縫い目

文字数 3,232文字

 ラウロは十八歳の頃から、テレビを見なくなった。
 番組表に取り憑かれることに疲れてしまっていたし、予約録画の方法を覚えるのも面倒臭かったから。
 その代用品として、神様は彼にインターネットを与えた。彼は病んだ心を癒す為の道具として、インターネットの深い穴の底で人間性を取り戻す訓練をした。
 かかりつけの精神科医のマンフレード先生がラウロに、インターネットを辞めるべきだと忠告したのは二十八歳の時だった。
 確かにラウロはいつどこにいても、ネットの世界が気になったし、現実よりもネットの中の方が他人との交流があった。
 それにしてもこの十年で、インターネットも酷く変わった。誰もが気軽にインターネットに触れられるようになったことによって、現実はネット社会を歪め、ネットは現実社会を変貌させた。
 ラウロはインターネットを見る回数を減らした。彼を待っていたのは、がらんとした孤独で小さな部屋だけだった。

 突如として大きな象が現れたのは、いつのことだっただろうか。
 ラウロは想いを巡らす。あれは確か、インターネットを辞めてから半年ほどした夏の日だったと思う。
 ラウロが寝ていると、頬にぺしぺしと一定のリズムで当たるものがある。ラウロが目を覚ますと、そこには房のようなものが上から垂れて、ゆらゆらと揺れていた。
 ラウロはベッドから起きて、小さな部屋一杯に詰まっている「それ」の全貌を見る為に、壁際をゆっくりと進んだ。蟹歩き。
 「それ」は象だった。遥かで雄大、エレガンスにして奇妙。あの神聖な長い鼻の持ち主。
 なぜ、象が自分の部屋に?
 ラウロは不思議に思うが、象はそこにただ佇んで暴れる気配も攻撃性も見受けられない。勿論、疑問の解答を口にする様子も。
 ラウロは象の目を覗き込む。身体に反して小さく、漆黒の中にきらきらと光る何かがある、夜空のように優しい瞳。
 結果、ラウロは彼の瞳に深い癒しを感じたのだった。真冬の電車の座席の温もりのように。
 象は神が彼に与えたもうた、新たなる友人に感じられた。優しく巨大で、穏やかなる祝福。
 まさしく、彼は神からの祝福だった。それがラウロにわかったのは、象が家に来て三日目のことだ。
 ラウロは象のお尻の近く、しっぽの右斜め下三十センチほどのところに、小さな縫い目があるのを見つけた。
 縫い目は糸がほつれて、そこから少しだけ穴が覗いている。
 これは、傷だろうか。
 ラウロが何気なくその糸を触ると、糸はするするとほどけて、まもなく手紙大の大きなの切れ目になった。
 象は痛がる様子もなく、ただ美しくいつものように鼻を揺さぶっている。一体この縫い目はなんだろうと、ラウロが中を覗くと、暗闇の中に白い何かが見えた。
 穴の中におそるおそる指を入れて、白い何かを引っ張りだす。
 象の体内にあったにしては血も粘液もついておらず、白いものは白いままするりと穴から出て来た。それは手紙で、そこにはラウロの名前と住所が書いてある。
 手紙をひっくり返すと、遠くに住む叔父の名。手紙の中身は、法事の案内だった。
 ほうじのあんない、とラウロが小さく呟くと、縫い目の奥から声が聞こえた。
 親戚のみなもお前に逢いたがってるでよ。仕事が忙しくなけりゃ、ちいと顔を出してくれ!
 もう何年も逢ってない、叔父の声だった。
 
 それからというもの、象の縫い目は沢山のものをラウロに届けた。
 別れた妻からの近況報告。昔の友人の元気そうな写真。また時として、世界のどこかにいる知的な誰かとの有意義な議論。
 ラウロはダンスを踊るようにして、象の縫い目から出てくる情報たちと暮らした。それらは世界を彩りよく、美しくカラフルにしてくれた。
 離れていても、誰かの素晴らしい時間を共有できた。変わらぬ愛を伝えることが出来、時として温度の高い哀愁をゆっくりと啜ることさえ可能だった。
 ラウロの小さな部屋は華やかで賑やかだった。いつも満席の三ツ星レストランのように。
 味のいい情報に舌鼓を打ち、美しい写真や音楽に酔う。象の穏やかな呼吸音が、リズムを作り、生活は徐々に軌道に乗っていく。
 壁にかけたヴァンゴッホの絵のレプリカの中に入り、渦巻く夜の中でラウロは鼻歌を口ずさむ。言葉や想像力、イメージが様々な色の洪水となって降り注いだ。
 
 それで、それからどうなりました。
 マンフレード医師が、ラウロに訊ねる。ラウロは、それからのことを必死に思い出す。散らかった脳の中を、あれでもないこれでもない、と引っ掻き回して。
 そうです。象が徐々に世界に普及されていったんです。あれはとても美しく、豊かなものですから。多くの人たちに活用されて、世界を更に美しくしてくれる筈でした。
 ラウロは夢見がちな瞳を天井に向け、象の縫い目によって美しく彩られた未来世界に想いを馳せた。サイエンスフィクションを夜通し読む、少年たちのように。
 
 曰く。当初はユーザーが増え、縫い目は更に豊かになりました。多くの人の声が聞こえ、多くの人の喜びや驚きに満ち溢れていました。
 ですが徐々に象は、糞をするようになりました。不必要なものまでもが、縫い目の中に入ってくるようになったのです。象は不必要な物と素晴らしい情報をわける為に、中で消化と吸収を開始しました。
 その結果、不必要なものは糞として排出されるようになった。最初はラウロも糞と情報を仕分けして、重要なものだけを読んでいたが、何が重要で、何が重要ではないかを仕分けする為には、全てを一度読んで理解しなければいけなかった。
 だが残念なことに世界には必要で素晴らしいものの量よりも、不必要で愚かなものの量の方が多い。希少価値、という言葉が表現している通りに。
 徐々に部屋は糞で埋もれていった。
 素晴らしいものをひとつ読む為に、ラウロたちは不必要で愚かな文言を五百個以上読む必要がある。糞たちが齎す不快感は、ひとつの素晴らしさでは完全に消し去ることが出来ず、負の蓄積はラウロの部屋に少しずつ溜まっていった。
 マンフレード医師がカルテを書く音、頷く相槌の声だけが部屋の中に響く。ラウロは象の優しい瞳を思い出す。糞を大量に溜め込むようになった友人を、追い出した日の優しい瞳の色を。
 流行はいつも素晴らしいものを、最悪なものに変えてしまう。
 ラウロが溜め息と共にそう言うと、マンフレード医師はカルテを閉じた。
 そう。そして一度最悪になったものは、もう素晴らしいものには戻らない。世界は一方通行で、時計のガラスを割って針を逆に戻してみても、時間は前に進む以外に方法を知らないのです。では失礼。お大事になさってください。
 マンフレード医師はそう言って、部屋を出る。
 清楚な乙女のスカートの中のように、白く清潔な精神病棟。窓はなく、ベッドと簡易トイレと書き物机。
 世界の多くの人々は病んでいて、象の縫い目に縋っている。煙草に火をつけたマンフレードは眼鏡を外して、目頭を右手の人差し指と親指でぐうと押した。
 そこに看護婦が通りがかり、大丈夫ですか、と訊く。
 ああ、大丈夫。妄想癖の患者の会話に付き合って、少し疲れただけだ。彼らの頭の中は散らかっていて、その話を聞いていると僕まで何が正しいのか、わからなくなってくるよ。世界は矛盾と混沌に満ちていて、人々は皆愚かなのだ、という気分にね。
 清潔で静かな、鍵のかかっている病室で、ラウロは黙っている。
 沈黙は彼の狂気を深めていくが、彼の哀しみや苦悩を深める役割は果たさない。だから、あの縫い目より、今では沈黙の方が彼にとって良いものとなったのだった。
 糞に等しい情報や会話は、質量が同じでも素晴らしい会話とは比べ物にならないほど酷い。優しさも思い遣りも持たない、無駄に年齢と地位だけを積み重ねた老い耄れたちの、財布の中で眠るぶあつい札束のように。
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