母の弾く、古い教会オルガンの音色が

文字数 4,461文字

 鍵盤は沈黙している。
 古い教会オルガンは、母の私物だ。ドミトリーは鍵盤に何かを話して欲しいと思うが、オルガンを弾くことが出来ない。
 ドミトリーは、小さな部屋の中で退屈するということをしている。両親が仕事に出掛けているから。
 ドミトリーの母は若い頃は、ピアニストになりたがっていたが、今では動物学者をしている。
 父は建築関係の会社員で、本が好き。父は若い頃に何になりたかったのか、ドミトリーは知らない。
 ドミトリーは、五歳。幼稚園には通っていない。性別、男。将来の夢は、立派な人。

 世界と初対面を済ませてからまだ五年だが、ドミトリーは世界がその足を忙しなく動かすところをじっくり観察し、理解することに成功していた。現在のニュースや、過去の歴史の本を読むことによって。
 例えば、百年ほど昔の日本という国では、女性が眼鏡をかけて働くことさえ禁止されていた。見苦しいという理解不能な理由で。
 これは本当に全く理解しがたいけれど、それもその当時の価値観なのかもしれない、とドミトリーは思う。
 なぜならば、もっと以前のアメリカでは、肌の色によって入れないレストランや座れない座席があったりもしたようだから。
 人々は肌の色によって、奴隷と主人に分けられた。そして奴隷は殺されても、文句は言えない、というおそろしい時代。
 前時代的、という言葉さえ軽く思わせられるほど、埃臭い黴の生えた価値観。目眩がするが、ドミトリーはそれらを敢えて読む。歴史を読むという行為は、多くの先人の人生を疑似体験するということに、限りなく近いから。
 終わらない代理戦争、政治家の汚職、差別と貧富の格差。
 昔の人間たちは、まるで眠りながら生きているようだ、とドミトリーは思う。本当の現実を見ずに生きているように見える。まるで、道でイヤフォンをしながら歌う人のように。
 歴史の本たちは、血塗られた過去の恥辱に塗れて沈黙している。ドミトリーは、静かに本の表紙を撫でる。
 母が大切にしている小鳥が、小さな声でちちちと鳴いた。彼女は母の重要な研究対象で、今となっては世界に数十羽しか存在しない種族の一羽だ。
 過去の人々は争いごとや便利さを追求して、世界を鳥も住めない場所に変えてしまった。彼女たちの種族は、今では研究者の保護の手の中でしか、存在することが出来ない。失われた環境は、再生するのにまた何億年とかかるのだ。
 人々は美術館の芸術作品に汚れた手を触れさせない努力はしたというのに、神の作った素晴らしい芸術作品は大切に出来なかった。
 動物たちや地球は現在、その債務を支払わされている。
 ドミトリーは溜め息をこぼす。なぜ人々は、もっと聡明になれなかったのだろう? 

 もっとも、現代の人間たちが聡明かと問われれば、ドミトリーには断言する勇気はない。
 実際ドミトリーの父と母は愛し合っていないのに、愛し合っているフリを続けている。なぜそうわかるかというと、ドミトリーがいない場所で彼らは口吻をしないし、ドミトリーのいない場所では会話のトーンが一オクターブ下がる為だ。
 そんな誰も騙せない偽りを続けることは、馬鹿馬鹿しいことだとドミトリーは思う。そう母に告げると、母は悲しい顔でドミトリーの小さく賢い頭を撫でた。
 「ドミトリーは頭がいいのね。けれど、頭がいいだけでは、人生は楽しみ尽くせないわ、ドミトリー。確かにママとパパの愛は昔のように燃え上がってはいないわ。でもね、それでも、愛は愛なの」
 ドミトリーは理解できなかった。彼らの冷えきった関係性は、ドミトリーの本で読み知った愛とは、もう別種のものの筈だった。父は分厚い小説を読みながら、ドミトリーの抗議を聞いた。
 「例えば、ドミトリーはレストランで食べる豪華なディナーが好きだね。そう、あれは確かに見栄えもよく、わくわくするから。けれど、お母さんの作る野菜のパテはどうかな? あれも好きだろう? けれど、豪華なディナーとは違う[好き]だろう。もの凄く美味しく見栄えのいい食事は、毎日には向かない。毎日食べるべきなのは、質素で情熱に欠けても栄養があり、安心する味の[野菜のパテ]だ」
 父の言葉は理解出来たが、それが真実なのか、単なる詭弁なのかはドミトリーには判断しかねた。それを判断するには、まだ経験が足りていないようだった。
 なにせ、ドミトリーは賢いとは言え、五歳なのだ。
 
 世界はとても複雑で大きく、それと同時にミニマムでシンプルに感じる。
 ドミトリーの世界は、父母と暮らすこのささやかなアパルトマンと、その近所だけだから。
 けれど同時にドミトリーは、どこまでも行けるのだ。世界の果てへも。そこでは銃弾の雨が降っているかもしれない。未だ化学に解明されていない不思議が待っているかもしれない。もしくは、このアパルトマンと同じ、静かでささやかに輝く生活が窓越しに夜を照らしているだけかもしれない。
 無限の可能性が、広がる。
 ドミトリーはそう考える時、去年みずから命を絶った姉のことを思う。彼女の可能性は、今どこにあるだろう? と。
 姉は十四歳だった。彼女は当時好きだった男に、酷い苛めを受けたのだった。醜い女だ、と。
 彼女は自分の人生に可能性を感じられなくなり、高い高いビルから飛んだ。沢山の花束を抱いて。
 「醜い自分にせめてものはなむけをあげたい。この美しい花のように、早く散ってしまうことを赦してください」
 姉の手紙にはそう書いてあった。ドミトリーは、姉が醜いとは思わない。姉は美しかった。確かに、美しい女に育つ少女だった。
 彼女の前には無限の可能性があったのだ。世界は広く、様々な価値観があり、多くの人が暮らしている。どこも似たようなものかもしれないが、彼女はもっと多くの人と出逢えたのだ。
 彼女の分の可能性は、今、世界の何処にある?
 あの日の母の泣き声が、部屋の隅に染み込んで、天井の角を深い暗がりにしている。
 ドミトリーは父に言った。姉を殺した男を、断罪すべきだと。父は悲しそうに母の背中をさすって、ドミトリーを振り返る。
 それは我々のすべきことではない。そうする人も世界にはいるが、我々はそれをしない。この話はこれでお終いだ。父はそう言って、母の泣き声をその人差し指で優しく拭った。
 ドミトリーにはわからない。わからないから、読む。世界を。歴史を。人々を。過去の英知と愚かさを。
 
 ドミトリーは幼稚園の入園式のことも、思い出す。
 幼稚園には制服があり、お昼寝の時間、お遊戯の時間、お歌の時間などがあった。ドミトリーは初日に、先生に訊ねた。なぜ、全員で同じ服を着る必要があるのか、と。
 先生は、そう決まっているからよ、と答えた。灰色の曇り空が、やけに美しい日のことだ。
 一ヶ月だけ通ったあとに、ドミトリーは母に言った。
 「理由もわからず、誰かのいいなりになるのは厭です」
 母は、そう、ではもう幼稚園には行かなくていいわ、と言った。制服はその日のうちに幼稚園に返され、彼は幼稚園に行かなくて良くなった。
 「人の言うことを黙って聞くのが厭ならば、自分で考えて行動しなさい。この中退が怠惰のもっともらしい口実にならないように」
 母はドミトリーに口吻しながら、耳元でそう囁いた。甘い感情が彼の胸を貫いて、ドミトリーは母の香水の匂いをずっと嗅いでいたい気持ちになった。
 
 過去の人々は、インターネットという便利な道具を開発した。そして、それを罵倒し合う道具に使った。
 同調圧力をかけ、殴りつけ、自分の命令を聞かせる為に使った。そういう方法で使われた素晴らしい発明は、インターネットだけではなかったが。
 爆弾や核、権力や金銭、言葉でさえもそんな風に悪用された。
 全ては素晴らしい発明だった。神からの祝福、贈与品だった。人々はその技術を愛の為に使うことも出来た。お互いを信頼しあい、笑顔になる為に使うことが出来た。
 けれど、そうしなかった。ドミトリーはそれを、悔いている。悔いて、反省している。人類として。
 我々は与えられている。恵まれている。なのに愚かだ。悲しいほどに、悲劇的に愚鈍だ。
 あの日、ドミトリーの独白をいつも通り聞いて、父は窓の外を見た。
 「そうだね。我々は愚かだ。それに気付いた今、我々は世界をより良い方向に変えたい。その為にはどうすればいいのだろう」
 「歪んだ他人を矯正すること。間違いを糺すこと」
 ドミトリーが解答を口にすると、父は安楽椅子に深々と腰掛けて笑った。ドミトリーは父の採点を待つ。赤丸を予想しながら。
 世界は矛盾していて、同時に理路整然としている。
 父はまず、そう口火を切った。
 「ドミトリー、君とよく似ているね。理路整然としていて、矛盾している。君の言う通り、世界を是正するとしよう。けれど、その正義は誰の正義かな? どの角度から見た正義だい? ドミトリーの言う是正は、過去の人々が繰り返して来た価値の押しつけと、何が違うのだろう?」
 ドミトリーは急に、真っ暗な道に放り出されたように感じる。目の前は真っ暗で、道があるのかどうかもわからない。そこは深い落とし穴かもしれない。
 「では、どうすればいいですか」
 「さっき言っただろう。世界はドミトリーとよく似ている。理路整然としながら、矛盾している。だから他人を矯正しようとすれば、自分の過ちをそこに見ることになる。ならば、自分を見つめれば良い。鏡に向かって自分を見つめて、深く深く内面に潜っていけば、そこは外界と繫がっている筈だよ」
 メビウスの輪を知ってるか? と父は笑った。尾を噛んだ蛇。入り口は出口であり、出口は入り口だ。
 外に出る為には、まず玄関から出なければいけない。
 玄関から出る為には、家に入らなければいけない。
 家に入る為には、外に出ていなければいけない。
 世界は矛盾し、同時に理路整然としている。全ての人々が様々な選択をし、複雑でシンプルに宇宙は巡り続けている。
 母の弾く、古い教会オルガンの音色が家に響く。その音で、ドミトリーの回想は途切れた。深い思考の波間に揺れているうちに、両親は帰って来ていたようだ。
 父が買い物袋から食材を出しながら、母のオルガンの音にあわせて鼻歌を歌う。ドミトリーは突然、彼らの間の冷めているけれど、確かな愛をそこに垣間みる。
 鳥籠の中では、絶滅寸前の小鳥もオルガンに合わせて美しい声を出した。彼女たちは確かに、もう外の世界では生きられない。あの遥かなる青空を、翼をはばたかせて思い切り飛び回ることは不可能だ。だが彼女たちはそれを悲しまない。こうして美しい音楽と砕けた光の中で、ただ単純に命を謳歌している。
 ドミトリーは洗面所へ歩いていって、鏡を見る。
 そこにドミトリーは姉に似た目鼻立ちの、無限の可能性を見つける。美しい、無限の可能性を。
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