結局最後は力業
文字数 3,244文字
扉の外は薄汚れた茜色の夕暮れだった。僕らが工房の玄関をくぐったのは昼前だったから、中庭で頭を殴られた僕はずいぶん長い間気を失っていたことになる。
扉を出ると、すぐ目の前に工房の通用口があった。
遅い時刻にもかかわらず工房内はたくさんのランプで明るく照らされ、職人たちがあいかわらず整然と作業を続けていた。
血相変えて飛び込んできた僕らを見て、彼らは仰天したのかもしれないが、仕事を進める手に乱れはなかった。雇い主がどちらへ向かったか、あっさり教えてくれた。
ヴォルダは工房の一角を木の壁で仕切ってこしらえた事務所にいた。
棚のすべての扉、机のすべての引き出しが開け放たれていた。ヴォルダは金をつかみ出して、あたふたと鞄に詰めこんでいるところだった。
机の上でぱっくり口を開いた旅行鞄は、詰めこまれた大量の硬貨や紙幣や手形のせいで、いびつな形に歪んでいた。
僕はゆっくりと事務所の中に歩み入った。
逃げたりするわけがないでしょう。
この工房は私のものなのですよ? 世界の進歩の先駆けとなる、このすばらしい工房は。
そのうち世界中が私の経営に倣うようになるでしょう。私の名は歴史に残るでしょう。
そんな私が、逃げるなどと……!
初老の実業家はやけくそのような大声で笑った。その間も、鞄に金をつめこむ手は休めない。
僕は相手の瞳をじっと見据えて、さらに歩を進めた。
古めかしい迷信に埋没して、科学技術からも世界の進歩からも目をそむけているあなたに。
私のやった事は間違ってはいなかった。
最大の効率をあげるためには仕方のないことだったのです。
僕はあきれ果てた。
鋭い角、長く尖った耳、真紅の瞳、耳から耳まで大きく割れた口、馬のひずめを備えた六本の脚、短い翼、猿の尾などをあわせ持った、その人ならざる存在はあまりに禍々しく、恐怖そのものと呼んでもよかった。
その異形の姿を目にしてヴォルダが凍りついた。
宙で動きを止めた彼の手から金貨や銀貨がじゃらじゃらとこぼれ落ちた。
《アヴァドゥータ》だ。扉の外で聖句を唱えていたロランが、第六の円弧を開放して守護天使を具現化したのだ。
僕にとってその怪物は見慣れた姿だが、知らない人の目には悪魔か何かに見えるだろう。
少なくとも天使には見えない。絶対に。
身の毛もよだつような口調で《アヴァドゥータ》が叫んだ。
とたんに視界が暗転した。僕らはもはや狭い事務所ではなく、果てしない広大な暗黒の空間に漂っていた。
ヴォルダは必死で机にしがみついた。
机の上の旅行鞄には無数の金貨や銀貨がびっしり詰まっていたが、突然その一つ一つから青々とした双葉が伸びてきた。まるで硬貨が花の種であるかのように。
見る見るうちに双葉から長い茎が伸び、葉が生い茂り、僕らの視界は緑の茎と葉で埋めつくされてしまった。
僕はその葉がサハの葉にそっくりであることに気づいた。
顔たちの叫びが空間を埋めつくした。
叫び声が次第に大きくなり、聞いているのが耐えられないほどの音量と不気味さに達した瞬間、顔は爆発でも起こしたように弾け飛んだ。濃い真紅の血液が飛び散った。
何千もの顔がいっせいに弾けたので、血が雨のように降り注いだ。旅行鞄には金貨ではなく血が溜まり始めた。
ヴォルダが絶叫した。狂乱状態で頭を抱えこみ、激しく机に突っ伏す。なんとかして眼前の恐ろしい光景から逃れようとするかのように。
血の雨の中で、今度は植物から真紅の腕が何本も生えてきた。人間の男の腕のように生々しい筋肉の質感を備えている。それがヴォルダの全身にからみつく。
四肢を捕らわれて身動きの取れなくなったヴォルダの顔を、何本もの腕が襲った。
腕がその手に握っているのは黒い球体―――《生命の欠片》だ。
腕たちはヴォルダの口をこじ開け、中に《生命の欠片》を押しこんだ。一個ではない。何個も何個も。
無理に薬を押しこまれてヴォルダの顔の形が変わっていた。
不意に彼は嘔吐しようとするように大きく身を震わせた。
でも腕たちは手もなく彼を押さえこみ、口をしっかり塞いで、吐かせなかった。
苦悶のあまり仰向いたヴォルダの顔は涙と血で汚れていた。
血は彼のものではなく、頭上に生い茂った植物から降り続けているものだ。
暗黒の空間に《アヴァドゥータ》の情け容赦ない宣告が響いた。
口を塞がれたまま、ヴォルダがくぐもった悲鳴をあげた。
数え切れないほどの《生命の欠片》を押しこまれたおかげで丸く膨れ上がった彼の腹が、急に裂けて、巨大な双葉が出現した。ヴォルダの腹からすごい勢いで植物の茎が伸び始めた。
おそらく彼の腹の中で植物の根が暴れ回っているのだろう。
ヴォルダは喉も涸れんばかりに絶叫を続けていた。
体内に収まりきれなかった白い根が、ところどころ内側から皮膚を破って顔を出し、また体内へ引っ込んでいく。
しゃれた服が、降り注ぐ血の雨だけでなく彼自身の血で重く濡れ始めた。
彼の味わっている苦痛がどれほど凄まじいものか、僕には想像することさえできない。
と、守護天使 《アヴァドゥータ》のこの世ならざる声が響きわたった。
ヴォルダは苦しみに顔をひき歪めつつ、何度もうなずいた。
彼をとらえていた真紅の腕が外れ、植物の中にしゅるしゅると引っ込んでいった。ヴォルダは四つん這いになり、激しく咳きこみながら《生命の欠片》を吐き出した。
地獄堕ちを逃れたければ免罪符を買うのだ。
そうすればおまえの受けるべき償い、罰、苦難を教会が免除する。おまえの罪深い魂もただちに救済される。
地獄堕ちを逃れれば、また来世も人として生まれ変わることができるだろう。
どうするのだ? 人として永遠の循環を手にするか、魂のまま永遠の煉獄を徘徊するか……。
ヴォルダはむせび泣きながら崩れ落ちた。