第137話 秀吉の指摘と三成の衝撃 ※以降ネタバレ注意

文字数 1,933文字

「はっ?」
 思いがけない言葉に、牛一は思わず頭を上げた。しかし秀吉の表情を確かめる間もなく再び頭を下げようとすると、
「いや、そのままでよい。天子様に献上した書はすこぶる評判と聞くぞ。あれだけのものが書けるなら、いけるであろう」
「はっ」
 (それがし)でよろしいのでしょうか、という言葉も出てこなかった。大きな驚きもあるが畳みかけるように秀吉が喋るということもある。
「そう、女房衆が読んで聞かせることができるよう女仮名がよいな。それとな、秀次のことも書いておいてほしい」
「え、関白様ですか」
 言った後、関白と言ったのはまずかったか、と思った。秀吉にとっては甥だったが、罪人として一族揃って命を失い。豊臣家では禁忌となっている人物だ。チラリと上目遣いで秀吉を見たが、秀吉は気づいていないのか顔色を変えることもせず、
「うむ、この機会に事実としてあったことを(おおやけ)に残しておくのもよかろうと思ってな」
「は、しかし、」
 しばらく考えたが、やはり言うしかないだろうと牛一は口を開いた。
「それがしは事の真相を知りませぬ」
「ああそれなら」
 秀吉は片隅に控えている石田三成に目を向け、
「そこにおる治部少に聞くとよい。あやつは何があったかをよう知っておる」
 秀吉の言葉を聞いた三成はやや意味ありげに頭を下げたが、牛一は気づいていない。
 秀吉は牛一に目を戻し、
「そう、事の真相といえばの、そなたの書いた信長公の伝記な、年どころか日付や時刻まで書いている記述が多かったが、あれは何かを残していたのか」
「は、実は京に入った頃から書付を残しておりまして」
 牛一は信長の伝記を書く契機となった備忘録の事をかいつまんで話した。秀吉は興味があるのか無いのか判別がつかない顔つきで聞いていたが、牛一の話が終わらぬうちに、
「そうか、だからこそ奥付に『有ることを除かず、無きことを添えず』と書いていたのだな」
「御意にございます」
 奥付を知っているということは、本当に読んでおられるのだな、と牛一は思った。
「しかしな、和泉」
 秀吉は覗き込むような目つきで牛一を見、
「今こそ訳が分かった。残している書付は永禄の終りごろからなのだな。それ以前でそなた一つ大きな間違いをしておるぞ」
「は?」
 何だ、という気持ちがそのまま牛一の顔に表れた。
「信長公の上洛前の、何という題だったかな、桶狭間山での(いくさ)のところよ」
「桶狭間山、ですか」
 ますます分からない、と思った。桶狭間の戦いを書いた『今川義元討死の事』は諳んじられるほど推敲している。
 あの戦いからほぼ三十五年が過ぎたが、何があったかは今でもよく覚えている。それほど織田家とその家臣だった牛一にとっては大きな戦いだった。間違いは無いはずだ。
「なに、あの戦いは永禄の時代と書いておったがな、余が織田家に仕官したときにはもう戦いは終わっておったはずじゃ」
「……」
 ポカンとした顔で牛一は秀吉の顔を見た。秀吉は牛一に視線を合わせず、
「確かあれは天文の終わりごろではなかったか。のう治部」
「は、身共もそのように聞いております」
 秀吉の言葉に、三成は両手を前に頭を下げて答えた。
 三成の返答に頷いた秀吉は、牛一に向き直り、言った。
「まあ誰にでも間違いはある。直してもらえれば、それでよい」

 びっしょりと掻いた汗のせいで、背中から寒さを感じている。下城しながら牛一は、いいしれない不安感をまとわりつかせていた。
 秀吉が自分に伝記を書かせようとした理由はなんとなく汲み取ることができた。祐筆だった大村由己(ゆうこ)がこの年の五月に亡くなっていたことを聞いていたからだ。大村殿の後釜として指名されたのだろうと思った。
 しかし、どうすればいいのかが分からない、と牛一は思っている。
 一つは、秀次の事だった。
 秀吉との面会のあとに石田三成から聞いた話は衝撃的だった。秀次の罪は秀吉への謀反を企てていた事だという。だけでなく、秀次は普段からの行いも悪かった。鉄炮や弓の稽古と言っては農民を撃ち殺し、力自慢と称して辻斬りを楽しんでいた。
 また、文禄二年(一五九三)一月に正親町(おおぎまち)上皇が崩御なされたとき、秀次は関白として喪に服すところ、鶴を食べ、鹿狩りをした。京では秀次を『殺生関白』と陰口し、落首にもなったという。
 他にもあったがどの話も、これまで聞いたことのない話ばかりだった。荒唐無稽といってもよかった。そのような話を無表情な顔でスラスラと喋る三成という男が今まで見たことのない生き物のように見えた。
(しかし、儂もその片棒を担ぐことになるのか)
 太閤のお気持ちは分かる。嫡男である秀頼様のためを思っての事だろう。三成の話を聞きながら、やはり秀次様の切腹は秀頼様が生まれたことが影響していたのだろう、と牛一は推測した。
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