第65話 駿府の栴岳承芳
文字数 2,054文字
長尾景虎が京を下洛したという一報を義元が受け取ったのは、大高城での戦果の報告を聞く数日前のことだった。
武田信玄のこともあり、雪が積もる前に越後に戻ることにしたのだろう。
義元にすればその事自体には興味がない。気になるのは景虎が越後に帰った後のことだ。
長尾景虎の上洛はかなり成果があったと聞いている。天皇には拝謁でき、将軍義輝とは親交を深めることができた。そしてなにより上杉の養子となることが承認され、同時に関東管領の相続が内定した。
(北条はかなり緊張しているだろうな)
義元はそう思っている。
関東管領になるということは、関東八州(相模 ・武蔵・上野 ・下野 ・常陸 ・下総 ・上総 ・安房 )の領有権を幕府から約束されたということだ。この地は北条が支配し、勢力を伸ばそうとしている地とほぼ重なる。
つまり、長尾景虎と北条氏康の戦いは必至といえるだろう。
義元にとっても他人事では済まされない。
北条とは甲斐武田と共に同盟を結んでいる。北条から援軍などの要請がくる可能性が高く、そして何よりもこの緊張関係からどのような事態が起こるかが分からない。
(ま、食い合いで互いに疲弊してくれればこちらにとっては好都合。いずれにしても事は来年以降になろうが)
その後、富士が裾野の方まで白くなった頃、四辻季遠が帰洛したことと、長尾景虎が越後に帰国したことが、ほぼ同時に義元の耳に入った。
季遠が京に着いたのが十月二十七日、景虎はその前日である二十六日に春日山城に入った。
春日山城では景虎の関東管領就任を祝う祝賀の宴が盛大に開かれたそうだ。この時、信濃の武将はもちろん、関東八州の有力武将たちも次々と特使を派遣し、太刀などを献じたという。
(やはり、動くな)
義元はそう思った。
天文四年(一五三五)、栴岳承芳と九英承菊は駿府の地に戻った。善得寺の住持で承芳にとって最初の師でもあった琴渓承舜の七回忌を営むためだった。
仏事は建仁寺の常庵龍崇を導師として招き、駿府の善徳院で執り行われた。五月二十日のことだった。
常庵和尚が建仁寺に帰った後も、二人は駿府に残った。今川家当主氏輝の要請だった。
(承芳がいたではないか)
氏輝は久しぶりに会った弟の凛々しさに頼りがいを感じた。やや大げさにいえば今川家の明日を見た。
氏輝は病弱だった。身体は痩せこけ、生気のない土のような顔色をしていた。
彼は自身が好きな和歌の会などでは笑顔やくつろぎの姿を見せるが、普段の政務の場では常に沈痛な表情を顔に出していた。
ただし、氏輝はしっかりと仕事をした。
一五三〇年代の前半、享禄から天文の初めにかけて母の寿桂尼から政権を移譲された氏輝は、割合安定した領国経営をしている。
先代氏親の代に成立した相模の北条氏との同盟を彼も維持し、勢力範囲を駿河の東部まで伸ばすことが出来た。そして遠江では父に倣って彼も検地を実施している。
また彼は後の旗本(親衛隊)の原型といえる馬廻衆を創設した。そして駿府の南にある江尻湊を今川家の外港と位置づけ、商業振興策にも着手した。
しかし、何かあるとすぐに寝込んでしまう氏輝を家臣たちはやや冷めた目で見ていた。
病のために今川家当主でありながら元服を過ぎても妻を持つことがなく、跡継ぎの子を得ることが出来ない。それだけでも当主としては問題だが、主君の命はそう長くはないのではないか、という思いは家臣それぞれの胸の中にあり、自然氏輝とは距離をもって仕えることになる。次は誰かという予測と不安が声なき声として家中にあった。
実の母の寿桂尼も、同じ理由で政務から抜けることが出来ずにいた。
男尊女卑の風潮がひときわ高かったこの時代に、名ある重臣を差し置いて領国経営の中心となるほどの人物だ。かなりの実力を持っている。そのため嫡男氏輝に権限を譲っても相変わらず彼女を恃む者たちがいた。
寿桂尼にとっても氏輝の体調は常に心配の種であり、すべてを氏輝に任せるということが出来ずにいた。そのことが彼女の位置づけをさらに重くすることになり、氏輝の地位が低くなっている要因になっていた。寿桂尼にとって大きなジレンマだっただろう。
氏輝のすぐ下に彦五郎という実弟がいる。しかし彼も大きな病を得、氏輝以上に病床から離れられなかった。当然彼が氏輝の後を継ぐとは誰も思わなかった。氏輝は心の病も起こしかけていたかもしれない。ストレスは極度に溜まっていく日々だった。
「余の、片腕となってはくれぬか」
氏輝は承芳に善徳寺に入るよう頼んだ。
今川家の官寺である善徳寺は駿東、北条との国境近くにあり、まだまだ政情が不安だった。しかもこの時、甲斐の武田信虎が進軍するという情報もあった。そこで氏輝は、承芳を善得寺に入れることによって今川家中の結束を固め、安定を図ろうという意図があった。そして当然、自分に何かあった後は承芳を後目にという思いもある。
承芳は承諾した。無論、九英承菊との相談の上でのことだ。彼ら自身も、氏輝の思いは分かったうえでのことだった。
武田信玄のこともあり、雪が積もる前に越後に戻ることにしたのだろう。
義元にすればその事自体には興味がない。気になるのは景虎が越後に帰った後のことだ。
長尾景虎の上洛はかなり成果があったと聞いている。天皇には拝謁でき、将軍義輝とは親交を深めることができた。そしてなにより上杉の養子となることが承認され、同時に関東管領の相続が内定した。
(北条はかなり緊張しているだろうな)
義元はそう思っている。
関東管領になるということは、関東八州(
つまり、長尾景虎と北条氏康の戦いは必至といえるだろう。
義元にとっても他人事では済まされない。
北条とは甲斐武田と共に同盟を結んでいる。北条から援軍などの要請がくる可能性が高く、そして何よりもこの緊張関係からどのような事態が起こるかが分からない。
(ま、食い合いで互いに疲弊してくれればこちらにとっては好都合。いずれにしても事は来年以降になろうが)
その後、富士が裾野の方まで白くなった頃、四辻季遠が帰洛したことと、長尾景虎が越後に帰国したことが、ほぼ同時に義元の耳に入った。
季遠が京に着いたのが十月二十七日、景虎はその前日である二十六日に春日山城に入った。
春日山城では景虎の関東管領就任を祝う祝賀の宴が盛大に開かれたそうだ。この時、信濃の武将はもちろん、関東八州の有力武将たちも次々と特使を派遣し、太刀などを献じたという。
(やはり、動くな)
義元はそう思った。
天文四年(一五三五)、栴岳承芳と九英承菊は駿府の地に戻った。善得寺の住持で承芳にとって最初の師でもあった琴渓承舜の七回忌を営むためだった。
仏事は建仁寺の常庵龍崇を導師として招き、駿府の善徳院で執り行われた。五月二十日のことだった。
常庵和尚が建仁寺に帰った後も、二人は駿府に残った。今川家当主氏輝の要請だった。
(承芳がいたではないか)
氏輝は久しぶりに会った弟の凛々しさに頼りがいを感じた。やや大げさにいえば今川家の明日を見た。
氏輝は病弱だった。身体は痩せこけ、生気のない土のような顔色をしていた。
彼は自身が好きな和歌の会などでは笑顔やくつろぎの姿を見せるが、普段の政務の場では常に沈痛な表情を顔に出していた。
ただし、氏輝はしっかりと仕事をした。
一五三〇年代の前半、享禄から天文の初めにかけて母の寿桂尼から政権を移譲された氏輝は、割合安定した領国経営をしている。
先代氏親の代に成立した相模の北条氏との同盟を彼も維持し、勢力範囲を駿河の東部まで伸ばすことが出来た。そして遠江では父に倣って彼も検地を実施している。
また彼は後の旗本(親衛隊)の原型といえる馬廻衆を創設した。そして駿府の南にある江尻湊を今川家の外港と位置づけ、商業振興策にも着手した。
しかし、何かあるとすぐに寝込んでしまう氏輝を家臣たちはやや冷めた目で見ていた。
病のために今川家当主でありながら元服を過ぎても妻を持つことがなく、跡継ぎの子を得ることが出来ない。それだけでも当主としては問題だが、主君の命はそう長くはないのではないか、という思いは家臣それぞれの胸の中にあり、自然氏輝とは距離をもって仕えることになる。次は誰かという予測と不安が声なき声として家中にあった。
実の母の寿桂尼も、同じ理由で政務から抜けることが出来ずにいた。
男尊女卑の風潮がひときわ高かったこの時代に、名ある重臣を差し置いて領国経営の中心となるほどの人物だ。かなりの実力を持っている。そのため嫡男氏輝に権限を譲っても相変わらず彼女を恃む者たちがいた。
寿桂尼にとっても氏輝の体調は常に心配の種であり、すべてを氏輝に任せるということが出来ずにいた。そのことが彼女の位置づけをさらに重くすることになり、氏輝の地位が低くなっている要因になっていた。寿桂尼にとって大きなジレンマだっただろう。
氏輝のすぐ下に彦五郎という実弟がいる。しかし彼も大きな病を得、氏輝以上に病床から離れられなかった。当然彼が氏輝の後を継ぐとは誰も思わなかった。氏輝は心の病も起こしかけていたかもしれない。ストレスは極度に溜まっていく日々だった。
「余の、片腕となってはくれぬか」
氏輝は承芳に善徳寺に入るよう頼んだ。
今川家の官寺である善徳寺は駿東、北条との国境近くにあり、まだまだ政情が不安だった。しかもこの時、甲斐の武田信虎が進軍するという情報もあった。そこで氏輝は、承芳を善得寺に入れることによって今川家中の結束を固め、安定を図ろうという意図があった。そして当然、自分に何かあった後は承芳を後目にという思いもある。
承芳は承諾した。無論、九英承菊との相談の上でのことだ。彼ら自身も、氏輝の思いは分かったうえでのことだった。