大混乱

文字数 4,147文字

 薬が全身に回る前に吐き出さなくては。
 僕はなんとかして嘔吐しようと努めたけれど、何もきっかけがないのにそうそう簡単に吐けるものではない。


 ああ、まずいよ。ゼフォン博士はこの薬の効き目のことを何と言っていたっけ。
「最初の服用時には感覚の混乱が―――」とか言ってたような気がする。


 何が起こるんだろう。早くも手足が痺れてきているように感じるのは僕の思い過ごしなんだろうか。
 骨を体の外へ引っぱり出されているみたいな、痛みとも快感ともつかない強烈な脱力感。

さあさ、長い間お引止めして申し訳ありませんでしたな、使徒様。もうお帰りになっていただいても結構ですよ。

 からかうようなヴォルダの声が遠く聞こえる。僕を押さえこんでいた男たちが手を離した。


 自由になった僕はさっそく立ち上がろうとしたが――体が言うことをきかない。
 というか、何と表現すればいいんだろう。手足の動かし方を忘れてしまった、そんな感じだ。


 僕は身を起こしかけて、ぶざまに床に突っ伏した。周囲の男たちがどっと嘲笑した。

おや、もうしばらくここにいたいとおっしゃる? 

ええ、構いませんとも。ごゆっくりなさってください。

 気がつくと僕の目はほとんど見えなくなっていた。
 辺りはあいまいな闇に包まれ、親切ごかしたヴォルダの声だけが響く。

また薬が欲しくなったら、遠慮なくおっしゃってくださいね。


でもこれは私の大事な商売道具。そうそう無償では差し上げられません。
次回は、信仰を捨てるという約束と引き換えに、ということにいたしましょう。
今後は神にではなくこの私に忠誠を誓ってください。そうすれば《生命の欠片》はいつでもあなたのものですよ。

(信仰を捨てる? この僕が? そんなバカな。
この男はなんという愚かなことを言っているのだろう)

 僕はたまらなくおかしくなって笑った。自分の口から出てきたのは笑い声ではなく、聞いたこともない奇妙な唸り声だったが、まあよしとしよう。
 そんなことはどうでもいいことだ。何もかもどうでもいい。
 降って湧いたようにひらめいた、この輝ける真理以外のものは。
 突然僕は、世界のあらゆる神秘を自分が理解していることに気づいたのだ。一にして全たる絶対的な真理。どうして今まで誰も気づかなかったのだろう、世界の(ことわり)はこんなにも単純なのに――!


 頬に当たる床の硬さに、はっと我に返った。長々と床に横たわっていた僕はあわてて起き上がった。体も動く。目も見える。
 ああ、危なかった。薬の作用でおかしくなるところだった。いったいどれだけの時間、僕は呆けていたのか。

 いつの間にか室内は騒然としていた。僕を押さえつけていたはずの男たちが辺りを走り回っていた。
 飛び交う怒号。誰かの悲鳴と絶叫。

いたぞ! 坊主の片割れはあそこだ!
逃がすな。追え! 捕らえろ!

この一連を献げて、火の(ぬく)み、水の潤い、風の息吹の恵みを乞い願わん。
この一連を献げて、生命の調和の恵みを乞い願わん。
この一連を献げて、個と全との合一と循環の恵みを乞い願わん。
……第二の円弧開放。微子合成!

 凄みのきいた声と共に、暗かった室内があかあかと照らし出された。とつぜん中空に巨大な炎の塊が出現したのだ。走り回る男たちの真っ只中に。
 火傷を負った数名の男たちがすさまじい悲鳴をあげ、きりきり舞いして床に倒れこんだ。

 もちろんこれも現実の炎ではない。法術によって、居合わせた者の魂に直接投影された心象だ。
 でも、魂が「火傷をした」と認識している限り、肉体もそれに合わせて変容するので、現実の炎と結果は同じだが。

 ロランが僕のすぐそばまで駆けてきた。
 近くまで来て、僕は彼が唇の端から血を流しているのに気づいた。
 殴られた様子はないから、たぶん微子合成を使った反動が来ているんだろう。

無茶だ、ロラン……第二の円弧だけで法力を放出するなんて。
アホ! テメエのせいだぞ、シグルド。
本当だったら今ごろ第六の円弧まで開放できてたはずなのに……おまえが変なこと言うから、途中で聖句間違えちまったじゃねーか。
誰が帝国一ねじ曲がった性格だ、この野郎!
ああ。聞こえてたのか。

 僕は呆然とつぶやいた。


 まさか、助けに来てくれるとは。


 きっとロランはしばらく前から物陰に身を潜め、聖句の詠唱にかかっていたんだろう。

 精神集中に向いているとはいえないこの状況で、百八連の聖句をひとことも間違えずに最後まで唱えきって六つの円弧を解放するのは、かなりの難行のはずだ。


 それにしてもロランが聖句を間違えるなんて。

 急におかしくなって、僕は笑い始めた。


 見る見る険悪になっていくロランの表情を眼前にしながら、爆笑を止めることができない。

 どうしよう。果てしなく愉快でたまらない。このままでは笑い死にしてしまうかも。


 あまりに笑いすぎて、僕の四肢をつなぎ留めているネジが外れてしまった。バラバラになった僕の体は床に落下した。ああ、ぶざまだな。それさえも笑いを呼び起こす。内耳に響く自分の笑い声がうひゃひゃ、という異様なものであることも、愉快さに拍車をかける……!

 誰かにむぎゅっと腹を踏みつけられて、我に返った。気づくと僕は仰向けに床に転がっていて、誰かが「ぎゃああっ」とわめきながら僕の上を通り過ぎていったのだった。
 いけない。僕はまたしても意識を飛ばしてしまったらしい。

 いつの間にか中空に再び炎の塊が出現している。
 僕の上を走り過ぎていった男も、炎の直撃を食らった一人のようだ。

 炎の塊に照らし出された室内で、五、六人が争っていた。不安定な光の中で、ありえないほど長く伸びた人の影が異様な姿でうごめき、からまり合った。
 火傷を負って床をのたうち回る男たちの絶叫が空間を満たしている。
 混乱した僕の目に一瞬、金梃らしき物を振り回して暴れているロランの姿が映った。

 いつまでも呆けてる場合じゃない。ロランを援護しなくては。
 僕は頼りない足を踏みしめて立ち上がった。

 そして神になった。
 雲を突き抜け遥かなる高みから地上を見下ろした。百億ダローリウスの海と百億ダローリウスの大地が僕の手中にあった。僕がまばたきをすると稲妻が生じ、大地に四散した。僕がひとしずくの涙をこぼすと雷鳴と共に銀色の雨が緑の森林に降り注いだ。僕が笑うと哄笑が大地を揺るがし、海が波立ち、怯えた鳥たちが群れをなして空中を渡っていった。僕は太陽と共にあった。僕は森羅万象と共にあった。僕は――

 息が詰まった。
 みぞおちに痛撃を受けて、僕は思わず体を二つに折った。

 我に返った僕の、涙でにじんだ視界に、ロランが映った。彼は再び蹴りを入れてきた。まったく容赦のない本気の攻撃だ。
 僕は床に両手をついた。

ロラン! やめっ……!!

 また蹴られた。四つん這いになった僕に荒々しい蹴りが降り注ぐ。

 痛い。苦しい。何するんだ。そう叫ぼうとしたが、苦痛のあまり声にならない。


 ああ、だけど……よく考えてみるとロランが怒るのも無理ないな。僕は変な事ばかりしているように映るだろうからな。急にへらへら笑ったり寝転がってみたり……。


 苦しみの中で、不意に体の内部から酸っぱいものと、突き上げるような衝動が湧き起こってきた。僕は四つん這いの姿勢のまま、床に向かって、身を震わせながら吐いた。何も出てこなくなるまで吐き続けた。


 吐き終わると、驚いたことに、ひどく気分が良くなった。頭がすっきりしたように感じる。


 さらに意識をしゃんとさせるため頭を振ってから、立ち上がろうとした。そのとき自分の吐いたものの中に黒い塊をみつけた。それが何であるかはすぐにわかった――僕がさっき飲まされた《生命の欠片》だ。


 もしかして僕は助かったのか? こんなに気分が良いのは薬を吐いてしまったからだろうか。


 ということは、もう、自由に行動できるということだ。僕を押さえこんでいた男たちのほとんどは、すでに戦える状態ではなくなっている。


 立ち上がり、辺りを見回した。大勢の人間が床に倒れているが、ヴォルダの姿はない。少し離れたところで、三人のやくざ者を相手に立ち回りを演じているロランが見えた。男の一人の振り回した拳が顎に決まり、ロランは尻餅をついた。その手がすばやく火(フォーゴ)の印を結ぶ――また微子合成を使うつもりらしい。


 禁術をそんなに連発するなんて無謀すぎる。死んでしまうじゃないか。

うおおおっ!!

 ためらっている暇はない。注意を引くためにわざと大声をあげて、僕は姿勢を低くし、やくざ者たちの背後から思いっきり突っ込んだ。僕の両肩は二人の男の腰に同時にぶつかり、彼らを軽々と吹っ飛ばした。

(神よお許しください。せっかくお与えいただいた健全なる身体と力を、人を傷つけるために使ってしまいました。でもこれは人助けのためなんです。どうか今回だけは見逃してください……!)

と内心で神に詫びつつ、僕は残るもう一人の男の顔を殴りつけた。
 手加減している余裕がなかったので、自分でもはっとするほど強烈な手ごたえがあった。

 血をまき散らしながら男は仰向きに倒れた。

(わあ、しまった。やり過ぎた)

 僕が心の中で懸命に詫びているうち、ロランが立ち上がり、みぞおちに一発ずつ入れて三人のやくざ者を完全に動けなくした。

 ヴォルダの子分たちが全滅してしまった後の部屋に、僕らだけが残っていた。

 殴られて気絶している者、火傷の痛みに泣き叫んでいる者。
 悪人とはいえ、あまりにも気の毒な有様だ(ロランは手加減というものを知らない奴だから……)。《バクティ》を具現化して傷を癒してあげなくては。

 でもそれはもう少し後の話だ。僕らには急いで解決しなければならない事柄がある――。

ヴォルダは……どこへ行ったんだろう?

 僕の声はしわがれていた。ロランは蒸気機関のすぐ隣にある扉を指さした。

(そんな所に扉があるなんて、僕はまったく気づかなかった。視点が低いロランだから、よく見えたんだろうな)。

あそこから逃げやがった。あの古狸、絶対に逃がさねぇ。急げ、追うぞ。
……って、君、大丈夫か? 足元ふらついてるぞ。無茶な法術の使い方するから……。
テメエ誰に向かって物を言ってるつもりだ。ここからが俺の出番だろーが?
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登場人物紹介

シグルド・エスフェル

ドヴァラス正教の使徒。布教のために大陸各地を旅して回っている。
まじめで善良で素直な性格。その反面、不器用で、猪突猛進なところがある。人を助けるのに一生懸命になるあまり、免罪符を売るのを忘れてしまうことが多く、教団内ではあまり評価が高くない。


神学校に入るまでは、山奥の木こりの息子として林業に励んでいた。そのため、筋骨隆々で、常人離れした怪力を誇る。でも不器用なので、自分の力をときどきうまく制御できない。

ロラン・トリスティス

ドヴァラス正教の使徒。シグルドの同行者。

身長が低く、そのことにコンプレックスを持っている。喧嘩っ早くてひねくれた性格。「人を助けたい」などとはこれっぽっちも思っていないが、免罪符の販売にかけては抜群の手腕を発揮し、教団内での評価は高い。
規格外れの法力を持ち、法術の天才と呼ばれている。
意外と物知り。経歴は謎に包まれているが、たぶんろくな人生は送ってきていない。

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