神の教えを説く者たち
文字数 6,223文字
僕は叫んだ。
卓上ランプに照らし出された寝室。天蓋つきの寝台の上で、少女から衣服をむしり取るのに夢中になっていた半裸の男が、振り返り、驚きの表情を浮かべた。
この太った初老の男はガンツ・ゴーダム。
バンディアスタラー管区最大の炭鉱を三つも所有している鉱山主で、この地方で最も裕福で権力のある人物の一人だ。
それだけのことはあって、何十人もの私兵に警護された大邸宅に住んでいる。
僕は、美術工芸品が所狭しと並べられた豪華な寝室に、大股に歩み入った。
ゴーダムは太った男にしては意外なほど素早く寝台から下り、僕を睨みすえたまま横歩きで移動した。手を伸ばして、壁に飾ってあった剣を取ると、鞘から抜き放って油断なく構えた。
思いっきり脱力した様子で笑われ、僕は少々傷ついた。人畜無害な相手だと判断したのか、ゴーダムときたら剣まで下ろしてしまったのだ。いくら信仰のすたれた世の中でも、神の使いに対してその態度はないんじゃないだろうか。
ゴーダムはふんぞり返った。
……ところで貴様、この屋敷へはどうやって入った? 見張りの者が許したはずはないが……。
僕は黙っていた。――もちろん僕はここへ強行突破で入ってきたのだ。
暴力はいけないことだ。始祖ドヴァラスもはっきり禁じておられる。
けれども神学校時代の恩師が「君の優れた体躯、人並み外れた腕力は神様からの贈り物だよ、シグルド君。人々を助けるため有益に使いなさい」とおっしゃっていた。
かどわかされた少女を助けに行くため、見張りの男たちをぶちのめす行為は、神もお許しくださるのではないか。ダメかな……?
僕は寝台に歩み寄った。掛け布の上に、年のころ十五、六の少女が乱れた着衣をとりつくろおうともせず横たわっていた。よく陽に焼けた、純朴な顔立ちの少女だ。その視線は遠くを泳いでおり、幼さの残る口元はゆるんだままだ。何か薬でも使われているのだろう。
……村で話を聞きましたよ。あなたがミーナさんの父親の商売を失敗させ、借金漬けにして……この人があなたの言うことを聞かなければならないように仕向けたことを。
そして、あなたがそうやって毒牙にかけてきた娘は、この人一人ではないことも。
僕は少女の体を起こし、自分の教服の上着を脱いで着せかけてやった。そして手を貸して立ち上がらせた。
剣を手にしたまま、ゴーダムは鼻で笑った。
女ってのはな、金と権力のある男が好きなものなんだ。
世間知らずのクソ坊主の出る幕ではない。
……貴様、ミーナの父親に頼まれて来たのか。だったら、とんだ勇み足だったな。
今すぐ消えろ。このまま消えれば勘弁してやってもいい。さもなくば……この地方でわしに逆らって、ただで済まないことぐらい、その黴の生えた頭でも理解できるだろう?
僕は真正面からゴーダムを睨みつけた。怒りではない――怒りは「穢れ」であって、神に仕える者の抱くべき感情ではない――が、目の前のこの男に叩きつけてやりたい言葉が湧き上がってきた。
ゴーダムはいきなり大声で笑い始めた。傲然たる高笑い。全身の脂肪を震わせて笑いたいだけ笑ってから、不意にけわしい表情に戻り、ぎらぎらした瞳で僕を睨んだ。
神が何だ。宗教が何だ。
この世で物を言うのは『力』だよ。財力であり、権力だ。
この地方でわしを止められる者などおらん。わしは総督閣下とも親しくさせていただいているからな。
貴様などわしの目から見れば、ただのゴミ以下だ。
……おい誰か! 誰かいないか!
早くこっちへ来い! この身の程知らずのクソ坊主を地下牢へ放りこめ……!
僕はため息をついた。
戦うしかない。拳で血路を切り開くしかない。
信仰者が暴力をふるうなど、本来ならあってはならないことだ。
でも、使徒になってからというもの、使徒になる前より殴り合いの回数が増えている気がするのはなぜだろうか。
そのとき、僕の耳に低い声が届いた。
声は聖句の最後の部分を唱えていた。
僕はぎょっとして振り返った。
僕の
「人助けになんか興味はねえ」と言っていたくせに。僕が旅籠を出るときにはぐうぐう寝ていたくせに。いつの間にここまで来たんだ。
ちょっと待て。まだ少女も部屋の中にいるのに。
僕が止めるより早くロランは法力を放出し、
足元の床がぐらり、と揺れたかと思うと視界が暗転した。
――最初に意識を打つのは強烈な腐敗臭。それに混じって、かすかに肉の焦げる臭い。
暗闇に慣れ始めた僕の目に徐々に映ってくる周囲の光景。
そこはもう、部屋ですらなかった。果てしなく広がる暗いがらんどうの空間。
何の前触れもなく地面のあちこちが爆発的に裂け、灼熱の溶岩が噴き上げる。
苔か何かのように地面にへばりついている巨大な肌色の物体のあげる悲鳴だった。
その物体は様々な大きさの手や足や顔や
その一つ一つの部品は明らかにまだ生きていた。
何百個、何千個もの青や黒や茶色の目が助けを求めるように僕をみつめた。
流れる溶岩が肌を撫でるたびに、無数の口が悲鳴をあげた。溶岩に照らされ、桃色に光る血まみれの粘膜がうごめいた。
そしてそれらすべての地獄図を見下ろして中天に浮遊するのは《アヴァドゥータ》。長い角と翼を持つ漆黒の獣。ロランの守護天使だ。
ゴーダムは狂ったような激しさで周囲を見回した。
はっとした僕は、あわてて傍らのミーナの様子をうかがったが、彼女はぼんやり宙をみつめたままで周囲の異変に気づいた様子はない。
よかった。薬で意識が濁っていて、かえって幸いだった。
ロランの現出する地獄絵図は強烈だから、心の弱い者なら、目にしただけでおかしくなってしまうこともある。
世間には「守護天使なんて、人間に幻覚を見せるだけだろう?」と言う人もいる。そんなことを言う人は実際の守護天使を見たことがないか、あるいは法力の弱い使徒にしか出会っていないに違いない。
人間がものを見るには、「肉体」という容器の一部品である眼を使って、「心」という媒介を通して、「魂」が見て理解する。
だが守護天使の見せる世界は、使徒の
見せられた側にとって現実と区別はつかない。どころか、様々な媒介抜きで魂で直接感じる分、いっそう鮮烈で生々しい。
へたりこんだゴーダムのすぐそばで溶岩が噴出した。腕と脇腹の一部が焼け焦げ、彼はすさまじい悲鳴をあげて転がった。
肉体と心と魂は一つのもの。魂の感じた「現実」は肉体にも変容をもたらす。
のたうち回るゴーダムに、ロランはゆっくりと近づいた。
戦慄するほどの威厳に満ちた声。悪魔の威厳だ。
ゴーダムは泣きながらロランの足元に身を投げ出した。
ロランはしばらく無言で炭鉱主を見下ろしていた。
血と涙と煤で汚れた顔で、必死に見上げるゴーダム。
こうなったらもう、ロランのペースだ。僕の出番はない。
僕はミーナの肩を抱いて、寝室の扉があると思われる方角へ向かって歩き出した。
法術は魂の感じる「現実」を変容させるが、実際に存在する物体に影響を及ぼすわけではない。溶岩が流れれば、それに触れた人間は火傷をするが、高熱のため周囲の物が発火したりはしない。
たとえ人の感覚が、ここを広大な暗黒の空間だととらえていても――実際にはここはまだゴーダムの寝室の中なのだ。
左方向へ約六歩。そろそろと左手を伸ばすと、何も存在しないように見える空間で、硬い物に触れた。
開いたままの扉のようだった。
恐ろしげな声で、ロランが言った。
激しく溶岩が噴き上げて、炭鉱主の腹の脂肪を焼け焦がす。
再び苦痛の悲鳴をあげて転げ回るゴーダム。
相手が少し落ち着いたのを見計らってから、ロランは再び口を開いた。
免罪符というのは、過去数百年にわたって数多の聖人の積んできた功績のお徳を頂戴して、教会につながる者の罪に対する償い、罰、苦難を教会が免除するという、権威ある証明書だ。
おまえのように地獄行きの確実な咎人の魂も、教会の御名において救済されるのだ。
普通に暮らしている一般人の罪なら、説教師の販売している免罪符でも十分あがなえるだろうが、おまえの罪は重すぎる。
地獄行きを逃れたければ……教皇庁発行の金印免罪符ぐらいでなければ駄目だろう。
一枚、五万ファーイラだ。
あまりに法外な金額に、苦痛や恐怖を忘れてゴーダムが目をむいた。ロランはそんな相手の反応には目もくれず、指を二本立てて、相手の眼前に突きつけた。
金に糸目をつけるな。神への感謝を込めて、立派な教会を作らせるんだ。
どうせ今まで汚い商売でたんまり貯め込んできたんだろう?
……もしおまえの私財だけで工事費に足りなければ、公金を使え。
おまえの立場なら地方総督を抱き込んで、管区の事業費予算を流用させることもできるはずだ。
神の
うわあ。またとんでもない事を言い出したぞ、この男は。
僕は急いで寝室を出て、扉を手探りで閉めた。この後のロランのせりふは、聞かない方が自分の信仰的良心のためだと直感したからだ。
扉を閉めたとたん僕らは法術の影響から逃れた。
やけに狭く感じられる、ゴーダム邸の薄暗い廊下が戻ってきた。豪華な刺繍に覆われた臙脂色の絨毯がひどく現実的に見えて、ほっとさせられた。
僕はミーナの焦点の合わない瞳をのぞきこんだ。
僕はできるだけ優しい声で少女に語りかけた。相手が聞いてくれているかどうかはわからなかったが。
チャニア帝国暦九一六年。ドヴァラス正教の最高祭司にして神の代理人である教皇デズデモーナ三世は、後に「教勢復活令」と呼ばれることになる指令を発した。
その目的は、長らく停滞している教勢を盛り返し、約百年前の「躍進期」のような活気を教内に取り戻すことだった。
かつて多くの使徒が布教熱に駆り立てられて大陸全土に散った「躍進期」には、神の教えが爆発的に広がった。どの町にも教会が築かれ、祭典日には信者があふれ返った。
それはちょうどチャニア帝国が周囲の異民族との果てしない戦争を繰り広げている時代で、帝国の国境の拡大に合わせて、ドヴァラス正教もその勢力圏を広げていったのだ。
けれどもドヴァラス正教はチャニア帝国の国教となってから勢いを失った。
戦乱の時代が終わると、人々は平和と繁栄に酔い、神を忘れた。
多くの信者が去り、教会はさびれていった。
そんな現状を改革しようと立ち上がったのが教皇デズデモーナ三世だ。
教皇は各地方に高等神学校を置いて、布教の専門家である使徒を積極的に育成し、それを全大陸へ派遣した。廃屋と化してしまった全国の教会に、再び灯をともすために。
同時に教皇は、帝都アレリーズを中心にいくつもの巨大神殿を建築する方針を打ち出した。神殿建築という大事業が信者を鼓舞し、教勢を盛り上げるのではないかと期待したからだ。神殿建築の費用は、免罪符の販売で賄われることになった。
こうして大勢の使徒が、「教会復興」と「免罪符の販売拡張」という二つの使命を担って、帝国全域に旅立っていった。
僕が、免罪符の販売にかけては右に出る者はいないと評判の高いロラン・トリスティスと共に帝国南端のカロリック大平原へ足を踏み入れたのは、帝国暦九二八年のことだった。