第21話 家庭教師ギロ

文字数 14,221文字

「領土の管理を怠り、税金の横領に共謀したとして、ドゥ伯爵家の令嬢、ベロニカ・ジェーン・ドゥに、死刑を宣告する」

 蝶番(ちょうつがい)のついた晒し板を手枷として嵌められたベロニカに、そう判決が下される。
 しかし、その罪状が真でないこと、その判決が正ではないことを、ベロニカは知っている。
 ドゥ一族は嵌められたのだ。
 だからこそ、死刑を下された直後でも、恐れ慄くことなく言い切ってみせた。

「稚拙」

 このような状況に追いこまれたとて、誇りは失わない。むしろ、見え透いた偽りの証拠で一族を滅ぼさんとする者たちに「粗相をした幼児だってもう少しまともな嘘をつきますわ」と吐き捨てた。
 嘲るように鼻で笑い、あたりを見回す。
 盲信する者たちの目には、ベロニカは、愚かしい令嬢が虚勢を張っているように見えるのだろう。愚かしいのはどちらかと、ベロニカはため息をついた。

「帝国も地に落ちたものですわ。権力者の言いなりになるばかりでなにも考えようとしない……こうも腐り落ちた様を見れば、この先の治世も知れようと言うもの。地獄と化すより先に安らかに死ねるならば、本望にございます」

 ベロニカは凛として告げた。
 数刻後にはその薔薇色のドレスが自らの血で汚れることを知りながらも、決して恐れを見せず、自分の背後に控える騎士を振り返る。

「参りましょう。断頭台までエスコートしてくださる方はどなた?」

——『数奇の乙女ベロニカ』第三章——





「痺れる……」

 コメットは読んでいた本を一度閉じ、神妙な面持ちで感慨に耽った。その手にある本は、ギロから手渡された時代小説、『数奇の乙女ベロニカ』である。
 濡れ衣を着せられて死刑になった貴族令嬢の物語なのだが、史実を基に作られており、その令嬢は数百年前に実在している。彼女の死後、その身の潔白が証明されたことで、魔法による犯罪捜査の不備が見直された。革新の礎になった彼女を偲ぶ声も多く、現代では慰霊碑も建てられている。
 コメットは自分の部屋の椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて読書に勤しんでいた。テーブルの上には今読んでいる『数奇の乙女ベロニカ』だけでなく、『慈悲心王ジャスパー』、『大魔法使いトリスメギストス』、『修道士ハイハット』など、数々のタイトルが積まれており、コメットはすでにその全て読破していて、いまは二周目である。
 これらは、コメットのためにギロが用意したものだ。
 遡ること一週間前。ネブラによる魔法の勉強も終わり、水瓶の底を覗いたような空をした夕暮れ時に、ギロはサダルメリクの家を訪れた。

「というわけで、お前に勉強を教えるギロ先生だ」
「えー。よろしく、コメット」

 居間に通されたギロは、ネブラとコメットの前に立ち、やや居心地の悪そうな顔で挨拶をする。
 コメットは目を丸めながら、「本当に来た」とこぼした。

「本当に呼んだんだよ」ネブラが言う。「今日から、俺が魔法を教えて、ギロが勉強を教える。心してかかれよ」
「て言っても、放課後に、店番のない日だけだけど」
「あ、うん。ありがとうね、ギロ」
「いいよ。俺も力になれるようがんばるから」

 会話もそこそこに、ネブラは「あとは任せた」とギロに告げ、家を出ていく。マフラーをもこもこに巻き、毛皮の詰まったブーツを履いて出て行ったので、しばらく戻らないだろうとコメットは察した。
 あとを任されたギロは「よいせ」と荷物をテーブルの上に置く。大きな革製の鞄で、置いたときに重たげな音が鳴った。
 あたりを見回しながら「ここでいい?」とギロが尋ね、コメットはそれに頷く。暖炉の火が囁き声を上げるだけの、ぬるい居間にて、二人は向かい合わせになって座った。
 コメットは(いま)だに勉強嫌いで、逃げだしたい気持ちでいっぱいだった。
 けれど、コメットのためにわざわざ丘の上まで来てくれたギロに申し訳なくて、逃げるに逃げられなかった。
 コメットはテーブルの下で爪先を擦り合わせながら、伺うようにギロを見遣る。

「それ、すごい荷物だね」
「うん。いろいろ用意してきたんだ。ネブラからは、六歳児に教えるつもりで来い、って言われてたから」

 コメットは十五歳児だ。
 この場にいないネブラに顔を顰めた。

「ちなみにだけど、コメットはどこが苦手とかできないとかある?」
「勉強は全部苦手だしできないよ」
「でも、字の読み書きはできるってネブラから聞いてる。どんな本でも最後まで読めるって」
「そりゃあ、読むだけだもん」
「字の読めないやつもいるよ。読めたって、文章を目で追っても頭に入んない、いつまで経っても読み終わらない、そもそも読む気もないやつだっている。本を読めることは、勉強じゃあすごく有利なんだ」

 そう言ったギロは、持ってきた鞄の中から大きな直方体を取りだす。
 コメットはそれをまじまじと見つめた。
 化粧箱に納められた十冊ほどの本だった。
 ギロはそのうちの一冊を取りだして、テーブルの上に置く。銀の箔を押された文字で、『大魔法使いトリスメギストス』と書かれていた。

「これは、帝国の偉人を題材にした時代小説なんだ。教科書をなぞるより、物語として楽しんだほうが、頭に入りやすいと思って」

 ギロはぱらぱらとページを(めく)る。
 数ページごとに挿絵もあり、読みやすそうだ。
 いや、それよりも。

「挿絵が動いてる!?」
「こういうの、コメットは見たことない?」
「ない! すごいね、なにこれ魔法?」
「うん。動く絵のことを動画っていうんだけど、動画が刷られてる本はそのぶん高価なんだよ。俺とベルリラのために買ったものらしいんだけど、ベルリラが読み終わったあとは捨てるに捨てれなくて、ずっと残してあったんだ。コメットにあげる」
「えっ、いいの?」
「うん。うちで持ってても持ち腐れだし」
「ありがとう! うわあ、読むの楽しみ!」
「俺も昔読んだけど、けっこう面白いよ。昨日ベルリラも読み返してたけど、一番のおすすめは『数奇の乙女ベロニカ』だって言ってた」
「ふうん。これかあ」
「暇なときにでも読んどいて」ギロは続ける。「いきなり歴史とか勉強しても、覚えるに覚えられないだろうし、とりあえず有名なひとの周辺と時代だけ覚えてたらいいよ。ちょっとでも頭に入ってから勉強したほうが、点と点が繋がる要領でわかりやすいはずだから」

 わからないことだらけで一から覚えるよりも、物語の登場人物だと思って学ぶほうが、コメットも楽しめるだろうとギロは考えていた。
 そして、案の定、本を読むだけで勉強できるなんて、とコメットは少しわくわくしていた。
——こんなふうな勉強なら面白そう!

「これを読み終わるまでは、一旦、歴史は置いておこうか。今日の勉強だけど……コメット、たしか計算も苦手だったよな?」

 ギロは、コメットがアップルガースの店に買い物に来たときのことを思い出していた。
 コメットはお釣りの計算ができないらしく、それどころか、アトランティス帝国の貨幣さえ覚えているか怪しかった。

「コメット、紙幣と貨幣はわかる?」
「紙のお金とコインのお金でしょ?」
「それぞれ何Б(ベイル)があるか、種類を言える?」
「あの、全部は覚えてないかも、ごめん」
「謝らなくていいよ。今日は計算の練習がてら、通貨の勉強もしようか。ちなみに、足し算と引き算も苦手か?」
「うん……」
「じゃ、これ使って計算しよう」

 すると、ギロは次に、鞄から塗装の剥げた算盤を取りだした。それをテーブルの上に置いて、「持ってきててよかった。ベルリラのおさがりだけど」とこぼす。

「これ、算盤だっけ」
「使ったことはある?」
「見たことあるだけで、使ったことない」

 いまは亡き箒を買う際、ライラが使っていた。鉄隕石(メテオライト)の珠の連なった、燻し銀の重厚な算盤だった。
 ただ、ギロの持っているものは珠の一粒一粒が軽やかな虹色で、玩具(おもちゃ)のような気軽さがあった。

「中にある石を(はじ)いて、数を足したり引いたりできるんだ。石の配置に慣れたらパッと計算できるようになるよ」

 加えて、ギロはレプリカのアトランティス通貨も用意していた。初等教育で使うような計算用の教具だ。

「今日は100までの計算をできるようにがんばろうか。算盤の使いかたも教えるから、ゆっくり覚えていって。これを覚えたら、うちの店でジンジャークッキーを買えるようになる」
「えへ、買いに行くね」
「一枚99Б(ベイル)。忘れるなよ」

 ギロに教わるようになってから、コメットは前よりも勉強が苦痛ではなくなった。
 ネブラのアドバイスどおり、ギロが工夫してくれていることもあるけれど、純粋に、ギロの声かけもよかった。上手くいかなくても「大丈夫」「がんばってるよ」と励まし、よくできたところは「えらい」「すごい」と褒め、特に苦手を克服したときは「ちゃんとできるようになったな」と驚いてくれた。
 おかげで、三日も経てば、コメットはアトランティス通貨を覚え、三桁の足し算もこなせるようになった。
 ますます勉強に前向きになったコメットは、前なら尻尾を巻いて逃げだしていた問題集に手をつけ始める。

「——うん、全部あってる」丸つけをしていたギロが頷いた。「やるな、コメット。もう足し算と引き算は完璧だ」
「えへ。ギロのおかげだよ!」

 丸のたくさんついた回答用紙を見て、コメットははにかむ。自分でも力がついているのを実感し、コメットは心の底からギロに感謝した。

「ギロってすごく賢いんだね、教えかたもわかりやすいし」
「別に賢くない。普通だよ。試験の時期に勉強するくらいで、普段はサボってるし」
「試験って、テストのこと?」
「大きいテストかな。年に三回、それまで習ったところを理解してるか確かめるためにやるんだよ。悪い点を取ったら追試。合格点を取るまで終わらない」
「うわ、しんどい」

 僕には無理だな、とコメットはこぼす。
 勉強は楽しくなってきたけれど、テストは好きじゃない。
 ぐっと眉を顰めて「学校じゃあそんなのやるんだね」と呟くコメットを見て、ギロはひとまず押し黙る。ギロにとって、学校に行っていないというのは、どこか普通のことではなかったので。
 秋ごろ、コメットはサダルメリクの家に居候することになり、その前までは孤児院にいたいう。孤児院にいたということは、ギロにとっては当たり前にいる両親が、コメットにはいなかったということだ。学校へ行かせてくれる存在がいなかったということ。
 能天気に見えるコメットだけれど、自分の知らない苦労をたくさんしてきたのかもしれない——ギロは慎重にコメットへと尋ねる。

「……コメットは、学校に興味ある?」
「うーん。勉強をするところでしょ? あんまりかなあ」
「勉強以外のこともできるよ。運動もするし、友達とも遊べる」
「でも、勉強ならいまだってしてる。丘の上を走ることもできるし、ギロやベルリラや、ミラみたいな友達だっているもの」

 コメットは現状に満足しているので、自信満々に答えてみせた。
 そういうコメットを見て、ギロも少しほっとする。

「孤児院では勉強はなかったのか?」
「あったよ。大っ嫌いだった。毎日毎日、好きでもないことばっかりやらされてさ。逃げだしたこともあったっけ。でも、結局連れ戻されて、散々だったな。みんなよく真面目にできてたよ」

 コメットはテーブルに頬杖をつき、ぐったりとした様子でこぼしている。華奢な手の平に乗せたまろい頬は潰れていて、その下の唇もわずかに尖っていた。

「勉強の得意な子もいてね、がんばれって励ましてくれたっけ。僕よりもいくつか年上の、すごく面倒見のいい子たちで、心細くて眠れないときはみんなで本を読んだり、空想の話で盛りあがったりして……」コメットは少し息をつく。「みんな、いまごろどうしてるかな」

 ぱっちりとした眼差しが、まるで果てしないところを眺めているときのように、緩やかに細まる。無数のきらめきを反射する、池のほとりのような瞳に、望郷の色が乗った。
 コメットがここまで孤児院での話をするのは初めてのことだった。ホームシックだろうか、とギロは逡巡、

「コメットは孤児院に戻りたい?」

 と伺う。
 ギロの予想に反して、「ならない」というコメットの返事は早かった。やはり自信満々な、さっぱりとした答えだった。

「不思議と、寂しいとか帰りたいとかは思わないんだよね。なんでだろ。孤児院を抜け出せてせいせいしてるし、あのころよりもいまのほうが楽しいんだ」
「そっか」

 もしかすると、コメットにとっては、孤児院での日々は思い出したくないものなのかもしれない。
 そう思ったギロは、それ以上聞かないでおくことにした。

「そういえばコメット。渡した歴史小説は全部読み終えたんだよな? 計算もできるようになったわけだし、そろそろ歴史の勉強もしようか」
「うへえ。お手柔らかに」





 さて。ギロからもらった歴史小説は『純白の貴婦人マドンナ・リリー』を最後に全て読み終え、いまでは二周目に入っている。
 どれも興味深く、読んでいて面白かったけれど、ベルリラのお勧めである『数奇の乙女ベロニカ』は、コメットもいたく気に入った。歴史小説のシリーズの中でも少女向けの物語で、主人公ベロニカと幼馴染の騎士フィドルの叶わぬ恋の切なさには胸が熱くなった。
 テーブルに置いていた『数奇の乙女ベロニカ』をコメットは再び手に取り、続きを読みこもうとする。
 そのとき、部屋の扉をノックする音が聞こえて、コメットは「はあい」と答えた。

「やい、馬鹿弟子。授業の時間だぞ」

 扉の向こうからネブラが言う。
 コメットが時計を見遣ると、ネブラの言うとおり、いつもなら楽室にいる時刻を少しだけすぎたころだった。コメットは慌てて「ごめん、すぐ行く!」と本を置き、楽室へ向かう準備をする。
 ばたばたと音を立てて、筆記具やら教科書やらを掻き集め、両手で抱きしめた。手が塞がっていたので、ドアノブに肘を置き、体重をかけることで扉を開ける。そのまま部屋を出ようとしたとき、扉の横の壁に、ネブラが凭れこんでいるのが見えた。

「遅い」
「わっ、あ、ネブラ」
「先生とたいへん申し訳ありませんをつけろ」
「ネブラ先生、たいへん申し訳ありません」
「よろしい」ネブラは踵を返すように背を向ける。「とっとと二階に下りるぞ。今日は蝋燭に火を灯す魔法の練習だ」

 ネブラは暗色の外套(ガウン)を揺らしながら階段を下りていく。
 コメットはその背中をしばし眺めたのち、後を追うように二階へ向かった。
 今日は雨の降り落ちそうな曇天で、窓の向こうは煤色一色だった。外の光よりも魔法灯で照らされた室内のほうが明るく、夜さりのような昼時だ。
 コメットはいつものように席につき、その目の前にネブラが座る。向かい合わせになると、ネブラが口を開いた。

「今からこれに火を点けろ」

 見下ろした机の上には、小鳥を模した燭台。そこに立つ真っ白い蝋燭に火は灯っていなかった。

「呪文は基礎魔法から。覚えてるな?」
「うん」
「これまでの発声練習の成果を見せてみろ」

 コメットは蝋燭の真上に両手を翳し、頭の中の音律をなぞるように歌う。

「“おいでおいで
 真っ只中にルビー
 一番綺麗なお前を見せて”」

 その呪文を、コメットはしっかり覚えていたはずだった。
 しかし、唱え終えても、火は灯らず、うんともすんとも言わななかった。
 コメットは不思議に思い、もう一度歌ってみた。それでも蝋燭に火は点かなった。
 動揺するコメットに、ネブラは告げる。

「この着火魔法は、ただ単に火を点けるだけの魔法じゃない。未熟な見習いが火を起こして、火事になったら大事件だろ。だから、この短い呪文の中には、『一定時間で火が自然に消える』、『大きくならない』、『他のものに燃え移らない』ような魔法式が組みこまれてある。かなり繊細な魔法なんだよ」
「へえ」
「だから、少しでもミスると発動しない。音程、リズム、呼吸、全部を完璧にこなす必要があるわけだ」
「む、むつかしい?」
「そういうこった。この魔法が使えるようになったら、発声面では概ねクリアだな。もうちょい複雑な魔法も教えられる」
「……わかった!」

 コメットの顔は真剣なものになる。
 ぐぐっと身を屈めて蝋燭を見下ろす。
 たしかに、さっきはちょっと走っちゃった気がする。ブレスの位置も意識してなかった。歌詞は間違えてなかったはずだから、次はもうちょっと正確に……。
 コメットが歌いだすために息を吸いこんだとき、ネブラの手が伸びてくる。
 するりと、コメットの額の輪郭から右耳の上を、ネブラの左指が伝う。右頬へと垂れ落ちるコメットの横髪を、白い小さな耳へかけた。
 コメットはその感触に肩を震わせ、ぎょっとした顔をネブラに向ける。

「髪、燃える」
「えっ?」
「火が点いたら燃えるだろ」
「ああ……ありがと」

 そうコメットは答えたものの、内心では驚きが止まらなかった。
 僕の髪が燃えちゃうとか、ネブラが気にするの? 僕の髪をへんてこりんに切った君が?
 そもそも右側の髪が微妙に長いのは、調髪の技術もないくせに、ネブラが適当に鋏を入れたからだ。燃えたら大変なことに変わりはないので、除けてくれるのは助かるけれど、今更気を遣われても釈然としない。ありがたいような、腑に落ちないような、むず痒いような、恐ろしいような。
 いろいろと考えていると、魔法も乱れた。何度歌っても上手く火を灯せず、燭台に刺した蝋燭は真っ新な状態だった。コメットはため息をつく。

「僕って成長してるのかなあ……」
「してるわけねだろ。出会ったときから今日までずっとチビだぞ」
「背が伸びたかって話じゃない、魔法の話!」

 コメットが噛みつくように言うと、ネブラは面倒くさそうに立ちあがった。壁にかかっていた計測器を手に取り、「試してみりゃいいだろ」とコメットのそばへ戻ってくる。
 それが魔力の計測器だと悟ったコメットは、ネブラに向かって「うおぉおおー!」と叫ぶ。針が動いたのが見えて、ネブラは数値に目を落とす。

「77mB(マジベル)
「えっ?」コメットは驚いた。「最初に測ったときは72mB(マジベル)だったのに、上がってる!」
「魔力量は、訓練や年齢を重ねるごとに、少しずつ増えていくからな。魔法使いのそばで寝起きして、少しでも魔法を使う機会があれば、こんなもんだろ」
「でも、半年くらいで5mB(マジベル)も増えたってことは、一年あったらネブラ先生に追い越すってことだね。前に測ったときは、たしか79mB(マジベル)だったでしょ?」
「お前が増えてるぶん、俺だって増えてるよ。最近測ったら90mB(マジベル)だった」
「90ってことは……11mB(マジベル)も増えたの!?」
「お前よか魔法使うことも多かったからな」
「箒を飛ばせる魔力量は120mB(マジベル)でぇ、半年でそれだけ増えてるってことは、いまの調子でいくと、んーと……一年半後には、ネブラは箒で空を食べるようになってる?」
「正解。ちなみに、お前が箒で飛べるようになるのは何年後?」
「うー……」コメットは頭の中で算盤を(はじ)く。「んん、四年ちょっと?」
「あってる。お前、本当に計算できるようになったんだな」

 自信なさげに見上げた先で、ネブラが少し驚いた顔をしていた。
 コメットは嬉しくなって「うん!」と満面の笑みを浮かべる。

「ギロのおかげ! 算盤がなくても暗算で計算できるようになったんだよ。掛け算と割り算はまだ苦手だけど、アトランティス通貨も覚えたから、一人で買い物だってできちゃうもんね。うふふ、すごいでしょ?」

 褒められて嬉しくなったコメットの口は、油を注されたみたいにどんどん回った。丸い瞳を大きく開かせて、興奮気味に伝える。

「最近は歴史の勉強もしてるんだ。ついこのあいだまでは全然覚えられなかったけど、ちょっとずつわかってくると、意外と面白いね。一昨日は慈悲心王ジャスパーを勉強したんだよ。昔、アトランティス大陸が三つの国に分かれてたとき、ジャスパーって王様がいたんだ。ネブラは知ってる?」

 話すのに必死になっていたので、ネブラの眉間にみるみる皺が寄ってくことに、コメットは気づかなかった。
 コメットが無邪気に語るたびに、ネブラの剣呑な双眸に、嫌気の影が差す。

「その王様の治めていた国では、太陽が神様だったんだって! 他の国では別の神様が信じられてて、そのせいで戦争が起きたって勉強したの。いまじゃ一つの国なのに、昔は別々だったなんて、面白いよねえ」
「へえ、あっそ、面白くてなによりだぜ」
「え、なに」
「べっつに? お前の馬鹿さ加減に呆れただけ。そんなん常識だっての。ちょっと物覚えたからって調子乗ってんなよ」

 ネブラの声音に棘が生えた。
 いよいよコメットも、自分とネブラのテンションが乖離していることを察して、大回転していた口を止める。そのぶん眉は跳ねた。
 なんでいきなり不機嫌になってるの?
 ネブラの棘に刺され、一瞬は呆気に取られたものの、コメットの傷口からじわじわと苛立ちが滲んでいく。

「なんで馬鹿って言うのさ。僕だってがんばってるじゃん」

 褒めてくれると思ったのに。嫌いな勉強でも、少しはわかるようになってきたのに。なんでそんな意地悪なこと言うの?
 コメットの言葉や表情から不服が滲む。
 しかし、ネブラはそれ以上に不満げで、出した棘を仕舞うどころか、さらに強く研ぎあげる。

「ハッ。がんばってんのはお前じゃなくて、お前なんかにもわかるように教えてやってるギロなんじゃねえの? あいつもよくやるぜ。俺はお前みたいな馬鹿には付き合いきれねえ」

 ネブラは意地悪く吐き捨てた。
 あんまりな言い様に、コメットは歯噛みするように息を呑む。

「……たしかにね! ネブラはギロみたいに教えるの上手じゃないし、僕のこと途中で()っぽりだしちゃうような、(ろく)でもない先生だもんね!」
「んだとゴルァ! 俺から逃げだしたのはお前だろ! そのくせなに自慢げに話してんだ、馬ッ鹿じゃねえの? 太陽信仰も宗教戦争も、俺が最初に話したことだろうが!」
「あっそう! 僕、馬鹿だから覚えてない!」
「はあ!? この馬鹿野郎!」

 ネブラに凄まじい剣幕で怒鳴られようと、コメットは知ったこっちゃなかった。いつまで経っても理不尽に罵ってくるネブラなんて、ほとほと愛想が尽きたのだ。
 頭に血が上ったのはネブラも同じで、荒々しく立ちあがった拍子に、机と椅子がガタガタと音を立てる。

「お前っていっつもそうだよな! なんもわかってねえくせに気安く話しかけてきやがって! ケッ、勝手にやってろ!」

 そのままネブラは「今日は(しま)いだ!」と楽室を出ていく。二度とやるかとは言わないことから、一応、明日からも授業をする心積もりではいる。
 楽室に残されたコメットは、机の下で「ンギィ〜!」と地団駄を踏んだ。
——なんでなんでなんで! もう知らない、ネブラのばーか!
 コメットの中で煮え滾る怒りは一向に収まらず、ギロが授業に来たときも、コメットはまだむしゃくしゃしていた。

「あ、コメット、ネブラいる?」
「いらない!!!!」
「いや、えっと、いるかいないかで聞いた」

 家に着くなり、いつになくぷんすかしているコメットを見て、ギロは驚いた。そして、わずかな会話から、その原因がネブラにあることを察する。
 ギロは、コメットの座る席の向かいに座り、テーブル越しにその顔を覗きこむ。様子を伺いながら、「なにかあった?」と尋ねた。
 コメットは顔も上げず、いまにも叫びだしたいのを堪えるように食いしばる口を開く。

「ネブラが僕のこと馬鹿にしたの」
「それは……いつものことだな」
「そう。いっつもそう。僕のこと馬鹿だとかチビだとか言ってさ! 今日なんていきなりだよ? 計算できてるって言われたから、もっと褒めてくれるかなって、勉強をがんばってるの、話しただけなのに」
「どんなふうに話したの?」
「ギロに教わってから暗算もできるようになったとか、歴史の勉強がちょっと面白いとか、こんなことを覚えたのとか、いろいろ」
「…………うーん」

 ギロは困ったように顔を顰め、頬杖をつく。
 コメットの話を聞いただけだけれど、なんとなく、ネブラの気持ちを悟ってしまったので。

「ネブラも大概ガキなんだな」
「でしょ?」
「そんな悔しがらなくてもいいのに」
「悔しがる? なにに?」

 コメットは眉を顰めたまま、首を傾げる。
 そこでさらにギロは困った。
 気づいてなかったのか、と。
 自分が口を挟んでもいいものかと思い悩んだものの、コメットの目が「教えて」と訴えてきたので、「これも学びか……」とギロは口を開く。

「たぶんネブラはさ、俺のところでコメットが勉強がんばってるのが、イライラするくらい悔しかったんだと思う」
「えぇ? なんで? ギロを呼んだのはネブラでしょ? 僕に勉強してほしかったんじゃないの?」
「もちろんそうだけど、最初はネブラが教えてたんだろ? そのときは全然上手くいかなかったのに、俺が教えるようになってから、コメットが急にやる気になって。ネブラからしてみれば、なんでだよ、って感じなんじゃない?」
「それこそなんでさ。ギロのほうが適役だったってだけでしょ。そんなことで怒るなんて意味わかんないよ」

 わかんないかあ、とギロは内心でこぼす。
 それとこれとは別なのだ。ネブラはコメットの勉強のためにギロの手を借りたけれど、ネブラはコメットの師匠(せんせい)だから、ポッと出の家庭教師(せんせい)に負けるなんて嫌だったのだろう。
 そうとも知らず、コメットはギロばかり持ちあげて、しかもネブラが教えたことなどさっぱり覚えていないのだから、可愛さ余って憎さ百倍というやつである。
 
「ふんだ、ネブラなんてもういいの」コメットは唇を尖らせて言う。「今日の勉強始めちゃおう。慈悲心王ジャスパーまで終わったよね?」

 コメットは筆記具を取りだし、羽根ペンを握る。授業を始める準備はできていて、今日はいつも以上にやる気だ。
 けれど、その原動力の底には、ネブラへの怒りがある。そういうときのメンタルでは集中が長続きしないことを、ギロは知っていた。ベルリラに教えるときもそうだったからだ。幼い子供は、自分の不機嫌を完璧にコントロールできるほど器用じゃない。
 一度、気分転換をしたほうがいい、とギロは判断した。

「髪、邪魔そうだな」
「んえ?」
「横の髪。視界を遮ってる」
「ああ」

 ギロに指摘され、コメットは右側の髪を耳にかける。秋よりもいくらか髪が伸びたので、邪魔にならないよう、文字を書くときは耳にかけるようにしている。それでも、時間が経つと滑り落ちてしまうのだ。

「授業の前に結んでやる」
「え、いいの?」
「髪触ってもいい?」
「もちろん! ギロにやってもらうの久しぶり」

 コメットの気分は浮上する。
 ギロはベルリラの髪を弄るのに慣れているため、結わえたりアレンジするのが上手だった。初めて手を加えられたときは、三つ編みを作ってもらった。
 座ったままのコメットの背後にギロが立つ。洗面台から持ってきたブラシでゆっくりと髪を梳いていく。

「けっこう伸びたな」
「そう?」
「前にやったときもう少し短かった。今ならもうちょっとなんかできそう」
「すごいね。僕もいろいろ試してみたんだけど、あっちは長くてこっちは短いとか、てんでばらばらだからさ、もう諦めちゃった」
「長い房を三つ編みにしてハーフアップとかできると思う。今日はそれでいい?」
「うん。ギロの好きにして」

 毛繕いされているような、くすぐったくて甘い心地に、コメットは目を細める。
 ギロは面倒見がよく、歳の離れた妹にしてやるのと同様に、年下のコメットにもお兄さん気質を発揮して、ついついかまってしまうのだ。
 優しいなあ、と微睡(まどろ)んでいると、後ろで「できた」と呟かれる。

「え、もう? 相変わらず手際がいいね」
「慣れだな。ベルリラがあれやってこれやってってうるさいんだよ」
「二人って本当に仲良しだね」
「そうでもない。昔は喧嘩ばっかりだった」
「意外!」
「俺は友達と遊びたいのに、ベルリラがちょこまかついてくるからさ、こっち来んなって怒って何度も泣かせてた。大声で泣かれるのもうざくて、せめて妹じゃなくて弟だったら、とか思ってたよ」
「どうして仲良くなったの?」
「うーん。大人になったから?」ギロは肩を竦める。「元から別に嫌ってるわけじゃなかったしね。俺だけじゃなくて、ベルリラも大きくなって、お互いにされて嫌なこととかもわかってきて、なんだろ、人付き合いが上手くなったってことなのかな。いまは、ベルリラのお世話をするの、面倒なときもあるけど嫌じゃないし。ベルリラはベルリラで友達もできて、俺にべったりじゃなくなったから」
「へえ」

 コメットには兄弟がいないので、あんまりピンと来ない話だった。髪を結わえたり、勉強を教えたりするギロが、小さなベルリラを泣かせていたなんて、その様子を想像できなかった。
 コメットは椅子から立ちあがり、「鏡で見てくる」と言って、居間の奥へと向かった。風呂場にある洗面台の鏡を見て、「わっ」と声を上げる。
 厄介な横髪は後ろに遣って束ねられており、それをサダルメリクからもらった髪飾りで留めているのだ。後れ毛もほとんどなく、すっきりした髪型だ。少しお姉さんになった気分である。

「ギロ。君って最高」

 居間へと戻ってきたコメットは、開口一番にそう言った。
 ギロは椅子に座り、「どうも」と軽く笑う。
 コメットもその向かいに腰かけ、「本当にすごい、さすがだよ」と言葉を続ける。

「これくらい簡単だよ」
「僕にはできないもの。毎日ギロにやってもらえるベルリラが羨ましいよ」
「褒めすぎだろ」
「本気だってば。いいなあ。ギロは勉強を教えるのだって上手だし、髪もきれいにまとめられるし。同じ先生でもネブラとは大違い」

 ギロのおかげで幾分かすっきりした気分だったけれど、吐きだした言葉には恨みがましさが乗っていた。淡々としていて、語気も強くないのに、ちょっとぶっきらぼうで。おそらく自分は拗ねているんだな、とコメットは冷静に思った。
 ギロはそんなコメットをじっと見つめた。ややあってから、「あのさ」とおもむろに口を開く。

「俺、月のお小遣いは1万Б(ベイル)もらってるんだ。本当は5000Б(ベイル)だったんだけど、店番してるんだからもっと欲しいってお願いして上げてもらった」
「……ええと? そうなんだ」
「この差はけっこうでかいよ。ハーメルンさんからいっぱいお小遣いもらってるから、コメットにはピンと来ないかもしれないけど、子供のうちに持つ5000Б(ベイル)って大金だから」
「うん」

 いきなり話しはじめたギロに、コメットは一瞬戸惑って、しかし素直に相槌を打つ。

「俺がコメットに勉強を教えることになったのは、ネブラに誘われたからだよ。家庭教師をやらないかって。授業一回につき5000Б(ベイル)
「え……ネブラ、ギロにお金払ってるの!?」
「うん。俺も最初はびっくりしたけど、自分じゃできないからやってほしいって頼まれてね」

 丘の上までの道のりが遠かろうと、一週間のうちに数日、サダルメリクの家まで訪れ、勉強を教えて、それで稼げるなら嬉しいし、コメットのためにもなるならと、ギロは引き受けることにしたのだ。
 そして、ここまでするのかと、ネブラのことを見直した。

「一ヶ月の店番と同じ額を、ネブラは一日で出しても惜しまない。本気なんだって思ったよ」
「…………」
「んーと、つまりさ、ネブラは、横暴で身勝手なところもあるけど、悪いやつじゃないだろ? 少なくとも、コメットに対しては悪いやつじゃないと思う。ネブラを恨む気持ちもわかるけど、あいつのこと、許してやったら?」

 コメットの気持ちを汲みながら、少しだけ伺うように、ギロは言う。
 その言葉を受け止めたコメットは、少し俯いたのち、力なくこぼした。

「許すとか許さないとかが僕たちのあいだにあるのかわからない」

 羽根ペンを持つ手の指先が緩んだ。支えられているペンの(きっさき)は宙に浮いたまま、どこにいればよいかわからなくなったインクが、重力に従って雫を作る。
 コメットは滔々と語りながらも、どこか寂しそうな表情でいた。

「だって、僕は本当に、ネブラのことがわからないんだもの。きっと僕は、上手いことボタンに引っかかってるだけで、いつ外されてもおかしくなかったんだ」
「ボタン?」
「せっかくかけられたんだから、外されてたまるかって思ってた。しがみついてでも離れてやるかって」

 辿りついた星明かりを見失わないように、懸命に追いかけていた。
 自分のためには決して歩幅を緩めてはくれない、意地悪な星を道標してしまったものだけれど、それでも、コメットの心が選んだのが星雲(ネブラ)だ。

「僕がネブラの弟子なのは、ネブラがそれを許したからじゃなくて、僕が無理矢理ひっついてるだけ」
「…………」
「でも、僕だって、馬鹿みたいにひっついてたわけじゃないんだ。ネブラが怒るときって、ネブラが傷ついてるときだから、すごくたまに、怖い顔してても泣いてるみたいに見える。だから、僕の言葉が、ネブラにとって痛いものじゃありませんように、傷つけるものじゃありませんようにって、ずっと考えてた」

 自分の踏みこんだ一歩が、間違ってネブラを蹴りあげたりしないように。
 ネブラの中で鳴りを潜めている火山の、その腹の底にある絶望を逆撫でしないように。
 それなのに、「お前はいつもそう」なんて、「なにもわからないくせに」なんて、わからず屋はどっちだとコメットは思う。

「気安く話しかけるな、ってネブラは言うけど……ネブラに話しかけるのは、いつも、難しかったよ」

 ネブラはなにも教えてくれないひとだから、コメットはわけもわからぬまま、いつ噴火するかもわからない火山があるのを、どうにかやりすごしている。
 静かに語ったコメットを前に、ギロは驚いて沈黙していた。
 許してやったらと言ったのは、「ネブラの代わりに大人になってやったら」という意味でもあった。たとえば、妹のベルリラに接するように。あるいは、妹と喧嘩ばかりだった過去の自分自身に言い聞かせるように。
 コメットはじゅうぶん大人だった。
 十二歳のベルリラよりも、妹を邪険にしていたかつてのギロよりも、よっぽどちゃんと考えて、誰かと向き合っている。
 ベルリラと背が並ぶほど華奢でも、ぽやんとしていて世間知らずでも、馬鹿弟子と罵られても、コメットは考える葦である。愚か者ではない。

「……六歳児なんて嘘だよな」

 ギロは頬杖をつき、脱力する。
 誰かに物を教えてやるには、自分ではまだ早いのかもしれない。かえって悟らされた気分だった。
 だから、迷えるコメットへかける言葉は、友達としての相槌に変わる。

「ネブラはコメットに謝るべきだな。やっぱりあいつはガキなんだ。十八のくせして」

 すると、さっきまでおすまし顔でいたコメットが「んふふ」と笑み崩れる。

「ネブラがそんなふうに言われてるの、なんかちょっとスカッとするかも。いつもは僕ばっかり子供扱いされるからさ」
「俺はずっとネブラはガキだって思ってたよ。詩の蜜酒を買うときだってそうだったろ?」
「たしかに!」

 コメットは両手で口元を押さえて笑った。
 弓形(ゆみなり)になった目元と、ほがらかな声音に、ギロはそっと安堵した。

「……そろそろ今日の授業に入ろうか。コメットの覚えが早いから、歴史の勉強も捗るよ」
「はあい。ギロって、いい先生だね」
「そう?」
「うん。ありがとう」
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