横たわる水槽

文字数 4,327文字

 老夫は震える枯れ枝のような指で、グラスを持つ。口をついて出た溜め息は寒さの所為か、それとも侘しさの所為か。
 あなた、海が好きですか。
 色褪せて輪郭すらぼやけた服のせいで、老夫はより年老いて見える。僕はカフェの前の海を眺めた。
 わたしの娘の話をしてもよろしいですか。
 酒場の喧噪の中、老夫の話はするすると彼の口から出てくる。
 僕の返事も待たず。

 娘のアンナは、それはそれは愛らしい子でね。小さな頃から器量がよく、愛嬌もあり、周囲の人間たちにとても愛されました。長い睫毛、カールした柔らかい髪、大きな瞳。利発さに因って象られている黒目を覗き込めば、そこには真理と優しさが甘い微笑みをこちらに傾けてくれているのがよく見えます。
 わたしと妻は、アンナといられれば幸福でした。アンナは知性も高く、あの子を良い学校に行かせる為に、わたしも妻も働きに働きました。目をつむれば今でも、仕事に睡眠を奪われ、それでも酷く満たされていたあの日々が昨日のように感じられます。
 や、これは失敬。わたしの話は、どうでも良いですな。
 アンナが少しまともじゃなくなったのは、あのマテオとかいう男と出逢ってからです。わたしは最初からあの男が気に入らなかった。濡れた黒髪、色気のある目尻、厭らしく引き締まった尻。全くどこをとっても女たらしな男でした。
 それでもアンナが連れて来た男です。あまり邪険にも扱えず、かといってわたしの胸騒ぎは収まってくれませんでした。
 けれど当初はマテオの淫蕩な魅力にも、 ―そう、確かにあの男には魅力があったのです。それは私も認めざるを得ません― アンナの知性を全て削ぐほどの殺傷能力は流石になかった。その切っ先を少し鈍らせる程度の作用はありましたがね。
 ところでアンナには、アデラインという友人がおりました。アデラインはアンナに較べれば、いや較べなくとも、あまり器量が良いとはお世辞には言えない女です。いや、これは親の欲目ではなく。確かにアデラインは器量も悪く、知性もそんなに備えておりませんでした。マテオと同じく、妙に淫蕩な魅力はありましたがね。
 アンナが二十二になる年の秋頃、マテオとアデラインは手をとりあって姿を消しました。
 アンナに残されたのは、一通の手紙だけ。そこにはアデラインの表面上の謝罪 ―実際はそれはアデラインが初めてアンナに勝利したという、愚かな勝利宣言に過ぎませんでしたが― そんなようなものが下手な文章で綴られておりました。
 全く、あの時のアンナの落胆ぶりときたら。
 冷酷な涙たちが瞼を赤く腫らし、哀しみはその硬い腕でアンナを締め上げてあの子から食欲を奪いました。
 それでも美しさは敗走することなく、アンナの顔と瞳の上で微笑を浮かべて佇んでおりましたがね。いえ、これは本当に。不幸や裏切り、あの実におそろしい哀しみですら、アンナから素晴らしさを奪えなかったのです。
 ですが哀しみがいくらアンナから高貴さを奪えないとはいえ、人はものを食わねばいずれは死んでしまいます。わたしと妻は、なんとかアンナを慰めて、食事を摂らせたいと願いました。少しでも何かを食べておくれというわたしと妻の懇願にも、アンナは静かに首を横に振るだけ。日に日にやせ衰えていくアンナに、わたしたちは心配を通り越して哀しみすら感じました。マテオとアデラインへの憎しみと共に。
 そんなある日のこと。あれは厚い雲が太陽を遮って、殊更に憂鬱で灰色な日でした。アンナがわたしに、お父さん魚が食べたい、と言ったのです。わたしがどれほどの涙を流し、どれほどに喜んだかわかっていただけるでしょうか? 私はアンナに訊ねました。
 どんな魚だい? 焼き物にしようか、それともスープがいいかな?
 アンナはにっこりと笑って
 水槽で買うような小さな海水魚を、生きたまま持って来て欲しい。
 と言いました。
 どうも不思議な注文だと思いましたが、何はともあれアンナがやっとものを食べる気になってくれたのです。わたしは喜び勇んで、小さな海水魚を買いに走りました。何しろその頃にはアンナは酷く痩せ細って―丁度今のわたしのようにー、見る影もなくなってしまっていましたから。
 魚を買ってくると、アンナはあの美しい笑顔をわたしに見せてありがとうと礼を言いました。そうして、その魚を生きたまま、ごくんと丸呑みしたのです。えぇ、驚愕しましたよ。おそろしかった。娘がおかしくなってしまったのではないかと思いました。
 わたしはアンナに訊ねました。なぜ魚を生きたまま、丸呑みするんだい? そんなことをしたら、魚もかわいそうじゃないか。
 あの子は、私の身体は水槽だから、と嗤いました。
 
 お父さん、知っているかしら? 私たちの身体の七十パーセントは水分で出来ているんだそうよ。つまり私のこの身体の中には、たっぷりの水が入っているの。だから私は、私という水槽の中で、魚を飼うことにしたの。
 その日からアンナは、涙を流すことを厭うようになりました。
 水槽の中の魚の為に。水槽には少しでも水が沢山入っている方がいいでしょう? と言って。
 それからアンナは数匹の海水魚と、水草を飲み込みました。淡水魚は決して飲みません。人間の身体の中の水分は生理食塩水で、だから海水魚しか生きられないのだというのが、娘の持論でしたから。
 それからエアレーションの為の深呼吸。身体の中には濾過バクテリアがいるのか、それともそれも飲んだ方がいいのかなどと、わたしは訊ねられ、ああとかふうむとか、要領の得ない返答をもにょもにょと答えるしか出来ませんでした。
 なぜわたしがあの子を止めなかったのか? わたしは怖かったのです。実の娘が。おそろしかった。それに、少し様子がおかしいとはいえ、生のまま丸呑みしているとはいえ、何かを口にはしてくれているのです。
 わたしはアンナに生きていてほしかった。ええ。全く駄目な親爺です。
 
 アンナが二十三歳になった秋頃、あの子はわたしに、砂を買って来てほしいと頼みました。どんな砂だ? とわたしが訊ねると、なるべく白くてさらさらした砂を、と言います。
 私が砂を買ってくると、あの子は自分の寝室一面にわたしの買って来た砂を撒いて、そこに寝始めたのです。
 水槽はミニチュアの海だから、と。
 今でもあの子の声が、生々しく聞こえてくるようです。
 ねえ、お父さん。海の底には音も光も届かないのよ。その真っ暗な沈黙の中で、魚たちはゆっくりと暮らしている。私の真っ暗な沈黙の底で。
 妻は疲弊しきって、もう何も言いませんでした。わたしは何かを言わなければ、と思いました。けれどアンナの寝室のドアの前に立った時に、部屋の中から繰り返し聴こえる「ざあ、ざあ」という彼女が口で言う波音を聴いて、やめました。その声の前では、もうどんな言葉も意味を持ちそうにありませんでしたから。
 部屋からは、ざあ、ざあ、という声がいつまでも聞こえてきました。
 
 そんなおそろしい日々が続いたある日、憎きマテオが我が家に訪ねてきました。ええ、わたしも流石に怒り心頭で、マテオにつかみかかりましたよ。
 貴様、今更どんな面をさげてのこのこと。
 お父さん、お気持ちはわかりますが、落ち着いてください。
 手前なんぞに、お父さんなどと呼ばれる筋合いはない。虫酸(むしず)が走る。
 マテオは泣いて、手をつきました。アデラインなんかに(まど)わされた自分の莫迦(ばか)さ、愚かさを今更ながらめそめそと詫びていました。
 わたしと妻は、呆れていたのです。確かに呆れていたのですが、呆れ果て、疲弊(ひへい)し、すり減ってもいたのでしょう。もういい、過ぎたことでいつまでも(なげ)くな、もういい、とわたしはいつの間にか言っていました。
 マテオはアンナに会いたい、と泣きます。わたしと妻は、娘には会わせない、帰れと首を横に振りました。けれどマテオは、アンナに会えるまではここから一歩も動かない、と家の前で大騒ぎしだしたのです。
 わたしと妻は、困り果てました。そのマテオの声がアンナの部屋に届いて、またアンナの精神が酷く不安定になっては困る。
 仕方なくマテオに、会うことは駄目だ、しかしドアからこっそり見るだけなら、と許可を与えました。あの子が愛したマテオは姑息で、友人のアデラインは醜く、親であるわたしたち夫婦は臆病者でした。アンナ。美しく、周囲のせいで酷く不幸な娘。
 マテオがアンナの寝室のドアをゆっくりと開いて、それから小さな声で、ひっ、と言いました。どうした、とわたしが訊ねても、マテオはただ震えているだけ。
 どけ、とマテオを押しのけてドアを開くと、そこには。
 そこには、海が広がっていました。
 アンナが敷いた砂は、紛れも無く本物の砂浜になり、その先に青い青い海がありました。
 曇った空にはかもめが飛び、寄せては返す波は美しい本物の波音を響かせています。勿論、アンナの口で言う狂気の波音などではなく。
 ざあ、ざあ。くう、くう。
 かもめの声と波音が、部屋の奥からドアに向かって潮風に運ばれてきます。
 水槽は、海のミニチュアだから。
 海の淡い青に、幻影のように細胞が映りました。秩序良く並んだその細胞の背景の前を、美しい魚たちがすいすいと泳いでいくのをわたしたちは確かに見たのです。
 娘は海になったのです。命を全うして、広大で美しい海に。
 
 老夫は歯のない口を広げて、嗤った。中毒や様々な病いに侵されて、それでも死ぬことを許されないその(からだ)で。
 僕が、その海は今、どこで見れますか、と訪ねると、老夫は、さあ、と感情のない瞳をこちらに向けた。
 あれはどこでしたかな。なにせもう年寄りなもので、物覚えが悪くて困ります。
 老夫はもうきっと狂ってしまっているのだろう。震える手でアルコールを、歯の無い口に流し込む。
 海は沈黙しておりますでな。海の底には音も光も届きません。娘のその沈黙の底で、魚たちは水草と静寂を友人に暮らしております。波の音と、エアレーションの為の深い呼吸音、そしてかもめたちの声だけが、どこからか小さく聴こえるだけで御座います。
 ざあ、ざあ。すう、すう。くう、くう。
 老夫の両目からは、海水が漏れ出ている。けれどそれが何の涙かは、僕にはわかりかねる。酒場を出る為に、おやすみなさいと挨拶をした僕の声は、老人には最早届いていないようだった。
 彼の耳には、波音とかもめの声、エアレーションの音だけが、延々と響き渡っている。
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