第12話 詩の蜜酒を買った男

文字数 14,132文字

 鞭がしなるように、剽悍(ひょうかん)な炎が舞踏室を駆ける。その合間で、あちこちを飾る管弦楽器のレリーフが音を立てて落下していった。
 煮えるような熱の充満する空間で、二対の攻撃が拮抗する。
 魔法使いの男と相対するネブラは、炎を切り裂くような電光を操っていた。同様に魔法使いも稲妻を操っており、二人の魔法はぶつかりあっている。やがて、バチンッとゴムが千切れるような大きな音を立て、その魔法が消える。その反動により、ネブラも魔法使いも数歩後退した。
 ネブラの額から汗が滑り落ちる。横髪が顎のあたりをくすぐったので、ネブラはふうっと息を吐いて払った。視線は魔法使いから逸らさない。瞳の奥の知性で相手の攻撃を分析する。

「“牙剥く番犬よ、散歩の時間”」

 そう唱えた魔法使いが杖を振るい、波打つ炎を従えるようにまとめあげた。それはやがて双頭の大きな犬のシルエットになる。燃え猛る犬は、たし、たし、と前足を威嚇するように蹴っている。
 これは『アンドロメダ・ディーの華麗なる魔法集』に載っている“かわいいワンちゃん、散歩の時間”の応用魔法。魔法をかけた対象を己の意のままに使役できる。

「ラリマー!」
「任せろ!」

 ネブラが呼び声を上げると、その背後で盾を展開していたラリマーが、強く魔力をこめる。すると、二人を囲んでいた盾が二重になった。襲いかかってきた燃え盛る犬を退けると、その犬が飛沫を上げながら炎へと還っていくのが見えた。
 しかし、息つく暇もなく魔法使いが呪文を唱えると、またもや稲妻が放たれる。
 さきほどもやりとりした、“紫電轟け”と“雷光唸れ”だ。公式の教則本で知得できる基礎魔法。短縮詠唱だったものの、この魔法独特の菫色の電閃から推測できた。対称魔法が存在しないため、打ち消しこそできないが、同魔法で対抗可能。他にもベクトルの変換や反射などの手段も取られるが、それはネブラの技量では不可能だった。順当に「“紫電轟け”」で対処する。
 しかし、菫色の稲妻に(かま)けているあいだに、魔法使いが口笛を吹くのが聞こえた。これまで読みこんだ楽譜を頭の中で片っ端からひっくり返し、該当の旋律を漁る。五線と音符が音速以上で脳裏を過ぎり、ついには『アルマデル奥義書』の第三章にあった水属性の攻撃魔法だと直感した。その類の魔法は、電力で空気を分離して水を生成する基礎魔法の応用で、『アルマデル奥義書』に記されたものは中級魔法にあたる。対称魔法は酸素を基にしない火属性魔法だが、火なんてさっきからそこらじゅうで揺れていて、いまや火事の一歩手前だ。そろそろ消火せねばまずいので、ネブラは教則本にある風魔法で水流をいなし、火種へと仕向けた。水に打たれた付近からは湿った音と煙が立ち、黒焦げの状態で鎮火した。

「笑えるな! 薬に頼ってもそのざまかよ、ヘボ魔法使い!」

 笑いながら挑発してみせたネブラだったけれど、その実、頭も目も回り疲れていた。
 脳の回路が焼き切れそうなほどの、刹那の見切りによる情報処理戦。相手は自分よりも格上で、しかも実戦向きの魔法ばかり放っている。どこぞの金持ちの家で雇われ兵士でもしていたのかもしれない。三等級程度の実力を、詩の蜜酒の薬剤によって二等級程度にまで増強させていると推測していた。力比べでは絶対に勝てない。相手からの攻撃を打ち消したり躱したりするので精一杯だ。
 それでもここまで拮抗できているのは、この場が炎に包まれているからだった。魔法使いは、星や太陽の輝き以外にも、炎から魔力を補える。ネブラの魔力で呼び起こされた炎は循環するようにネブラへと魔力を与えるのだ。魔力切れの心配は皆無だった。
 その条件は相対する魔法使いも同じだったが、魔力にも相性がある。ネブラほど炎から恩恵を受けてはいない。そして、それはラリマーも同じだった。ラリマーは苦虫を噛み潰したような顔で短剣を握り締めている。

「盾の強度が下がってる」ネブラが囁くように言った。「外の熱を通しはじめてきた」
「なんでもかんでも燃やしすぎだ」
「お前がやれっつったんだろ」
「うるさい。ここまで燃えつづけるなんて誰が思うか。“不可侵水域(侵すべからず)”も乱発しすぎた。悪いがそろそろ崩れるぞ」

 相手の酸素切れを待つ算段だったが、見込みよりも時間を食ってしまった。このままではラリマーが先に魔力切れを起こす。とはいえ、相対する魔法使いも、今にも倒れそうなほど弱っている。終焉はすぐそこだ。

「最後に、派手に燃やす。盾は()つか?」
「これが本当に最後だと誓えるなら」
「痩せ我慢じゃん」
「いい加減限界なんだ。長時間この大きさの盾を展開しているんだぞ。正直、俺だけを守るほどに盾を狭めてここから一人で逃げ去りたい気持ちと葛藤している」
「その気持ちとは折り合いをつけろ。見捨てたら絶対に呪う」
「いいから早くやれ」

 ネブラは杖腕の先から魔力を放つ。熱風に乗って漂うその気配に、魔法使いはその身を強ばらせた。散々に視界を焼き尽くしたネブラの炎が、今、再び燃え広がろうとしているのを感じたのだ。
 煌々とする炎を浴びながら、ネブラは魔力を膨らませる。けれど、足りない。ネブラは「おい、」とラリマーに声をかける。

「火力が欲しい。なんか腹立つこと言え」
「お前を怒らせようと思ったことがないからなにを言えばいいかわからないんだが」
素面(シラフ)で言えてるから自信持てや」
「俺は明確な意志と理念を持って魔法使いになることを心に決めたわけだが、なにも考えずにただ呼吸をして転がっているだけでいいような、たとえばお前のようなやつが、どうして魔法使いになりたいと思ったんだ?」

 この野郎。思惑どおりに腹立たしくて、ネブラは舌を打つ。ぶわりと魔力が膨らむのが身に染みながら。
 明確な意志も理念もある。動機は復讐だ。ただ、その手段として魔法使いになることを選んだのは、世界の裏技を知る感覚が近いかもしれない。松明を持って歩き回るよりも、一声唱えて火をつけるほうが、ネブラの復讐は簡単に終わる。
 滅ぼしたいほどに恨めしいのだ。見下されることも、侮られることも、虐げられることも、疎まれることも、自分が自分であることを苦しめる全てが、大嫌いだ。なにも考えずにただ呼吸しているのがつらかった。もう二度と不幸に甘んじたりしない。
 与えられた名にふさわしく生きる。夜空で大きく飛沫を上げる、満天の星雲。

「俺は塵屑(ごみくず)じゃないんだって、俺の人生をかけて示したいんだ」

 唱えられた“愚者の灯火(イグニス・ファトゥス)”はネブラを中心に螺旋を描きながら広がっていく。さながらドレスを翻す壮麗なワルツのように。ひときわ強く熱く燃え盛り、ネブラとラリマーを包みこむ“不可侵水域(侵すべからず)”の向こう側を塗り潰した。
 向こう側で上がる魔法使いの悲鳴がどんどん小さくなっていく。ゆるりと炎が弱まって、視界が開いたとき、ネブラとラリマーが見たのは、衣服を黒く焦がして床に横たわる、魔法使いの姿だった。
 ラリマーは「やったか……」とこぼすが早いか、膝をついた。切っ先を下に向けた短剣が床に突き刺さる。
 そのあいだも轟々と炎は燃えている。割れた窓から吹く風になど弱らせられないほどの勢いだ。弱った盾の隙間から、火傷しそうな熱気が漏れ出てくる。酸素の薄さを感じながら、ネブラは興奮していた肩を落とした。

「脱出するぞ。立て」
「休憩してから行く……先に行っててくれ」
「阿呆か。窓も扉もこの炎で塞がってるんだよ。お前の盾が必要だ」
「……もう一歩も歩けない」
「…………チッ」

 ネブラは魔法で気絶した魔法使いを浮かし、自分の近くにまで手繰り寄せた。疲弊した顔でそれを眺めるラリマーへと跪くや否や、その脇腹から左腕を通し、肩を組んで立ち上がらせた。

「自分を守る程度に盾を狭めるってやつ、俺とお前の二人に薄膜みたいに張れるか」
「…………」

 ラリマーはネブラに寄りかかりながら、小さく“不可侵水域(侵すべからず)”を唱える。肩を組む二人と、ついでに気絶した魔法使いのシルエットぴったりに、水面のような盾が張られた。
 ネブラが杖腕で炎を掻き分ける。盾はしっかりその役割を果たしており、炎は二人に触れる寸前で、避けるようにしなった。歩くたびに割れた窓硝子を踏みつけ、ちゃりちゃりと音を鳴らした。風の吹きこむ窓枠に足をかけ、身を乗り出したそのとき、掠れた声がネブラの鼓膜を揺らす。

「ありがとう」

 窓から下り立って、屋敷の外へと出る。踏鞴を踏むようにして数歩進めば、炎の熱気は背中の向こうにあった。カトレアの香りを乗せた風が額の汗を慰める。重い左半身をネブラが見遣ったとき、左肩に頭を乗せるようにして、ララマーも気を失っていた。

「ばーか。俺のためだよ」

——そうして、ラリマー公子の暗殺未遂事件は主犯実行犯共に捕まり、公子の身に傷一つつけることなく、幕を下ろしたのだった。





 その日は、サダルメリクも仕事が休みだったので、朝食をゆっくり楽しもうと、いつもよりも少しだけ豪勢にしていた。
 サダルメリクも珍しく厨房に立ち、コーンクリームスープを作った。ネブラは無花果(イチジク)とブルーチーズのパイを焼いて、コメットは野菜を千切ってサラダを作った。買い直した牛乳を温め、ジンジャーペーストと蜂蜜を混ぜる。向かう冬の空気にもめげない温かな朝食のできあがりだ。
 さて、いざいただこうとしたとき、訪問者を知らせるドアベルが鳴る。ホットミルクに口をつけていたサダルメリクが「ネブラ」と言い、スープを啜っていたネブラが「馬鹿弟子」と言い、お鉢の回ってきたコメットは押しつけられる相手もおらず、「はあい」と言って席を立った。
 そうしてコメットが扉を開けた先には、

「おはよう。久しいな、コメット」

 と言って優雅に微笑む、ラリマーの姿があったのだった。
 コメットが「えっ」と声を上げた後ろで、ネブラは「げっ!」と、サダルメリクは「あれま」と漏らす。ラリマーは「邪魔するぞ」と言うが早いか、煌びやかな外套(マント)を翻し、家に押し入ってきた。それに続いて「失礼します」とルピナスも入ってくる。玄関を抜けて居間へと向かう背中を見送りながら、コメットはわたわたと開けっ放しになった扉を閉めた。

「おはようございます。サダルメリク殿。朝食の時間に失礼する」
「おはようございます。ていうか本当に早いね。ちゃんと朝食は食べたかい?」
「軽く済ませました。午前にも午後にも用事が詰まっているため、貴殿にお会いする時間を作るのが難しく、このような時間に」
「ふうん。僕に用事?」

 扉を閉めたコメットはとたとたとラリマーに近づいて、「前に会ったときと違う外套(マント)だね。飾りがついてる。綺麗」と話しかける。ラリマーは「そうだろう? お前は寝癖がついてるぞ。直してこい」と返した。どうせ用事もないからと身嗜みを放ったらかしにしたのがバレてしまった。コメットは気まずそうに手櫛で髪を梳く。
 サダルメリクは「とりあえず座ったら」とラリマーに席を促した。ラリマーはテーブルを眺める。向かい合って座るサダルメリクとネブラの隣がちょうど空いていたけれど、ネブラの隣の席の前には手つかずの朝食が並べられていることに気づいた。気づいたので、ラリマーはネブラの隣に座る。

「えっ」
「歓待に感謝する」
「ラリマーさん、そこ、僕の席」
無花果(イチジク)とブルーチーズのパイか。美味しそうだ。これを作った召使いはどこに?」
「うちには召使いなんていないからね。かわいい弟子が作ってくれました」
「なんと!」
「あ、あの、僕の朝ごはん、僕の……」

 ラリマーは当然のようにコメットのスープを啜った。ラリマーの相手をするサダルメリクが、苦笑しながら己の隣の椅子を引いたので、コメットはしょぼくれながら、新しい朝食をよそいに厨房へと足を向けた。

「公子。今日はどんな御用向きで?」
「礼を言いに」ナイフとフォークでパイを切り分けながら、ラリマーは答える。「事件は丸く収まり、俺も満足している。貴殿とその弟子ネブラのおかげだ」
「僕は仕事をしただけですよ。しかも、完璧にとはいかなかった。本来なら、あのようなことな未然に防がなければならなかったし、屋敷に残した二人が危険な目に遭っていることに気づくのも遅れた。近衛星団が不問となったのは、公子の口添えあってのことです。たいへん申し訳なく思っていますよ」

 ネブラの見立てどおり、ブルース邸に忍びこんだあの男は三等級の魔法使いだった。火事場を逃れた使用人から連絡を受けた近衛星団が駆けつけたときには、ネブラとラリマーが凌いだあとで、舞踏室を全焼させこそしたものの、誰一人命を落とすことなく捕縛することができた。ちなみに、ネブラとラリマーは「幸運で生き延びたようなものだ。無謀すぎる」ときついお灸を据えられた。
 ラリマーは肩を竦め、「たしかにここに来て、何度命が危ぶまれたか知れない」と返す。

「ブルース侯爵にも、己の責任だと言って頭を下げられました。俺よりも陛下や他の貴族からのお咎めのほうが重かったようですね。むしろ俺があの方を庇う立場になってしまった。しかし、そんな状況だったからこそ、(じか)に掛け合うことができたのも事実」
「ブルース侯爵を不問にする代わりに、偉大なる魔法使いトリスメギストスから魔法を教わりたいと、申しでたようですね」

 ネブラはぎょっとした。
 トリスメギストスと言えば、帝国最高峰にして最強の魔法使いだ。世界の魔法取扱法の基盤を作ったことでも有名で、これまでに残した数々の功績により、先々帝から宮廷顧問という称号を授かっている。
 その魔法使いから教えを乞おうなどと、厚かましいことこの上ない申し出だ。本来ならば棄却されて然ることで、けれどいまは、それを叶えるには千載一遇の好機だったに違いない。トリスメギストスから魔法を教わることを条件に、ラリマーは今回のことを手打ちにしたのだ。

「俺の望みは受け入れられ、現在は宮殿ですごしている……滞在場所が変わったのは、ブルース侯爵への懲戒の意味もあるでしょうが。今日の午後もトリスメギストス殿の講義を受ける予定だ。魔法を学びにアトランティス帝国まで来た俺としては、これほど喜ばしいことはない。だからこそ、満足していると言ったのだ」

 ネブラは気に食わなくて、ふんと鼻を鳴らした。それに気づいたラリマーが、少しだけ口角を吊り上げて、ネブラへと言う。

「羨ましいか。貴様もトリスメギストス殿の講義を受けられるよう、俺から口添えしてやろうか?」
「はあーん? 俺は先生の弟子だから。それに、お前みたいに、我儘言って他人に迷惑かける気は絶対ないね」

 ネブラが舌を出して拒むのを、ラリマーは「そうか」とだけ言って流した。そして、サダルメリクへと向き直り、「とにかく、」と話を戻す。

「今回のことで俺が不服を唱えるつもりはありません。むしろ、世話になった。認定試験を受けるまではアトランティス帝国にいる予定だから、今後ともよろしくお願いする」
「もちろんですけど、公子がもう少しおとなしくしてくれると楽だなあ」
「善処する」
「善処ね」
「そういえば、まだ手土産を渡してませんでした」

 ラリマーが小さく手を挙げると、その背後で控えていたルピナスが、持っていた箱をそっと差しだす。それは上品に彩られた大きな缶の箱で、品のよい金箔が虹色に煌めいていた。
 厨房から自分の朝食を運んできたコメットがぱちぱちと目を瞬かせる。手袋を嵌めたままの手でルピナスが恭しく箱を開けた。その中身を見て、コメットの口は「ふわあ」と溶けた音をこぼした。

「我が国でも有名な、公家御用達のパティシエの創作菓子です。日持ちのするものですので、ぜひ三人で召し上がっていただきたい」
「すごい! おいしそうなお菓子!」
「馬鹿正直にありがたがってんじゃねえ! こんなんどう見ても賄賂だろ! 汚職だ汚職!」

 目を輝かせて涎を啜る弟子の愚かな頬を抓りながら、ネブラは沸騰したように吠えた。コメットは抓られた痛みにきゃんきゃんと泣いたが、ネブラはそれもおかまいなしに、三白眼を作って(いた)()りつづけた。

「すごいですね。こんなお菓子は見たことがないや。食べるのがもったいないな」
「いえいえ。どうか召し上がっていただきたい。お口に合えば幸いです」
「せっかくだし、公子も一緒にいただきませんか? お時間があればでけっこうですが」
「それくらいの時間ならあります。ぜひご一緒しても?」
「もちろん」

 サダルメリクとラリマーは悠々と話を進めていく。血管が浮きでるほどの怒気を湛え、「てんめえ、」とネブラがラリマーに噛みつこうとしたとき、その口に「はい、あーん」とお菓子を突っこまれた。サダルメリクだった。テーブルから身を乗り出したサダルメリクが、手土産の菓子の一つを、ネブラの口に突っこんだのだ。

「このお菓子に合う紅茶を淹れてくれる?」

 にこにことした顔でサダルメリクはそう言った。顔を顰めたネブラはサダルメリクをじっと見つめながら、頬張った菓子をもしょもしょ噛み砕き、飲みこんだ。不服だった。けれど、サダルメリクのご所望である。抵抗にもならない見交わしののち、当然、ネブラが折れた。黙って調理場のほうへ引っこみ、ふさわしい風味の茶葉を選んでいる。
 それを眺めながら、コメットは片手で抓られた頬を(さす)る。サダルメリクの隣に朝食を置き、やっとこさ席に着いた。

「……事件は解決したって大先生から聞いたけど、」コメットはホットミルクの入ったカップを撫でながら言う。「本当に無事でよかったね、ラリマーさん。ラリマーさんを狙ったっていう貴族はそのあとどうなったの?」
「ヨーク伯爵は刑罰を受けた。俺が死ななかったために死刑は免れたが、国家戦争の火種を作ろうとした罪は重く、領地と財産を没収され、一族は帝都から遠く離れた土地へ追いやられたと聞いた。実行犯の連中も無事に捕まったらしいな。ヨーク伯爵に確認を取り、全員を一網打尽にしたとか」
「よかったあ」
「とはいえ、未解決というか、解明されていないこともある」ラリマーは一つ瞬いてから言葉を続ける。「詩の蜜酒を用いて強化剤を作った魔法使いだ。ヨーク家の魔法使いは関与を否定しているし、あれだけの薬をあの程度の魔法使いが作れるとも考えにくい。奇妙なのは誰もその魔法使いについて覚えていないことだ。詩の蜜酒を売ったというアップルガースの主人も、薬を買ったというヨーク伯爵も、その魔法使いのことをよく思い出せないのだという」
「思い出せないって……実際に会ってはいるんでしょ?」
「ああ。それなのに覚えていないということは、記憶を改竄する魔法をかけられているのかもしれないと、その二人を検査することにしたようだが……残念ながら、魔力の痕跡はどこにもなかったそうだ。もしかすると、魔法使いはその二人ではなく自分に魔法をかけたのかもしれないな」
「ラリマーさんの目眩(めくらま)しの魔法とか、霞草(カスミソウ)外套(マント)みたいに?」
「それよりももっと強力な魔法だろう。恐ろしいのは、その魔法使いが作ったとされる(くだん)の薬液からも、魔法使いの魔力が感じられなかったことだ。これではいよいよ何者かを探る手掛かりがない。詩の蜜酒を買い、薬を作り、それをヨーク伯爵に売りつけたとされる魔法使いに関しては、完全な迷宮入りだ」

 コメットは背筋や二の腕にぞわぞわとした冷たいものを感じた。静まり返った居間に、暖炉で燃える薪の乾いた音だけが響いた。思わず肩を竦め、「怖いね」と小さくこぼす。暖を取るようにカップを両手で包んでいると、サダルメリクが落ち着かせるようにそっと口を開く。

「……とはいえ、その魔法使いが直接ラリマー公子を襲ったわけじゃない。明確な殺意があるとは考えにくい。貴族院の過激派も、今回のことを受けて、みんな同じ轍は踏むまいとおとなしくしている。公子の命が狙われる可能性のほとんどはなくなったわけだ。今後も近衛星団が護衛につくし、最悪の事態にはならないよ」

 その言葉に、コメットはほっとした。
 強張っていた表情が緩むのが見えて、サダルメリクは優しく笑む。

「それよりも、楽しみだよねえ。あのトリスメギストスから魔法を教われるなんて、公子もラッキーだよ。きっと有意義な時間になるだろうね」
「ええ」ラリマーは強く頷く。「ブルース邸での襲撃で、俺は俺の至らなさを痛感した。格上が相手だったとはいえ、一番自信のある魔法ですら、相手の攻撃を防ぎきれなかった。さらなる魔法の強化に取り組みたいと思っています。ネブラから学ぶことも多かった。あのときのネブラは基本的で一般的(パブリック)な魔法ばかりを使っていましたが、基礎をしっかり習得しているためか、あの魔法使いとも渡り合えていた。俺もそれを見習って、一から勉強し直す心積もりだ」

 コメットはムムムと口を萎ませる。
 そのとき、ネブラが厨房から出てきた。魔法で浮かせた鼠色に輝くトレイの上には、花を燻したようなスモーキーな香りの紅茶の注がれた、人数分のカップと、大ぶりなティーポットがあった。
 耐えきれないというふうにコメットは席を立ち、ネブラへと声を荒げる。

「ネブラ! 僕なんにも聞いてない!」
「ネブラ先生と呼べ。なんのこと」
「ネブラ先生! 魔法使いと戦ったの!?」
「言っただろうが、襲われたって」
「襲われたけどなんとかなった〜としか聞いてないもん! そのなんとかの部分を聞きたいのに、疲れたとか言って、なんにも教えてくれなかった! 意地悪だ!」

 ついにコメットはネブラにしがみつく。ネブラは杖腕を振るってカップやポットをテーブルへと置きつつ、自分の腰回りにまとわりつくコメットへ「邪魔」と蹴りを入れた。しかし、邪険にされることに慣れているコメットはちっともへこたれず、今度はその杖腕にしがみつき、体重をかけてぐいぐいと引っ張った。

「ねえねえ、お願い、僕にも教えて!」
「やかましい。黙って菓子でも食ってろ」
「やだやだやだ! 教えてくれるまで絶対に言うこと聞かないから! その魔法使いとどんなふうに戦ったの! ネブラ先生のお話聞かせてよう!」
「やめろ離せ腕が抜ける」
「もうないじゃん!」
「てめえ……命が惜しくねえみてえだな」

 杖腕に縋りつくコメットを、ネブラは獰猛な目で見下ろした。虎の尾を踏み抜く様はこういうものなのかと、サダルメリクは紅茶を啜りながら眺める。ラリマーは少しだけ首を傾げ、二人に言った。

「そういえば、コメットとネブラは師弟関係だったか。ずっと、先生、馬鹿弟子、と呼び合っていたから、実は気になっていた」
「酷いよね、馬鹿弟子って」
「いや、そこはどうでもいいんだが……コメットはこいつのことをずっと先生と呼んでいただろう。弟子を取れるのは二等級以上の魔導資格(ソーサライセンス)を持つ魔法使いのみ。見習いはまず魔法使いになるための認定試験を受けて、五等級を取得するのが目標だ。こいつもまだ見習いのはずなのに、お前はこいつの弟子をしているのか?」

 コメットはネブラにしがみつきながら、あるいはネブラに顎を掴まれながら、「えっ、うん」と当たり前に返した。
 ネブラに会ったときはまさか見習いだなんて思わなくて、心躍るままに弟子入りをお願いしたのだが、それをサダルメリクが許可して、以後はこのように、ネブラの弟子ということになっている。
 当たり前に返しつつも、心の底ではその話はやめてほしいなあと思っている。そういう話になると、ネブラが面白くなくなるのだ。ただでさえいつも不機嫌のふりをしているのに、顔をしらっとさせて、なんてことはないように、弟子を辞めればなんて唆してくるのだ。
 案の定、ネブラは強引にコメットを()()がして、無言で席に押し返してきた。コメットは不格好な体勢で椅子に腰を落とす羽目になる。尻餅をついたみたいにお尻が痛くて、「あててて」と弱々しく呻いた。

「魔法使い見習いに弟子入りするなんて、きちんと勉強もできないだろう。別の魔法使いのところで勉強したいとは思わないのか?」
「えぇえー」コメットは顔を顰める。「僕の魔法の先生はネブラ先生だもん」
「それこそ、優秀な魔法使いと言ったら、サダルメリク氏もいるじゃないか」
「んー。僕はいまのところ、ネブラ以外に弟子を取るつもりはないですよ」
「大先生もこう言ってるよ」
「そうでなくとも、もう少し

な魔法使いくらい、探せば見つけられるんじゃないか」

 コメットは困ったなと思いながら、目の前の紅茶に口をつけた。紅茶の種類はわからないけれど、たしかにお菓子には合いそうだった。そんなふうに現実逃避しながら、ラリマーからの追及にウンウンと返す。紅茶が捗る。
 ネブラはこの話題になってから黙秘を貫いている。ララマーの援護をしないだけやりやすいが、コメットにとっては嫌な感じだ。

「僕が見つけたのはネブラ先生なのに、他に探す必要なんてある?」
「お前のためだ。お前が魔法を学びたいなら、ネブラに弟子入りするのは悪手でしかないはずだ。そもそもお前はなんで魔法使いになりたいと思ったんだ?」

 まるで詰問されてるみたいで、コメットは居心地が悪くなる。唇を尖らせながら「きらきらしててかっこいいから」と答えた。そしていまは、誰かから祈られる希望の光のような、その願いを叶えられるような魔法使いになりたいと、そう思っている。

「そうやって弟子入りを望めるだけの熱意はあるのに、飛びこんだ先が魔法使い見習いか?」ラリマーは呆れる。「コメット。お前はまだ子供だから知らないかもしれないが、世界は広いぞ。お前の知らない場所も、人々も、魔法使いも、出会いも、たくさんあるんだ。ネブラに懐いているお前が他の魔法使いを見つけるなんて考えられないかもしれないが、この世に魔法使いなんて、それこそ星の数ほどいる」

 そうこうしているうちに紅茶を飲み干してしまった。残ったのは腹の底に沈殿していた不機嫌な気持ちだけ。
 コメットはとうとう我慢できなくなった。
 テーブルにカップを置き、「もう!」と言って握り拳を作る。

「うるさい! 僕はネブラ先生がいいの!」

 ごちゃごちゃうるさい外野が面倒で、コメットは目を瞑る。もうなんにも言われたくなかったし、言わせたくなかった。お行儀は悪くない程度に、やかましくないように、でも、自分は怒っているんだとは示すように、握り拳でテーブルを打つ。

「きらきらしててかっこよかったの、僕もなりたいって思ったの、星の数ほどたくさんいたとしても、僕はネブラ先生を見つけたんだよ。僕は子供だけど、」

 ガキ扱いされるけど、馬鹿弟子って言われるけど、魔法の冒険には連れて行ってもらえないけど、どの星明かりを道標にするかは、自分で決められる。

「たとえ世界地図にどう書かれてたって、僕が行ったことも見たこともないところなんて、知らないよ。僕が生きてるかぎり、僕が世界の中心なんだ」

 コメットの心がネブラを選んだ。
 一歩も間違えなかったから、コメットはその星明かりまで辿り着いたのだ。夜空で大きく飛沫を上げる、満天の星雲。

「僕はネブラ先生の弟子! じゃあね!」

 最後にそう叫んでからコメットは立ち上がり、右脇にホットミルク、右手にサラダ、左手にパイ、空いた指を使ってスープの皿を持って、「ふんだ」と居間を去って行った。不機嫌な足取りで階段を上っていく。このまま居間で食事をする気にならなかったのだ。
 サダルメリクはぽかんとしていたが、遠くなっていくコメットの足音を聞きながら次第に笑み崩して、口元を押さえてくつくつと喉を鳴らす。最初はかすかだったその音はどんどん派手になってゆき、ついにはアハアハと背中を折って笑いだした。
 ラリマーが「はあ」と息をこぼす。

「言いすぎたかもしれないな……コメットの様子を見てきます。両手にわんさか料理を持っていたし、階段で転んでいたら大変だ」
「アハハハ、はー、いやあ、ウン、そうだね。お菓子も持って行ってあげてよ」
「そうしよう。おい、ルピナス。行くぞ」
「承知しました。それと、ラリマーさまは、物の言いかたに気をつけたほうがよいかと。そんなことでは嫌われますぞ」
「コメットに嫌われることで俺になんの不都合が?」

 缶の蓋を裏返したところにいくつかのお菓子を乗せ、ラリマーとルピナスは階段を上っていく。サダルメリクは頬杖を突きながらそれを見送った。残されたのはサダルメリクとネブラだけ。
 さっきからなにも言わずに俯いたままのネブラを、サダルメリクは見遣る。テーブルの下のネブラの足を爪先で小突いた。しかし、ネブラはびくともしない。
 サダルメリクは肩を竦めながら、もう一つ苦笑した。

「無敵だよね、コメット。彼の国の公子に正論を食らって、その返しがうるさいって」サダルメリクは頬杖をつく。「口の悪さは師匠に似たのかな。そのうち公子相手に喧嘩を売りだしちゃったりしてね。ネブラもコメットの様子を見に行ってあげたら? 公子が行くよりも喜ぶはずだよ」

 ネブラは俯いたまま席を立った。短く「“来い”」と唱えると、ネブラの食事の皿が宙に浮いた。指揮されるように整列し、居間を出ようとするネブラについていく。
 ネブラがコメットを追うのか、部屋に戻るのかは、サダルメリクには測りかねた。ただ、ネブラの背中を眺めながら「ねえ、」と声をかける。

「弟子って、かわいいものだろう?」

 振り返りもせずに、ネブラは階段を上がっていく。
 サダルメリクもそれを黙って見送った。
 ややあってから、どこからともなくプ~ンと羽虫が飛んでくる。その羽虫は、ラリマーの座っていた席にある、切り分けられた無花果(イチジク)とブルーチーズのパイの上にと留まる。

「こら。行儀が悪いよ」

 サダルメリクがそう言うと、その羽虫は身をわずかに揺らして、変身魔法(メタモルフォーシス)を解く。パイに伸びたのは小さな羽ではなく男の指先だった。その手がパイを掴みあげる。(ハシバミ)色の外套(コート)を身に纏ったトーラスは、ラリマーの席に座り、掴みあげたパイに「あんむっ」と齧りついた。

「おはよう、トーラス。今日も(うち)にいたの」
「はよ」咀嚼したパイを飲みこんでから、トーラスは続ける。「びっくりしたぜ。なんかあった? 手を皿でいっぱいにしたコメットが、自分の部屋の前で立ち往生してたんだけど。両手が塞がってて開けられないみたいだった」
「開けてあげればよかったのに」
「ただ働きなんて絶対ヤだもん」
「ふうん。じゃあ、ヨーク伯爵に薬を売りつけるときは、相当稼げるって見込みがあったわけか」

 トーラスは垂れ目がちな(まなじり)を蕩けさせる。この男が不敵に笑うときは、こういうふうに目を細めるのだ。そういえばそうだったな、とサダルメリクは思い出した。

「君だろ、トーラス。詩の蜜酒を買った魔法使いは」

 トーラスはパチンと指を鳴らす。居間に防音魔法を張ったのだ。これからサダルメリクと話す内容は、他人に聞かれたらちょっと面倒なことになるので。
 パイを持っていた手を叩き、手についた残り滓を皿の上に落とす。両肘をついて顎を乗せて、「んふふ」と嬉しそうに肩を震わせた。

「わかっちゃった?」
「まあ、なんとなくね」サダルメリクは頬杖をついていた手から人差し指を抜き、蟀谷(こめかみ)を叩く。「君は魔法薬調合術の達人だった。十二星者の中でも一番と言っていい。その腕前は現代の薬学を軽く凌駕する。詩の蜜酒を使ってあんなとんでもない薬を作れる魔法使い、世界中を探したって君以外にいないよ」
「照れんね。でも、それだけで俺だって決めつける? その薬に俺の魔力は残ってた?」
「いいや。君の魔力は少しも感じられなかったよ。そもそも、個人の魔力を残さずに薬を作る方法なんて、普通にあるし。魔力非含有(マジフリー)製法、魔力絶縁物質(アダーストーン)越しでの製法、やってできないことはないね。言ったろう、あんなとんでもない薬を作れることが、まぎれもない君である証明なんだよ」
「その心は」
「あの薬の材料に、マンドレイクがあるね」サダルメリクは呆れたように笑う。「微弱だけど薬から魔力を感じたよ。マンドレイク特有の、土葬された死体の悲鳴みたいな魔力。久々だったから気づくのに時間がかかったし、気づいたあとも半信半疑だったけど、まあ、なんら不思議ではないかなって。君ほどの薬学者が、大事な原材料を、みすみす絶滅させはしないでしょ。《大洪水》のときに、いくつか苗を確保してたんだろう?」

 パイを頬張っていたトーラスはくぐもった声で「うん」と答えた。紅茶まで勝手にいただいて、口の中にあったものを飲み干す。

「だったらやっぱり君しかいないでしょ。ちょどよく僕の前に現れたことで確信したね。君がアップルガースの店から詩の蜜酒を買って、作った薬をヨーク伯爵に売りつけた、人騒がせな魔法使いだって。あんな危険なものを、戦争の火種を作るのに余念のない過激派の貴族に売りつけるなんて、君の目的はなに?」
「お金」

 サダルメリクは頬杖を外し、竦めるようにして首を落とす。俯いた姿勢のまま、深いため息をついて、「だよね~」と気の抜けた声を上げた。

「拝金主義。金銭至上主義。君って全然変わらないね。金の亡者め」
「いつの世も戦争が一番儲かるんだぜ? 別に公国とか公子とかどうでもよかったんだけど、いい感じの配合を思いついちゃったしさ、作ってみたら面白いんじゃないかって思って、そんで、せっかくなら金払いのよさそうなやつに売りつけてやろっかなって。もうね、すんごいの、笑えるくらい懐あったまっちゃった!」
「くさいくさい。その銅臭にまみれた魔力ひっこめて」
「ひでーね。固いこと言うなよ。俺がこうして自由に動き回れてるってことは、お前だって見逃してくれたんだろ?」
「久々に会えた悪友のやんちゃくらい、目を瞑るよ」サダルメリクは顔を上げた。「でも、そのレシピを他に売りつけるのはしないでくれよ。またこんなことが起きたら、今度こそ君を取っ捕まえなきゃいけなくなる」
「昔馴染みの生き残りのうち、二分の一が指名手配犯の罪人になるわけか……崇高なる十二星者の汚点だな」
「僕たちはみんな罪人みたいなもんでしょ。それがとっくに時効ってだけで」
「はははっ、違いない!」

 トーラスは「ご馳走様」と言って席を立つ。指をパチンと鳴らして(ハシバミ)色の三角帽子を出した。それを被って「もう行くわ」とサダルメリクに言った。

「帝都を発つの?」
「いんや。来月は建国祭で、大勢の人が集まるだろ。またとない稼ぎ時さ」トーラスはにっと笑った。「いまの俺は薬師をやってんだ。祭日が終わるまでは帝都にいるつもりだから、また話そうぜ」

 トーラスはもう一つ指を鳴らす。石飾りのついた箒が現れた。トーラスは片手でそれを持ち、居間にあるウィンドウベンチへと足を進めた。大きく窓を開けると、冷たい風が吹きこんできた。

「あばよ」

 箒に乗って、トーラスは去っていく。
 開けっ放しの窓にサダルメリクはため息をついた。カップの中の紅茶もぬるくなってしまいそうな冷気。わずかに身を竦めたのち、パチンと指を鳴らすと、窓は独りでに閉まっていった。
 冬はもうすぐそこだ。コメットがここに来てから一つの季節を終えようとしていた。
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