落ち込んでいる暇さえない
文字数 6,090文字
翌朝早く、僕が教会に顔を出すと、雑巾を手にして辺りを懸命に掃除しているミレイユの姿があった。
村人からの寄付で、礼拝堂に並べられている椅子の数は日に日に増えてきている。村の大工が壁と天井を修理してくれたおかげで、教会は建物としての体をなし始めている。
ミレイユは力をこめて、不揃いな椅子を磨きたてているところだったが、僕の姿を認めると顔を上げ、
と笑った。目の下に隈のできているその笑顔は、痛々しかった。
ひと通り掃除を終えると、ミレイユは僕に歩み寄ってきた。
まっすぐに僕を見上げて、憂いに満ちた笑みを浮かべた。
そんな女ですけど、夫が助かるように……夫が神様を受け入れる気持ちになれるように、毎日ここで祈りたいと思います。
僕は彼女に真言聖句集を手渡し、これを暗唱できるまで何度も朗読するようにと勧めた。
神の使徒たる者は常に冷静でいなくてはならないとわかってはいるけれど、涙が出そうなほど激しい感情を、内心でもてあましていた。一刻も早く、苦しんでいる彼女と夫に助かってもらいたい、という感情だ。
ミレイユが教会で祈っている間、僕は彼女の家へ赴いた。
昨夜は苦痛で人相が変わってしまっていたのでわからなかったが、平時のタクマインは、世慣れた雰囲気を持つ男だった。こちらをまっすぐ見据える目には知性と強い意志の光が宿っている。
現実とうまく折り合いをつけている人間。
言い換えると、信仰とは最も縁遠いタイプ、といったところだ。
その僕の印象はたちまち裏づけられた。
いきなり、この上なく現実的なせりふが飛んできた。
僕はなんとか話の糸口をつかもうとした。けれどもタクマインはにべもなかった。
ミレイユが心配してると言うが、誰も心配してくれとは頼んでない。心配してもらったからといって俺が治るわけじゃない。まったくの無駄じゃないか。そうだろう?
僕は絶句してしまった。
この人は――ミレイユの背中のひどい傷跡を見たことがないんだろうか。どういう思いで彼女が毎晩痛みに耐えているか、知らないんだろうか。「無駄」などという言葉がどうして出てくるのだろう。
奥さんは、たとえ自分の体が傷ついても、あなたの苦しみを和らげたいと懸命に努力してきたんです。
その気持ちを汲み取ってあげてください。
心配の押しつけはやめろ。愛情の強制もまっぴらだ。俺がいつ、そんなものを欲しいと頼んだ?
俺は独立独歩の人間で、誰の世話にならなくても生きていける。
ミレイユも、無駄な事に気をもんでいる暇があったら、料理や掃除に時間をかければいい。その方がよっぽど役に立つってもんだ。
僕の言葉はタクマインの心に少しも届いていないようだった。彼は、世間に恥じる事なくまっとうに生きている人間の堂々たる自信をもって、腰に両手を当て、胸を張った。
僕は言葉を尽くして、タクマインの関心を信仰の話題に向けようと努力した。けれども、彼の頭の中には「神」に近いものはまったく存在していないようだった。
この人は妻に感謝することさえ知らないのだ。
「より偉大な存在」によって生かされていることの有難さを理解してもらうなど到底無理だ。
僕との会話を早く打ち切りたくてうずうずしている相手から、《生命の欠片》の入手先を訊き出そうとするのは、とても難しいことだった。
タクマインと別れてから、どこをどう歩いたのか覚えていない。僕は打ちのめされていた。
タクマインに信仰の話を説けなかったことが悔しいわけじゃない。使徒として布教の旅をしていれば、冷たい応対など日常茶飯事だ。話をちゃんと聞いてもらえることの方が珍しいぐらいだから。
僕がショックだったのは、ミレイユと夫との間に、僕が想像していたような麗しい夫婦愛が存在していなかったことだ。
タクマインが《生命の欠片》を絶とうと決めたのは、妻のためではなかった。
と彼は言い放ったのだ。
そして彼が医者にかからず、独力で苦痛を乗り越えようとしたのは、ミレイユを心配させたくなかったからではなく、単に医者にかかる金が惜しいからだった。
ミレイユが気の毒だった。あんなに傷だらけになりながら夫に尽くしているのに、夫はそれを「心配の押しつけ」としか見ていないなんて。
教会に戻って彼女の顔を見るのはつらかった。けれども逃げるわけにはいかない。
僕が村の中心にある教会の建物に近づくと、朽ち果てた扉の向こうから、
われ祈る。わが内に常に存在する母なる神に。万物の内に存在する造物主たる神に。
わが神は世を救うために到来された不偏の光なり。
わが神は万物に祝福と栄光とをもたらす根源なり。
わが神は混沌を支配する秩序にして、たん……たん……たんすを破壊する永遠の変調なり。
われ唱えん……
真言聖句の冒頭部分を唱えているミレイユの澄んだ声と、
という、思いっきり聞き覚えのある罵声が響いてきた。
あわてて僕が礼拝堂内に駆け込むと、説教台の上に投げやりな姿勢で腰を下ろしたロランと、行儀よく椅子に収まっているミレイユとが、揃ってこちらを振り向いた。
驚いたことにミレイユの顔には晴れ晴れした表情が浮かんでいる。
明るい声で尋ねられて、僕は思わず口ごもってしまった。
ミレイユはそれ以上深く追及しようとはしなかった。曇りのない笑顔を浮かべて、真言聖句集の本を胸に抱きしめ、
僕は耳を疑った。ミレイユは笑顔のままうなずき、そろそろ帰らなくては、と立ち上がった。
会釈して、弾んだ足取りで礼拝堂を出て行く。僕はあっけにとられてその背中を見送った。
彼女のあんな明るい様子は初めてだ。出会った日以来、悩みに打ちひしがれた彼女しか見たことがなかったから――。
教団本部がてめえを俺と組ませた理由がだんだんわかってきたぜ。つまり、俺みたいな天才は、おまえみたいなトロい間抜けに足を引っ張られるぐらいでちょうどいいってことだ。他の使徒たちとのバランスってものがあるからな。
おまえ使徒やってて、そんな事もわかんねぇのか。素人かよ。
この男はやる事なす事すべてメチャクチャだが、突然、不意打ちのように、まじめな教義をぶち込んでくるから油断がならない。
そりゃあそうだ。神の言葉を唱えただけ、ミレイユは神に近づいた。心が晴れるのも当然だ。
それをよりにもよってロランに指摘されたのがちょっと悔しい。
僕が言葉を失っているうちに、ロランは説教台から飛び降り、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
僕は思わず声を張り上げる。ロランはさっさと僕の横を通り抜けて、すでに礼拝堂の外へ出ようとしていた。外では日がさらに高く昇っていた。早朝と呼べる時刻は過ぎ、村人たちが日々の活動を始めていた。
早足で歩いていくロランに追いつこうとして、僕は小走りになる。
ロランが急に足を止めたのでぶつかりそうになった。不穏な目つきで睨まれた。
数刻もしないうちに僕らは再び村外れを歩いていた。タクマイン家の向こうにある、巨大なガラス工房がどんどん近づいてきた。
すぐ近くで見上げると、改めてその大きさに圧倒される。褐色の煉瓦で組み上げられた、三階建ての直方体の建造物だ。装飾のほとんどない簡素なつくりの建物だが、ガラス工房だけのことはあってガラス窓は実にたくさん付いている。
工房内では大きな自動工具が動いているらしい。単調で機械的な振動が地面を伝わってきた。
このガラス工房の持ち主で、タクマインの元雇い主でもある人物の名は、オーランド・ヴォルダという。
ロランが(「まぬけ」「無知」「勉強不足」という悪口をさんざん僕に浴びせながら)説明してくれたところによると、ヴォルダはカロリック大平原でも指折りの資産家だ。
彼はこの村の大農場の息子として生まれた。少年の頃から科学技術なるものに強い関心を持っていた彼は、成人すると村を離れ、帝都アレリーズへ出奔した。科学技術の最先端の地であるアレリーズで、薬師としての修業を積んだ。
彼は五年前に村へ戻ってきたが、農場の経営を継ぐのではなく、農場の土地を利用してガラス工房を建てた。
最初はまだ、納屋に毛が生えた程度の規模だった。
もともとカロリック大平原ではガラス産業が盛んだ。原料となる石灰が多く採れるためだ。どの町村にも必ずと言っていいほど数軒の工房があり、親方から弟子への技術の伝承が行われている。
カロリック大平原のガラス製品は昔から有名で、帝国内外に愛好者も多い。けれども製品を一つずつ手作業で仕上げていたため、数多くを製造することはできないでいた。
それを変えたのが、ヴォルダの画期的なやり方だ。
彼は大勢の職人たちを工房に集めた。ガラスを作るために必要な作業を細かく分け、それぞれ別々の職人に担当させた。
砂や石灰などを混合する作業。
混ぜ合わせたものを液体状のガラスだねに溶融する作業。
ガラス窯の口のところで液体状のガラスだねを加工する作業。
ガラス製品を乾燥窯から取り出し、分類する作業。
出荷のため運び出す作業。
これまで一人の職人がやっていた工程を、数十人の職人が手分けして行うことになった。
分業することで、一人一人の担当する作業が単純になったので、より手早くできるようになった。大勢で集中して作業をするので、材料や道具を無駄なく使うこともできる。
一つの作業所に五十人が集まって分業することによって、五十人の職人が五十の工房で作っていた頃よりも桁違いにたくさんの製品を作れるようになった。
ヴォルダの工房は数多くのガラス製品を出荷し、多額の利益をあげた。
ヴォルダは気前のよい雇い主だった。工房が儲かると、職人たちにもその分賃金をはずんだ。
働きたいという者たちが遠方からもどんどん集まってきた。ヴォルダは窯を増やし、さらに大勢を雇い入れた。未熟な見習い職人にもできる仕事はあったので人集めに苦労はなかった。
ヴォルダは工房を開いてわずか五年で三百人以上の職人を抱える大実業家となり、巨万の富を築き上げた。
ロランは鼻を鳴らした。
《生命の欠片》という語を耳にしただけで、僕の気分は沈んだ。
苦痛に歪むタクマインのすさまじい形相。獣のような叫び声。それらがぞっとするような鮮明さでよみがえってくる。
気は進まなかったが、工房の玄関の呼び鈴を押した。
これから会うヴォルダが悪人でないことを天に祈っていた。自分だけでなく周囲にも富をもたらしている成功者は善人であるはずだ。そうであってほしい。