第69話 寿桂尼、同心す

文字数 1,885文字

 寿桂尼は行動を起こした。
 天文五年(一五三六)五月二十四日、彼女は少数の供を連れただけで駿府市中にある福嶋(くしま)越前守(えちぜんのかみ)の屋敷へ向かった。
 越前は寿桂尼の突然の来訪に驚いた。
 福島一族である彼は玄広恵探側であり、既に旗幟を鮮明にしていた。しかし過去には寿桂尼の側近として政務を補佐した経歴がある。
「お久しぶりですね。お元気ですか」
 上座の寿桂尼はいつもの通り落ち着いた様子で端座し、越前守に微笑んだ。
 下座で平伏している越前はそんな寿桂尼の顔を見て思わずもう一度頭を下げた。
「は、大方様。大方様におかれましてもご健勝の由、祝着至極に存じます」
 寿桂尼はそう言う福嶋越前守をおだやかな眼で見ていたが、挨拶が終わるとすぐに口を開いた。
「突然お伺いしたのは他でもありません。そなたにお願いがあって参りました」
「お願い、ですか」
「ええ、わたくしを花倉の玄広恵探殿の元へお連れいただきたいのです」
「は、恵探……様ですか」
 福嶋越前守が驚きの表情を浮かべると、寿桂尼は懐から一枚の書状を取り出し、
「これをご覧ください」
 自らの前に置いた。
「は、では、失礼いたしまして」
 越前は寿桂尼の前まで近づき、その書状を手に取ると、後ずさりするように元の位置に戻る。
 緊張を(おもて)に現した越前は、書状に書かれている文章を一読すると驚愕の表情に変わった。
 書状には、将軍家が今川五郎、つまり栴岳承芳の家督相続を認可した旨が書かれている。しかも、それは間違いなく原本だった。
「越前殿、五郎は家督継承と共に将軍家から(いみな)を頂戴いたしました。義元といいます」
「義もと」
 下の字は分からなくとも上の字は分かった。将軍足利義晴の『義』を頂いたのだろう。
 偏諱(へんき)という。有力者が自分の名の一字を与えることだ。
――それにしても、
 と福嶋越前守は思った。
(上の字である義を賜ったとは……)
 偏諱そのものは実力と財力さえあればどんな戦国大名でも受けることができる。しかしあくまで下の文字だ。信玄の武田晴信がそうであり、大館晴光もそうだった。しかし、上の『義』は重みが違う。
 義の字は、二代将軍の義詮(よしあきら)からずっと引き継がれてきた足利家累代の通字だった。三代義満、四代義持、そして時の十二代義晴まで、ずっと将軍の名に継承されてきた。ちなみに以降の義輝、義栄、そして足利最後の将軍義昭もこの字を受け継ぐことになる。
(確かに今川家は将軍家のお血筋ではある。しかし……)
 福嶋越前守の手はいつしか微かに震えていた。
 彼の知る限り『義』の文字を得た者は少数しかいなかった。周防(現在の山口県)を地盤としている大内氏の義興(よしおき)義隆(よしたか)、豊後(現在の大分県)大友氏の当主義鑑(よしあき)などだ。両家とも鎌倉の昔から続く名家(めいか)で、特に大内義興は幕府管領並の地位に付くほどだった。
 確かに今川の家も大内、大友に引けを取らないほどの家柄だ。しかしそれにしてもどれだけの工作をし、どれだけの献上をしたのだろう、と彼は思った。しかもこの短期間に……。
(おそ)るべきは大方様の人脈か)
 確かに承芳や承菊にも京での人脈はあっただろう。しかし、ここまでのことが成しえるとは思えない。いくら金銭や物品を注ぎ込んでも、並みの家なら将軍家は応、と言わないだろう。
 福嶋越前守はあらためて今川という家を、寿桂尼の力を、ひしひしと思い知る気持ちだった。寿桂尼は微笑を湛えながらもそんな越前の心の動きをじっと窺っている。
「大方様は、恵探様に、どのようなお話をなさるおつもりですか」
 越前は寿桂尼に顔を向けると、一言一言を確かめるような口調で言った。
(なんらかの覚悟を持とうとしている)
 寿桂尼はそう心の中で判断しながら、
「恵探殿には義元と和解し、共に手を取り合って今川の家を治めていただけませぬか、と、そのようにお願いするつもりです」
(ほこ)を収めよ、ということですか」
「そういうことに、なりますね」
「……承知いたしました」
 越前は一つ深い息を吐くと、
「花倉へ早馬を出します。いつ戻るかは分かりませぬが、お待ちいただけますでしょうか」
 頭を深く下げてそう言った。
 福嶋越前守は認可状を書写して花倉に届けようとしたが、寿桂尼が本書を持っていけばよいと言った。越前は幕府からの家督相続認可状に自ら記した書状を添えて、花倉にいる玄広恵探の元へ早馬を出させた。
 そして越前守は寿桂尼とお付きの者たちに広い一室をあてがい、周囲には警護の兵をつけた。
「くれぐれも失礼のないように」
 福嶋越前守は繰り返しそのことを言い、自らは自室に籠るとじっと玄広恵探からの返事を待った。
 越前にとって、長い長い時間が経過していく。
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