紙の買い物袋

文字数 5,625文字

 マレクは一人で公園のベンチに座っている。
 暖かい日の差す平日の午後。子供たちやその母親集団、マレクの他にも数名の若者たちがいる。子供たちのはしゃぐ声と日差しが混ざり、マレクの酔った目には七色の光線に見える。その他の若者たちは、マレクから少し離れたところで、賑やかに会話を楽しんでいた。
 マレクは恋人と別れた哀しみを、アルコールとマリファナ煙草で癒している最中だった。そのやり方が正しいかどうかは彼にはわからなかったが、他に道がなければそこを通る以外に選択肢はない。マレクはひたすら目の前にある細長い一本の隧道(トンネル)の中を、向こう側の光に向かって歩いていくしか出来ない。
 すっかり酩酊(めいてい)したマレクは、くすくすと笑う。楽しい思い出たちがマレクの脳の伝達神経の中を、彼を慰めようと駆けずり回ってくれたのだ。レオポルトのドジな叔母の失敗潭(しっぱいたん)。ルカーシュが酔って前歯を折った夜のこと。ヴラジミールの猫の可愛い笑い話。
 あの話、話したっけ?
 マレクはそう言って振り向いた。そこには誰もおらず、再び激しい哀しみに襲われる。マレクは全ての楽しい話、悲しい話たちを恋人に共有してきた。二人で笑うことが好きで、二人で憤ることが愉快で、二人で涙することは美しかった。公園は笑い声と光に満ちているのに、そのどれもがマレクには無関係だった。
 マレクは紙袋で隠したウイスキーの瓶をぐいと傾けて、自らの喉を焼く。友人たちはマレクに頼られることを期待しているが、マレクは誰にも連絡をしない。恋人が開けた穴は、他のどんなものにも埋めることが出来ないからだ。友人と逢う時は、友人と逢いたくて逢う。そして恋人が去ってしまった今や、マレクはどんなに悲しくともひとりぼっちだ。
 誰とも逢いたいという気持ちになど、なれないから。
 
 隣、よろしいかしら?
 品の良い老女から声をかけられたのは、一体何時頃のことだったのか。マレクは酔っていたのでわからないが、公園はまだ明るく、無関係で楽しそうな子供や若者の声が響いていたと想う。
 マレクは力なく、首をがくんと縦に振って頷いた。老女は少し笑って、ありがとう、と座った。
 酔ってらっしゃる?
 マレクは彼女の質問に、またがくんと首を縦に振る。警察を呼ばれるかもしれないが、それはそれでいい。留置場だろうと、公園だろうと、同じことだ。孤独。それだけ。
 私の夫も、お酒が好きだったわ。
 老女は懐かしそうに目を細めて、遊具の周りを飛び回る人間のミニチュアを見つめた。マレクは黙っていた。老女が話したければ話せば良い。老人は皆、話したがるものだ。彼らの家には、埃のように過去が積み上がっているから。大量の思い出を自分の脳に収めておけず、断捨離代わりに口にするのだ。もしくは、自分が死んだ後も自分の人生を、誰かに覚えていて欲しいのかもしれないが。忘れられることは、死ぬことよりもおそろしいことだから。
 なんにせよ、老人は『おはなし』をするのが好きなものだ。好きなことは、すればいい。勝手に。
 よく一緒に楽しんだわ。ビア、ウイスキー、ジン、ラム、テキーラ、ジャパニーズサケ、ブランデイ。
 皺の奥で彼女の瞳は、少女のように輝く。遥か遠い日の琥珀色の液体や、その奥で笑う夫の逞しい胸板を思い出しているのかもしれない。
 それから彼女は小声で
 「盛り上がった夜には、仲間内の誰かが持って来たマリファナもね」
 と言って悪戯っ子のように笑った。
 マレクは伏せた瞼の隙間から、老女を盗み見る。今では年老いてしまっているが、かつてはさぞ美しい女だっただろう。櫛でよく梳かされた白髪は、今でも麗しく高貴な曲線を描いてきちんとまとめられている。
 あら、意外? こんなお婆ちゃんがマリファナを吸うなんて、って感じかしら? 結構、保守的なのね。
 老女はそう言って、更に楽しそうに笑った。
 「私も昔はあなたみたいに若くて、人生が輝いていたの。酔っ払って神経を麻痺させることが必要な程度にはね」
 老女は空を見て、子供のように両足をぴんと伸ばした。
 酔うのと、若いことは関係ないでしょう。
 酔うことが必要なのよ、若い頃は。年寄りには必要ない。
 でも年寄りもお酒を飲むでしょう。
 必要なくても(たしな)むことってあるわ。例えば、デザートとか。
 いつの間にか、公園には人がいなくなって、街からも音が消えている。

 糖分を摂り過ぎだわ。
 ベルタは夫の身体を心配してはいた。(ふと)り過ぎて、心臓に負担がかかっている気がする。それでも幸福そうに食後のデザートを食べる夫の笑顔は、ベルタにとって何よりも甘く美しい景色だった。
 だから。
 だから、止められなかった。夫は糖尿病で死んだ。自分が殺したようなものだ、とベルタは自分を叱責する。夫のいない静かな家の中で。砂糖は全て、捨てた。自分が砂糖を摂取しようとしまいと、夫は帰らないが、ベルタはもう甘いものを食べる気分にはなれそうになかったから。きっと、一生。
 姉さんって時々、悲劇のヒロインになりたがりよ。
 なんでもはっきり言う妹は、葬儀のあとでそう言った。弔問客たちに頭を下げながら
 義兄さんは甘いものが好きで勝手に食べて死んだの。姉さんの所為じゃないわ。
 と、小声で、けれどはっきりと言った。
 寿命。命を寿(ことほ)ぐ。どこまで生きたら、どのように死んだら、命を寿ぐことになるのだろう? 庭先の白膠木(ぬるて)、シュクンパに小鳥が止まって、チチチ、と空に話しかけた。ベルタは自分の質問に小鳥が答えてくれているような、不思議な錯覚に陥る。神さまからの使いかも。
 チチ、チュピチュ。小鳥は枝と葉のモザイクの中で、しきりに何かを話している。なんなの? なんと言ってるの? 彼は寿命だったの? それとも私が殺してしまったの?
 姉さん!
 急に妹の怒鳴り声が聞こえて、ベルタは振り返る。
 どうしたの?
 どうした、じゃないわよ。何度も呼んでるのに。もう肌寒くなってきているから、窓を閉めないと風邪をひくわよ。
 でも、庭のシュクンパに小鳥が止まってて。
 鳥? どこにいるの? 鳥なんていないわ。
 そう言われて顔をあげると、小鳥もシュクンパも妹もいなくなっていて、ベルタは道端に立ち竦んでいる。人々は忙しそうに、ベルタの横を通り過ぎて、すれ違っていく。家に帰るのか、それとも別の何処かに向かうのか。ベルタは自分の手にかかる買い物袋の重さで、買い物帰りだったことを思い出す。
 困ったわ。もう彼はいないのに、こんなに買ってしまって。
 
 口紅が似合わなくなった日のこと、覚えてるわ。
 老女は小さな声で、そう呟いた。老女の清潔な皮膚には、化粧品の類いは塗られていない。マレクはいきなりぞっとする。とある朝、起きると何かが似合わなくなっているのを想像して。今までずっと身につけてきたもの。例えば、指輪や、若者言葉。カジュアルな洋服や、スニーカー。それらは永遠に人生から去ってしまい、もう戻ってくることはない。セピア色の遠い景色に、小さくぽつんと影が見えるだけだ。
 そうして生まれてからひとつずつ身につけてきた何かを、手放して手放して、最後に残った身体を手放す。魂はこの世界を去る。この老女はその旅の途中というわけだ。勿論、マレクも。レオポルドもルカーシュもヴラジミールも、そして別れた恋人も。
 マレクの胸がまた酷く痛む。別れた恋人が、素晴らしい贈り物を受け取り、そしてそれを手放す長い旅路の行程を共にするのは自分ではないのだ。こんなにも早く、自分の人生から彼女は去ってしまった。自分は彼女を手放してしまった。
 口紅は、夫が死ぬずっと前から、似合わなくなっていたの。
 マレクを襲う酔いと苦痛の間の中間地点で、老女が陽炎のように揺れている。ゆらゆらと輪郭を揺らしながら、彼女は思い出話を話す。老人は思い出話を話すのが好きだから。
 「口紅は、夫が死ぬずっと前から、似合わなくなっていたの。けれど彼がね、君には赤い口紅が似合うね、って言ってくれたから、夫が死ぬまで私はその嘘を信じたの。毎日、鏡の前で似合わない口紅を老いた唇に塗ったわ。誰に嗤われても良かった。夫が毎日、似合ってるね、と言ってくれたから」
 でも、もう似合わなくなったわ。老女はそう言って、鞄から細い煙草を取り出す。吸ってもいいかしら? どうぞ。酔っぱらいの横で、煙草を吸う為の気配りなど不要だ。マレクこそ、誰にも何の許可もとらずに、此処で酔っ払っているのだから。
 美しい服も、ハイヒールも、マニキュアも。
 マスカラも、チークも、アイラインも。
 マリファナも、恋も、絶望も。
 なーんにも、似合わなくなっちゃったわ。
 老女は煙草の煙を、色のない唇からふうーっと吐く。それは哀しみの溜め息なのか、それとも単なるニコチンとタールを摂取する為の深呼吸なのか、マレクには判別がつかない。
 
 ねえ、踊ってくれない?
 ええ、良いですよ。でも音楽をかける機械がありません。
 そんなもの、必要ないわ。
 老女は微笑んで、マレクの腕の中にそっと、その小さな身体を滑り込ませる。そうして向かい合って手を繋いで、マレクの左肩に美しい白髪の頭を乗せた。マレクは柔らかい香の匂いを嗅ぐ。それは懐かしく、同時に安心する包容力のある薫りだった。
 「こうすれば、あなたの首の脈の音が聞こえるわ。私はそれに合わせて踊る。あなたは私に合わせて」
 マレクと老女はステップを踏む。ゆっくりと。マレクの動脈の奏でる音楽に合わせて。それは血の流れる音だ。マレクの先祖の系譜の奏でる音だ。マレクの命が続いている間だけ、続く特別な演奏会だ。
 マレクは酔った頭で、七色に光る公園の中、老女と踊る。人生は舞踏会のようだ。音楽が鳴り響いている間は、人々が美しく踊り、そうして終わりを告げる。もう音は鳴らず、あんなに賑やかだったホールはがらんとして、うら寂しくなる。誰か、誰かいませんか。もう踊りは終わりですか。踊りが終わったら、あんなに沢山いた人々はどこへ行ってしまうのですか。
 掃除婦が無関心そうにモップをかける。ホールのマネージャーは今夜稼いだ金を数えて、演奏家たちは楽器を容れ物にしまう。
 もう宴は終わりだよ。家に帰るんだね。
 家? 家ってどこですか?
 家を知らないなんて、冗談だろ。家ってのは、あんたが此処に来る前に元々いた場所さ。人は皆、そこに戻るんだ。そこから来て、そこへ行く。みーんな、そうしてんのさ。
 僕はまだ此処にいたい。此処にいたいのに。
 大丈夫。まだあなたの音楽は鳴っているから。
 老女の声が聞こえて、マレクは七色の公園に戻ってきた。

 こんなところにいたのね。
 マレクの意識がダンスホールから公園に戻ると、世界の騒音と無関係な人々も同時に帰って来た。子供たちのはしゃぐ声、若者の騒ぐ声、母親たちが笑い合う声。酔ったマレクと老女は寄り添い合って、その公園の端、さきほどまでいたベンチの前にいた。
 駄目じゃない。早く帰ってこないと。
 突如として現れた中年女が老女に向かって、話しかける。老女はやれやれ、と首をふって苦笑した。そしてマレクの耳元で
 「妹なの。私の面倒を見てくれるんだけど、少しがみがみ言い過ぎるところだけが欠点」
 と言って楽しそうに笑った。
 女は老女の手を引いて、帰るわよと、そしてマレクの方を怪訝そうに見ながら、この人は? と言った。
 マレクは自分の立場を思い知った。老女と抱き合って無音の中踊っていた見知らぬ若い酔っぱらい。老女の妹からすれば、変質者と捉えられても仕方ない状況だろう。マレクは焦って説明しようとする。
 えと、俺はマレク。彼女が隣に座って、旦那さんの話をしてくれて……。
 そこまで言うと、老女の妹はうんざりした顔で、ああ、と言った。
 そうなのね。オーケー。了解。付き合ってくれてありがと。
 そうして妹は老女を連れて行く。老女は大人しく、妹に手を引かれて公園の出口まで向かう。時々振り返って、マレクに小さく手を振っていた。
 マレクはベンチに座り直す。不思議なばあさんだった。まるで少女のようでもあり、若い女のようでもあった。
 そのとき、マレクはベンチの下に老女の置いていった紙の買い物袋を見つける。買い物の途中だったのか。忘れ物だ。
 マレクはそれを拾い上げる。やけに重たく、堅い。こんなものを老女が、自分で買いにきたのか。
 おおい、忘れ物だぞお!
 マレクが叫ぶと、妹は振り向いて、いらない! と叫び返した。
 でも、折角、そのひとが買ったのに。
 老女が妹に言う。
 忘れちゃったわ。買い物したのに。
 あの人が去ってから、甘いものは買わないようにしてるの。
 自分の分だけなのに、沢山買ってしまって。
 妹はうんざりした顔で老女の話を遮り、袋をあけてみて、とマレクに向かって叫んだ。 
 紙袋の中には、大量に石が入っていた。なんの変哲もない、そこらへんに落ちている、灰色の石ころが、隙間無くみっしりと。
 この人には妹はいないし、一度も結婚なんてしてないわ!
 妹、いや、その女が叫ぶ。
 マレクは女と老女の背中を見て、それから石の詰まった紙袋を見る。女と老女はそれからはもう、振り返らずに公園を出ていった。
 マレクはどすん、とベンチに座る。なぜか彼は、泣き出したくなっていた。人間の儚さの所為か、それとも一瞬の美しさの所為だったのか。
 少しの間、そうしていてから、彼は立ち上がった。人生の侘しさに圧し潰され、ありもしない思い出と狂気に閉じ込められないよう、友人を頼る為に。命の演奏が鳴り止まないうちに。
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