第1話 眼帯幼稚園の園児は伊達眼帯
文字数 5,331文字
桜の木には気分が高揚する成分が含まれているらしい。
その成分のせいで、いろんな言い伝えに繋がるのだという。
やれ、死体が埋まっているとか、えっちい気分になるなんて聞いたこともある。
恋の成就には桜の木は抜群に良い、約束の場所なのは間違いない。
だが、本当のところは、おれにはわからない。
「らしい」とか「だという」とか付け加えて、言葉を濁してしまう。
おれは知らないのだ。
詳しく知らない。
知らないから断定出来ない。
どうすれば断定出来るのか。
断定するには、調べればいいのだ。
そんなのすぐだ。
すぐだったはずだ。
だが、おれにはそれが出来ない。
なぜならまさに今おれは、普通調べるのに検索でみんなが使う、あの電脳の網の中の世界に放り込まれ、そこの住人となってしまったからだ。
電脳の網の中を彷徨うと、俯瞰が出来なくなる。
検索する側から検索される側になってしまった。
経緯は唐突で。
意味がわからなくて。
ともかく今、おれは砂嵐が吹くこの電脳界で生きている。
私立眼鏡学園付属・眼帯幼稚園。
眼鏡男子の集う幼稚部から大学部に至る一貫校の付属幼稚園。
そこで中二病よろしく眼帯着用を義務づけられているのが、この眼帯幼稚園。
みんな伊達眼帯だ。
おれはその眼帯幼稚園に通わされている。
正確には、おれのアバターが。
そう、電脳世界の中でおれはこの眼鏡学園という場所の、幼稚園に通っているのだ。
ある日、現実の町を歩いていたおれは、複数の男達に追いかけられるハメに陥った。
男達は一様に、ブラックスーツに身を包み、高級な黒いサングラスを着用し、手にマシンガンを構えていた。
奴らがダッシュしておれを追いかけて来た時、本能的にこれは逃げるしかないと思ったし、判断は正しかった。
が、判断は正しかったが、逃げ切ることは叶わなかった。
男達はおれを行き止まりに追い込むと、一斉にマシンガンを掃射した。
避ける術もないおれは奴らがマシンガンで飛ばすイカスミ弾を浴びるように喰らった。
イカスミマシンガン。
イカスミの液体の入ったボールを発射する武器で、イカスミ弾は、薄い皮膜の中にイカスミが入っている仕様だ。
その掃射されたイカスミ弾には神経毒が含まれており、喰らったおれは卒倒し、痙攣をしながら、視界をブラックアウトさせた。
そして連れてこられた世界がここ、砂嵐電脳界だった。
電脳空間。
サイバースペース。
表の現実世界ではある種、過去の遺物と見なされている。
データ上の存在になって生きる、ここはそんな場所で、アウトローの巣窟とされた。
生身の身体を捨ててアバターという電脳体で生きる。
現実に身をおけなくなったから、という理由の奴のよりどころ。
そんな無法者の無法地帯、お偉いさんは過去の遺物にしたがるわけだ。
仕方ない。
まあ、実際にアバターとして生きたら学校に通うことになったので、学校に通わされるここが本当にアウトローの無法地帯なのかは疑問だが。
突如、現実世界の住人だったおれは現実世界で黒ずくめの男達にイカスミ弾を喰らう。
喰らったイカスミで、 おれの身体と魂は分離された。
おれの分離された2060年代の魂は、五十年は昔のソーシャルゲームを動き回るアバターとして、この世界に結合された。
「この世界」が「五十年は昔のソーシャルゲーム」を模してるって話ね。
スマホゲームやビデオゲームといったものがソーシャル化されていく、そんな時代の。
そして、一方のおれの身体の方は現実世界で『ゲームのユーザー』として、自分の魂の意志とは関係なく、AIで自動的な存在として今も『このゲーム』をプレイする生活をしているはずなのである。
空っぽの身体が、現実に残され、アルゴリズムに沿って今日も動いているだろう。
科学の発展はめざましい。
しかし、いざ電脳の世界を構築しようとすると、どうしても五十年以上は昔、2010年代の、ビデオゲームが全盛期だった頃のソーシャルゲームを、新たに没入型として構築するのが常だった。
ユーザーは全く新しいものを求めるのではなく、なじみのあるゲームの世界にこそ、入り込みたいと願ったのだろう。
そして、その夢は五十年を経て叶った。
それまで言われてきたバーチャルではなく、痛みや視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの五感が現実と同じになる、本当の意味での仮想現実。
電脳界。
色々知らないで電脳の身体にされてしまったのだが、そこらへんの説明を、ここの世界に来た途端、今日からおれの担任だと言って現れた姉崎さちえ先生が教えてくれた。
本当のことかどうかは、正直なところわからない。
現実にいた時のことはすでに曖昧になっているのだ。
それはそうかもしれない。
季節はずっと春で、行ける範囲も精々ひとつの町程度と狭く、同じような日々が繰り返されるのだから、年齢も上がらずに。
ひょっとしたらこの自分がわからなくなる感覚も、桜の木の高揚する成分のせいかも知れない。
「この砂嵐電脳界は、過去に流行ったというソーシャルゲームと、そのゲームをするユーザーたちの『仕組み』のエミュレーションをしている世界よ」
さちえ先生は椅子に座って、足を組み直しながら言っていた。
職員室で聞いた、このゲーム世界の根幹。
それは全体が『エミュレータ』であるということで。
エミュレータ、とは見習う、模倣するという意味の単語である。
「あるコンピューターが他のコンピューターの機能を模倣するための装置やプログラム。異種コンピューターで同一のソフトウエアの実行を可能にしたり,プロセッサーや OSの互換性を保つ」
……なんて、辞書には書いてあるだろう、読んでないから知らないが。
姉崎さちえ先生は、幼稚園の保育士である。
……という、たぶんこれは設定である。
同様におれも、幼稚園生である。という設定である。
おれはアバターが幼稚園生なのだ。
しかも眼帯着用の中二病デザインの。
服装もポンチョっぽい幼稚園児服がビジュアルゴシックにカスタマイズされたような服である。
これがこの私立眼鏡学園付属・眼帯幼稚園の制服なのだから仕方がない。
もちろんその魂そのものが幼稚園に通う年齢であるわけがなかった。
さちえ先生は先生でいかにも保育士さんといった風情であり、実年齢がわからないにも関わらず、おれは「先生!」と呼んでしまう。
思わず先生と呼びたくなるルックスと物腰なのだ。
ここはアバター同士で交流を深めていくタイプのこのゲームのエミュレート世界。
おれだって暇だから幼稚園には通うのだ。
これが結構楽しい。
積み木遊びとかグラウンドのぐるぐる回る遊具で遊んでる時は至福のひとときだ。
一ヶ月前に起こった友人たちの消失によっておれも今は、頭の中がそこまで没入しているわけではないにせよ。
おれがぐるぐる回る遊具から降りて、木陰の方へ行くと、鍵盤ハーモニカの音が聞こえてきた。
あまりに上手い演奏だったので木々の葉で覆われた草むらを歩いて近づくと、大きな木の根元に寄りかかり、鍵盤ハーモニカを吹く幼稚園生がいた。
おれと同じすもも組の、藤沼ファージだ。
藤沼ファージの身体にはちょうど木漏れ日が差していて、辺りがきらきら光っているみたいに錯覚する。
ファージの、眼帯のない方の目がおれの姿を捉え、おれが来たことに気づく。
鍵盤ハーモニカから口を離し、ファージは木の根元にその楽器を丁寧に置いた。
「よぉ、宝井アルファ、元気か?」
ファージが腕を組みながら言う。
いや、正確にはそれは打ち込まれた文字列だ。
頭上の吹き出しにそう書かれているので、そう「しゃべってる」と判断する。
サンプリングでつくられた合成音声をあえて使わないのが、この世界の元となったゲームの、大きな特徴だった。
「元気だぜ、ファージ。お前の方は今週の初めからずっとすもも組に顔を出さなかったみたいだけど」
宝井アルファとはおれの名だ。
藤村ファージはおれに話しかけている。
おれも脳波キーボードで文章をつくり、それを吹き出しにして藤村ファージと会話を始める。
「愛しのさちえ先生にも会いたいのは山々だったんだけど、事態が事態だからよ。さちえちゃんはおあずけ」
「ファージがさちえ先生より大事にする用事って?」
「うちの母上にきっちり仕込まれててね」
鍵盤ハーモニカを木の根元に残し、藤村ファージがゆっくりとこっちに近づいて来る。
「仕込まれてた? 母上ってノンプレイヤーキャラの? 一体なにを仕込まれてた?」
草むらに立ち尽くすおれの背中に腕を回し、
「聞きたいか?」
と、ファージはこっちを向いて挑発的な目線をしてくる。
「どーせ、お前知らないんだろ、明日のこと」
「明日って。毎日毎日が同じ季節の中での繰り返しじゃんか」
「だから。春のBAN祭りさ」
「は? BAN?」
「いや、嘘。いやいや、嘘じゃねーな。昔のどこかのスラングで、場所を追放されるのをBANと呼んだらしいぜ。それと同様だが、こっちは違う。追放というより、解放だ。ん、卒業、か」
「卒業」
「そう。支配からの、卒業」
「言ってる意味がわから……」
背中から回したその手で、ファージはおれのあごをつまみ、上に押し上げる。
押し上げられると、おれのくちびるがファージのくちびると同じ高さになる。
至近距離で顔を向き合わせるから吐息がかかる。
……くすぐったい。
「明日は私立眼鏡学園全校で行われる『スミんこパーティ』実施日だ」
「スミんこパーティ?」
そっかー、わからねーよなー、と笑ってファージはおれの髪の毛を両手でぐちゃぐちゃにかき乱す。
それからまた背中に腕を回して、今度は身体をしゃがませる。
二人でしゃがんだ体勢でしゃべることになる。
しゃがんで話すのはどちらかというと内緒話モードだ。
と、おれは思う。
動きのせわしい奴だ。
「おれたちゃ囚われのアバター。この3Dテクスチャの張りぼてだけで出来た世界で一生を終えるかも知れねー存在だ」
砂嵐が吹く。
画像が乱れる。
砂嵐で乱れる、ざらつくテクスチャ。
電脳界は、完全な世界はまだ、構築できていないから、砂嵐が吹くのだろう。
いや、もしこの世界が完全だとしても、おれは電脳体のアバターで一生を過ごすなんて。
電脳体で一生を終わりにさせられるような世界は、完全な世界が目指すべきものじゃない。
「おれたちの通う幼稚園のサーバーの連中はみんな現実にいた頃は無課金のソシャゲ劣等生。生きるのが下手な連中だ。生きるってのは、ここでって話な。そんな劣等生のおれたちも参加出来る、ありがたーいパーティがあるんだ。しかも、バトル大会だ」
「バトル大会」
「そう、それがスミんこパーティ。学園ご自慢の兵器イカスミマシンガンを乱射して、一対一のタイマンで戦う大会だ。で、それをみんなで観戦して楽しむパーティでもある。花見だよ、要するに」
要するに花見だ、と言われてもどこらへんが「要するに」なのか謎だ。
無礼講っぽさはあるがな、なんとなく。
「イカスミマシンガンは知ってるな。学園の連中が砂嵐電脳界に拉致る時に使う神経毒のイカスミ弾を発射する、液体の玉を掃射するマシンガンだ」
そう、プールや海で子供が遊ぶ、ウォーターマシンガンと似た形状をした、あの武器だ。
しゃがんだ姿勢から立ち上がると、ファージは腕をおれから放し、俺の目を見据えた。
「優勝すれば、電脳界からの解放が約束される」
「奴らにメリットは」
「ある。黒ずくめと同じ権限が与えられて現実への先兵として送り込まれる、という建前だ」
「おれらにも」
「メリットどころか、喉から手が出る優勝特権だ。実際の黒ずくめなんて、普段なにしてるかわかりゃしないからな。おれやお前が優勝すれば」
「上手く現実へ逃げるな」
「だろ」
「あの黒グラサンを叩き割れる日も近いってわけか」
ファージは大きく口を開けて、
「お前は飲み込みが早いな。そういうこった。すもも組へ今から行け。今なら参加募集締め切ってない。募集の紙ぺらはさちえ先生が持ってる」
おれはガンアクションゲームが好きだった。
だから「イケる!」と直感した。
過信して結構。
アバターは幼稚園生だが、実年齢は……。
おれもファージをまっすぐ見る。
その姿がまた、テクスチャの崩れを起こしていたが、崩れる画像に混じって、桜の花びらが舞って、二人の間を一瞬だけ流れた。
「やるしかねぇな」
二人同時に脳波キーボードを叩き、吹き出しにそう表示させた。
アバターで同時に同じ文章をしゃべらせるもんで、二人して笑った。
しかし、明日か。
急だな。
知らなかったぜ。
その成分のせいで、いろんな言い伝えに繋がるのだという。
やれ、死体が埋まっているとか、えっちい気分になるなんて聞いたこともある。
恋の成就には桜の木は抜群に良い、約束の場所なのは間違いない。
だが、本当のところは、おれにはわからない。
「らしい」とか「だという」とか付け加えて、言葉を濁してしまう。
おれは知らないのだ。
詳しく知らない。
知らないから断定出来ない。
どうすれば断定出来るのか。
断定するには、調べればいいのだ。
そんなのすぐだ。
すぐだったはずだ。
だが、おれにはそれが出来ない。
なぜならまさに今おれは、普通調べるのに検索でみんなが使う、あの電脳の網の中の世界に放り込まれ、そこの住人となってしまったからだ。
電脳の網の中を彷徨うと、俯瞰が出来なくなる。
検索する側から検索される側になってしまった。
経緯は唐突で。
意味がわからなくて。
ともかく今、おれは砂嵐が吹くこの電脳界で生きている。
私立眼鏡学園付属・眼帯幼稚園。
眼鏡男子の集う幼稚部から大学部に至る一貫校の付属幼稚園。
そこで中二病よろしく眼帯着用を義務づけられているのが、この眼帯幼稚園。
みんな伊達眼帯だ。
おれはその眼帯幼稚園に通わされている。
正確には、おれのアバターが。
そう、電脳世界の中でおれはこの眼鏡学園という場所の、幼稚園に通っているのだ。
ある日、現実の町を歩いていたおれは、複数の男達に追いかけられるハメに陥った。
男達は一様に、ブラックスーツに身を包み、高級な黒いサングラスを着用し、手にマシンガンを構えていた。
奴らがダッシュしておれを追いかけて来た時、本能的にこれは逃げるしかないと思ったし、判断は正しかった。
が、判断は正しかったが、逃げ切ることは叶わなかった。
男達はおれを行き止まりに追い込むと、一斉にマシンガンを掃射した。
避ける術もないおれは奴らがマシンガンで飛ばすイカスミ弾を浴びるように喰らった。
イカスミマシンガン。
イカスミの液体の入ったボールを発射する武器で、イカスミ弾は、薄い皮膜の中にイカスミが入っている仕様だ。
その掃射されたイカスミ弾には神経毒が含まれており、喰らったおれは卒倒し、痙攣をしながら、視界をブラックアウトさせた。
そして連れてこられた世界がここ、砂嵐電脳界だった。
電脳空間。
サイバースペース。
表の現実世界ではある種、過去の遺物と見なされている。
データ上の存在になって生きる、ここはそんな場所で、アウトローの巣窟とされた。
生身の身体を捨ててアバターという電脳体で生きる。
現実に身をおけなくなったから、という理由の奴のよりどころ。
そんな無法者の無法地帯、お偉いさんは過去の遺物にしたがるわけだ。
仕方ない。
まあ、実際にアバターとして生きたら学校に通うことになったので、学校に通わされるここが本当にアウトローの無法地帯なのかは疑問だが。
突如、現実世界の住人だったおれは現実世界で黒ずくめの男達にイカスミ弾を喰らう。
喰らったイカスミで、 おれの身体と魂は分離された。
おれの分離された2060年代の魂は、五十年は昔のソーシャルゲームを動き回るアバターとして、この世界に結合された。
「この世界」が「五十年は昔のソーシャルゲーム」を模してるって話ね。
スマホゲームやビデオゲームといったものがソーシャル化されていく、そんな時代の。
そして、一方のおれの身体の方は現実世界で『ゲームのユーザー』として、自分の魂の意志とは関係なく、AIで自動的な存在として今も『このゲーム』をプレイする生活をしているはずなのである。
空っぽの身体が、現実に残され、アルゴリズムに沿って今日も動いているだろう。
科学の発展はめざましい。
しかし、いざ電脳の世界を構築しようとすると、どうしても五十年以上は昔、2010年代の、ビデオゲームが全盛期だった頃のソーシャルゲームを、新たに没入型として構築するのが常だった。
ユーザーは全く新しいものを求めるのではなく、なじみのあるゲームの世界にこそ、入り込みたいと願ったのだろう。
そして、その夢は五十年を経て叶った。
それまで言われてきたバーチャルではなく、痛みや視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの五感が現実と同じになる、本当の意味での仮想現実。
電脳界。
色々知らないで電脳の身体にされてしまったのだが、そこらへんの説明を、ここの世界に来た途端、今日からおれの担任だと言って現れた姉崎さちえ先生が教えてくれた。
本当のことかどうかは、正直なところわからない。
現実にいた時のことはすでに曖昧になっているのだ。
それはそうかもしれない。
季節はずっと春で、行ける範囲も精々ひとつの町程度と狭く、同じような日々が繰り返されるのだから、年齢も上がらずに。
ひょっとしたらこの自分がわからなくなる感覚も、桜の木の高揚する成分のせいかも知れない。
「この砂嵐電脳界は、過去に流行ったというソーシャルゲームと、そのゲームをするユーザーたちの『仕組み』のエミュレーションをしている世界よ」
さちえ先生は椅子に座って、足を組み直しながら言っていた。
職員室で聞いた、このゲーム世界の根幹。
それは全体が『エミュレータ』であるということで。
エミュレータ、とは見習う、模倣するという意味の単語である。
「あるコンピューターが他のコンピューターの機能を模倣するための装置やプログラム。異種コンピューターで同一のソフトウエアの実行を可能にしたり,プロセッサーや OSの互換性を保つ」
……なんて、辞書には書いてあるだろう、読んでないから知らないが。
姉崎さちえ先生は、幼稚園の保育士である。
……という、たぶんこれは設定である。
同様におれも、幼稚園生である。という設定である。
おれはアバターが幼稚園生なのだ。
しかも眼帯着用の中二病デザインの。
服装もポンチョっぽい幼稚園児服がビジュアルゴシックにカスタマイズされたような服である。
これがこの私立眼鏡学園付属・眼帯幼稚園の制服なのだから仕方がない。
もちろんその魂そのものが幼稚園に通う年齢であるわけがなかった。
さちえ先生は先生でいかにも保育士さんといった風情であり、実年齢がわからないにも関わらず、おれは「先生!」と呼んでしまう。
思わず先生と呼びたくなるルックスと物腰なのだ。
ここはアバター同士で交流を深めていくタイプのこのゲームのエミュレート世界。
おれだって暇だから幼稚園には通うのだ。
これが結構楽しい。
積み木遊びとかグラウンドのぐるぐる回る遊具で遊んでる時は至福のひとときだ。
一ヶ月前に起こった友人たちの消失によっておれも今は、頭の中がそこまで没入しているわけではないにせよ。
おれがぐるぐる回る遊具から降りて、木陰の方へ行くと、鍵盤ハーモニカの音が聞こえてきた。
あまりに上手い演奏だったので木々の葉で覆われた草むらを歩いて近づくと、大きな木の根元に寄りかかり、鍵盤ハーモニカを吹く幼稚園生がいた。
おれと同じすもも組の、藤沼ファージだ。
藤沼ファージの身体にはちょうど木漏れ日が差していて、辺りがきらきら光っているみたいに錯覚する。
ファージの、眼帯のない方の目がおれの姿を捉え、おれが来たことに気づく。
鍵盤ハーモニカから口を離し、ファージは木の根元にその楽器を丁寧に置いた。
「よぉ、宝井アルファ、元気か?」
ファージが腕を組みながら言う。
いや、正確にはそれは打ち込まれた文字列だ。
頭上の吹き出しにそう書かれているので、そう「しゃべってる」と判断する。
サンプリングでつくられた合成音声をあえて使わないのが、この世界の元となったゲームの、大きな特徴だった。
「元気だぜ、ファージ。お前の方は今週の初めからずっとすもも組に顔を出さなかったみたいだけど」
宝井アルファとはおれの名だ。
藤村ファージはおれに話しかけている。
おれも脳波キーボードで文章をつくり、それを吹き出しにして藤村ファージと会話を始める。
「愛しのさちえ先生にも会いたいのは山々だったんだけど、事態が事態だからよ。さちえちゃんはおあずけ」
「ファージがさちえ先生より大事にする用事って?」
「うちの母上にきっちり仕込まれててね」
鍵盤ハーモニカを木の根元に残し、藤村ファージがゆっくりとこっちに近づいて来る。
「仕込まれてた? 母上ってノンプレイヤーキャラの? 一体なにを仕込まれてた?」
草むらに立ち尽くすおれの背中に腕を回し、
「聞きたいか?」
と、ファージはこっちを向いて挑発的な目線をしてくる。
「どーせ、お前知らないんだろ、明日のこと」
「明日って。毎日毎日が同じ季節の中での繰り返しじゃんか」
「だから。春のBAN祭りさ」
「は? BAN?」
「いや、嘘。いやいや、嘘じゃねーな。昔のどこかのスラングで、場所を追放されるのをBANと呼んだらしいぜ。それと同様だが、こっちは違う。追放というより、解放だ。ん、卒業、か」
「卒業」
「そう。支配からの、卒業」
「言ってる意味がわから……」
背中から回したその手で、ファージはおれのあごをつまみ、上に押し上げる。
押し上げられると、おれのくちびるがファージのくちびると同じ高さになる。
至近距離で顔を向き合わせるから吐息がかかる。
……くすぐったい。
「明日は私立眼鏡学園全校で行われる『スミんこパーティ』実施日だ」
「スミんこパーティ?」
そっかー、わからねーよなー、と笑ってファージはおれの髪の毛を両手でぐちゃぐちゃにかき乱す。
それからまた背中に腕を回して、今度は身体をしゃがませる。
二人でしゃがんだ体勢でしゃべることになる。
しゃがんで話すのはどちらかというと内緒話モードだ。
と、おれは思う。
動きのせわしい奴だ。
「おれたちゃ囚われのアバター。この3Dテクスチャの張りぼてだけで出来た世界で一生を終えるかも知れねー存在だ」
砂嵐が吹く。
画像が乱れる。
砂嵐で乱れる、ざらつくテクスチャ。
電脳界は、完全な世界はまだ、構築できていないから、砂嵐が吹くのだろう。
いや、もしこの世界が完全だとしても、おれは電脳体のアバターで一生を過ごすなんて。
電脳体で一生を終わりにさせられるような世界は、完全な世界が目指すべきものじゃない。
「おれたちの通う幼稚園のサーバーの連中はみんな現実にいた頃は無課金のソシャゲ劣等生。生きるのが下手な連中だ。生きるってのは、ここでって話な。そんな劣等生のおれたちも参加出来る、ありがたーいパーティがあるんだ。しかも、バトル大会だ」
「バトル大会」
「そう、それがスミんこパーティ。学園ご自慢の兵器イカスミマシンガンを乱射して、一対一のタイマンで戦う大会だ。で、それをみんなで観戦して楽しむパーティでもある。花見だよ、要するに」
要するに花見だ、と言われてもどこらへんが「要するに」なのか謎だ。
無礼講っぽさはあるがな、なんとなく。
「イカスミマシンガンは知ってるな。学園の連中が砂嵐電脳界に拉致る時に使う神経毒のイカスミ弾を発射する、液体の玉を掃射するマシンガンだ」
そう、プールや海で子供が遊ぶ、ウォーターマシンガンと似た形状をした、あの武器だ。
しゃがんだ姿勢から立ち上がると、ファージは腕をおれから放し、俺の目を見据えた。
「優勝すれば、電脳界からの解放が約束される」
「奴らにメリットは」
「ある。黒ずくめと同じ権限が与えられて現実への先兵として送り込まれる、という建前だ」
「おれらにも」
「メリットどころか、喉から手が出る優勝特権だ。実際の黒ずくめなんて、普段なにしてるかわかりゃしないからな。おれやお前が優勝すれば」
「上手く現実へ逃げるな」
「だろ」
「あの黒グラサンを叩き割れる日も近いってわけか」
ファージは大きく口を開けて、
「お前は飲み込みが早いな。そういうこった。すもも組へ今から行け。今なら参加募集締め切ってない。募集の紙ぺらはさちえ先生が持ってる」
おれはガンアクションゲームが好きだった。
だから「イケる!」と直感した。
過信して結構。
アバターは幼稚園生だが、実年齢は……。
おれもファージをまっすぐ見る。
その姿がまた、テクスチャの崩れを起こしていたが、崩れる画像に混じって、桜の花びらが舞って、二人の間を一瞬だけ流れた。
「やるしかねぇな」
二人同時に脳波キーボードを叩き、吹き出しにそう表示させた。
アバターで同時に同じ文章をしゃべらせるもんで、二人して笑った。
しかし、明日か。
急だな。
知らなかったぜ。