第33話 調の印、そして長尾景虎、斎藤義龍の上洛

文字数 1,884文字

美作(みまさか)、印影をこれに」
 義元は二度程手を叩くと、庵原元政を通称で呼んだ。茶道口の引き戸が静かに引かれ、元政が茶室に入ってきた。彼は一枚の紙と手燭を義元に渡した。
 義元は畳に手燭を置き、四人の客に見えるよう紙を広げた。
「四角、ですな」
 親徳が言った。紙には四角い枠の中に『如律令』の文字が入った陰影がある。
「作らせた。今の丸印は余が使おうと思っておる。それとな」
 義元が目配せすると、後ろに控えていた元政が再び懐から紙を出す。その紙を受け取った義元は四角い『如律令』が押された紙の横にそれを広げた。
 八角亀甲の二重郭に『調』の文字がある。
其方(そなた)らも承知しておるように、余も隠居とはいえまだまだ腰を落ち着けるつもりはない。余と五郎連名の意味合いをもつ印も必要かと思ってな。これを作った」
 調、という字は田の全体に点々と作物が植えられている状態を原字とし、全体にまんべんなく行き渡らせるという意をもつ。調(ととの)えるという言葉は過不足なく全体のバランスをとるということだ。
 義元は政治の在り方をそういうものと考え、印の文字に採用した。
「この『調』の印も五郎に預けようと思う。五郎には駿河、遠江を任せ、余は三河、そして尾張への領土の拡大を目指す。このことすでに皆の承知の通りだが、これを機にさらに固めたいと思う」
 義元は噛みしめるように言葉をつなげる。四人の客と後ろに控える近臣は黙ってそれを聞いている。
「三河のことは当分松平を使おうと思う。雪斎和尚も述べておられたが次郎三郎はなかなかの男らしい。五郎の片腕にしたいと言うたは戯れではない」
 ここで義元は一旦言葉を切り、
「で、尾張だが」
 やや間をおいてから喋り出す。
「聞くところによると清須の織田は岩倉を落とし、織田の家を一つに治めたという。次に笠寺や鳴海に仕掛けてくる可能性は大いにある。しばらくは様子を見るつもりだが、何か考えねばならないようだ」
 そして義元は親徳から氏真まで順々に顔を向け、
「織田とはこれまでにもいろいろあったが、今の頭領は決して噂のようなうつけ者ではない。むしろ一癖も二癖もある御仁だと思われる。油断は禁物ぞ」
 この言葉、四人の客に説諭しているようにも、義元が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


 長尾景虎勢五千の上洛行は、ゆっくりと進んでいる。
 通り道となっていた越前の朝倉、西近江の朽木らが歓待し、毎日のように饗応の宴が催されたためだ。
 四月二十日、琵琶湖畔にある坂本に入った長尾景虎は、出迎えに来た公卿たちと歌会をしている。そして翌二十一日、将軍義輝の使者である大館(おおだて)藤安(ふじやす)から早く京に入るよう促す御内書を受け取り、口上を聞いた。
 四月二十七日、京に入った長尾景虎は、将軍義輝に拝謁した。景虎の拝謁はこのとき二度目となる。
 天文二十二年(一五五三)第一回目の上洛のとき、将軍義輝(当時は義藤)は三好長慶に攻められ朽木に逃れた直後だった。このため朽木での謁見はしたが、正式なものではなかった。
 京で初めて挨拶を交わした二人は、共に感慨深いものがあっただろうと思われる。
 このとき景虎は、金銀、馬、衣服や綿、蝋燭など、数え切れないほどの献上品を披露した。
 そして、
 ――たとえ我が国を失っても、上様のために忠節を尽くす覚悟です。
 と述べ立てた。
 足利義輝は心から感激した。
 五月一日、景虎は参内し、正親町天皇に拝謁した。このときも景虎は数々の幣物(へいもつ)を献上し、天皇からは杯を下され、粟田口(あわたぐち)吉光(よしみつ)作の宝剣を賜る栄誉に浴した。この時代には珍しいといってよい程に将軍家への忠誠心が厚く、天皇への崇敬(すうけい)の念が強い景虎にとって、この何日間かは生涯忘れることのできない日々であっただろう。
 一方、斉藤義龍も京にいた。
 将軍義輝に謁見した義龍は、莫大な献金と寄進によって御相伴衆(ごしょうばんしゅう)という地位を得た。御相伴衆とは管領に次ぐ地位で、将軍の宴席や外出に『相伴』する役職とされる。
 そして四月二十七日、将軍義輝が長尾景虎と対面した同じ日に、義輝は義龍に対し美濃の多芸荘(たきのしょう)伊自良荘(いじらしょう)という二か所の御料所から貢租(こうそ)を献上するよう言い渡しがあった。
 義龍は以前に足利将軍家の支族である一色氏を名乗ることを将軍義輝から許されている。
 義龍の母が一色氏につながる人物ということもあったのだろうが、父殺しという汚名を避けるためという意図が伺える。
 一色氏は御相伴衆になれる家格であり、義龍がその役職を得ることに問題はなかった。
 斉藤義龍がいつまで京に滞在していたかは記録に残ってはいないが、多分長尾景虎の上洛と入れ替わるようにして京を後にしたのだろう。
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