第88話 源応尼の死

文字数 1,961文字

「申し上げます。西尾城、東条城ともに城内での兵の動きは激しいものの、こちらに打って出る気配はございません」
 近臣の馬に囲まれた信長の馬前に報告に来た者がいる。滝川一益(いちます)という新参者だった。
 数年前に鉄炮の腕前で仕官したこの男は、出身地が近江で甲賀(こうか)にも伝手があるという事を何度がアピールしてきた。仕事はできる、と見た信長は小河、刈屋の水野兄弟を偵察させた。当然簗田政綱には知らせず、彼らの動きにも注意するよう命じている。
 こうして信長は簗田と滝川の両方から水野兄弟の報告を受け、その上で策を立てている。予想外だったのは滝川の情報が信長の想定以上にきめが細かく信用性があったことだ。
(やはり使える)
 と信長は、如何にも目端の利きそうな顔の男を見ている。そういったこともあり、今回の西尾、東条の両城は一益らに監視をさせた。
「出ないか?」
 刺すような鋭さで信長が聞くと、
「は、両城共に城を守りながらこちらの動きを見つめる構えです」
 一益は信長の迫力に負けない強さで答えた。
 信長は返事をせず、東に見える西尾、東条の両城を睨んだ。しかしこのとき彼の目はその向こう、駿府の今川義元に向けられている。
 
 帰路、信長は無言だった。
 通常の乱取りの目的は敵への挑発といえる。また、このような状況の場合、敵の出方を見て今後を予測する材料とすることもある。
 何人かの信長の近臣は、今日の目的はこれだろうと思っていた。つまりは、本当に今川軍が攻めて来るかどうか。
 実際、織田の兵はやりたい放題だった。あれだけバラバラになっていれば敵の一突きでこちらは収拾がつかなくなっていたかもしれない。
 だが、吉良の兵は動かなかった。
 つまり、今川本軍がやってくるまでは動かない、ということではないか、と予測できる。
 やはりすぐにでも今川の大軍がやってくる、ということだ。
 お屋形様がどう判断したかは分からない、が、やはり今川軍が尾張を攻めに来るのは間近だ、と考えているのではないか。そのために無言になっているのではないか、と近臣たちはそう見ていた。
 しかし、実際には信長はそんなことを考えてはいない。
 今川軍の出陣は五月十日から始まる、という情報は既に持っている。義元自身は十二日に駿府を出る、ということさえ把握している。
 駿府に送り込んでいる間者からの報告はもちろん、信長は松平元康からも情報を得ていた。この両方を照らし合わせると、期日も含め、ほぼ確実だろうと信長は見ている。
 では、なぜ吉良で乱取りをしたのか。
 一つには清須城内の鬱々とした気分を散じるために、という意味合いがある。また、進軍の最終予行演習としての考えもあった。
 そして一番の目的は、信長が小河城、刈屋城の水野兄弟を疑っているということを義元側が察するようにすることだった。
 そのために信長は刈屋城、小河城を横切る時、軍勢をわざと城に近づけ、
 エイ、エイ、オー!
 と勝鬨(かちどき)を上げさせた。
 小河城の水野信元などはかなり狼狽えたかもしれないが、信長は気にしない。
 むしろ信長は笑いだしたいほどの静かな興奮を感じている。
 出来ることはやってきた。今回の乱取りは思い付きに近いが、思い付けば実行せずにいられなかった。
 あとは状況への対応と運だけだ。なんとなれば死ぬだけだ。
 ――死のうは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、
「一定語りをこすよの」
 信長は、無意識に好きな小唄を口ずさんでいた。


 五月六日、駿河において一つの命が静かに消えた。松平元康の外祖母源応尼(げんおうに)
 元康は駿府にいたが、出陣の準備のため源応尼の最期を看取ることが出来なかった。
 妻である瀬名と昨年生まれた嫡子竹千代(後の信康)、知源院の僧たち、そして元康が遣わした医師が彼女の最期を看取った。
 元康と一部の家臣たちは翌日知源院を訪れた。
 彼らは知源院にいる一人一人に丁寧な挨拶をした。そして知源院の住職である知短和尚と弟子の僧文慶に仮葬をお願いし、本葬は織田との戦の後、駿府に元康らが戻ってから行うことを決めた。
 今川館に戻る際、元康は一本の松の苗木を文慶に託した。それは元康の故郷である三河産の松だった。
「拙僧にお任せください。お留守の間は責任をもって菩提を弔わせていただきます」
 松の苗木を受け取った文慶が言った。
 文慶は元康と同年代で、知短和尚に学問を学んでいた時、ともに机を並べていた。幼いころは一緒に遊びもした。
「お頼み申す」
 元康は小さく頭を下げ、微笑みを残しながら背を向けた。
 二人は当然知らない。元康がこの駿府の地に戻るのは二十二年後、天正十年(一五八二)になることを。
 知源院の門前で文慶は元康らが見えなくなるまで見送った。文慶が院に戻るとそれを見計らったように雨が降ってきた。雨は梅雨の訪れを思わせるような本降りとなった。
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