天使のように美しい消去法

文字数 3,894文字

 ジェフは一昨年、長年勤めていた会社を定年退職した。
 子供たちも成人し家を出て行き、妻とは数年前から別居している。
 一人で暮らすには大きすぎる家と家庭菜園だけが、ジェフの傍にあるものだ。
 残響音で繫がる昨日と今日、それから麦わら帽子。
 退屈な日々だった。退屈な。

 ケイトが庭先に来るようになったのは、半年ほど前のことだ。
 何を育ててるの? 少女は庭に面した道でそう訊いた。
 やせっぽっちで、不思議な目の色をした少女。
 そっちに行って、私も見ていい?
 それが彼女の二言目だった。

 若い女の子が見て楽しいものではないよ、とジェフは言った。
 それでもケイトは傍にきて、小さな身体を更に小さく丸める。
 黙ってジェフが土や植物を弄るのを、じいと見ている。
 豪雨が降る前の雨の音のように、一定のリズムで言葉を交わしながら。

 「今、何してるの?」 「虫と病気の予防」
 「これは何?」 「支柱」
 「支柱は何?」 「植物たちのパーソナルスペースを確保してくれる」
 「そうなの?」 「支えにもなってくれるけどね」
 「じゃあ私も支柱が欲しいな」 「君には要らないだろう」

 なぜ? ケイトはジェフを見つめる。
 人間にはパーソナルスペースが確保されているからね。
 「ふうん。それって本気で言ってる?」
 ケイトの目は不思議な色に光っているのに、質感はマットで昆虫に似ている。

 その日から、ケイトはジェフの庭にちょくちょく来るようになった。
 ティーシャツとショートパンツ。枝のような足の先に、スニーカー。
 ショートボブの黒髪は、いつもシャンプーと少しだけ汗の匂いがした。
 彼女は静かに来て、少しだけ会話をして、そしていつも突然に帰る。

 「おじさん、虫には詳しい?」 
 「いいや、そんなには。植物を荒らす昆虫だけ」
 「じゃあきっとエメラルドセナガアリバチのこと、知らないわね」
 「エメラルドセナガアリバチ? どんなハチだい?」

 ケイトはにっこりと笑う。
 「すっごくすっごく綺麗な虫なの。エメラルドでね。美しいのよ」
 「その虫が、ケイトは好きなの?」
 「ううん、大嫌い。私は世界で一番、エメラルドセナガアリバチが嫌い」

 ケイトは顔を歪ませて、地面を睨みつけた。
 まるでそこにエメラルドセナガアリバチがいるかのように。
 エメラルドセナガアリバチは、毒を持っているの。
 綺麗なものには、いつも毒がある。ジェフはそう呟いた。

 そうなの? やっぱり、そうなのね。
 ケイトが驚いたようにジェフを見る。ジェフは自信を失くす。
 いや、今のはありきたりなドラマかなにかの受け売りだ。
 ありきたりでも受け売りでも、真実には変わりはないわよ。
 ケイトはなぜか、少しはしゃいでそう言った。

 「エメラルドセナガアリバチは、ワモンゴキブリに毒を注入するの」
 「そうして殺して、捕食するのか?」
 「違うわ。毒を注入されたワモンゴキブリはね、ゾンビゴキブリになるの」
 「ゾンビゴキブリ?」

 夏の終わりの日差しが麦わら帽子とジェフのうなじに降り注ぐ。
 汗がじっとりと流れて、ジェフは泥のついた掌をぶらつかせて腕で汗を拭った。
 ケイトはジェフの隣で小さく丸くなってしゃがんで、プランターを見つめている。
 「ゾンビゴキブリになったワモンゴキブリたちは、もう飛べない。
 そうしてエメラルドセナガアリバチの、いいなりになるの」

 おじさんは誰かのいいなりになったことがある?
 ジェフはケイトの言葉に、別居した妻の声を思い出した。
 ウイスキーグラスに氷がぶつかる音。妻の冷淡な言葉たち。
 うんざりなのよ。もううんざりなの。私はもう出て行きます。
 ジェフにも言い分はあって、反論する余地も沢山あった。
 それでもジェフはそれをしなかった。
 だまって、机の汚れをじっと見ていた。

 「エメラルドセナガアリバチは、ゾンビゴキブリの触覚を咥えて自分の巣に誘導するの。
 ゾンビゴキブリはのろのろと歩くわ。毒を盛られた相手に導かれるままに。
 そうしてセナガアリバチの巣の中で、ゾンビゴキブリはその身体に子供を産みつけられるの。
 自分の思考と意思、それから尊厳も全て失って、敵の子供の揺り籠になるのよ」

 ケイトは憂鬱を濃縮還元したような声で、ゾンビゴキブリの物語を話した。
 「ぞっとする話だな。そんな虫が、本当にいるのかい?」
 ジェフはなんだか気色が悪くなって、もう今日は土に触るのを辞めようと思う。
 「いるわ。自然界には、とても醜悪で私たちの理解を超えた存在がいるのよ」
 
 ケイトはポケットに安物のコデインを、炭酸ジュースで割ったものを入れている。
 ある日ジェフはそれを飲んでいる所を見つけて、ケイトを咎めた。
 最初は単なるジュースかと思ったが、ケイトの目つきで気付いた。
 毒々しい派手な着色をされた、薬品じみた咳止めシロップ。
 
 それは君の身体を蝕んでいく毒だよ。そんなことをしていたら死んでしまうよ。
 平気よ。すぐ抜けちゃうし、私は毒を身体に入れる事には慣れてるの。
 トリップすることは格好いいことなんかじゃないよ。
 知ってるわ。薬はいつだって、痛みを抑える為にあることくらい。
 ケイトは微睡んで溶けかけた瞳で、そう呟いた。

 ジェフの家にケイトが来始めて、半年が経ったある日。
 ケイトが庭先からジェフを呼びつけた。
 「おじさあん、出て来てえ」
 ジェフが庭に面したガラス戸をあけると、ケイトは笑っている。
 「今夜、深夜零時に十三丁目のマンションの屋上まで来てくれない?」

 なぜ? ジェフが訪ねても、ケイトは笑った。
 そうして、約束よ、と言ってぱたぱたと走って出て行く。
 その細い後ろ姿をジェフに、おうい、夜中は危ないよ、と言う。
 夜中に出歩くなんて、お父さんが心配するだろう。

 ケイトは途中ではた、と足を止めて振り向いた。
 ゾンビゴキブリは、飛べないのよ。
 そう呟いてから、約束したからね、ともう一度言った。
 ジェフは困惑しながら、なかば諦めていた。
 ケイトを気に入っていたし、彼女を更正させる正義感にも駆られていたから。

 その日の深夜零時の少し前、ジェフはマンションの前にいた。
 上をみあげると、そこには小さな人影があって、ジェフに手を降っている。
 ジェフは首を横に振って、マンションのエレベーターに乗り込む。
 まるで村上春樹の小説の登場人物にでもなったみたいな気持ちだ。
 "やれやれ。"

 屋上には、誰もいなかった。
 確かにさっきは、屋上から人影に手を降られた筈なのに。
 「おおい、かくれんぼはやめにして出ておいで。
 大人を困らせないでくれ」
 ジェフは屋上を歩き出す。きょろきょろと首を動かして。

 屋上のへりの近くまでくると、ジェフはペットボトルを見つけた。
 そうしてそのペットボトルで飛ばないように踏まれた、一通の手紙も。
 一瞬で脊椎が冷たく凍り付き、その寒さによって汗がにじみ出る。
 まるでドライアイスで火傷をするようだ。

 ジェフは屋上のへりから下を見る勇気が出ない。
 そこにあるものを想像すると、手足が震えた。
 どうにかペットボトルの下から、手紙だけを抜き取って開いた。

 それはケイトからジェフへの手紙だった。
 とても長い手紙で、ところどころ、インクが滲んでいた。
 父親から性的虐待を受けていたこと。
 父は容姿端麗で、母がケイトに嫉妬していること。
 母親が父親のいない時に、ケイトの服で隠れる場所だけを殴ること。
 自分はゾンビゴキブリではないこと。
 ゾンビゴキブリではないから、卵を産みつけられる前に飛んで逃げること。
 その手紙は、美しい虹色のインクで、悲しく煌びやかに書かれていた。

 私は美しく在りたい。天使のように。
 私に出来ることの中で、一番美しい選択肢を選びます。
 中毒患者にも、ゾンビゴキブリにも、被害者にも私はなりたくないの。
 潰れたトマトも美しいとは言えないかもしれないけれど。
 今の私には、消去法でしか選ぶことが出来ないから。

 手紙はそう締めくくられている。
 ケイトは飛ぶ前に、咳止めシロップを飲んだのだろう。
 ペットボトルの中には、極彩色の液体が微睡んでいる。
 ジェフは彼女の尊厳の為に、そのペットボトルを拾い上げる。

 人々が騒ぎだす前に、ジェフは警察に電話をする。
 警察が来る前に屋上から降りて、マンションの裏手にコデインを捨てた。
 見る影もなくなったケイトの横で、警察が来るのを待った。
 警察には、通りすがりに落ちるところを目撃した、と話した。
 彼女は靴もきちんと履いていたし、警察は事故だと判断したようだった。

 一連の始末を終えたジェフは、家に戻って手紙を燃やす。
 ケイトはもう被害者ではなかった。ゾンビゴキブリでもなかった。
 コデインも飲んでいなかったし、可哀想な少女でもなかった。

 もっと良い選択は沢山あったのだろう、と思う。
 彼女を救えるタイミングがあったかもしれない、と悔やむ。
 けれどそんなものは、全てくそくらえだ。
 もう既に天使はその羽で飛んで、遠くへ逃げてしまった。
 子供たちも成人し家を出て行き、妻とは数年前から別居している。
 一人で暮らすには大きすぎる家と家庭菜園だけが、ジェフの傍にあるものだ。
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