第18話 悪魔の名をした星団長

文字数 18,198文字

 カドリング家の天才と謳われたシリウスは、当時、弱冠二十歳の魔法使いに敗北した。
 やってられるかクソ、と思った。
 幼少期から魔法教育を叩きこまれ、齢五十で二等級の魔法使いになったのがシリウス・カドリングだ。干渉魔法を得意とするカドリング家の秘伝魔法を習得しており、潤沢な魔力量と明敏な魔法センスは、歴代に類を見ない逸材だと誉めそやされた。それは、他の名門の家々でもその名を囁かれるほどで、シリウスは周囲から期待を受け、近衛星団への入団試験を受けた。
 そこで、巨星と出会う。
 一目で圧倒された。毎瞬爆発しつづけるような鮮烈な魔力。彼自身の髪のように、黄金に照り輝いて見えた。シリウスの歳の半分もない青年が、綺羅星の集まる星団の中で、一際(ひときわ)美しかった。
 今年の認定試験で一等級を獲得し、入団試験では総合一位に輝いた、若き天才。
 ルシファー・ゴーシュ。

「お前だろ? シリウス・カドリング!」
「……は?」
「入団試験で総合二位だった。試験中はなかなか話せなかったけど、離れたところからでもお前のその魔力を感じ取れたぜ。目に焼きついて離れない銀色みたいな魔力。お前と話してみたかったんだ! 俺はルシファー、仲良くしよう」

 歯を見せて爽やかに笑いながら、陽気に弾む声でそう言った。薔薇と見紛う真紅の瞳が、威勢よく己を見据えている。威勢よくというか、傲慢なまでに。
 当時のシリウスはまだ五十歳。人生歴の浅い魔法使いだ。シリウスからしてみれば、若造が生意気な口を利いてきたという状況。
 その美しい額に、青筋が立つ。

「結構だ」
「嬉しいな。俺のことはルシって呼んでくれよ。親しいやつにはそう呼ばれてるんだ」
「仲良くしてかまわない、という意味じゃない。お前との交流を必要としない、という意味だ」
「まあまあ、そう言うなって。たった一人の同期だろ?」

 今期の入団試験において、合格者はルシファーとシリウスの二人だけだった。総合三位位下は合格基準に満たなかったとして、全員落とされている。
 とはいえ、シリウスにとって、ルシファーの言葉は決して看過できるものではなかった。

「たしかに俺たちは同期で、俺の見た目の年齢はお前とさほど変わらないだろうが、俺はお前の倍は長く生きている」

 生意気な口を利くな、とシリウスは牽制したのだ。たとえ試験でルシファーに負けていたとしても、これ以上調子に乗らせたくはなかった。
 ただ、その場にいた中堅組は「あー自分にもそんな時期があった」「ヤメロヤメロ黒歴史」と共感性羞恥に苛まれ、年長組——団長のメーデイアや副団長のロタネヴなど——は、「バブちゃんがイキっててかわいい」と微笑ましい目で見ていた。
 百年単位で生きる魔法使いにとって、ルシファーとシリウスの年齢差など誤差だ。百歳を超えてから近衛星団に入団する者が圧倒的に多い。当人たち以外は「二人とも若いのにえらいね」と思っていたくらいだ。
 しかし、当人たちはまだ二桁の人生しか知らない魔法使いである。二十歳の若者は、五十歳の壮年に、目を見開かせる。

「それが長寿の魔法か! すごいな、俺はまだその呪文を知らないんだ。俺が使うときはお前が教えてくれよ、シリウス」

 ルシファーに悪意はなかった。元来、彼は物怖じしない性格だ。気さくな態度は懐に入るための処世術でもあった。
 しかし、シリウスにとっては違った。俺はお前と違って若くして宮廷魔法使いになったんだぜ、という厭味に聞こえた。
 そして、厭味でなくとも、ルシファー・ゴーシュが本物の天才であることは事実だ。前代未聞の才能を持つ、空前絶後の超新星。
 シリウスにとって、ルシファーはなんともいけ好かない男だった。
 が、シリウスがそう思う前から、名門出の魔法使いにとって、ルシファー・ゴーシュはなにからなにまでいけ好かない男だった。
 無門の出にもかかわらず、類稀な才能を持ち、逸材だのなんだのとチヤホヤされながら入団した、若き魔法使い。これでは名門一族の面目が立たない。
 最初に喧嘩を売ったのは、ギリキン家から輩出された魔法使いベネトナシュだ。

「訓練だとしても手加減はしないわよ。これは実戦を想定した模擬実戦なんだから。才能ある魔法使いだろうが、君の鼻っ柱が伸びきる前に、私が折ってあげるわ」

 このときのことを「鼻っ柱が伸びきってたのは私のほうだった……」と後々ベネトナシュは語ることになる。
 しかし、当時のベネトナシュは四百歳。星団歴は二百年を優に超える。魔法使いとしての自分の伸び代に限界を感じつつも、経験と研鑽による確固たる実力を自覚してもいる、脂の乗った魔法使い。生まれて間もない魔法使いに負ける気がしなかった。
 さて、ルシファーにとっては入団してから初めての訓練。先輩魔法使いからは「手加減無用」とのお達し。素直な彼の性格上、鼻っ柱ではなく背筋が伸びた。
 腹の底から魔力が揺らめき、導火線を伝って闘志に火がつく。先輩への遠慮も緊張も掻き消えた。ゆえに、一対一の模擬実戦を本気で取り組み、完膚なきまでに勝ちのめしたのだ。
——この事件は名門四家に雷轟のように響き渡る。
 次に動きだしたのはウィンキー家で、あらゆる権威を用いて、新星には到底手に負えないような任務をルシファーが担当するよう、圧力をかけた。その任務とは、港湾の村を騒がせていた巨人の討伐で、当時のアトランティス帝国が抱える問題のうちの一つだった。
 ルシファーに失敗させて嗤ってやるつもりだったのだろうが、そんな策謀など露知らず、現場に駆けつけたルシファーは、たったの一撃で巨人を撃退してみせた。

「嘘だろ!?」
「ありえんありえん」
「巨人族の中でも特に凶暴な半不死身属(ギガンテス)の巨人だったんだぞ。どうやったのルシファー」
「え? 雷を落として感電させた、って?」
「海を歩くだけで津波を起こせる巨体を感電死させるくらいの雷撃ってなんだよ!」

 帰還したルシファーは英雄のように讃えられたが、この一件を受け、マンチキン家がさらなる圧力をかけることになる。
 当時の西ゴンドワナ大陸で起きた戦争へ、ルシファーたった一人で派遣されることが決まったのだ。
 これについては、さすがに不毛だやりすぎだと、近衛星団の魔法使いからも反発の声が多数挙がったものの、当の本人が「期待に応えられるようがんばります!」と前向きな姿勢を見せたため、メーデイアは「危なくなったら連絡するんだよ」と見送った。
 すると、どうだ。ルシファーは五日ほどで武装兵を無血制圧、あろうことか和平協定まで結ばせて、長く続いたその戦争を終わらせてしまったのだ。

「はい? さすがにどうした?」
「俺、夢でも見てるのかな……」
「両国の兵士合わせて二万人はいたって聞いたけど。なにやったのルシファー」
「え? 戦場に出てた兵士全員を眠らせて、強制的に停戦させた? それを数日続けて戦意を削いで、話し合いの席を設けたって?」
「二万人を一気に眠らせる大魔法とかなに。しかもそれを毎日出せる魔力量、怖すぎ!」

 まさに生ける伝説。この逸話はアトランティス帝国のあちこちに広まり、ルシファー・ゴーシュの名を知らしめる機会となった。
 そうして誰にも引けを取らないほどの輝かしい実績を積んだ彼は、入団からわずか五年後、二代目星団長メーデイアの遺志により、三代目星団長の座に就くことになる。





 三代目星団長の就任式は華々しく催され、帝都では新たな星団長のお披露目としてパレードもおこなわれた。
 透きとおった青空からは絶え間なく幻花が降り注ぎ、そこかしこで歌えや踊れのお祭り騒ぎである。
 全ての式典を終えたのち、ルシファーとシリウスは街を見て回っていた。

「ははっ、みんな楽しそうだな、シリウス。こんな賑やかに俺の就任を祝ってくれて嬉しいぜ」
「心の底からお前の就任を祝っているわけじゃない。新しい星団長のお披露目に託けて、ただ盛り上がりたいだけだ」
「みんなが楽しんでくれてるならそれでいいさ。歓迎されない団長になるより、よっぽどましだからな」

 ルシファーの白い外套(マント)が風で靡く。帝国民にはその姿さえも勇壮に見えて、憧れの眼差しで彼を見た。目が合うと、彼は手を振る。黄色い声が上がった。

「いい気になるなよ。近衛星団の団長は、ただの人気者が就けるものじゃないんだ」
「わかってるって。心配性だなあ、シリウスは」ルシファーは肩を竦める。「ま、俺みたいな若造が近衛星団の団長になったんだ。四大名家からの反発は、今後さらに強まるだろうな。星団のみんなにもいろいろ気苦労をさせるだろうし……俺がしっかりしないと」

 シリウスはルシファーの横顔を覗き見る。
 真っ赤な瞳は真剣な輝きを放っていて、普段の砕けた調子は微塵も感じさせない。宮廷魔法使いの長というのは、二十五歳の彼には重すぎる肩書きだった。
 ただし、五年という少なくはない時間を共にして、シリウスは理解していた。この男は、期待されればされるだけ、それに応えようとする性質(タチ)だ。
 人々の称賛や期待が、彼の輝きを強くし、この帝国をいっそう照らす。彼は光を齎す者。悪魔の名を持つ星を冠した、美しき君。
 名門四家がどれだけ謀ろうと、その圧倒的なまでの強さの前では、全て無意味だ。
 天才と謳われたシリウスでさえ、なんの意味もない。

「きゃっ!」

 そのとき、すぐそばを走っていた子供が石畳に蹴躓く。おさげの髪をしたあどけない少女だった。
 勢いよく地面に倒れこんだ少女は、じわじわとぐぜり、仕舞いには大声を上げて泣きじゃくった。
 血相を変えたルシファーが「大丈夫かっ? 怪我は?」と駆け寄る。少女の体を抱き起こしてやると、その丸っこい膝が血まみれになっているのが見えた。

「可哀想に。すぐ治してやるからな」

 ルシファーはすぐさま呪文を唱えて怪我を治してやる。少女の怪我は跡形もなく消え去った。しかし、少女は相変わらず泣いたままで、ルシファーは「あああぁぁ……」と途方に暮れる。
 シリウスはため息をついた。

「治してすぐは、まだ傷口のあったところが痛むんだろう。それに、怪我の痛みだけじゃなく、転んだことが悲しくて情けなくて、子供は泣くものだ」
「へえ、詳しい。シリウスって子供いたの?」
「いない。が、親戚を見ているかぎりはそうだ」
「あはは、残念! シリウスの子供なんてぜひとも見てみたかったなあ」
「笑ってる場合か」

 シリウスは少女の前に跪く。杖を抜こうとするも、己の(つえ)ではかえって怖がらせるだけだと思い直す。抜剣することなく、鞘のまま腰から外し、柄の先を少女の目線まで持っていく。

「"Fantastico(ファンタスティコ) Abbandone(アッバントーネ)"、"Volante(ヴォランテ)"」

 唱えるや否や、ひらひらと風に乗って、蝶が少女の視界を横切る。真珠光沢する絶世の青翅は、羽ばたくたびに光を反射する。その閃きは、少女の涙越しの目を奪う。
 いつの間にか、あたりにはいくつもの青い蝶が優雅に飛び交っていて、ルシファーも呆然としていた。瞼の裏にも焼きつく鮮やかさ。耳元をくすぐる羽音。強くなる花の香。幻想的な光景だった。
 蝶のうちの一匹が、少女の膝の上に止まる。少女はその感触に驚くも、シリウスに「シー」と口元に指を添えられる。こくこくと少女が頷くと、蝶の翅が血を吸いあげたかのように赤く染まった。

「えっ!」
「ほら。もう痛くない」
「え、えっ? ……あ、本当だ!」

 少女は目をぱちくりとさせる。その拍子に涙がこぼれ落ちたものの、顔色は活き活きとしていた。痛みの消えた膝を撫でて「ありがとう!」とシリウスを見上げる。

「お礼ならこの蝶に」

 シリウスの指先に赤い蝶が止まる。翅をふわふわと立ててお行儀よくしていた。少女が恐る恐る「ありがとう」と言うと、蝶たちはたちまちしゃぼん玉に化けた。

「わっ!」

 風に揺れたしゃぼん玉が鼻先に止まり、少女の目の前で弾ける。鼻筋に飛んだ冷たさに驚いていると、シリウスが笑った。

「次は転ばないように気をつけろよ」

 少女はぱっと顔を輝かせて、「はい! 魔法使いの騎士さま!」とその場を去っていく。
 ルシファーは天高く昇っていくしゃぼん玉を見上げながら、「すごい」と呟く。

「最初は幻覚魔法かと思ったけど、にしてはリアルすぎる。触れたり聞こえたり、五感で得られる情報量があまりに多い。生き物の持つ微細な魔力まで感じられる。でも、魔法で生命は生みだせない。精巧に作られた偽物だ。これはいったい……」
「干渉魔法だ」
「干渉魔法? 幻覚でも遠隔でもなくて、人体や精神に影響を及ぼす魔法なのか?」
「応用だがな。対象者の視覚や触覚や聴覚に干渉し、あたかもそこに蝶がいるように思わせている」
「えっ、いないのか?」
「あの蝶はモルフォヘレナと呼ばれる種で、生息地も限られている。本来ならば滅多にお目にかかれないぞ。お前とあの子以外は誰も気にしてなかっただろう」

 ルシファーは思い出す。あの幻想的な光景には誰もが足を止めてもおかしくはないのに、実際にそうする者は一人もいなかった。
 道ゆく人々の目には、最初から蝶など見えていなかったのだ。

「じゃあ、あの蝶があの子の痛みを奪い取ったように見えたのは」
「あれも干渉魔法だな。あの子の痛覚に干渉した。ただ、ああいう派手なパフォーマンスをしたほうが、子供は喜ぶからな」
「治癒魔法だけでなく、干渉魔法の重ねがけに、錯覚させる情報のコントロール……それを俺とあの子へ同時にやったのか? ただの記譜式呪文で?」

 記譜式呪文は初歩的な基礎魔法だ。それだけに、魔法使い個人の力量により、発現する魔法威力は左右される。発想標語に(なぞら)えた意味以上に、それを唱える者の表現力が重要だ。
 ただ唱えるだけではだめなのだ。ブレスもエッジもビブラートも、自分の奏でる音には、その全てに意味がある。
——けれど、ルシファー・ゴーシュの前では無意味なのだ。

「仕組みがわかれば、お前にだってできる」シリウスは淡々と告げる。「なにも真新しくはないし、特別なことでもない。夢や幻ですらなく、あってないようなものだ」

 ルシファーは、ただ無闇に強いのではない。膨大な魔力量に反した、繊細で技巧的な魔法技術。怜悧に計算された魔法演算。十年どころか百年単位の経験差を覆すほどのセンスは、端的に言って、化け物じみている。
 ルシファー・ゴーシュという男は、シリウスにとっての初めての挫折であり、敗北だった。その凄まじい燃焼に、自分は絶対に追いつけない——何光年と離れたところで無敵に輝く彼を、シリウスはただ見つめることしかできないのだ。
 けれど、ルシファーは言う。

「たとえなかったとしても、俺の目には、ずっと焼きついてるんだ」

 ルシファーはシリウスを見て、静かに微笑む。その類稀な瑠璃色の髪は、泡のように消えていったあの蝶に似ていた。そして、銀色の魔力が今もなお、彼の中で燃えつづけているのがわかる。

「まるでお前みたいに美しい魔法だったよ」

 ルシファーは純真な敬愛でシリウスを讃えた。その視線の先で、ダイヤモンドのような瞳が瞠り、わずかに膨らんでいる。
 やがて、ルシファーは爽やかに笑った。

「シリウス。副団長に指名していいか?」
「……は?」
「副団長は代々、団長が指名するものだろ? 俺はお前を指名するつもりだ」
「はあ? 俺にお前の補佐をしろって? 冗談じゃない! そういうのは、最古参のロタネヴに任せればいい」
「いやあ、ロタネヴもそろそろ副団長疲れたって言ってたぞ? 気楽な平団員に戻って余生をすごしたいとかなんとか」
「それで、団長副団長揃って入団歴の浅い俺たちがやるなんて、どれだけ反発が起こるかわかったものじゃない。俺は矢面に立つ気はないからな!」
「なんだよ、お前らしくない、胸を張っていこうぜ。偉大なるメーデイア団長が選んだ俺と、俺が選んだお前なんだからな!」

 後日、ルシファーは宣言どおり、シリウスを副団長に指名した。シリウスの予想に反し、団員からの「適任じゃん」「いいですよ」「副団長まで最年少とかイカす〜」という他薦を得たうえで、シリウスは副団長として皇帝に承認された。
 こうして、三代目星団長ルシファー・ゴーシュの率いる新たな星団は、幕を開けた。
 歴代でも類を見ない若き魔法使いの長だったものの、ルシファーは持ち前の明朗と力量で、数ある苦難を乗り越えていく。皇室や宮廷顧問の信頼を早々に勝ち取り、十年、五十年、百年と時を経て、ルシファーは、国民からも大いに支持される星団長となる。
 ただ、名門四家からのやっかみや嫌がらせは続いた。

「——どれだけ民に支持されようと、魔法を使える者は見抜く。シリウス・カドリングがなにを腑抜けているかは知らないが、名門の四家こそが星団を率いるべきだろう。ルシファー・ゴーシュ、貴殿は星団長を降りろ」

 猫のように慇懃無礼な、相手を見定めるような眼差しで、アークトゥルスは言った。
 出会い頭、唐突に詰られたルシファーだったが、この百年でこの手の言いがかりには慣れていた。目の前のアークトゥルスより、その背後でギリキン家(同郷)のベネトナシュが「やめなさいアーク!」と青褪めた顔で張り叫んでいるのが目に止まったほどだ。
 ちなみに、当時のアークトゥルスは入団したばかり、星団歴一年目の新星だった。入団こそ出遅れたものの、シリウスとはほぼ同世代で、その年の入団試験での唯一の合格者だ。
 また、かねてより「カドリングのシリウス、ギリキンのアークトゥルス」と囁かれていたので、アークトゥルス自身も逸材だなんだのとチヤホヤされて入団している。
 その慢心による振る舞いが

で、このときのことを、アークトゥルスは百年後悔することになる。

「手合わせ願おうか。貴殿の力量を確かめてやる」

 己の力量を確かめられるならばと張り切ったルシファーは、この勝負に本気で取り組み、アークトゥルスを完膚なきまでに勝ちのめした。
 ギャラリーは「どこかで見た光景」「ギリキン家って本当に血の気が多いよね」「ベネトナシュ息してる?」と騒いでいた。そんな声すら聞こえぬほどの愕然とした面持ちで、アークトゥルスは地に伏している。そこへシリウスが声をかけた。

「無様なものだな。アークトゥルス」
「シリウス、それは追い打ち」
「慈悲の心はないの?」
「さっきまで散々焚きつけていた連中は黙れ」シリウスはギャラリーを眇め、再びアークトゥルスを見遣った。「お前より早く入団していた俺たちが、あいつが団長の座に収まるのを、ただ指を咥えて見ていたと思うなよ。さっきは腑抜けだのなんだのと言ってくれたが……己の未熟さを見抜けなかったのはどちらかな?」

 シリウスはしたり顔でアークトゥルスを見下ろす。
 打ちひしがれるアークトゥルスに近寄ったベネトナシュは、その肩を抱き、「アークは世間知らずのお坊ちゃんなの! いじめないで!」と言い返した。親猫が仔猫を庇う姿に似ていた。
 濡れそぼった猫のようになったアークトゥルスを、シリウスは鼻で嗤う。

「ベネトナシュ、しっかり教育しておけよ。ギリキン家から入団するのがこいつみたいな輩ばかりでは、星団として示しがつかない」
「いやあ、ここまでくると様式美だな」と、爽やかに笑うルシファー。「名門出の連中は気骨のあるやつばっかりで面白いよ」
「お前もだ、ルシ。一々つっかかられては面白がりやがって……団長なら団長らしく毅然とした態度で接しろ」
「元々俺を気に食わないなら、変に突っ撥ねたほうが癪に障るだろ。これから仲間になるんだから、俺は丁重に出迎えるよ。相手の力量を知ることもできるし、一石二鳥」

 百年目ともなると、決闘の申し出にも慣れたもので、一年に一回あるかないかのイベントくらいに思っている。調子のいい日なんかは「三人ずつかかってこい」と受けて立ち、気絶した魔法使いで山脈を築いた。山脈の麓からは「化け物」「悪魔」「かっけえ……」と声がこぼれていた。

「ルシファー団長。うちの家門が迷惑かけてごめんなさいね」肩を落としたベネトナシュが言う。「ギリキン家の中じゃ私は古株だし、最近入った若い子たちには、あたしから言っておくわ」

 百年経って変わったのはルシファーだけではない。当初は反骨精神に溢れていたベネトナシュも、すっかり丸くなっている。いまではギリキン家の狼藉を詫びるほどだ。
 フォーマルハウトが「殊勝なことですね」と微笑ましく見るのを、ベネトナシュは「うるさいのよ」と居心地悪そうにした。

「……五百歳になれば、いろんなものが見えてくるし、私だって変わるわよ。私もそろそろ星団の中では古参勢の仲間入りだし」
「頼りにしてるよ、ベネトナシュ」ルシファーは赤い瞳を細める。「どれだけ知識や経験を積もうと、やっぱり歴の長さが物を言う場面は多い。お前たちみたいに熟練の魔法使いの背中を見て、新星たちは育っていくんだ。これからも星団を支えてくれよ」

 ベネトナシュは少しだけ目を丸めて、やがて照れくさそうに微笑む。

「ええ、任せて。私も、貴方を頼りにしてるわ。ルシファー団長!」

 その数日後、ベネトナシュは死んだ。





 始まりは大熊座の泣き女(ベネトナシュ)。彼女は帰宅途中に襲われた。腹部に二箇所、脚と腕に一箇所ずつ穴が開いていて、事件現場には彼女の血液が大輪の花のように乱れ咲いていた。
 その場に残ったのは彼女の魔力だけで、犯人と思わしき者の魔力は微塵も残っていなかった。
 次に兎座(レプス)で、彼はベネトナシュの同期だった。先の一件の捜査中、突如、何者かに襲われた。咄嗟の機転で応援要請の花火を打ち上げたものの、別の星団員が駆けつけたころには、彼の死体だけが転がっていた。
 ベネトナシュのときと同様に犯人の魔力は残っていなかったが、レプスは最後の魔力で「ベネトナシュの仇」と地面に書き残していた。
 次に南三角座の首星(アトリア)。彼女が死んだとき、建国祭のパレードの真っ最中だった。遠距離から頭部を攻撃されての即死で、彼女の頭蓋には小さな金属塊が(うわ)っていたが、それはたちまち消えてしまったという。
 この三件を受け、同一犯による星団殺しと断定。宮廷顧問トリスメギストスが「魔弾の射手」と呼んだことがきっかけで、帝国全土にその名が知れ渡る。

「怖いわ。星団の魔法使いばかりを狙うんでしょう? 訓練星たちも大丈夫かしら」
「指名手配だってよ。おっかない魔法使いだぜ。早く捕まるといいな」
「大丈夫だろ。いまの近衛星団を率いてるのは、あのルシファー・ゴーシュなんだから!」

「野良の違法使いごときに、輝かしい宮廷魔法使いを三人も死なせてしまうとは」
「事の始まりから百年も経っているというのに、まだその下手人を捕まえられぬのですか」
「そなたのせいだ、ルシファー・ゴーシュ。星団の魔法使いたちを想うなら、早く魔弾の射手を捕まえろ」

 期待と叱責がルシファーへと向けられる。
 ルシファーは、死んだ魔法使いたちを惜しみながら、憎き魔弾の射手の手がかりを血眼で追ったけれど、相手は魔力一つ残さない、手練れの魔法使いだった。

「魔弾の射手の対策として、これからは二人一組で行動しよう。接敵した際には、決して一人にならないよう気をつけること。また、二人で応戦しても厳しいようなら、すぐに応援を呼ぶこと」

 しかし、殺戮は止まらなかった。
 かつては副団長でもあった海豚座の多重星(ロタネヴ)が殺された。彼のバディは応援を呼んだものの、駆けつけた二人組の片割れである一角獣座(モノケロス)まで殺された。
 休日に襲われて一人で応戦した鷲座の彦星(アルタイル)は、恋人へ贈る指輪を見ていた帰りだったという。彼の葬儀の日、その恋人は墓標の前で泣き崩れていた。彼の同期たちも、その恋人のそばで嗚咽を噛み殺している。
 次々と死んでいく同胞たちを悔やみながら、シリウスは我が身を奮い立たせた——絶対に許しはしない。一刻も早く、魔弾の射手を捕まえなければ。
 それはルシファーも同じだった。
 同じだったはずだ。
 けれど、いつからだろう。彼の輝かしい面差しに、翳りが見えるようになったのは。 
 
「……おい。なんだその(つら)は」

 ある日、宮殿の廊下で、シリウスはルシファーに話しかけた。
 シリウスを振り返ったルシファーの瞳は濁っていた。
 魔弾の射手が現れてから、星団長であるルシファーが批難の的になっていることは知っていた。また、彼自身が自分を責めていることもわかっていた。星団を仕切りながら、魔弾の射手が現れるたびに険しい顔をしていて、なにかに取り憑かれたように気を立てていた。
 (いま)だに捕まらない怨敵に焦るのはシリウスも同じだ。だからこそ、はじめは気にしていなかった。
 それでも、十年百年と時を重ね、もう入団したときのような瑞々しさが抜けたとて、彼の鮮烈な輝きがここまで霞むことはありえない。シリウスが感じ取ったのは違和感だった。
 ルシファーはへらりと笑う。彼らしくない表情の作りかただった。

「ええ? いきなり喧嘩腰だなあ」
「言い合いをする気はないぞ。時間の無駄だ。酷い顔だが、なにかあったのか?」
「……別に、ずっと寝れてないだけだよ」

 眠れないんだ、とルシファーが言い始めたのは、ここ百年ほどの話だった。なんてことのない話として流していたけれど、いよいよシリウスは眉を顰める。

「そんなに眠れないなら医務室で仮眠を摂れ。そんな体たらくで仕事をされても困る。また厄介な連中に余計な口出しをされるぞ」

 シリウスの生家であるカドリング家を筆頭に、四大名家の家々が、宮殿まで来ることは少なくない。今のみすぼらしいルシファーを見て、隙ができたと小突(こづ)いてくるのは目に見えていた。
 しかし、ルシファーは「いや、いい。平気だ」と断った。その顔は青白い。シリウスは怪訝な顔をして「どこが平気だ」と詰め寄った。

「本当に大丈夫なんだって。シリウスが気にする必要はないさ」
「ハッ、よく言う。魔力がぶれてるぞ。今のお前なら俺の一撃で気絶するだろうな。なんなら試してやろうか?」
「やめろ。本気に聞こえる」
「本気だよ。わかったらとっとと寝ろ。無理矢理にでも寝かしつけるぞ」
「やめろ」

 拒絶するルシファーの声は硬かった。強張った声が廊下に反響し、溶けていく。
 シリウスは目を瞠った。その銀色の目で、尋常でないルシファーを見つめる。

「……おい」
「眠りたくないんだ」
「…………」
「シリウスは、」
「なんだ」
「シリウスも、俺のせいで、あいつらが死んだって、思う?」

 口にするだに恐ろしいと、震えあがるように、ルシファーはぶつ切りに言った。
 シリウスは呆然とした面持ちで「はあ?」とこぼす。

「お前も、俺が星団長でなければって、思うのか?」

 その問いかけにどう答えるべきだったか、シリウスは今でも考える。ただ、当時のシリウスは静かな怒りを燃え滾らせていた。

「お前

って、誰に言われた」

 シリウスのその言葉に、ルシファーはぞっとした顔をする。これ以上ないくらい血の気の引いて、真紅の瞳さえ色褪せて見えた。
 ルシファーはシリウスを振りほどき、その場を立ち去っていく。
 シリウスはその背中を追おうとして、やめた。頭を冷やしたほうがいいと思ったからだ。ルシファーがなにを血迷っているかはわからないが、一度冷静になったほうがいい。
——しかし、シリウスの想定とは裏腹に、ルシファーはどんどん平静ではなくなっていった。
 なにかが決定的におかしいわけではない。ただ、どこかシリウスの顔色を伺うようになって、どこか星団員に線を引くようになって、笑いかたが変わって、話が噛み合わないときがあって、そういう違和感が、誰の目からも明らかなほど、大きく膨らんでいた。
 そして、気づいたころには、手遅れだった。

「忌々しきルシファー・ゴーシュめ。これだけ呪われてもなお、星団長の座に居座りつづけるとは」

 ある日のこと、シリウスは宮殿で、そんな会話を耳にする。思わず足を止めれば、柱の陰に身を潜める体勢になった。
 シリウスの視線の先にはカドリング家の者がいる。と言っても、シリウスより何世代もあとの、分家にあたる者たちだった。そのうちの若い衆が「その呪いとはどんなものなのですか」とこぼす。

「カドリング家に伝わる古い魔法でな。極めて高度な干渉魔法ゆえ、家門の中でも使える者は限られている、秘伝中の秘伝なのだ。家紋の黒馬に(なぞら)えて、“ナイトメアの子守唄”と言われている」
「死者にまつわる悪夢を見せるのですよ。呪われた者は夢見を悪くし、心を病ませます。しかし、ルシファー・ゴーシュは呪っても呪っても相変わらずで……魔法をかけた者の腕が悪かったのでは?」
「いやはや、知りませぬか、あの男の変貌を」
「二百年も前までは、我こそが神の王だと言わんばかりの図々しさでしたが、ここのところはめっきり鳴りを潜めています。かつてのあやつと比べれば、いまは羽をもがれた小鳥のようなもの」
「そんなかわいらしいものではないがな」
「毎夜毎夜、死んだ仲間が夢枕に立ち、己を責めたてる言葉を吐いてくるのだ。気が狂わないほうがどうかしている」

 気づいたころには。
 シリウスはその者たちに魔法を浴びせていた。電撃を、灼熱を、痛みを与え、這う這うの体で逃げ惑う背に追い打ちをかけた。気絶した彼らに一瞥もくれず、その場にいた者の中で一番老いた者を磔にした。宙に浮いたまま、震えた声で「シ、シリウスさま、おやめくだされ!」と訴える顔へ、(つえ)を突きつける。
 その者の目には、シリウスの魔力が轟々と燃えているのが見えた。まるで本当に炎が揺れているように、熱く輝いていた。魔力がじりじりと体を焦がす。それは殺意にも似ていた。

「いつからルシファー(あいつ)を呪っていた? 素直に答えなければ、今度はお前が“ナイトメアの子守唄”を聞くことになるぞ」

 シリウスの言葉に、その者はさらに震えあがった。
 息を呑んでから「わ……わかりません」と答える。

「ほう。そんなにお前も呪われたいか」
「本当にわからないのです!」張り叫ぶように訴える。「私が生まれるよりも前から、ルシファー・ゴーシュは呪われていたと聞いています! 少なくとも六十年前、あるいは星団殺しが現れてからずっと……!」

 魔弾の射手が現れてから、ルシファーが批難の的になっていることは知っていた。また、彼自身が自分を責めていることもわかっていた。なにかに取り憑かれたように気を立てていて、期待にも叱責にも応えようと板挟みになって。そういう彼を、シリウスはすぐそばで見ていたはずだった。
 でも、気づいたころには、手遅れだった。
 だって、ルシファーの魔力は、あんなふうに揺れない。ルシファーの魔力は、一目で圧倒されるほどに勇ましく、毎瞬爆発しつづけるように鮮烈で、彼自身のように黄金に照り輝いていた。それなのに、誰の目からも明らかなほど、いまの彼は陰っていて、あんなのは、ルシファー・ゴーシュじゃない。
 彼は、ルシファー・ゴーシュではないのだ。

「シリウスさま……何故、このような無体を……」磔にされたまま、その者はシリウスへとこぼす。「貴方はずっと、あの男を気に入らなかったのではないのですか?」

 そうだ。ルシファー(あいつ)のことは、最初から気に食わなかった。
 でも、団長になるのはお前だと思ってた。
 誰よりも強い魔法使いだと、思っていたのに。





「——つまり、ルシファー・ゴーシュはカドリング家からのやっかみを受け、呪われ、仲間の死に立ちあうたびに心を壊していった、ということか」

 事情を聞いたラリマーが淡々と告げる。御側(おそば)(づか)えのルピナスが、「またとんでもないこと聞いちゃった……」という顔でぞっとしていた。
 宮殿の医務室には重苦しい空気が漂っている。
 しかし、この場にいるのは長寿の魔法使いたちばかりなので、カノープスは林檎を食べていたし、カメロパルダリスはため息をつくだけだったし、サダルメリクは「らしいよ」と答えながらフルーツバスケットを物色していた。

「でも、その後の処理は副団長が全部やったみたいなんだよね」
「すごかったなあ、あのときの副団長」カメロパルダリスがしみじみと言う。「自分もカドリング家の人間なのに、真っ先に糾弾して、実行犯を処罰して、家門からも除籍したんだって? やばくね?」
「当然だ。星団に仇なす者は許さない。また、正式に認められた星団長を害する行為は、誇り高き四大名家の一つであるカドリングの名を貶める」少し間を置いて、シリウスは続ける。「……それに、俺がなにをしたところで手遅れだ。あいつは魂を割り、文字どおり、人が変わった。いつだったか、ルシが言ったんだ。死んだ仲間の声が聞こえる、お前のせいでって泣いている、と。それからはずっと

だ。呪いを解いてもなお、あいつは自分をヘスパーだと思いこんでいる」

 物怖じしない、他者からの期待に胸を張る、どこまでも傲慢で美しいあの男は、見る影もなくなった。いらぬ気を配って、穏やかに笑って、「自分なんて」と卑屈になった。
 それをシリウスは忌々しく思っている。

「副団長が気に病むのもわかるけどさあ」サダルメリクはバスケットからオレンジを拾いあげて言う。「それを引きずったところで、昔の団長が帰ってくるわけでもないだろうに」
「副団長って、団長へのあたりが強すぎるんだよな~。たまにマジでやばい空気になるから、俺、なんにも知らないときは本気で焦ったもん。フォーマルハウトとかミーティアに泣きついたりしてさ」
「そうそう! 星団の規律とか気にするなら、副団長こそ態度を改めるべきだ! 新星だってビビる! オリガが副団長に懐いてるのが奇跡なんだよ!」
「黙れ。あんな腑抜けをルシと認めるわけにはいかない」
「だから、ルシファーじゃないんでしょ。彼はヘスパーなんだから」
「誰だそいつは。近衛星団の団長はルシファー・ゴーシュだぞ」
「本っ当、君ってさあ……」

 サダルメリクは呆れたようにこぼした。
 しかし、シリウスは言葉を続ける。

「俺が気に入らないのは、解離した人格であるヘスパーの態度だ。口を開けば、俺なんかが団長で、俺が不甲斐ないばかりに……あの顔で言われるのにも、いい加減に虫唾が走る。あいつがあんなことを言うのは、ルシの深層心理の現れなんだろう。だから、いくら不甲斐なくたってしょうがない、若き星団長の人格を作りあげた。その人格が表に出るばかりで、ルシが裏に引っこんでいるのは、ルシが自分を憎んでいるからだ」

 サダルメリクは魔法でオレンジを輪切りにする。困ったような顔で、「そこまで分析できてるなら、もうちょっと優しくしてあげれば?」と告げた。シリウスは鼻息で返した。
 ラリマーは顎に手を遣り、「ふむ」と頷く。

「しかし、星団の魔法使いは人がいいな。話を聞くに、ルシファー・ゴーシュが魂を割った原因の一端を、副団長が担っているとも取れるだろう? 副団長を排斥しようとする動きはなかったのか?」
「ラリマー公子って、よく人の心がわからないとか言われません?」
「カドリング家の者の仕業だとしても、副団長は関係ないじゃないですか。なにも悪いことはしていませんから」
「まあ、実際に排斥運動あったとして、カドリング家が放っておくわけがないか……四大名家も一枚岩ではないにしろ、ルシファー・ゴーシュに取って代わるにふさわしい魔法使いを、みすみす見限ることはないだろうし」
「ルピナスさん、公国の情操教育ってどうなってるんですか? 同情は悪みたいな教えがある感じ?」

 ラリマーの歯に衣着せぬ物言いに、カメロパルダリスとカノープスもどんどんオブラートを剥いでいく。ルピナスはどちらにどう注意するべきかわからなかった。
 その言い合いの隅で、サダルメリクはふわふわと飛んできた

に気づく。赤いリボンを台紙にしていて、直感でコメットからだと察した。
 宙を漂っていたリボンは、サダルメリクの頭上で重力に従う。サダルメリクはそれをキャッチして、綴られている文字を見た。
 
『ヘスパーさんがルシファーさんになりました』

 サダルメリクは「おっと?」とこぼした。





 大先生に送った葉書はちゃんと届いているかしら。頭の端でそんなことを考えながら、コメットは先を行く魔法使いを見上げる。

「あの、ルシファーさんっ、どこ行くのっ?」
「魔弾の射手を探しに。君こそどこまでついてくるんだ。一人で外に出ちゃ危ないだろ? 早く家に帰れよ」
「僕だって帰りたいけど、でもっ」

 コメットは混乱していた。
 さっきまでヘスパー・ゴーシュと話していたのに、突然ルシファー・ゴーシュに変わっていたのだ。
 彼が魂を割ったという話はサダルメリクから聞いていたけれど、いざ目の前にすると、その豹変に驚いてしまう。
 意思の強そうな眼差しだとか、歯切れのいい口調だとか、一つ一つの立ち振る舞いはもちろんのこと。明らかになにかが違うのだ。
 爆散する超高熱の燃焼が間近にあるかのような存在感。その輝きは目に痛いほどで、コメットの網膜に強く焼きつく。
 まったくの別人だった。
 このひとがルシファー・ゴーシュなんだ。
 そう思えばこそ、コメットの中で「いきなり変わっちゃったけど、このひとを放っておいて大丈夫なの!?」という不安が膨らむ。
 えーん、大先生、早くお返事ちょうだいよう、僕一人じゃなんにもできないよう、とコメットは半泣き寸前でルシファーの後を追っている。
 しかも、ルシファーはヘスパーよりも大股気味で、こちらに合わせて歩いてはくれないのだ。たまに振り返ってくる視線から「なんでついてきてるんだろう」という困惑が滲んでいる。送ってくれるって行ったのに。ちょっと寂しい。
 やがてコメットは石畳の縁に蹴躓いた。一部が割れて段差になっていたのだ。あられもなく「わぶう」という悲鳴を上げ、地べたに倒れこむ。踏んだり蹴ったりだ。
 倒れこんだままむくれていると、踵を返したルシファーが駆け寄ってきた。

「大丈夫か? 怪我は?」
「ううう、手が痛いです」
「見せてみろ」

 コメットは上体を起こし、へたりこんだまま、両手の平を見せる。思わず手をついて転んだため、わずかに擦りむいて赤くなっていた。

「治してやる。面白い感じに」
「ありが、え、面白い感じ?」
「"Fantastico(ファンタスティコ) Abbandone(アッバントーネ)"、"Volante(ヴォランテ)"」

 ルシファーは杖を抜かず、指揮棒のように人差し指を振るって、呪文を唱えた。
 すると、コメットの視界を瑠璃色の蝶が横切る。羽ばたきのたびにあらゆる青へと移り変わる、美しい翅。幻想的な光景だった。
 ただ、蝶の飛びかたが変てこで、擬音で表すなら「ひらひら」ではなく「ペコッペコッ」だった。
 コメットが思わず失笑すると、魔法をかけたルシファーまで笑った。

「あははっ、嘘だろ、なにこれ? こんなふうに面白くするつもりはなかったのに、俺の中のイメージが具体的でなかったから? 蝶を優雅に飛ばすのって難しいなあ」

 ルシファーが指揮すると、蝶はコメットの手の平に止まった。コメットはそのくすぐったさに肩を震わせる。たちまち、蝶の翅が青から赤へと変貌した。手の平の怪我がきれいさっぱり消える。
 コメットが「えっ! すごい!」と顔を上げると、ルシファーがしたり顔で言う。

「シリウスはもっと上手にやるんだ。君にもあの絶景を見せてやりたいよ」
「シリウスって、副団長さん?」
「ああ。そういえば、君はもうシリウスと会ってたっけな」

 ルシファーは平然とそう言ったけれど、コメットは「ああうぅん」と生返事だった。
 コメットがシリウスと会ったのはサダルメリクの見舞いに来たときで、そのときの彼はルシファーではなくヘスパーだった。それなのに、ルシファーである彼と話が通じていて、たぶんコメットのことも覚えてもいる。
 目の前の彼とどういう態度で接するべきか、コメットは悩んだ。そんなコメットの葛藤を、ルシファーは察する。

「ぼんやりとだけど覚えてるんだよ。ヘスパー(あいつ)がどうかまではわかんないけどな。ていうか、お前は俺のこと、サダルメリクから聞いてるのか?」
「えっと、はい」コメットは恐る恐る言葉を続ける。「ヘスパーさんはさっきまで苦しそうにしてたの。死んじゃったひとたちのことを思い出して……ルシファーさんは大丈夫?」
「ああ。呪いはもう解けてるから」
「呪い?」
「俺の仲間はいいやつばっかりで、あんなことを言うはずないってわかってる。でも、そいつらをみんな守れずに、むざむざ死なせたんだ。俺は、魔弾の射手をこの手で仕留めるまで、合わせる顔がないんだよ」

 ルシファーはおもむろに立ち上がり、コメットの手を引いて立たせてやる。
 立ち上がったコメットは、ルシファーの手を掴んだまま、彼の顔をじっと覗きこんで言った。

「泣かないで」
「泣いてないさ」
「怒ってるときほど悲しいんでしょう。ネブラもそうなんだ。隠れて泣いてるひとはみんな怖い顔をしてるんだね」

 ルシファーの血濡れたような瞳が険しくなっているのが見える。ぞっとする美顔が悪魔のような覇気を帯びる様は、息を呑むほどの気魄(きはく)があった——これは憎悪だ。
 コメットの目に映る今のルシファーと、いつかのネブラの炎が、等しく重なる。
 サダルメリクはコメットに希望を望んだけれど、絶望に落としつけられた相手に、どんな言葉を、どんな魔法を届ければよいのか、コメットにはわからない。

「……僕がもっと物知りだったら、立派な魔法使いだったら、花火なんかで誤魔化したりしないで、もっと違うことができたのかな」

 ルシファーは苦笑して魔力を緩める。
 四百歳を超える魔法使いが、こんな幼い子供に気遣われたら終わりだ。

「俺は魔弾の射手を追う。君はそろそろ家に帰るんだ。サダルメリクや君の師匠が心配するだろ」
「でも、ルシファーさん。魔弾の射手をどうやって探すの?」
「昨日のシリウスたちとの戦闘現場に、やつの魔力がべったりこびりついていた。さすがに、宮廷魔法使い四人を相手取りながら、痕跡を残さないよう魔力を調整するのは、やつにとっても至難の業だったんだろうな。とはいえ、やつは身を隠すのも上手い。簡単には見つからないだろうが……みんながここまでがんばってくれたんだ、団長の俺がやってやらなきゃだよな」
「……大丈夫?」
「そんなに心配してくれなくても、俺はルシファー・ゴーシュだぜ」

 そう言っても、コメットの表情は変わらない。純粋な二つ眼が不安げに揺れている。
 いつから自分は期待されなくなったんだろう。
 ルシファーはそれを噛み締めるように目を伏せた。ややあってから、くるりと踵を返し、背中を向けたまま「じゃあな」と手を振った。
 コメットがその背を見送っていたとき、ふと、視界を青緑が横切る。

「ん?」

 目を瞬かせる。ふわふわと空を舞うように降りてきた、光沢する青緑のリボンだ。
 葉書だとわかったけれど、誰から届いたのかわからず、コメットは「えっえっ?」とわずかに後ずさる。しかし、リボンの尾に文字が綴られているのが見えて、目を凝らした。

『親愛なるコメットさま。ご注文のお品物が完成いたしました』

 その文字に目を瞠る。
 ライラからだと直感した。
 自分に宛てられたものとは思えないほど丁寧な語調の文章に、コメットは厳かに目を通す。

『このような時分に店頭までお越しいただくのも申し訳ないので、配送にてお品物をお渡しさせていただきたいと思います。確認ができましたら、受け取りのサインをお願いいたします』

 コメットが「確認?」と首を傾げると、再びリボンが動きだす。
 それは踊るように螺旋を描いたあと、美しい蝶の輪を編み、金銀の火の粉を散らした。
 蝶の結び目に空洞があることに気がついたとき、そこから

の輪郭がじわじわと浮かびあがってくる。
 コメットの身長を越える長箒だ。柄はあえて粗く削られ、木目と切り口がエキゾチックな模様としてマッチしていた。穂は絵筆のように束ねられた赤シダだ。黒檀のようなシックなカラーにカスタムしていたが、ところどころが金に染毛されてもいて、散らばったオーロラの粉末がプリズムのようにきらめいている。穂を束ねる金具は装飾的な彫刻が施されており、安っぽさは微塵もない。そして、金具の根元にはコメットの名前が刻印されていた。
 世界にたった一つ、ライラ律に則って仕立てられた、コメットの(つえ)がそこにあった。

「す、すごぉい……!」

 コメットは蕩けた感嘆をこぼす。
 葉書のリボンは柄に巻きついたラッピングを模していた。そのリボンの尾が独りでに蠢き、サイン用紙と筆ペンを呼びだす。コメットは一も二もなく筆ペンを取り、受け取りのサインをした。
 サインを書き終えると、たちまちリボンはほどかれる。コメットが箒の絵を握ると、リボンに書いてある文字が変化した。
 それは<豆の樹>ではなく、ライラからのメッセージだった。

『おめでとう、コメットにとって初めての杖よね。貴女が魔法を奏でるときには、きっと心強い味方になるはずよ』

 コメットの胸が大きく脈を打つ。
 それはどきどきの最高値だった。

『コメットは、どんな魔法を使いたい?』
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