化粧水と乳液の間に

文字数 4,534文字

 エマは静かに乳液を塗る。
 サミュエルが、キーボードを叩く音を聴きながら。
 静かな寝室を暖色の灯りが、密やかな場所に演出する。
 エマの素肌を乳液がコーティングして、美しさが顔を覗かせる。

 1.
 エマは薄情な夫と同じように、街行く若くて綺麗な女たちを目で追う。
 完璧なくびれ、胸、臀部。自信と張りに溢れた肌と、強気なメイク。
 まだ子供も産んでいない女たちは、魂の夏を謳歌している。
 サミュエルはそれをじいと目で追って、中々良い女だ、とか、あれは駄目だな、とか品評する。

 いつまでこの男は、男のままなのだろう。
 そうして私はいつまで女のままなのだろう。
 エマは自分の身体を見下ろした。
 少しとは言えないほど崩れて来たボディラインに、高価な洋服がまとわりつく。

 若い女には高い洋服やジュエリーは要らない。
 彼女たち自身に、価値があるから。
 結婚して子供を産んだ女は、重い足枷に囚われて灰色の街を歩かされる。
 その内に、自身も灰色にくすんで値打ちが無くなってしまう。

 どうすれば良かったのだろう。
 エマは夫を裏切り、他所の男と駆け落ちした友人たちを知っている。
 彼女たちの末路は、決まって悲惨なものだった。
 大量のアルコール、衰えていく身体、冷めた愛の食べ残し。
 そして大抵、最後は自分がかつて前の夫にしたことを、今の夫にされてピリオドだ。

 だからといって長く誠実な結婚生活も、そんなに代わり映えはしないように思える。
 大量のアルコール、衰えていく身体、冷めた愛の食べ残し。
 そうして重い足枷をつけられて、愛せず愛されず、真実から目を逸らし続ける。
 私と彼女たちは、一体どう違うのだろう。

 結婚した当初は、こうじゃなかった。
 サミュエルはもっとお金がなくて、エマも安い服ばかり着ていたけれど。
 「まだ仕事しているの? 私、もう眠いわ」
 あの頃、エマがぼやくと、サミュエルは必ず作業の手を止めてくれた。
 そして鏡台の前に座るエマにキスをした。
 「君が化粧水を塗って、乳液に入る前に終わらせるよ」

 長い年月を経て、サミュエルは作家志望から、作家になった。
 彼は小説も書いたし、演劇の戯曲も書いた。
 様々な物語や科白の断片たちが、エマの代わりにサミュエルとの時間を過ごした。
 エマは自分たちの寝室に、それらが残した濃密な薫りを感じて、顔を(しか)める。

 まただわ。
 若くて美しい女優たち、女流作家、ファンの女たち。
 サミュエルの物語に出てくる、強い香水をつけた自信満々の登場人物たち。
 エマはもうずっと前から気付いている。気付いてしまっている。
 だからエマはサミュエルを愛せなくなってしまったのか。
 それともエマが愛さなくなったから、サミュエルは別の物語に入り浸るようになってしまったのだろうか。

 理由なんて知らない。知りたくもない。
 不潔で汚らわしい、裏切り行為。不貞。卑怯者。
 サミュエルの身体からは、艶かしい女たちの科白(せりふ)と体液の匂いがした。
 庭の皇帝ダリアが項垂(うなだ)れて、夜風に揺れる。 
 息絶えた死人の身体のようだ、とエマは思う。

 2.
 サミュエルは、エマのことを愛していると言い切れる。
 仕事が軌道に乗るまでサミュエルを支えてくれた人だし、彼は彼女に今でも大金をかけている。
 彼女の着るもの、食べるもの、住む場所。
 全ては高級で優雅でなければならない。他の安い女たちとは違って。

 若い女には高価い洋服やジュエリーは要らない。
 彼女たちには、美しく優雅な服やジュエリーは似合わない。
 その輝きに見合う品格を手にいれた女こそ、高価な品を身につけるに相応しい。
 若い女たちは、安く、手軽で、軽卒だ。

 サミュエルは若い女たちのつける強い香水を憎んでいる。
 主張が強すぎるし、清楚さの欠片も感じられない。
 逢い引きには全く不必要なものだ。
 若さには若さの、良さがあるというのに。

 エマは母親だ。母親は清楚で、同時に秘されたものであるべきだ。
 偶像はいつなんどきも、軽々しく侵蝕されてはならない。
 母性と慈愛に溢れ、微笑む処女性と熟れた迫力を同時に併せ持っているべきである。
 サミュエルの母親が、そうだったように。

 だからサミュエルはもうエマを抱かない。
 自分は母親を犯すような変態ではないからだ。
 なのできちんと外に愛人を持っている。そうして同時にエマを愛する。
 エマは他の女たちのように、軽々しく暑かって良い存在ではなくなってしまった。

 サミュエルは自分のことを、優れていて壊れた男だと思う。
 歪んだ性欲、権力に対する執着、荒々しい攻撃性。
 それは聖なるものとはほど遠く、しかし失うには仕事に深く関与しすぎていた。
 だからせめて、聖母からは遠く遠ざけておかなければならない。

 「奥さんのこと、抱かないの?」
 三度目の逢瀬になる、新人女優が、ウイスキーを飲みながらサミュエルに訊ねる。
 抱かない、とサミュエルは答えてノートパソコンを見つめる。
 メールへの返信を考えながら、部屋の空調の温度が低いと思う。

 「なんで、抱かないの?」
 「少し寒くないかな。空調の温度をあげてくれ」
 サミュエルは話題を変える為にも、風邪を引かない為にも、そう告げる。
 「なんか着たら? それより、なんで奥さんを抱かないの?」
 サミュエルは徐々に苛立ってきた。下品で安い、他人のスペースに土足で上がり込む若さに。

 「君には関係ないだろう」
 ふうん、と女は言って笑った。
 「関係ない女は抱くのに、奥さんは抱かないんだ」
 「関係ないから抱くんだ。妻は大切な人だから」
 女の紅い唇が、意地悪く歪んだ。

 「奥さんの変わり果てた姿を見るのが、怖いだけでしょう」
 「そんなことはない。空調の温度をあげてくれ」
 女は空調のポタンを、ぴ、ぴ、と押す。
 「奥さんで欲情出来ないだけでしょう」
 女は若く軽卒で艶かしい身体をくねらせて、サミュエルに抱きつく。

 「まだ仕事しているの?」
 サミュエルの身体を、マニキュアのついた華奢な指先が撫でた。
 激しい攻撃性が、サミュエルを苛む。サミュエルはおかしくなりそうになる。
 女にのしかかって、サミュエルは笑った。
 「生意気な子に、報復だ」
 女は自分の説の正しさを証明してくれた男の愚かさに、その甘やかな身体を任せることにする。

 3.
 虚無の中で、哀しみが嗤っている。
 哀しみの正体はきっと、若い女だ。
 若くて美しくて、素顔を晒すことも平気な、とびきり残酷な女。
 エマは哀しみの正体から目を逸らすように、本を閉じた。

 文章を追っているつもりが、いつの間にか周囲は暗闇だった。
 本の頁には何も書かれてなく、真っ白な暗闇の向こうで哀しみが手招きしていた。
 絶望の深く暗い孔の底は、もう日常生活のすぐ傍にすり寄ってきている。
 エマは気分を変える為に、部屋の掃除をすることにした。

 子供たちは学校に行っている。
 あの子たちは、父親の不貞に気付いた時、どう思うのだろう。
 私を庇ってくれるだろうか。それとも何も思わないのだろうか。
 エマは悲劇のヒロインになりたがっている自分に、嫌悪感を覚えた。
 これ以上、自分で自分を惨めにしてはいけない。

 せめて誇り高くあろう、とエマは誓う。
 掃除機の騒音で、(にじ)り寄る絶望の魔の手を追い払いながら。
 私も不倫してみようかしら。でもどこで? 誰と? どうやって?
 そんなことは出来っこないことは、エマが一番知っている。プライドが(ゆる)さない。
 けれどエマは考える。頭を空にして、空いた空間に悪魔が紛れ込むのが厭だから。

 私も不倫をして、他の誰かを愛そうかしら。

 サミュエルはどんな顔をするだろう。
 怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも。
 それとも、良い機会だとばかりに他の若い女と暮らし始めるだろうか。
 もう愛していないサミュエルに、何を求めているというのだろう。
 エマは答えることが出来ない。幸福という言葉の意味を、忘れてしまった。

 エマは上着のチャックを閉めるように、上と下の歯を噛み合わせる。
 哀しみか、もしくは冬が(もたら)す寒さの為に。
 窓の外では太陽がタイムカードを切ろうとしていた。
 夕焼けが差し込んで、エマは部屋の中で影絵のように立ち尽くす。
 
 誰かが今のエマを見ていたら、なんと美しく悲しい女だと思っただろう。
 けれど現実はいつも、誰かの視線などなく、ただ辛辣(しんらつ)に過ぎる。
 だから悲劇は悲劇にさえならず、陰惨(いんざん)で息苦しい孤独の餌食(えじき)でしかない。
 エマが深く息を吸い込むと、その胸がゆっくりと膨らんだ。
 もうこのまま誰にも触られず、愛されもしないであろう、柔らかな胸が。

 夕食はイタリア風の魚のスープにした。ズッパ ディ ペッシェ。
 湯気がたっているその皿を、テーブルに盛りつけていく。
 サミュエルの分。子供たちの分。そして最後に、エマ自身の分。
 学校はどうだった、とサミュエルが訊ねる。
 子供たちは、別に、とか、まあね、とか答えた。
 料理の味はどうかしら、とエマが訊ねる。
 美味いよ、とサミュエルが答えて、うん、と子供たちが頷く。

 寝室は暖色の灯りに、密やかさを演出されている。
 サミュエルがキーボードを叩く音が聴こえる。
 エマは鏡台の前に座って、自分を見つめる。刻一刻と老いていく素肌。
 「まだ仕事をしているの? 私、もう眠いわ」
 エマは久々に、意識的に呟く。昔は無意識に口にしていたあの科白(せりふ)を。

 「来週までにこの戯曲(ぎきょく)をあげてくれって、イーサンが五月蝿(うるさ)くてな」
 キーボードを叩く音がする。夫と甘い科白(せりふ)たちが頬を合わせて踊る音。
 エマは化粧水を顔につける。乾いた素肌にそれは馴染んで、すうと染み込んだ。
 「早くしてくれないと、化粧水が乾いてしまうわ」
 エマはとても、とても小さな声で、呟いた。

 「何か言ったか?」
 サミュエルが、大きな声を出す。
 「なんでもない」
 哀しみを見ないで済むように、エマは乳液のついた両手で顔を覆う。
 かつての彼は、彼女の化粧水と乳液の間に戯曲を書くつもりだった。
 そんなことは無理だとエマも知っていたけれど、彼女は乳液をつけるのを待った。 
 
 そうして乳液をつけられず、よくエマはそのまま眠ってしまったものだった。
 けれど永遠のように感じた、あの長い待ち時間はもう終わってしまった。
 乳液をつけずに眠れる若さも、急いでくれる夫も、もういない。
 誰も待たなくていいというのが、こんなに哀しいことだったとは。
 エマは誰の為でもない美しさを、密やかな寝室に閉じ込めて眠る。
 満たしてやることの出来なくなった子宮に、ひたすらに謝りながら。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み