愛の勝利
文字数 1,882文字
翌日の昼下がり。僕はタクマイン家を訪ねた。
頑丈な扉をノックすると、以前にも増して不機嫌な顔つきのホレス・タクマインが姿を現した。
髪がぼさぼさに乱れ、目が充血している。ひどく憔悴した感じだ。
僕はびっくりして訊き返した。タクマインは高まる感情を持て余すように、苛立たしげな仕草をした。
タクマインの弱りきった態度は僕を幸福な気分にした。あまりの幸福感に、顔がほころぶのを止められなかった。
この人はミレイユを愛しているんだ。彼女が姿を消したことで、こんなにも動揺しているのがその証拠だ。
先日は「愛情なんぞ必要ない」などと冷たい言葉を口にしていたが、本気でそう思っているのなら、こんなに憔悴するはずがない。
――僕はきっとアホみたいにニヤニヤしていたのに違いない。タクマインの眉間に見る見るうちに怒気が集まってきた。
僕はゆるんだ頬を両手で押さえて、真顔に戻ろうと努力した。
ごめんなさい。僕はあなたを誤解していたようです。もっと……その……自分のことしか考えていない人なのかと。
あなたは奥さんをとても大事にしているんですね。
ヴォルダさんの工房で《生命の欠片》を飲んでまで働き続けたのは、奥さんに少しでもいい暮らしをさせてあげたかったからでしょう?
夜も昼もなく一生懸命働けば、たくさんお金がもらえて、家を飾ったり奥さんに綺麗な服を買ってあげられる。そう考えたからでしょう?
タクマインはふんと鼻を鳴らし、困ったように視線をそらした。
冗談じゃない。うまい飯、快適な部屋、村のどの女より立派なドレス……今の幸せな暮らしは、すべて俺が稼いだ金で買ったものじゃないか。
幸福は金を出して買うものだ。
体をいたわって、のんびり仕事をしていたんじゃ、人並み以上の幸せなんざ手に入りっこない。
いろいろ話をしているうちに、タクマインが、「禁断症状」による発作を起こしている間ミレイユの背中をかき裂いていたことを、自分では覚えていないということがわかった。
僕は背中を傷だらけにして耐えていたミレイユのことを彼に話してやった。タクマインは打ちのめされた様子だった。
体の両側に力なく垂らした拳が小刻みに震えていた。僕は元気づけようと、彼の肩に手を置いた。
最前列の椅子に腰かけているミレイユの後ろ姿が見えた。近づくと彼女がうたた寝していることがわかった。長い睫毛がなめらかな頬に伏せられている。
タクマインが何か言おうとして口を開け、唇を震わせ、そのまま思いとどまるのを、僕は黙って眺めていた。
ミレイユの頭が、がくんと大きく前へ倒れた。眠りが浅くなった拍子に、彼女の口から寝言のような声が漏れた。
タクマインは彼女の傍らに膝をつき、両手で彼女の手を取った。初めて耳にした単語を復唱するみたいに、あるいは、大切な呪文をけっして忘れまいと確認するみたいに、妻の名を呼んだ。何度も。
ミレイユが目を覚ました。夫に気づいて大きく微笑んだ。その緑色の瞳に、見る見るうちに涙の粒が湧き上がってきた。
手をとり合い、互いの顔の中に楽園を見るかのようにみつめ合う夫婦を残して、僕は満ち足りた思いで礼拝場を後にした。【了】