第8話 水と油の混ぜかた

文字数 16,465文字

 昨夜のラリマー公子が襲われた大事件は、しかし広く報道されることはなかった。
 朝の新聞どころか町の噂話としてもとんと聞かない。大事にはしたくないということで、秘密裏に処理をしたのだ。事件の顛末を星団伝いに聞いたサダルメリクは、あのあとどうなったのだとねだるコメットに、「秘密だよ」と言ってから教えてやる。

「あのあと、無事に犯人は捕まったみたいだね。そりゃあ、立つ鳥跡を濁しまくってたから、見つけるのは簡単だったはずだよ。公子を襲った不届き者は、なんと五等級の魔導資格(ソーサライセンス)しか持たない魔法使い」
「雑魚じゃねえか」
魔導資格(ソーサライセンス)を持ってもいないネブラが言うの?」

 まあ雑魚なんだけどさ、とサダルメリク続けた。

「けど、おかしな話だな。あれだけ流暢に攻撃魔法を連発しておいて、五等級の雑魚ってことはねえだろ。少なくとも四等級以上だと思ってた」
「大先生もすごかったけど、あのひともすごかったもんね」
「そ。そこが問題なんだよね」サダルメリクは肩を竦める。「犯人は捕まったけど、疑問は残る。五等級の魔法使いごときが、器用にも風を操り、一国の公子を襲ってみせた。十中八九、公国と戦争をしたい過激派の一味による事件だろうけど、にしても杜撰だ。襲ったのは商店街のど真ん中。実行犯という大役を五等級の魔法使いに任せてる。ただでさえ変な話なのに、おまけにその魔法使いは五等級以上の強さを見せた。てことで、近衛星団は依然として調査中。僕も事件当事者として、朝から呼びだされてるのさ」

 朝食の席にサダルメリクが現れたのは、いつもよりもずっと早い時刻だった。てきぱきと食事を済ませ、三角帽子を被り、外套(マント)を翻して羽織る。
 コメットはそれを見上げながら、「大先生、」と首を傾げる。

「そもそも、なんでラリマーさんの国と戦争したがるひとがいるんですか?」
「絶対に勝てるからだよ」サダルメリクは簡潔に答える。「ラリマー公子の母国である、ローラシア大陸にある公国は、魔法が発達していないぶん、あらゆる魔法属生物が手つかずのまま生息しているんだ。アトランティス帝国では絶滅危惧種とも言われるユニコーンや妖精がその代表だね。他にも、恐竜を祖とする生物までいるよ。開拓も発展もされた国だけれど、多様な生物との共生のため、程よく野放しになっている。そりゃあ、欲しいって派閥もいるよね」
「よくわかんないけど……生き物が欲しいってこと?」
「あらゆる意味合いにおいて生物は資源になる。たとえばアトランティスでは、水晶と同じように象牙が特産だけど、それだって象の乱獲から得られる資源さ。貴重な資源には限りがあるけど、海の外へ出てみればその資源の宝庫がある。しかも自分の国よりも弱小。外交でちまちませしめるよりも、ぺしゃんこに踏み潰しちゃったほうが手っ取り早く利を得られるってわけ。魔法使いの総数にしたところで、アトランティスが圧倒してる」
「ま、魔法使いが、戦争に出るんですか?」
「そりゃあそうでしょ。科学と同じだけ魔法だって発展してるんだもん。もし戦争になったら、真っ先に前線に出るのは僕ら近衛星団だろうね。なんてったって皇帝直属の魔法騎士組織なんだから」サダルメリクは苦い顔で肩を竦める。「もちろんそんなの僕はヤだし、同じように考えてる人間が大多数だから、戦争なんて事態になるより先に解決しようとしてる。ありがたいことに公子も同じ気持ちみたいだから、余計な火種にならないよう、襲撃事件を騒ぎたてるつもりはないみたい。とにかく、近衛星団は厳戒態勢で公子の身を守るし、事件解決にあたる。久々に大きな仕事だね」

 本当に大変なことが起きているらしい。理解できたことはきっとその半分にも満たないのだろうけれど、コメットは緊張で唾を飲みこんだ。ずっと難しい顔をしていたネブラがおもむろに口を開く。しかし、サダルメリクは先回りして、「君に手伝えることはないよ」とネブラの言おうとしたことを遮った。

「言ったように、大きな仕事だ。もし残党がいるとするなら戦闘もありえる。会敵したら戦わなくちゃいけないんだ。魔導資格(ソーサライセンス)を持たず、公の場で魔法を使えない君たちは、どうあっても太刀打ちできないでしょ。てことで、オイルと牛乳の買い出しをお願い。今夜はクリームシチューがいいな」

 と言って、サダルメリクは家を出た。
 三時間前の話だ。
 ネブラとコメットはサダルメリクに言いつけられたとおり、オイルと牛乳を買いに商店街まで来ていた。正午も近い真っ昼間は、南通りも人が少ない。閑散としてすらいる通りのど真ん中を、ネブラは外套(ローブ)を靡かせながら歩く。左手に持った青い林檎を一口齧った。
 朝に食料を買いこむ者が多いので、店に残っているのも余りものばかりだった。ただ、目当てとするオイルと牛乳は無事に購入できた。今はネブラの隣に並ぶコメットが抱きかかえる紙袋に収まっている。ぎゅっと脇を締めれば、紙袋がカサと音を立てた。

「重い……ネブラ、交代」
「ネブラ先生な」
「ネブラ先生、交代」
「ネブラ先生は交代じゃない」
「ネブラ先生、交代して」
「誰がするかよ」
「これまでの流れなんだったの?」

 自分は悠々とおやつなんて食べちゃってさ、とコメットはネブラを見上げる。
 二人で買い物に行くとなると、ネブラは大概コメットに荷物持ちをさせる。ごくたまに、絶対にコメットでは持てない荷物だとか、絶対に落としてはいけないものだとかをネブラが持つ。今回の買い物はコメットでもぎりぎり持てる重さなので、会計を済ませたネブラは「がんばれ」と言ってコメットに荷物を託した。おかげでコメットは必死の思いで抱えこんでいる。
 液体だの瓶だのは総じて重いので、家に戻るまでに自分の手が持つかわからない。指が引き攣りかけているのを感じながら、落として割れちゃったらどうしようとコメットははらはらした。

「魔法で重さをなくすとか、浮かせるとか、そういうのできないの?」
「できるけどできねえよ。見習いは公の場で魔法を使えねえんだから」
「じゃあ半分持って。落としちゃわないか心配なの」
「落としたら罰としてトイレ掃除させるからな」
「もう今朝やったもん!」コメットは荷物を揺さぶる。「ほらほら、オイルと牛乳も、ネブラ先生に持ってほしいなあって言ってるよ?」
「馬鹿なの? オイルと牛乳がしゃべるわけないのに……」
「真面目に返すのやめて」
「頭の病気かなんかかな……」
「そんな目で見ないで」

 そのとき、向かいから歩いてきていた者と、ネブラが肩をぶつける。人の少ない通りで対向者に気づかなかった。よろけかけたネブラはそのまま半身を開かせる。ぶつかった相手と向かい合うと、その眼鏡の奥の瞳が見開かれるのがわかった。

「ちょうどいいところに」

 そんなことを漏らす相手の齢はおよそネブラと同い年。ただ、身長はネブラよりも幾分か低い。地味な外套(マント)を着こんでいて、なんとなく印象の薄い少年だった。ずいぶんと気安く話しかけるので「ネブラのお友達かしら」とコメットは思ったのだけれど、当のネブラは「誰だお前」とこぼしている。見知らぬ少年は左手ですっと外套(マント)の裾を持ちあげて、

「俺だ」

 と宝飾の煌びやかな短剣を見せつけた。高貴な身分だと一目でわかるほど華美な品は、つい先日見た覚えがあった。コメットは目を瞠る。気づいてしまえば、眼鏡の奥の眼差しは、浅瀬を思わせる爽やかな色合いを見せていた。

「ラリマーさん!?」

 コメットが驚きの声を張りあげる。
 ラリマーは「静かに」と片手でその口を塞いだ。どこからどう見てもなんの変哲もない少年だったのに、そうと気づけば印象が変わってくる。その優美な顔立ちはまさしく、先日会った公子のものだった。変装しているのだと気がついて、コメットもこくこくと小刻みに頷く。

「なんで、どうやってここに」ぶつかった相手がラリマーだと知り、ネブラは眉を顰めていた。「昨日の夜、命を狙われたんだろうが。ブルース侯爵の屋敷に籠ってんじゃねえのかよ。お前の身辺警護には厳戒態勢が敷かれるって先生が行ってたぞ」
「ああ。おかげで抜けだすのにも一苦労だった」
「なに抜けだしてんだ!」
「大先生たちの目を掻い潜ってここまで来たってこと? どうやって?」
目眩(めくらま)しの魔法には覚えがあってな」コメットの疑問にラリマーは答える。「ぱっと見では俺を俺と認識できなくなっているはずだ。それに、いい道具も見つけた。霞草(カスミソウ)外套(マント)という代物で、商店街の西通りにある<豆の樹>という店で手に入れたんだ。着た者の存在感を四割ほど消すらしい。おかげでさきほどから道行く人間に肩をぶつけられる」

 つい最近どこかで聞いたような名前だなあと思いながら、コメットは「なるほど」と言った。全然なるほどではないのがネブラだ。こいつ、状況わかってんのか。

「そもそも、なんでここにいるんだよ」
「いくつかやりたいことがあってな、その一つがお前たちに会うことだった」ラリマーはコメットを見遣る。「初めて会ったとき、飲食を立て替えさせただろう。遅くなってしまったが、そのぶんの代金を払おうと思ったんだ。ただ、生憎と俺はアトランティス通貨を持っていなくてな。これを持って質屋にでも行くといい。換金したものは全額やる」

 そう言って、ラリマーは美しいブレスレットを差しだした。丹精に磨かれた金のチェーンに、一片の淀みもない鮮やかな青緑色の石がいくつも連なっている。ラリマーの母国である公国でしか採れない、貴重な石だ。コメットは「綺麗!」と言って喜んだけれど、明らかに金額が釣り合っていないことにネブラは気づいた。これではコメットがぼろ儲けをしたことになる。この公子、羽振りがいいのか阿呆なのか。否、絶対に阿呆だ。

「だからって、命が狙われてるのに、わざわざ安全地帯から出てくるかよ」
「命を狙われていることと、俺が借りを返したいことに、なんの関係が?」
「因果関係を端折る一大事とは思わんのか」
「死んだら僕にも返せなかったよ?」
「死なないように努力をした。どこからどう見ても一国の公子とは思うまい」

 こんなときくらいおとなしくしとこうよ、とコメットも呆れる。
 しかし、そもそもラリマーがそのように従順な性格ならば、コメットたちと初めて会った日のように、従者をつけずに町へ出る、なんて暴挙は犯さない。その性根がゆえの今回の大暴投だった。

「そして、やりたいことの二つ目だ。俺がこの手で事件を解決する」

 ラリマーの言葉に、ネブラとコメットはあんぐりと口を開ける。
 そんな二人の様子にもおかまいなしに、ラリマーはふふんと笑った。

「昨日の犯人の目的は、大方、我が国との戦争の火種を作るためだろう。失敗したとあっては、第二、第三の刺客を寄越してくるはず……それを俺自ら捕まえてみせるんだ。素晴らしい英傑だと讃えられること間違いなし」
「なに言ってんだこいつ」
「まさか本気じゃないよね。危ないからやめといたほうがいいよ」
「何故だ?」
「僕いま理由言ったくない?」
「たとえ危なかろうと、俺がそれを承知しているんだから、なんの問題もないはずだが」
「大ありだわ。それでお前が死んじまったら、それこそ戦争にならあ」平然とした顔でラリマーが言うので、ネブラは恨みがましく()めつけた。「つーか、お前が身勝手な行動をすると、うちの先生にまで迷惑がかかんだよ。公子っていうたいそうな立場がおありなんだろ? 気ままに振る舞っていいとでも思ってんのかよ。だとしたら、お前が言うよりも大したことねえんだな、その立場ってやつも」

 昨晩聞いたままの言葉で煽るネブラに、コメットは「さてはこの師匠、根に持ってるな」と分析する。深く根を張った、マグマみたいなその熱が、いよいよ怒髪天を衝いて噴きだしてしまうのでは。白昼堂々と脳天をかち割ってロックでキメにかかったらどうしようかしら、僕で止められるかしら。そんなことを心の隅っこで考えるコメットは、紙袋の中のオイルに着火しないよう、再度強く抱えこむことにした。
 そして、ちらりとラリマーのほうも見遣る。コメットの目から見てもラリマーは無神経なところがあるけれど、自分の感情にまで無神経だとは思わない。ネブラの罵倒の切れ味に、びっくりしたりどっきりしたりするはずだ。機嫌を損ねてしまっても不思議ではなかった。

「ふむ。たしかに」

 しかし、ラリマーは鷹揚に顎を撫でるだけだった。感心してすらいる表情だ。向けられたナイフがとんだ(なまく)らだったような、いっそ玩具(おもちゃ)だったような、危機感や不快感の一切ない態度。

「一理ある」
「百理も千理もあるわ」
「ネブラだったか……お前の言うとおり、俺の行動は迂闊だった。反省しよう」
「ハッ。他人に指摘されてはじめて矛盾に気づくような自負を掲げてんじゃねえ」
「反省を活かす。つまりは護衛がいたらいいわけだ。行くぞ、お前たち!」
「なんて?」

 斜め上の展開に、コメットとネブラは怪訝な顔をする。ラリマーの言葉を汲み取るなら、一人で行動するなら危険だからと、自分たちをお供にしようとしているのだ。

「まっ、待ってよ、ラリマーさん」
「一分だけだぞ」
「えっ? あわ、あのね、」コメットは数瞬焦ったけれど、すぐにラリマーの目を見て話す。「昨日の夜、僕もあの場にいたからわかるよ、ラリマーさん本当に危ない状況なんでしょ? 失敗したら、怪我どころじゃ済まないかも……」
「コメット。俺がこの国に来た理由は、もちろん魔法を学ぶためだが、そこからさらに突き詰めるなら、一廉(ひとかど)の人間になるためだ」ラリマーもコメットの目を見て話す。「死ぬ気はないから本当に危なければ引く。それくらいの分別はあるぞ。ただ、目的を見失っていないだけだ。俺にはやるべきことがある」

 本来の海色の目と髪も、涼しげな目鼻立ちも、いまは魔法で朧げでいるのに、その姿は変わらず気高く、いっそ厳かですらあった。ややあってから、「一分経ったな。行くぞ」と告げ、ラリマーは歩きだす。
 ラリマーの主張を尊重してあげるべきか、止めるべきか、いろんなことを悩んで秤にかけて、コメットはネブラへと視線を遣った。ネブラは小さく頷いた。二人はラリマーの後を追うように歩きだす。
 ラリマーが襲われた事件について、一度はサダルメリクの助けになろうとしたネブラだったけれど、認められたい、弟子として仕事がしたい、と思う以上に、もうラリマーと関わりたくないと思っていた。ラリマーの存在が自分の精神衛生にたいへんよろしくないことは初対面のときから知っている。というわけで、言うことを聞くふりをして、この生き急いだ公子をサダルメリクに突きだしてやろうという算段を立てたのだ。
 コメットとしても、ラリマーが危険な目に遭うのは見すごせないし、ここにいる三人は全員漏れなくただの魔法使い見習いなのだから、やはりサダルメリクのもとへどうにかこうにか連れていくのが最善であると考えている。意外にもというべきか、今回ばかりはというべきか、コメットとネブラの意見は一致していた。
 が、考える葦であるコメット。ここで稀に見る致命的なすれ違いを起こす。
 先日、ラリマー公子をサダルメリクのもとへ案内するという自分の意見を、ネブラが「馬鹿弟子!」と罵りながら揉み消したのを、コメットは覚えていたのだ。その記憶から——どうせ今回もそのかぎりである、ならば魔法の師であるネブラには逆らうまい、ラリマーの言うことを聞いて犯人を見つけだそう——と決意していた。健気で律儀な心意気だが、師ネブラへの真っ向からの反逆と言えよう。

「行くなら事件現場、ホンキー・トンクのあるあたりだろ」
「ネブラ先生の言うとおり、そこへ行こうよ、ラリマーさん!」

——現場には近衛星団が調査に来ているはず、公子を突っ返すチャンスだ!
——もしかしたらまだ犯人の証拠が残ってるかもしれないもんね!

 ネブラとコメットはまったく別々のことを考えながら足並みを揃える。舞台の上でしかお目にかかれないような喜劇である。事実は演劇よりも奇なり。
 かくして、襲撃事件のあった現場付近に三人は訪れる。ネブラの

が外れ、近衛星団の姿はなかった。また、この付近は昼間の時間は営業していないパブが多いこともあり、道行くひとも少ない。攻撃で破損した歩道も、魔法灯も、何事もなかったかのように整えられていた。

「チッ、近衛星団が来たあとかよ」
「どういうこと?」
「ここに宮廷魔法使いが派遣され、修復をおこなったということだろう」コメットの問いかけにはラリマーが答えた。「実行犯がすでに捕まっているくらいだし、手掛かりを探るための現場保存も短時間で済んだはずだ。粗方調べられたあとだろうな」
「時間の無駄。帰ろうぜ」
「なに言ってんの! 僕たちも調べるよ!」
「なんのために俺がこんな不格好な眼鏡をかけてきたと思っている!」

 ネブラの言葉に、コメットとラリマーが噛みつく。ネブラは「はああ?」と顔を顰めたけれど、二人はどこ吹く風で話を進める。

「そういえば、今日のラリマーさん眼鏡かけてるよね。それってなに?」
「魔法道具だ」
「魔法道具?」
「知らないのか」
「えっ、うー……知ってるような、知らないような」

 コメットは困ったようにちらちらとネブラを見遣った。
 呆れたようにため息をついたネブラが「授業だ、馬鹿弟子」と口を開く。

「魔法道具ってのは、利便性のためにあらかじめ魔法のかけられている道具のことだよ。魔法使いでなくても魔力量が少なくても扱えて、魔法効果を発揮できる。警官の持つ警笛とかがそうだな、鳴らしたら

にいる人間の動きを止められる」
「へえ!」
「ちなみに、お前の大好きなミラの指輪も魔法道具だぜ。あいつは“筆談の魔法道具”をそのまんま

にしてんだよ。たしかライラが設計(デザイン)してたはず。あと、こいつの着てる霞草外套もまあ、魔法道具の一種と言えるな」
「そんなことも知らないとは、コメットは勉強が足りないんじゃないか?」
「ね~? 師匠がちゃんと教えてくれたらいいのにね~?」
「あっちこっちで使われてんのに、誰が魔法道具まで知らないとか思うかよ。いくらなんでも世間知らずすぎるだろ。お前、どんな田舎に住んでたんだ?」
「話を戻そう」ラリマーが言う。「見習いの俺たちは公の場で魔法が使えない。となると、頼れるのは魔法道具のみだ。この眼鏡は魔法の痕跡がわかる代物で、どんな魔法が使われたのか、また、魔法を使った者の魔力の性質まで見抜くことができる。なにか新しくわかることがあるかもしれない」
「で、その眼鏡で現場を見て、なんかあった?」
「まあ待て」

 ラリマーは目を凝らし、通りを眺める。眼鏡のレンズ越しに、肉眼では判別できない魔法の情報、魔力の痕が視えた。ただのどかな商店街があるだけの視界を、まるで絵の具のついた筆を振るったかのように縦横無尽に、靄のようなものが走っていた。自分を襲った風魔法の痕跡だと悟る。応戦したサダルメリクの痕跡も視えた。

「……サダルメリク氏と交戦したあと、下手人は、通りのこちら側へ走り抜けて行ったようだな」
「すごい、そんなのも見えちゃうんだ」コメットは目を瞬かせる。「魔法迷彩だっけ? あのひと、なんか魔法で姿を消しちゃってたよね。それなのにわかったの?」
「お前は知らんだろうが、魔法迷彩はあくまで姿を消すだけで、魔法使いの痕跡までは消せない」ネブラがコメットに言った。「魔法を使えば、どうしたって使った本人の魔力が残るものだ。魔導資格(ソーサライセンス)を持ってる人間なら、戸籍と同じように、そいつの持つ魔力の性質だって情報として管理されてる。だから、魔法を使った事件が起こったときは、登録された魔力と照合して、犯人を割りだすことができるんだよ」
「近衛星団もこの魔力を追って下手人を捕まえたんだろう。俺たちも追ってみよう」

 三人はそのまま通りを歩き、商店街を出て、裏路地へと入る。
 首都の端ということもあってブルースの地はのどかだが、商店街から脇道へ逸れると、あの賑やかさが嘘のようなじっとりとした雰囲気が漂う。背の高い建物が立ち並んでいるのに、道幅は非常に狭いので、空からの光を遮るように薄暗いのだ。その立地から、治安もあまりよろしくはない。少なくとも、高貴な身分の者が足を踏み入れるには危険な場所だった。
 高貴も高貴な国賓であらせられるラリマー公子も当然臆するものだとネブラは思っていたけれど、当のラリマーはおかまいなしに歩みを進める。魔法道具の眼鏡でラリマーが襲撃犯の足取りを追うのを、ネブラとコメットが後ろからついていく形だ。日向の街では感じられない雰囲気にも気づいていないでもないだろうに。コメットはけっこうビビっている。ネブラの真横にくっついて、紙袋を持ちながらも器用に、暗い色の外套(ガウン)を掴んでいた。
 ネブラは周囲に注意を向ける。先の階段を下りたところに、いかにも突っかかってきそうな連中の姿が見えた。ラリマーは霞草(カスミソウ)外套(マント)で存在感が薄まっているとはいえ、その中身はたまげるほど上等で身綺麗な格好だ。ばれたら面倒なことになるかもしれない。自分とコメットだけなら、目を合わせないようにしていれば、ただのガキとして見過ごされる可能性は高い。
 そのように算段をつけているあいだも、ネブラの表情は変わらない。黙っていれば絡まれることはないだろうと予想していた。
 そこでラリマーが足を止める。きょろきょろとあたりを見回して、「ここで魔力の痕跡が途切れている」とこぼした。

「途切れてるって、ここで魔法を解いたってこと?」
「おそらくは。それか、箒を使って空から逃げたかだな」
「建物の中に入ったとかはないのかな? よじ登って侵入したりできるかもよ?」
「目撃者がいればいいんだがな。このあたりに詳しい連中に聞くしかないか」

 言うが早いか、ラリマーは再び歩きだす。その足が、さきほど注意を向けた連中のほうへ向いていることに気づいて、ネブラは「は、まさか」と乾いた声を漏らす。

「失礼。ごろつきども。昨日の夜、この道で不審な魔法使いの男を見なかったか? ちょうどお前たち全員を足したような貧相な格好をしていたんだが」

 いや、失礼っつったけど本気で失礼すぎんだろ。不愛想を自負しているネブラでもさすがに引くほどの最悪な挨拶だった。よくもまあそんな喧嘩を売るような声かけができるものである。コメットなど裏返った声で「ラリマーさん!?」と喚いていた。
 案の定、気分を害した彼らは「あ? なんだテメー」「喧嘩売ってんのか!」とラリマーを凄む。声をかけられるまでその存在にすら気づかなかった影の薄い男が、何様なんだよと思うほどの態度で声をかけてきたのだ。そりゃそうなるだろ、とネブラの顔も引き攣る。

「なあ、俺の話の答えになってないぞ。そもそも俺が喧嘩を売っていたとして、お前たちに買えるだけの金はあるのか?」
「やめろ。煽るな」ネブラはラリマーの肩を掴んだ。「どんな神経してんだお前」
「なにがだ?」
「無自覚かよ。この俺から説教を引きだせることなんてそうないぜ。こんないかにもやばそうな連中を怒らせてどうすんだよ。情報を聞きだすにしても、もっと上手いやりかたがあっただろうが」
「なるほど。ならばお手本を見せてくれないか? 俺はこういった手合いと話したことがなくてな。こんなにみすぼらしいくせに、跪いて(こうべ)も凭れず、道も譲らず、無益な話で盛りあがっている精神性が、まったく理解できないんだ」
「俺はお前が理解できねえよ! いっぺんおっ()ね!」

 ネブラが怒声を上げて握り拳を作る。両腕の塞がったコメットは「だめだよう」とネブラとラリマーの間に身を入れることしかできない。肩を掴まれていたラリマーの体が揺れ、空足を踏む。霞草(カスミソウ)外套(マント)の裾が開き、わずかにラリマーの衣装と腰の短剣が覗く。それを見た連中は目の色を変えた。

「その短剣……まさかラリマー公子か?」

 海を渡ってきた貴公子として、ラリマーの顔はアトランティスに知れ回っている。浅瀬を思わせる爽やかな髪と瞳に、涼しげな目鼻立ち。察してしまえば目眩(めくらま)しの魔法などでは誤魔化せない。地味な少年はもうラリマー公子にしか見えない。
 ただ、そういう驚きとは違う表情を彼らは浮かべていた。途端に風向きが変わって、きな臭いものをネブラは嗅ぎ取る。コメットは目を瞬かせる。ラリマーは「誰だ、貴様ら」と言った。

「運がいいぜ、まさかそっちから来てくれるなんてよお」
「後ろのガキ二人はどうする」
「知るかよ。適当に縛りつけといたらいいんじゃねえの。金が入るわけじゃねえし、殺すだけ無駄だぜ」

 ネブラは隣にいたコメットの顔を掴むようにして手で押さえ、自分の後ろへ退()けやった。鼻と口を潰されたコメットは「あばぁ」と呻き声を上げる。これまで大事に抱えていた紙袋は呆気なく落下し、牛乳瓶が音を立てて割れた。ネブラがわずかに前へ出る。ラリマーは右手の短剣へと手を遣った。

「どうしてこうなった?」
「胸に手ぇ当てて考えてみれば?」

 ラリマーとネブラが小さくこぼしあったとき、これまで対峙していた連中が、暴漢へと変わる。一番前にいた男がラリマーに掴みかかろうとするのを、ラリマーはステップを踏むようにして紙一重のところで躱していく。避けるラリマーを違う男が押さえこもうとして、刹那、ラリマーが短剣を抜いた。波紋の美しい刃が抜身になると、さすがの相手も臆して後退する。
 その脇で、コメットへ襲いかかろうとした暴漢がいた。そこへネブラが躍り出て、暴漢のがら空きの腹に踏み倒すような蹴りを入れる。襲いかかられた恐ろしさよりその迫力に慄き、コメットは「ヒュッ」と息を飲んだ。ネブラは相手の呻く声など気にもせず、さらなる追撃として、態勢を崩した暴漢の鼻を左手で思いっきり殴りつけた。暴漢は血を流して倒れる。
 短剣を構えるラリマーが「第二の刺客ということか」と呟く。

「俺はそんなつもりなんてなかった。アーお前らのせいだお前らのせいだ」
「先に言っておくが、俺は争い事が苦手だ」
「やんごとない立場なら剣術くらいやってんじゃねえの。その短剣はお飾りかよ」
「お前は喧嘩慣れしているようだな。こいつら全員任せていいか?」
「マジでやったらお前を突きだしてやるからな」
「……命の危機だと思う。俺はここで引きたい」
「だからやめとけって言ったじゃん!」
「やめろとは言ってなかっただろう!」

 大きく蹴りを入れ、威嚇するように刃を振るい、二人はコメットの手を引っ掴んでその場から走り去る。背を向けて逃げていくのを見て、暴漢たちは「くそ!」と後を追った。コメットは自分では絶対に出せない速度で走らされ、少ししてから足を縺れさせた。そこをネブラが引っ張りあげる。振り返りもせずに「止まんな!」と吐き捨てた。

「いーん! だめぇ、むり! おぶって!」
「馬鹿抜かせ! 見捨てないだけありがたいと思え!」
「死にたくなかったらがんばれコメット!」

 そのとき、なにかに掴まれたように、コメットは足を止める。コメットの手を握っている二人も足を止められ、「ああ!?」「おいっ」と振り返った。目を瞠る。コメットの着ているフィッシュテールの赤い外套(ケープ)の裾が、空中に縫いつけられるようにして固まっていた。離れたところで、追いかけてくる暴漢の一人が呪文を唱えているのがわかった。
 ラリマーは苦々しい顔で「魔法使いがいたのか」とこぼす。万事休すという様子のラリマーの隣で、ネブラは余裕のある眄視(べんし)を向ける。

「こりゃあ都合がいい」

 ずっとお行儀よくしていたネブラの杖腕が抜かれる。たちまち暴漢たちへと杖先は向けられ、呪文が紡がれた。

「“ご機嫌いかが? 石畳さん”」

 たちまち地面が唸りを上げる。石畳の石の一つ一つがぼこぼこぼこと、まるで立ち馬がごとく跳ねたかと思えば、次の瞬間には津波のように蠢き、追いかけてくる暴漢たちを足止めした。石はみんな「元気~!」とでも言いたげに暴れ回っている。
 コメットの外套(ケープ)がふわりと落ちる。魔法が解けたのだ。コメットは息を整えながら、「えっえっ」とネブラを見上げる。つい先日、公の場で魔法を使って怒られたところなのに、という目で。

「あの、ネブラ先生……?」
「この魔法は、ライラのお気に入りの魔法使いの著『アンドロメダ・ディーの華麗なる魔法集』に出てくる。ディーの魔法は、見た目重視で魔力消費のでかい、コスパの悪い魔法が多いが、ビビらせるにはうってつけなんだ」
「帰ったら書斎を探してみるけど、でも、そうじゃなくって、なんで魔法を、」 
「たしかに魔法使い見習いは公の場では魔法を使えないが、それが適用されない場合が一つだけある」ネブラは意地悪く笑った。「正当防衛」

 特に相手が魔法を使って襲ってきた場合は正当化される。目には目を、歯には歯を、魔法には魔法を。たとえ相手が魔導資格(ソーサライセンス)を持つ正真正銘の魔法使いだったとしても、ネブラはサダルメリク・ハーメルンの弟子だ。負けてたまるかってんだ。
 ややあって、石畳がぴたりと静止する。がらごろと音を立てて落ちていく。追ってきていた暴漢の多くは地に伏していたものの、魔法使いの男だけはその場に立っていた。ポケットから注射器を取りだす。中には蕩けるような黄金の液体。

「ブッッッッ殺してやる」

 そう言って、男は首に注射器の針を打つ。中の液体が押しこまれていく。全て体内に流しこむと、空になった注射器を男は乱暴に捨てた。風に乗って甘い匂いが漂ってきて——そこで、ネブラは悟った。
 蜂蜜のような色のきらきらとした液体。昨夜嗅いだ香りと同じ匂い。本来の等級以上の魔法を扱う魔法使い。導きだされる答えはただ一つ。

「詩の蜜酒か!」





 詩の蜜酒とは、飲めば誰でも詩人や学者になれる楽と学の酒であり、魔法使いが飲めばたちまち強い力を得られることで知られている。
 ひと月半ほど前、アップルガースの店が北方の国より取り寄せて販売していたのを、ネブラもわずかながらに購入していた。サダルメリクに一滴残らず飲み干されてしまったけれど。
 昨晩ラリマーを襲った魔法使いも、いま対峙している魔法使いも、詩の蜜酒が原因で力を増したのだ。

「“紫電轟け”、“雷光唸れ”、あいつらを“焼き殺せ”!」

 バチバチッ——と弾けてから轟音。網膜を焼きつくさんほどの電撃が空気を幾重にも裂いて、火花を散らしながらネブラたちへと襲いかかった。その威力は凄まじく、ネブラは己では防ぎきれないことを直感してしまう。
 すると、ラリマーが前へと踊りでて、足元に短剣を突き刺して唱える。

「“不可侵水域(侵すべからず)”」

 一直線に襲いかかってきた雷撃が、ラリマーの目と鼻の先で止まる。見えない壁にぶち当たったように砕ける電光は、背後に控えるネブラやコメットにも届くことなく消えていった。なおも続く雷撃だったが、ラリマーに触れることすら許されない。見えない壁に雷撃が当たると、まるで水溜まりに雨が落ちたみたいに波紋のような影が広がっていく。
 コメットはぽかんとしてその光景を見つめた。百年に一度の超常現象を見ているような心地だった。稲妻を退けるラリマーに「すごい」とこぼせば、ラリマーは顔色一つ変えずに、「争い事は苦手だから、

くらいは持っている」と告げた。
 立ちつくしていたネブラはにやりと笑った。吊りあがった口元から歯が覗く。
 いま対峙している魔法使いと同じように、ネブラを襲った魔法使いも詩の蜜酒を摂取していた。これは偶然ではない。何故なら詩の蜜酒は滅多に見られない高級品で、そう易々と手に入るものではないからだ。裏で糸を引いている人間がいる。その者が詩の蜜酒を用いて、ラリマーを殺すよう、魔法使いを(けしか)けている。

「第二、第三の刺客を取っ捕まえるんだっけか。そいつらから主犯を吐きださせれば、一件落着ってわけだ」ネブラの瞳が爛々とする。「喜べ、先生。あんたの弟子だってたまにはいい仕事するぜ」

 獰猛なネブラの様子にコメットは息を呑む。小さな声で「ネブラ」と呼びかけると、被せるように「紙でも布でもなんでもいいから先生に葉書を出せ」と囁かれた。

「事件の手がかりを見つけた、ってな。先生が駆けつけるまでもちこたえれば、俺たちの勝ちだ」

 雷撃は威力を増す。ラリマーの張った盾には豪雨のような波紋が夥しく広がり、もはや泥濘を掘り返されているかのようだった。ラリマーの短剣を持つ手が震える。いまにも盾を破られそうな、切迫した緊張感。
 そこへ、ネブラが杖を振るう。張りあげるように「“紫電轟け”、“雷光唸れ”!」と唱えれば、男の雷撃の合間を縫って、ネブラの雷撃が男へと伸びる。男はたちまち雷撃を消して、防御の魔法で打ち消した。放電がやむと、ネブラと男は見据え合う。ラリマーも立ちあがり、再び短剣を構えた。
 始まるのは魔法の攻防戦。二人がかりで挑むネブラとラリマーを、相対する男は危なげもなくいなしていく。ネブラとラリマーも魔法使い見習いにしては善戦していたけれど、経験の差、詩の蜜酒の効果、いろんな要因が足を引っ張っている。
 そもそも、魔法使い同士の戦闘において、勝敗を決めるのは手数の多さだ。多種多様な魔法に精通していれば如何様(いかよう)な対処も可能である。グリモワ図書館でも閲覧できるような基礎魔法は、その魔法を打ち消す対称魔法も存在する。つまり、基礎的でありふれた魔法では話にならない。応用的でまたとない魔法、自作した魔法こそがふさわしい。
 一から魔法を作るということは、当然、その結び(フィーネ)まで紡がなくてはならない。ネブラの弱点は、そこだった。
 魔法を始めても終わらせられない。ネブラが扱えるのは基本的な魔法、最初から定型のある一般的(パブリック)な魔法のみ。どれだけ応用を重ねても、強い音色に魔力を乗せても、結び(フィーネ)のない魔法は未完成な魔法だ。不完全なのだ。
 相手の魔法がネブラの頬を掠める。わずかに痛みが走り、じくじくと熱を生んだ。なんとなく血が出ているのがわかったので、ネブラは舌を打つ。そのまま男を睨みつけるも、男はネブラを捨て置いた。本命はラリマーだからだ。

「死ねえ——っ、へっ」

 しかし、雄叫びを上げたと思いきや、そのまま地面へと俯せに倒れこんだ。体の上に重石でも乗せられたかのように動けずにいる。混乱してばたばたと手足を動かす様を、ネブラとラリマーも呆気に取られながら眺めていた。頭上からは軽やかなフルートの音色が聞こえた。ハッとなって宙を見上げると、箒に腰かけるサダルメリクがいた。

「先生!」
「待たせたね」サダルメリクは外套(マント)を翻しながら下降し、地に足をつける。「コメットから連絡が来たよ。今朝、余計なことはしないよう、あれだけ言い含めておいたのに。離れたところに何人か伸びてたんだけど、いつも言ってるよね、喧嘩はやめなさいって」
「喧嘩じゃねえよ。土手っ腹を思いっきり蹴りあげて、その鼻っ柱を折ってやったんだ。あれは逝ったな」
「喧嘩じゃないね。加害だ」

 そのとき、地面に突っ伏していた男が怒声で呪文を唱えた。石畳の石が弾丸のようにラリマーへと向かうのを、サダルメリクはため息の一つでぴたりと止める。

「加害じゃないね。正当防衛だ」

 サダルメリクが人差し指で指揮するだけで、宙に浮いたままだった石の弾丸は、男へと跳ね返っていた。当たり所が悪かったようで気を失う。
 会話の片手間で下手人を制圧してみせたサダルメリクに、ラリマーは「すごい」と漏らした。

「だ、大先生~!」離れたところにいたコメットも、サダルメリクに駆け寄る。「来てくれたんですね!」
「うん。よしよし、コメット。怖かったろう? 可哀想にね」
「ごめんなさい、大先生……頼まれてたオイルと牛乳、落として台なしになっちゃいました」
「あはは、コメットが無事なら僕はそれでいいよ。大変だったろう? まさか本当に会敵するなんてね」

 コメットの頭を撫でながら、サダルメリクは「それで、どんな状況? 詳しく聞かせて」とネブラを見遣った。
 ネブラは己の推察を端的に説明する。ラリマーと落ち合った経緯。戦闘。昨晩も漂った甘い匂いの正体。サダルメリクの捕らえた男から、情報を聞きだせる可能性。
 サダルメリクはそれを全て聞き終えたのち、下手人が自らの体に打ったという注射器を回収する。顎に手を当て、「なるほどね」とこぼした。

「言われてみれば、たしかに詩の蜜酒の匂いだね。ちゃんと調べてみたら成分も一致するんじゃないかな。と言っても、だいぶ薄められて違う薬みたいになっちゃってるけど……ふうん、こういう使いかたもあるんだ」
「アップルガースの店で詩の蜜酒を買ったやつはたぶん過激派の一味で、公子暗殺のためにこの薬を作ったんじゃねえの。計画としちゃあお粗末だけど、薬を量産して燻ぶってる魔法使いにばら撒けば、数打ちゃ当たる理論で仕留められるかも、ってな」
「詩の蜜酒は、《大洪水》を生きのびて北方に住みついたドワーフの末裔しかその醸造方法を知らない。しかも、神酒として捧げられたものの

しか市場には出回らないから、滅多にお目にかかれない代物だ。出所は限られてる。たしかに調査してみる価値はありそうだ。お手柄だね。子供たちだけですごいよ」サダルメリクは目を眇める。「……って言いたいところだけど、三人とも、僕の言いたいことはわかるよね」

 サダルメリクから怒気が漂ってきたので、ネブラはツンとそっぽを向き、コメットはしょぼんと俯き、ラリマーはわずかに顎を引いた。

「まず、公子。また護衛を振り切って逃げられましたね。可哀想に、御側付きの従者も慌てちゃって……何度もこういうふうに勝手に動かれては困るし、(あまつさ)えいまはその御身が危険に晒されている状況です。こんな真似はもう二度としないでください」
「世話をかけました」
「本当にね。それに、ネブラ。手伝えることはないって言ったのを忘れたの? 今回は僕が助けてあげられたし、君が危険ならなんとしてでも助けに行くつもりだけど、本当に万が一、僕の手の届かないところにいたとしたら、君は死んでたかもしれないんだ。この男も五等級かそこらの魔法使いで、君の言う雑魚だけど、普通に危なかったでしょ。これを機に、結び(フィーネ)の習得に本腰を入れることだね」
「…………」
「返事」
「はい先生」
「よろしい。最後にコメット」サダルメリクはため息をついた。「無事でよかったとは言ったけど、やっぱり君も悪いよね。ネブラやラリマー公子よりも魔法を使えない君になにができるの? こうなるよりも先に、二人を止めておくべきだったでしょ。もっと早くに僕に知らせることだってできたはずだ。怖い思いをしたのは可哀想だけど、こうなる原因を作ったのは君のせいでもある」
「……ごめんなさい」
「うん。お疲れさま。シチューはいいから、今晩はコメットの好きなものを食べようね」

 宥めるように頭を撫でられ、コメットは居た堪れなくなる。不服に思うことはあれど、久しぶりに説教を食らって、ネブラの意気も消沈している。見るからに肩を落とす二人に、サダルメリクは困ったように笑った。

「弟子を仕事に連れて行かない理由は、手に余るから。だからせっかく僕が遠ざけておいたっていうのに、君たちときたらさ……こうも懲りないようじゃ、いっそ僕の目の届くところにいてもらったほうが監督しやすいかもね」

 ぬるま湯のような声で、サダルメリクが言う。美丈夫と言うにふさわしい顔には、もう疲れてしまったという呆れや、ついついかまってしまったという諦めが、目尻や口角から蕩けていた。その眼差しにはむずむずするものがあって、ネブラは小さく我が身を捩る。その隣で、コメットが「えっ!」と大きく反応した。

「今日のことはどうせ報告しなくちゃいけないし、君たちは事件の当事者だ。わざわざ置いてけぼりにする理由もないんだよね」サダルメリクは人差し指を立て、いたずらっぽく笑う。「ラリマー公子を送り届けるまでの護衛と、事件の捜査。手伝ってくれるかな?」

 コメットは喜色を浮かべ、両拳を握り締める。ネブラは少し驚いて、控えめに「いいの?」とサダルメリクに尋ねた。すかさず「いいよ」と返ってくる。渋々といった表情をおどけるように作っているだけで、サダルメリクの声の調子は軽い。
 その場でスキップでもするかのように飛び跳ねたコメットは、くすぐったそうな顔をしてから「やったね、ネブラ先生!」と小さく体当たりした。コメットの軽い体重でバランスを崩すほど落ちぶれてはいないが、真横から突っこまれたせいでネブラの足は絡まりかけた。すりすりと不埒に擦り寄るコメットの表情は嬉々としたものだ。嬉しいね、弟子っぽい仕事ができるね、やったね、と全身で表現している。
 真ん丸な目を輝かせるコメットを真顔で見下ろし、ネブラは短く言った。

「お前はついてくんなよ」
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