善意の限界
文字数 6,200文字
外からは巨大な直方体に見えた工房の建物だが、実際は中庭を囲むコの字型をしていることがわかった。中庭は、色とりどりの花に埋めつくされている。工房の殺風景な外観からは想像もできない華やかさだ。
工房の建物の、コの字の開口部を塞ぐようにして、住み込み職人の宿舎らしい建物とひどく古そうな石造りの建物が一列に並んで建っていた。
そんな光景をぼんやりと眺めていた僕の背中に、ロランの声が飛んできた。
嫌な予感しかしない。僕はあわてて振り返った。
まったく、いい加減にしてくれよ。泥棒で捕まったらドヴァラス正教の評判がガタ落ちじゃないか。
使徒は人から尊敬される人間でなきゃ。神の言葉の代弁者としての品位を……!
多少考え方に
過去の価値観と違ってるからって、怪しんだり、不当な疑いをかけるべきじゃない。
ロランが僕をじっとみつめた。その灰色の瞳を不思議な表情がよぎった。
そう言い残し、足早に職人宿舎へ向かっていった。あまり聞いたことのない彼の静かな口調に、僕はあっけにとられ、しばらくその場に立ち惚けていた。
もう帰ろう。ヴォルダはタクマインの問題と無関係なのだから、僕がここにいるべき理由はない。
それに、ロランの無断侵入が発覚して騒ぎになったとき、こんな所にいて巻き添えを食いたくはない。
だが――不思議だ。なんとなく立ち去りがたいものを感じる。足が地面に張りついたように動かない。そよ風に揺れている色とりどりの無数の花から目を離せない。
何かが心にひっかかっている。それが何かはわからないが。
突然、僕は、自分の心を悩ませているものの正体を悟った。
花だ。花が不自然なのだ。
バンディアスタラー管区は緑の少ない不毛の地。特に、管区の大半を占めているこのカロリック大平原は乾燥地帯で、雨がほとんど降らない土地だ。
生えているのは、乾燥に強い種類の木々ばかり。
花畑なんて、この地方に来てから、一度も見かけたことがなかった。
異常なほど生き生きと咲き乱れているこれらの花は、自然に生えているものではない。
たぶんヴォルダが、帝都仕込みの科学技術を使って、人工的に花を咲かせているのだ。本当ならこんな不毛の地で咲くはずのない花までも。
けれども――何のために?
僕はゆっくりと花の中に歩み入った。目に見えないものに導かれるように。
やっぱり、あった。小さいが、それはすぐに僕の目に飛び込んできた。丸帽子のような形の可憐な花。細長い葉。
サハの花だ。
一度発見してしまうと、どうして今まで気づかなかったのかと呆れてしまうほど、たくさんのサハの花が他の花に混じっていた。
別に驚くには値しないのかもしれない。元は薬師であったヴォルダが、薬効のある植物を庭で育てていても不自然ではない。現にゼフォン博士の屋敷にもサハの花はあったのだから。
でもこれを偶然と片づけられるだろうか。
僕は痛いほどに高まる胸の鼓動を持てあましながら、花畑の中に立って、色彩の乱舞を見回していた。
僕の目がふと、中庭に面した扉の一つに吸い寄せられた。古い石造りの建物にただ一つ付いている扉だ。それは、不自然なまでに立派だった。真新しい材木の色彩が際立っていた。
あの扉の向こうには何があるのだろう。それを見ることができれば、いろいろな事が明らかになりそうな気がする。
僕は緊張しながら石造りの建物に歩み寄った。おそるおそる扉を押してみる。施錠されていないようで、抵抗なく開いた。僕は扉をくぐろうとして身をかがめた――。
すぐ背後で誰かの激しい息遣いが聞こえた。
次の瞬間、鈍い衝撃とともに目の前が真っ暗になり、僕は果てしない闇の底へ引きずりこまれていった。
意識を取り戻して初めに感じたのは後頭部の痛みだった。ずき、ずき……と大きな苦痛が波打って、吐き気がする。
僕はそっと頭を撫でてみた。腫れあがった箇所に触れると、涙が出るほど痛かった。ずいぶんひどい打撃を受けたようだ。
重い体を必死ではげまして立ち上がった。
めまいがする。足元がおぼつかない。
すぐ傍らの石壁に手をついて体を支えた。その状態のままゆっくり辺りを見回してみる。
ひどく薄暗い空間だった。広いわりに、小さなランプ一つしか光源がないせいだ。おそらくここは僕が入ろうとしていた石造りの建物の内部だろう。
大きな機械や作業台がいくつも置かれていた。機械は不気味な振動音を発し続けていた。
ヴォルダが機械の前に立ち、熱心に目盛りをのぞきこんでいた。
彼の他に、室内にはざっと数えて十五、六人の男たちがいた。作業台に腰かけたり、床に座りこんだり、思い思いの姿勢をとっているその男たちは明らかに職人ではなかった。やくざ者、といった雰囲気だ。
僕の気配を察したのか、ヴォルダは振り返った。
あいかわらず曇りのない笑顔。
あまりにその笑顔がさわやかだったので。今の状況は、僕がうすうす想像しているほどひどいものではないかもしれない、という楽観的な考えをまだ持ち続けることができた。
僕は慎重に尋ねた。きっとこの人は筋の通った説明をしてくれるだろう。例えば、僕が頭を扉の
しかし、返ってきた答えは非情なものだった。
足元が崩れ、深い穴の中へ落ちこんでいくような心持ち。これを絶望感と呼ぶのだろう。
いい人だと信じたのに。まただまされてしまった。
僕は激情のままにヴォルダへ駆け寄ろうとした。
間髪入れず、室内にたむろしていた男たちが群がってきた。両腕をとらえられ、床に押さえこまれた。
僕は腕力には自信がある方なのに、押さえこまれた腕はびくとも動かなかった。
しまった。ヴォルダに駆け寄るんじゃなく、扉へ向かって走っていれば逃げられたかもしれない。
身動きとれない状態で反省したが、もう遅い。
鋭い足音が近づいてくる。床に頭を押しつけられた僕の視界に、ヴォルダの磨きあげられた靴の爪先が入ってきた。
僕は頭を押さえる手に必死で逆らって顔を上げた。そして間近に立つ実業家を睨みつけた。
ヴォルダは温厚な工房主そのものの顔で僕を見下ろしていた。
ヴォルダはゆったりと肩をすくめてみせた。
想像できますか? 一つの製品を一から十まで作り上げる代わりに、分断化された単純な作業を、朝から晩まで一定の速度で何百回もやり続けなければならない生活を? まるで地獄だ。
物を作り出す喜びを感じられないそんな生活は、昔かたぎの職人たちにとっては、堪えがたいものだったようです。
昼間あなたのお仲間が言っておられたようにね。
それで彼らに《生命の欠片》を与えたのですよ。
効果はてきめんでした。
職人は疲れを知らず働くようになりました。工房の生産高は面白いほどに増えていきました。
あいつが僕の姿が見えないのを不思議がって、探しに来てくれるかもしれない。
ロランさえ来てくれれば大丈夫だ。あの男は、本来なら人を癒すためにしか使えないはずの法術を攻撃に転化できる、とんでもない奴だから。
でも、問題は――わざわざ来てくれるはずがない、ということだ。
僕が消えたらロランはむしろ喜ぶだろう。絶対に、探したりしないだろう。すぐに僕の代わりの
進歩には常に若干の不都合がつきものです。
新しい働き方に適応できない者は、科学の力で背中を押してやるしかない。
世の中はそのようにして前へ進んでいくのですよ。
あなただって薬師なんだからご存じのはずだ。
限りある命を短い期間で明るく燃焼させるだけの薬だ……あとで必ず反動が来る。
それをわかった上で、職人たちに与えたのでしょう?
僕は声をふりしぼった。ヴォルダは重々しくうなずいた。
いったん薬の力を覚えた職人たちは、自らもっと薬を求めるようになりました。
夜中も休みなく働きたいと言い出したのも職人たちの方からです。
まさに無限の金鉱のようなものです。彼らにとっても、これほどうまい話はなかったわけです。
職人たちがあまりに多くの《生命の欠片》を欲しがるので、こちらも初めは無償で与えていたのを、一粒いくらと代金を取るようにしました。そうしないと、きりがありませんので。
僕はタクマインの言葉を思い出していた。ミレイユの華やかなドレス、質素な家には不釣合いなほど豪華な調度品も目に浮かんだ。
タクマインは、少しでも多くの賃金を得るため、薬の力で我が身を追い立てて働き続けたのだろう。そして《生命の欠片》の代金を請求されるようになったので、割に合わないと判断し、やめる決意をしたのだ、きっと。
ヴォルダのいう「無限の金鉱」――それは「命」という名の金鉱だ。職人たちは命を削って金に換えたのだ。
先ほども申し上げた通り、この工房は人が『命』。
職人ががんばって働いてくれればその分この工房も潤い、工房が潤えば職人の懐も潤う。
われわれの利害は完全に一致していました。
われわれは、どうしようもなく依存し合って、ここまで発展してきたのです。
町医者のゼフォン博士は《生命の欠片》の患者をこれまでに五人診たと言っていた。
だけどあなたの口ぶりからすると、《生命の欠片》を摂っていた人数はそんなものじゃなかったはずだ。
あとの人たちは、どうなったんです?
近年の科学技術の発達はめざましいものでしてね、人体というものの利用法も、いろいろ考案されているんですよ。
例えば中庭にある、あの花壇ですが……。
いや、やめておきましょうか。
ことによっては、あなたとも無関係ではなくなる話ですからな。
穏やかな顔をして、なんという罪深い脅し文句を口にできるのだろう、この男は。
工房にとって人が「命」などと言いながら、本当は自分の使っている職人を、搾取するための道具としか見ていないのだ。
薬で狂わせ、ぼろぼろになるまでこき使って、働けなくなったら闇に葬る。
この男は己の欲望のために、これまで何人の命を奪ってきたのか。
僕は力いっぱい暴れた。でも押さえつけている手はびくともしなかった。
ヴォルダは急にしゃがみこんだ。彼の作り物めいた笑顔が近づいてきた。
その力を、私と工房のために役立ててくださる気はありませんか?
例えば、《生命の欠片》を長い間服用しすぎて弱った職人を、神の御業で元の体に戻してやるとか……。
報酬は思いのままですぞ。
イヴート村の村長の名前で、『急病人がいるので助けてほしい』という手紙をね。
お仲間はきっとそれを見て、あなたがイヴート村へ向かったと思いこんでいますよ。
と、大見得を切ってみたものの。僕は絶望にとらわれないよう必死で努力しなければならなかった。
ロランが探しに来てくれないことなど、とっくにわかっているのだが。
不意に太い指が僕の顎をがっちりとつかんだ。
僕は驚いて、笑みの消えたヴォルダの顔を見上げた。
頬を左右からぐいっと締めつけられて、僕の口がひとりでに開いてしまった。
あっと思ったときには、何か塊が口の中に押しこまれていた。
吐き出そうとしたが、ヴォルダの手が僕の口をしっかり塞いでいた。
薬は僕の喉の奥へ落ちていった。
どうしよう。飲んでしまった。恐ろしい禁断の薬を。