を発した。
やめて、もうやめて。私は裕福でも美しくもなかったし、そんな踊り、出鱈目よ。私はアグリー。惨めで貧しくて汚れたただのアグリーなの。知ってるでしょ。
それでもアルカイクは踊るのをやめない。スュル・ル・ク・ドゥ・ピエから、もう一度グリッサード。アルカイクは踊りながら、奇声をあげる。言葉にならない、今まで一度も出したことのない声を。喉は締め付けられ、関節は曲がり、息があがり、アグリーが啜り泣く。
緞帳 がゆっくりとあがる。観客たちの割れんばかりの歓声と拍手。皆、ショーが始まるのをいまかいまかと待っていたのだ。暫しの熱狂。渦巻く狂気。汗。躍動。ルティレ。
アルカイクは自分が笑えない事を知っていながら、試しに微笑む。うまく笑えた気がするが、どうだろう。スポットライトで逆行になって、アルカイクには観客の反応も、現実の醜さも、自分の表情も、一切見えなかったからわからない。
ただ、頭の先から足の指先まで細やかな気を配って、踊り続けるだけだ。グリッサード。神さまに与えられた、それぞれの舞台で。
アルカイクは殴られることには慣れていた。実の母親から永い間、暴力を受けてきたから。
アルカイクの母親は、もと女優だった。売れない女優。彼女は女優業を諦めた理由が自分の才能の無さの所為ではなく、アルカイクが出来たからだと思い込んでいた。
アルカイクの父は気の弱い男で、アルカイクに自意識が芽生えた頃には既に無職でアルコール中毒だった。元々は健康食品のセールスをやっていたようだが、その気の弱さとどこか人を怒らせる性質の性格によって、追い出されるような形でその会社を去った。
母親は世界で一番臭いものを嗅いだ時のようなしかめ面で、夫たる男を見る。
お前さえ出来なければ、私はまだ女優をやっていただろうし、もっと良い男と付き合えたのに。
母親はよくそうぼやいた。最初の頃、アルカイクはその言葉が哀しくてよく泣いた。アルカイクが泣くと、鬱陶しい子、と母親はアルカイクを蹴った。だからアルカイクは徐々に笑うようになった。しかしそうすると母親はアルカイクの笑顔が不気味だと言って、また力一杯蹴るのだった。
母がアルカイクに暴力を振るっている時、父親は大抵黙って見ているか、どこかに酒を飲みに行っていて居なかった。
アルカイクは貧民街の中でも、特に貧しい地域で育ち、アルカイクの家の隣にはアグリーが住んでいる。
アグリーは濡れ羽色の黒髪と、美しい目を持っている。それに細い肩と、痩せぎすの身体に浮いた肋骨も。やはり家はとても貧しいが、その小さな乳房の奥に優しい心を隠した女の子だった。
確かにアグリーの髪と目は美しかった。だが、それに対して顎は少しだけ長過ぎた。それは作り手にとっては些細な過失だったかもしれないが、周囲に彼女を疎ましがらせるには充分すぎるほどの過失だった。
彼女は本当は、アグリーという名ではない。ただ、町の人達は彼女に呪いを込めるように、彼女をアグリーと呼ぶ。あまりにアグリーと呼ばれすぎて、彼女自身さえ自分の名がアグリーだと思い込むほどに。
アルカイクはアグリーに、君は「アグリー」じゃない、だって美しい目を持っているもの、と言う。そうして、アグリーは僕だ、僕は上手に笑うことが出来ないし、産まれてこなければ良かった存在だから、と。
そんな時アグリーは必ずアルカイクに、あなたの笑顔は素敵よ、と言ってくれる。
口元だけがにっこりと微笑んで、まるでお釈迦様の微笑みのよう。
アグリーとアルカイクは哀しいことや嫌なことがあると、家の近所の廃墟になったタイヤ工場に、こっそり潜り込んで遊んだ。
アグリーはよくそこで、いいことしてあげる、と言ってアルカイクの身体を触る。そういった時アルカイクの一部は必ず、—少なくともアルカイクにとってはということだけれど—、酷く醜く膨れ上がった。
アルカイクが恥ずかしがるとアグリーは、醜くないわよ、とそれに指を絡ませたり、キスをしたりした。アルカイクの心臓はどきどきと脈打つ。けれどアルカイクの顔は、歓びよりも苦悶の表情に似た反応を見せて、アルカイクにはいつもそれが不思議でならないのだった。
アグリーはアルカイクに、『いいこと』の他にダンスも教えてくれた。それは貧困の底に暮らす子供の空想が生み出した自己流の踊りだったが、見た限りではバレエと少し似ていなくもなかった。アルカイクにステップや指先の動きを教える時、アグリーは必ずこう言った。
いい? 私は昔、裕福なお嬢様だったの。その時にこのダンスを習った。この顎がもっと短くて、美しさも人生も均等がとれている頃にね。
これがルティレ。そしてエカルテ・デリエールからの、グリッサードよ。
きっとどこかで拾ったか盗んだかしたであろう本に書いてあったバレエ用語を使って、アグリーは出鱈目なダンスをアルカイクに叩き込む。時に華やかに、時に慎ましやかに。
アルカイクは十五歳になる頃には、ダンスの達人になっていた。アグリーは師匠としていつも喜んでくれたし、アルカイクは人生の悲哀や矛盾をそのステップやターンに乗せて表現することが出来た。それがこの世界中でたった二人にしか通じない出鱈目な踊りだったとしても。
アグリーは十四歳になる頃には、『いいこと』をやめてしまった。あれは本当に愛し合う二人がするものだから、と。逆にアルカイクの心と身体は『いいこと』を求めるようになっていた。その事実から逆算して、アルカイクは自分がアグリーを愛していることを知った。
母親の虐待は日に日に酷くなっていった。父親は何度も更正プログラムに送られ、そうして戻って来ては酒を飲んだ。父は死ぬことを望んでいるようだった。アルカイクは父が生きようと死のうと、自分には関係がないと思う。彼がアルカイクの人生に関わりを持ってくれなかったのと、全く同質量の無関心で(勿論そこには、父がアルカイクに持っているそれと同質量の罪悪感と自己嫌悪も含まれているが)。
母親はアルカイクに、お前の笑顔が嫌いだと言う。目が笑ってない、口だけで笑うな、上辺で笑うな、笑うならもっと幸せそうに笑え、と煙草の火を押しつけ、爪を剥がし、二階から突き落とした。
アルカイクはその度に笑うことを試みてみるが、暴力の嵐はどんどんとその雨脚を強めていった。幸せそうに笑え、はアルカイクにとっては一番皮肉で無理な相談だったから。
グレイソンは、醜い。見た目も醜いし、性格も醜い。その身体からはいつも酷い臭気がして、その小さなへこみのような目の奥から女の子達を舐め回すように眺めている。長い髪の毛はべたべたと頬にひっつき、毎日ふけが肩を白く染めていた。
アグリーはグレイソンが大嫌いだった。グレイソンはアグリーを見る度に、ようアグリー、今日もお前は醜いな、と言って笑ったから。
グレイソンは人の数倍も身体がでかく、創造主が彼を創った際、知性をつけ忘れたお詫びに人よりも多く筋肉を授けられたとしかおもえない体つきをしている。グレイソンがその醜さの割に、周囲の人間から醜いと言われないのはその筋肉の為だ。誰もが好んで殴られたりはしたくない。
ある日、アルカイクが学校の廊下を歩いていると、グレイソンが前からやってきて話しかけてきた。
よう、アルカイク。
やあ、グレイソン。
お前の仲良しのアグリーはどうした。
アグリーは、次の時間は選択した授業が違うから。
あいつは醜いけれど、良い尻をしてるよな。
アルカイクは黙った。グレイソンのその言葉に返せる言葉を持っていなかったし、返したくもなかったから。グレイソンは汚らしく、ひひひ、と笑った。
顔を見なきゃ、やれるな。
アルカイクは下を向いていた。廊下の大理石が、身体中の熱を奪っていくような気がする。喉の乾きと吐き気が同時にこみあげて、三日ほど寝ていない時のような体調不良が襲う。
何黙ってる。文句あるのか、腰抜け。
アルカイクは自分の足が震えていることに気付く。母から熱した鉄の棒を押し付けられたことも、椅子で殴られたこともあるというのに。それでもまだ自分は暴力を恐れていて、目の前の卑劣な男から大切なアグリーの尊厳を守ることすら出来ない。
窓の外で鳥たちが騒いだ。ぎゃあぎゃあ。その声でグレイソンは興醒めしたようで、ふん、と鼻を鳴らして去った。アルカイクはグレイソンが去ったあとも随分長い間、下を向いてその場に立ち尽くしていた。まるで時が過ぎれば、自分の弱さが目に見えない大きな存在に赦してもらえるとでもいうかのように。
それから一週間ほど後のことだった。
アルカイクは家の近くの人気のない林道を歩いていた。すると木陰から言い争うような声がする。
おそるおそる覗くと、そこにはアグリーとグレイソンがいた。アグリーはやめてよ、と叫んでおり、グレイソンは彼が唯一持っている汚いジーンズを下着と一緒に膝まで下ろしている。
アルカイクは思わず、グレイソンに体当たりをした。足は震えていたが、魂は怒りに燃えていた。
グレイソンはジーンズに足をとられ、前につんのめって倒れる。そうしてからゆっくりと起きて、更に飛びかかるアルカイクをがっしりと受け止めた。
アルカイクは殴られ、蹴られた。投げ飛ばされ、踏まれ、絞められ、嘲笑われた。最後は両手で頭をかばって、丸まった。身体中が痛み、恐怖が彼の身体を支配した。彼の魂からは怒りが引き剥がされ、すっかり萎縮して縮み上がっていた。
グレイソンは汚いジーンズを脱いでいて、下半身が丸出しだったというのに、それでもまだアルカイクの方が滑稽だった。
グレイソンは臆病者、と一言言って、それからアグリーを犯した。アルカイクの横たわるすぐ近くで。廊下で言っていた通り、後ろから、顔を見ずに。
グレイソンの荒い呼吸音、アグリーの啜り泣き、肉と肉のぶつかる音。アルカイクは横になりながら、少しだけ吐いた。
グレイソンが去ったあと、林道には泥と体液で汚れたアグリーと、
アルカイクは立ち上がって、大丈夫、と呟く。それはアグリーに訊いたというより、独り言のように林道に響いた。
アグリーは啜り泣いて、何も言わなかった。独り言に返答がないのは、当たり前のことだとアルカイクは思う。
アルカイクは踊り始める。アグリーに教わったダンスを。
ルティレ。エカルテ・デリエールからの、グリッサード。そして、スュル・ル・ク・ドゥ・ピエ。
アルカイクの頬に水滴が垂れて、濡れた前髪が生え際の絶壁から足をぶらぶらと投げ出す。林道に協奏曲が鳴り響き、空が赤紫に
アグリーは啜り泣きの隙間から、しぼるように言葉を発した。
やめて、もうやめて。私は裕福でも美しくもなかったし、そんな踊り、出鱈目よ。私はアグリー。惨めで貧しくて汚れたただのアグリーなの。知ってるでしょ。
それでもアルカイクは踊るのをやめない。スュル・ル・ク・ドゥ・ピエから、もう一度グリッサード。アルカイクは踊りながら、奇声をあげる。言葉にならない、今まで一度も出したことのない声を。喉は締め付けられ、関節は曲がり、息があがり、アグリーが啜り泣く。
アルカイクは自分が笑えない事を知っていながら、試しに微笑む。うまく笑えた気がするが、どうだろう。スポットライトで逆行になって、アルカイクには観客の反応も、現実の醜さも、自分の表情も、一切見えなかったからわからない。
ただ、頭の先から足の指先まで細やかな気を配って、踊り続けるだけだ。グリッサード。神さまに与えられた、それぞれの舞台で。