第10話 水瓶には返らない

文字数 12,347文字

 ラリマーを送ったサダルメリクとネブラが帰路についたのは、黄昏と宵闇のあわいを抜け、月明かりを頼りにするころだった。
 サダルメリクの箒で二人乗りをし、冷たい夜気の合間を抜けていく。魔法灯の輝く街をすぎれば、家の窓明かりがちらほらと瞬くだけ。サダルメリクの家はそこから少し離れたところにある。

「コメット、きっと拗ねてるよ」

 サダルメリクが囁くように言った。すんとしたお澄まし顔でいるネブラの頬、血の乾いた切り傷をそっと撫でて、サダルメリクはため息まじりに小さく笑む。

「言ってあげたらいいのに。危険だからもうついてきてほしくない、って」
「……別に」
「見習いとはいえ多少は魔法の心得のあるネブラと違って、コメットは正真正銘の見習いだからね。魔法での戦闘になればそりゃあ足手纏いにしかならない。君が守りきれるとも限らない。だから帰したんでしょ? 怪我してほしくないから」
「仮にそう言ったところで、納得しないだろ」
「わけもわからず置いてけぼりにされるよりは納得できたんじゃない? 可哀想に。部屋に籠ってべそかいてるかもよ? 怒って出てこないかも」
「そんときはそんとき」ネブラはサダルメリクをじろりと見遣る。「……てか、俺に弟子なんかつけて、こうなるってことくらい読めてただろ。なんで先生はあいつの弟子入りを許したの」
「うーん。なんでだろうね?」
「おい」

 視界の先では三階建ての塔の家が見える。一階には明かりが灯っているため、コメットが夕餉の支度をしているのだろうと予想できた。

「すっとぼけんな、言えよ、先生」

 ネブラは足を揺らしてサダルメリクの脹脛(ふくらはぎ)を小突いた。風に煽られて首筋も手もすっかり冷えている。夜風から体を守るように外套(ガウン)に身を竦めた。

「……先生?」

 あまりに静かだった。どちらかと言えばおしゃべりで、人当たりもよく、対話を大切にするサダルメリクが、ネブラの声を無視することはない。だからこそ、ネブラはサダルメリクの異常を察知した。その横顔を見遣る。
 ペリドットのような髪がさらさらと靡く。その隙間から、表情の抜け落ちた(かんばせ)が覗く。ただじっと森のほうを見つめていた。ネブラには見えないものがサダルメリクには見えていた。感じ取れていた。
 そのままゆっくりと箒は下りていく。サダルメリクとネブラが地に足をつけたのは家の玄関扉の前だった。家から明かりはこぼれているものの、中は静かだった。ネブラはそっとサダルメリクを見る。サダルメリクが適当なところに箒を立てかけて「“ただいま”」と唱えると、扉は独りでに開く。

「——フンフ~ン、フフフフ~ン」

 中からは、生温かい匂いが漂ってきた。どこからともなく聞こえてくる鼻唄を聞きながら、サダルメリクとネブラは家に入る。ネブラが後ろ手で扉を閉めた。サダルメリクは外套を脱ぐこともせず、慎重な足取りで進んでいく。

人参(ニンジン)とキャベツはくてくて~、ジャガイモはほくほく~」

 奥の調理場では、コメットが歌いながら鍋を掻きまわしている。チキンコンソメの香ばしい匂い。後ろ姿でもポトフを作っているのがわかる。一人で先に帰らされたというのにえらく上機嫌だ。料理と鼻唄に夢中になって、サダルメリクたちが帰ってきたことにも気づいていない。
 もう一つ「フフフ~ン」と間抜けに歌いあげ、三枚の深い皿にポトフを入れていく。グリーンチェックのミトン型の鍋掴みをつけ、二皿を一気に持ちあげた。くるりと身を翻せば、サダルメリクと目が合う。

「あっ、大先生! おかえりなさい」

 コメットはぺかーっと笑って調理場を抜けた。サダルメリクの脇を通りすぎ、居間のテーブルにポトフを並べる。お腹を空かせているだろうと気を遣ってか、さきほどまでの鼻唄をやめて「ちゃちゃっと並べちゃいますね」と小走りになる。いつもなら「熱いから気をつけなよ」と声をかけるはずのサダルメリクは、瞬きをするだけ。

「コメット。今日、ここに誰か来た?」
「えっ? お客さんですか? 来てないですけど」

 ネブラも居間へと入る。ぼんやりとした顔でサダルメリクを見上げるコメットを見た。声音からわかっていたが、コメットはいつもどおりだ。しょぼくれた顔をしているどころかどこか陽気ですらある。鍋の火の熱気に当たっていたからというより、嬉しいことがあったから。そんなことが伺える表情の柔らかさだ。
 コメットの返事に、サダルメリクは「本当に?」と再び尋ねる。

「ンンン~?」コメットは首を傾げる。「もしかして、なにか荷物が届くはずだったんですか? だったら、ごめんなさい。ごはんの支度で気づかなかったかも……そうだ、扉の前とかにないですか? もしかしたら置いていってくれてるかも!」

 コメットが嘘をついている様子はない。本当に心当たりがないのだ。
 しかし、サダルメリクはコメットに近づいた。その身に纏う魔力に目を凝らす。
 そのとき、コメットの頭の上を、よちよちと羽虫が這った。
 サダルメリクがかすかに息を呑む。ネブラも「うわ、不潔」と顔を顰めたが、次の瞬間、腰からフルートを抜いたサダルメリクに驚愕する。サダルメリクがフルートへ口づけると、蕩けるように華やかな音色が居間に響いた。
 調理場の水瓶から水が溢れる。

「どひゃあ!?」

 水はサダルメリクの音色につられて大きな蛇のように身をうねらせた。ぐるんぐるんとコメットの周りを旋回していく。たちまちコメットの頭から羽虫は離脱。水を嫌うように飛び去っていく。けれど、サダルメリクはそれを許さない。奏でるフルートの音色は魔法を紡ぎ、水の蛇が羽虫へと襲いかかる。
 水の蛇は羽虫を追い、その体を飲みつくさんとしていた。それを羽虫は巧みに逃れていく。ばね状の玩具(スプリング)のようにのたうち回る水の蛇は、壁やら椅子やら床やらに衝突し、飛沫を上げては砕け散り、また再生する。水の弾丸による猛攻は家中を水浸しにした。
 コメットはひいひい喚きながらネブラのほうへと駆け寄っていく。身を縮こませてネブラの外套(ガウン)の中に忍びこんだ。不法侵入した狼藉を責めることなく、ネブラは羽虫を執拗に追い詰めるサダルメリクを見つめていた。
 サダルメリクはフルートを吹きながら、片足の爪先で床をノックする。コンコンというたったそれだけの音に合わせて、床のモザイクタイルの部分が浮きあがった。先刻ネブラの用いたアンドロメダ・ディーの魔法である“ご機嫌いかが? 石畳さん”の短縮詠唱だ。タイルは床に垂直になって整列し、壁に沿って飛ぶ羽虫を細断せんと襲った。その動きは俎板(まないた)の上のキャベツを微塵切りにする包丁にも似ていた。カカカカッと甲高い音がリズミカルに鳴る。それすらも羽虫は悠々とすり抜けていった。
 フルートがひときわ強く鳴る。たちまち、水浸しだった床や壁が発熱したように煙を上げた。水分が瞬く間に蒸発していく。居間はたちまち蒸されたような湿り気を帯びた。羽に水分を含んで重たくなった羽虫はそのスピードをわずかに落とす。低空飛行するようにテーブルと椅子の間隙を飛んでいく。

「大先生! 待って、その虫はっ!」

 コメットの声など聞こえていないかのように、サダルメリクは魔法を止めない。羽虫は逃れるように、螺旋を描きながらテーブルの真上へ飛行する。サダルメリクは目の前にあった椅子へ片足を乗りあげる。
 瞬き。まさしく刹那と呼ぶ、一拍にすら満たないわずかな間。その羽虫は身をわずかに揺らして、完璧な変身魔法(メタモルフォーシス)を解く。
 現れたのは(ハシバミ)色の外套(コート)と三角帽子を身に纏った、垂れ目がちな(まなじり)の青年だった。彼はポトフを避けるように大股でテーブルの上に立つ。フルートの音を止めたサダルメリクと目が合った。剣でも振るうようにサダルメリクはフルートを彼の首筋に添え、あとは(はじ)くだけの右手の指を彼はサダルメリクの顎先に添える。
 羽虫が人の形を取った途端、家にかけられた防犯魔法が作動した——そこらじゅうの家具がわずかに光りだす。それらはふわりと宙へ浮いたと思えば、鋭利な切っ先を彼へと向け、一斉に襲いかかった。針の筵。その言葉が誰しもの頭をよぎり、けれど、彼が左手の指をパチンと鳴らせば、その身を貫かんとしていたカトラリーも包丁もポールスタンドも、ぴたりと動きを止め、霧散するように落下した。鼓膜を割るようなけたたましい音が居間に響き、消えていった。
 サダルメリクと彼の視線はまっすぐに交わされたまま。いつでも(はじ)けるはずだった彼の右指は鳴らされることなくほどかれ、緩やかな動きでサダルメリクの輪郭へと滑らせる。気高い顎を撫でたのち、くいっと持ちあげ、蠱惑的に微笑んだ。

「すげーテンション高いじゃん。元気?」
「……トーラス」

 軽やかな彼の声調とは対照的に、サダルメリクの漏らした声は沈んだ。
 怒涛の一連に、ネブラは目を白黒させている。ネブラにしがみつくコメットも同じように驚いた表情を浮かべていたものの、しかし「大先生、トーラスのこと知ってるの?」と勝手知ったるような一言を落とす。サダルメリクは眉を顰めつつ、笑っていいのか困っていいのかわからないような、微妙な表情をした。トーラスと呼ばれた彼は「アハハハハ」と楽しそうに笑った。
 ネブラが伺うような面持ちで「先生?」と声をかける。サダルメリクはフルートを下ろしながら振り向いた。それを受けて、トーラスも手を下ろす。

「トーラス・ラドカーン。僕の……古い友人さ」

 テーブルを下りたトーラスは、サダルメリクの肩を組んで歯を見せて笑った。





 積もる話もあるからと、サダルメリクとケートスは二階へと上がることにした。せっかくなのでコメットは二人分のポトフを持たせてやった。二人はよそいなおしたポトフの器を携え、サダルメリクの部屋へと入っていく。扉を締めれば独りでに鍵がかかった。
 サダルメリクの部屋は、ひとによっては座に堪えないほど雑然としている。散らかっているというよりも物が多くて賑やかなのだ。幾何学模様のベッドカバー、レムリア瓢箪(ひょうたん)の酒器、天珠のカーテン、曰くつきのタリスマン、ホロスコープの模型に摩訶不思議なタペストリー。一見して理解不能という意味では調和が取れている。
 寄木細工の天板をしたテーブルにポトフを置く。天体図を模した大ぶりのテーブルランナーが敷物の代わりをしてくれた。サダルメリクは椅子に座り、トーラスはテーブルに座る。部屋の主は行儀が悪いとはツッコまない。自分も足を組み、頬杖を突いてスプーンを握ったので。

「君の変身魔法(メタモルフォーシス)は相変わらず精度が高いね」サダルメリクが先に口を開いた。「コメットの部屋にいた羽虫、君だったんだ? さすがだよ。魔力の気配なんて少しもしなかった。目の前にして、目を凝らしてやっとだった」
「俺の魔力、覚えててくれたの?」
「まあね。裏の森にべっとり。なにやったのさ」
「箒に乗って、三百エーカーを十秒でぶっちぎった」
「ああ……それでコメットの機嫌もよかったわけか」
「俺もちょっと本気出したから、相当濃い魔力が残ってただろうな」
「僕、なんか恨まれるようなことしたっけ、って思った」
「殺しに来たって? ないない。まあ、俺に気づいてくれたら嬉しいなーとかかわいい期待はしちゃってたけどさ、久々に会うから自信なかったもん」

 トーラスは両足をテーブル上へと上げながら、サダルメリクのほうへ向き直る。そのまま胡坐を掻くように座り、背後へ置いた両腕へと体重を乗せ、「だってさ、」と首を傾げる。

「こうして会うの、俺たちが《大洪水》を起こして以来じゃね?」

 サダルメリクは息を含ませて笑った。
 トーラスの言うとおりなら、今となっては誰にも語られない、御伽噺みたいな太古の時代だ。何故なら、途方もない嵐による豪雨が地上を襲い、当時の文明のほとんどを水泡に帰したという、未曾有の大災害については、神代とも呼ばれる紀元前のこととされている。神代だなんて大袈裟な、とは思う。高々千年か二千年か前の話だ。
 その時代、《十二星者》と呼ばれる有能な魔法使いたちがいた。彼らは大義を持って集い、戦い、導き、多くの者に賞賛されるなか、ある日突然——世界を滅ぼした。

「もう全部海に沈めてしまえばいい、って」トーラスはかつてのことを思い出し、しみじみとした顔をする。「最初に言ったのはお前だったよな」
「やめてよ。若気の至りさ。有史より前のことなんて、文字どおり黒歴史だよ」
「こんだけ経てば時効だ時効。いい思い出じゃねーの。懐かしくなって、ここ二百年はあんときのやつらを探してたんだよ。元気かなって。探すの大変ですごい時間かかった。特にお前な! まるっきり名前変えてやんの。死んだって話は聞かなかったから、まあ生きてはいるだろうと思って魔力を探し回ったんだけど、なんだよ、サダルメリク・ハーメルンって。イメチェンか?」
「からかうなよ。キャラチェンさ。ここ五百年、僕は平和主義でやってるんだ。帝都に居着いて百年くらいだけど、地元民に愛される気さくな魔法使いでいるつもり」
「そもそもなんでチェンジしたの」
「いやあ。いつだったか、当時の僕らのことを知ってる魔法使いに会ってさ。そのときはなにもなかったんだけど、もし他にも知ってるやつがいて、恨まれでもしてたら面倒だなあと思って」
「あーわかるー」思い当たる節があったので、トーラスは強く指差した。「お前らを探してた最初の五十年くらいで、スコーピウスの弟子に会ったんだけどさ、あんま俺らのことよく思ってない感じだった」
「へえ。スコーピウスのほうは元気だった?」
「死んでたよ」

 トーラスはポトフをスプーンで掬った。コメットの歌いあげたくてくての人参(ニンジン)とキャベツがぽたりと汁を垂らす。一気に一口で食べこんで、咀嚼しながら「スコーピウスだけじゃない。俺たち以外はみんな死んでた」と言葉を続けた。サダルメリクは「そう」とだけ返した。

「まあ、最年長からくたばってくのは妥当か」トーラスは肩を竦める。「いまも生き残ってるのは、当時の若造だった俺らくらいのもんだろ。最年少組はまだまだ現役で長生きしそうだけど」
「あの殿上人と犯罪者?」
「二人はわっかりやすく名前が通ってるから、生存確認するまでもなかったわ。片方は会えねーし、片方は会いたくもねーけど、元気そうでなによりだよ」
「どっちもはしゃぎすぎ。小うるさい年配がいなくなって清々してるんじゃない?」
「特に犯罪者のほう。あいつは昔っからわけわかんなくて怖かったけど、いまは年季が入ってさらにわけわかんなくて怖い」
「拷問器具の擬人化」
「前世は劇薬だし、きっと来世は爆薬」
「うわ、なんか本当に懐かしくなってきた」サダルメリクは顔を綻ばせる。「あのときは十二星者なんて呼ばれてたけどさ、僕たち本当は十二人じゃなくて十三人なんだよねえ。双子がいるのをうっかり一人数え損ねたみたいで」
「やむを得ん。仲間内ですらあの二人が双子だって気づくのに百年かかった」
「二人は別行動を取ることがほとんどだったおかげから、みんな単独でしか見たことがなかったんだよね。おまけに双子の顔があんまりそっくりでさ。初めて二人一緒に現れたとき、リブラがなんて言ったか覚えてる?」
「分身魔法上手すぎ、双子かと思った」
「それ聞いて二人がゲラゲラ笑ってさ!」
「そりゃそうだろ、双子だもん!」

 ポトフを食べることも忘れて、二人はアハアハと笑いあう。脳裏のさらに裏の四隅の角、ずいぶんと遠く小さくなったはずの、(カビ)の生えかかった記憶は、無理に引っ張りだせばあのころのまま、むしろいっそうの笑い話になった。
 ひいひいと笑いながら息を整えるトーラスが、ふと「サダルメリクって呼んだほうがいい?」と訊く。

「うん。気心の知れてる友人からは、メリクって呼ばれてるけど」
「じゃあメリクさんや」トーラスは茶化すように呼んだ。「さっきの、出会い頭のあれはなに。懐かしの友にっていうか、無力な羽虫に対して酷いんでないの。キュートアグレッションってやつ?」
「言ったろ。僕は平和主義の気さくな魔法使いをやってるんだ。君たちと馬鹿やってた当時の、買ったばかりのペン先みたいにトゲトゲした僕を話されると困るんだよ。余計なことをしゃべらせないうちに、いっそ口を噤んでもらおうと思って」
「危な。如雨露で注いだみたいな魔力しかねーみたいに振る舞いたいなら、あれはいっそやりすぎなんじゃね? コメットもネブラも引いてたぞ」
「ていうか君、コメットに僕のこと吹きこんでないよね?」
「俺はえらい子、空気の読める子。お前があのガキらの前で猫被ってんのは知ってっからね。なんにも話してないよ」トーラスは肩を竦める。「ずいぶんと入れこんでるみたいだな、あのネブラとかいう弟子に。お前、そんなやつだっけ? もうちょっと周りに冷たかったイメージなんだけど」
「僕は昔から温厚な魔法使いだよ。ネブラについては、自分でもらしくないって思ってるけど……なんか昔の僕たちと重ねちゃうんだよね」サダルメリクは明後日のほうを見遣る。「夢も希望も道徳も倫理も、世界のありとあらゆるものを蹴飛ばして、破滅の彼方へと走りだすような、無闇なところがさ。ネブラの未来は明るいよ。明確だ。世界を火の海にするっていう一点でね」
「考えることがお前にそっくり」
「弟子は師匠に似るって言うし」

 否。ネブラはサダルメリクの弟子になるよりも前から、破滅への素養はあった。自分が絶望していたことに見て見ぬふりをして、そして決定的に絶望して、だから世界を燃やし尽くしてやろうと、怒りでその心を煮え滾らせている。
 けれど、サダルメリクはそんなことを望んでいない。

「絶望で魔法を使ったところで、虚しいだけだ」サダルメリクは言った。「あの《大洪水》がそうだった。全部沈んで真っ平らになった世界を見て、爽快感を覚えたのはほんの一瞬だけ。あとはその水平線みたいになにもなかった。思い出すだに嫌になるよ。やるだけ無駄だったね」
「沈めといてそれ言う?」
「世界中の文明が軒並み滅んだおかげで、復興にも時間がかかったしさあ。最初の百年はびっくりするぐらいなんにもなかったじゃない? あれをもう一回やるとか僕は絶対に耐えられない」
「沈めといて~~それ~~」
「ネブラを弟子にしたのは、彼の世界への復讐を止めるためさ。僕と同じ気持ちを味わってほしくもないから。目の届くところにいてほしかったんだ。あのままあの子を放っておくことはできなかったしね」
「じゃあ、コメットがネブラの弟子になるのを受け入れたのにも理由とかあんの?」
「ネブラの復讐を止めるには、ああいう希望的観測でしか物事を見れなさそうな能天気な子が必要だと思ったんだ。ほら、僕は温厚で朗らかな魔法使いだけど、世界を海に沈めてやろうっていう破滅思想はあったわけだし、ネブラを改心させるどころか逆に関心させちゃいそうじゃない。その点、コメットは、ちょうど痒いところに手の届く子だったんだよね。せっかくだし拾っちゃおうと思ったのさ」

 誰かに聞かれでもしたらぞっとされるような話だ。サダルメリクはあえて露悪的な態度を取ろうとしているわけではない、というのが致命的に最悪だった。しかし、類は友を呼ぶので、トーラスはサダルメリクと似たような感性をしており、本気で「なるほど」としか思わなかったし、口に出したのは「なるほー」だった。

「そんで? メリクの目論見どおり、上手くいってんの?」
「まだなんとも。ネブラはコメットのこと別に嫌いじゃないだろうけど、持て余してる感じが強いから。生まれたての仔犬に懐かれたのと同じかな。鬱陶しくても蹴飛ばせないっていうかさ」
「蹴飛ばせなくても突き放しはするだろ」
「あの子は性根が受け身だから、能動的に振る舞うことはないよ。喧嘩の売りかただって僕が教えたくらいだし。無条件に懐いてくる相手ならなおさら無下にはできないはず。早いとこほだされてくれるといいんだけど」サダルメリクは眇める。「まあ、それは、あの二人次第かな」





 所変わって、居間で二人夕餉にありつく、ネブラとコメット。
 サダルメリクとトーラスの散らかした居間を二人がかりで片づけ、やっと食事ができるといった達成感と、大人のいない解放感で、ネブラは肩肘をつくようにしてだらしなく、コメットはゆらゆらと足を揺すりながら、ポトフを食べていた。

「それでね、トーラスと一緒に箒で飛んだんだよ。すごかったなあ、裏の森を一瞬で駆け抜けてっちゃうんだもん! やっぱり箒で飛ぶのって魔法使いっぽくていいよねえ。僕も一人前の魔法使いになりたいな。それから、魔力にはそれぞれ性質があるって教わったよ。大先生のは水っぽいんだってさ。僕の魔力は有耶無耶にされて全然よくわかんなかったけど……あっ、トーラスが僕の

を箒にしたらどうかって言ってくれたのは話したっけ? ネブラはどう思う?」
「先生をつけろって思う」
「ネブラ先生はどう思う?」
「勝手にしとけよって思う」

 長く思い息を吐いて、ネブラはスプーンで皿の底を突いた。
 その目の前でうかれているコメットの口は全く止まらない。ベーコンを掬ったスプーンを持ったまま、ぺかぺかと顔を輝かせてくっちゃべっている。つまらなそうなネブラなどおかまいなしだ。今日は最高の一日でしたとでも言いたげな陽気。
 へえ、面白いの、そうなの、ふうん、とネブラはなんだか面白くない気持ちでいる。昼間にあれだけあしらってやったのだから、サダルメリクの言うとおり、拗ねていてもおかしくはなかった。それはそれで面倒なので別によいのだが、一寸も落ちこんでいないのもそれはそれでどうなんだと思う。身構えて損した気分だ。
 うきうきと話していたコメットが「そういえばネブラ先生のほうはどうだった?」と尋ねた。

「どうって?」
「ラリマーさんの護衛だよ」
「別にどうも。ブルース侯爵の邸宅まで送るだけだったしな。何事もなかったよ」
「よかった。また襲われたら大変だろうなって思ってたんだ」
「逆に襲われてよかったかもな、あんなやつ」

 フン、とネブラが鼻を鳴らすのを、コメットはあれまと見つめる。
 ネブラとラリマーの二人はたしかに見ていて危うい。ネブラにとっては、ラリマー自身がドラゴンの逆鱗みたいなものだった。毎秒毎分がクライマックスであるかのように繰り広げられる地雷の二度踏み。ネブラの過去とラリマーの価値観を鑑みれば当然と言えた。水と油ではなく、火に油を注ぐ関係。
 けれど、昼間のことをコメットは思い出す。一つの事件を一緒に追って、二人で暴漢を蹴散らして、そのときばかりは阿吽の呼吸の二人に見えたのだ。ちゃんとお互いに話し合えば、意外と仲良くできるのではないかと思った。ところがこれである。ネブラは本当にラリマーのことが嫌いらしい。
 あーとかうーとかコメットが言葉を選んでいると、ネブラがそれを一瞥し、「なんも言わんでいいわ」とだけ告げた。コメットは困ったように押し黙る。

「……そういえば、さっきの大先生とトーラスの。最後、食器とかがいっぱいトーラスに襲いかかってきたのなに? 大先生が魔法を使ったようには見えなかったけど」
「あらかじめこの家にかけられた防犯魔法だな。この家の人間が許可を出さないと余所者(よそもの)は家の中に入れない仕組みになってる。無理矢理にでも入ればああやって家が侵入者を拒むんだ。例外は、虫や菌や生き物」
「だから羽虫の姿のトーラスは僕の部屋に入れたんだね」
「そうでもない。あれは意味わからん」ネブラはスプーンを(ねぶ)る。「たしかに、姿かたちを別物に見せる魔法の中でも、変身魔法(メタモルフォーシス)は最も高度な魔法だ。幻覚や錯覚の類じゃなくて、まんま自分の体を変えてる。でも、先生はその魔法にも対応した防犯魔法を組んでるはずなんだよな。特有の魔法式の魔力感知とかして。それなのに、あの男には通用しなかった。一片の魔力さえ悟らせない、隙のない変身魔法(メタモルフォーシス)……先生は古い友人とか言ってたけど、何者だあいつ」
「わかんないけどすごい。かっこいい魔法使いだね」
「そんなにかっこいいなら、あっちの弟子になれば?」
「ネブラ先生!」
「そしたら俺のことも先生って呼ばなくてもよくなる」

 ぐ、とコメットは言葉に詰まった。ネブラはコメットを見ておらず、スプーンで掬ったスープを飲んでいるところだった。
 コメットは俯き、頬を膨らませる。そのままずっと仏頂面でいてやろうかと思ったけれど、すぐにやめた。自分がどれだけ不機嫌になったところで、ネブラは痛くも痒くもない。ややあってから、コメットは「はあ」と大きく息をついて、ネブラへと向き直る。

「ネブラ先生。僕の師匠は君だよ。僕は君の弟子」
「なんで俺なわけ? 俺だってまだ見習いの魔法使いだぜ」
「なんでって……」コメットは悩む。「なんでかなあ。僕が一番最初に会った魔法使いがたまたまネブラ先生だったから?」
「ハッ、刷りこみかよ」
「刷りこみ?」
「生まれたばっかの鳥の雛とかにあるだろ。目の前の相手を親として思いこんで、懐いたり追っかけたりするんだよ。要するに呪いみたいなもの」ネブラはぬるく笑んだ。「初めて見た魔法使いがたまたま俺だったからってだけで、どうしても俺がいいって、俺じゃなきゃだめだって理由はないんだよ。本当に偶然でしかないし、一歩間違えれば、お前は俺に出会わなかったんだ」

 だから、俺の弟子なんて辞めればいい。そうしたら、一も二もなく手放してやる。俺は、お前の夢見るような、きらきらしてて、かっこよくて、素敵な魔法使いになる気なんてさらさらないよ。まだ星屑にすらなれていない、あの日の燃えかすでしかない塵屑(ごみくず)に、必死に縋りつくのはもうやめろ。
 そう、万感をこめてネブラが見つめた先で、コメットは口を開いた。

「……よくわかんないけどさあ」

 怖めず臆せず。コメットは丸い瞳を瞬かせ、眇めるようにネブラを見ている。その態度は鷹揚というか、いっそ小生意気で、あざとくすらあった。己を疑うことを知らない無垢なる魂が瞳の奥で光っている。

「ネブラ先生の言うとおり、もしかしたら僕は、ネブラ先生以外の魔法使いと出会ってたかもしれないよね。それこそ、ネブラ先生みたいに僕のことを馬鹿にもしなくて乱暴じゃなくて目つきも性格も悪くない、かっこよくて素敵な魔法使いと出会う可能性もあったかもしれない」
「おい、ただの悪口だぞ」
「でも、僕はネブラ先生と出会ったんだよ?」コメットは笑った。「君は僕の名前の意味を教えてくれた、夜を切り裂く星の名前だって。僕は君の弟子になった。これはあったかもしれないもしもの話じゃない。僕と君の思い出の話」

 孤児院を抜けだして歩きつづけたコメットが、魔法使いの見習いの少年と出会ったという話。その道のりを思えば、たしかに、一歩違えるだけで変わっていたかもしれない。コメットだって理解している。けれど、ネブラの言うことは、少しも理解できない。

「一歩間違えたらって、どうしてそんなもしもの話をするの? 一歩も間違えなかった今があるのに」

 そんなコメットに、ネブラは言葉を失った。雷に打たれたように震えた。スプーンを持つ左手の拳が握り締められる。そのまま力をこめつづければきっとスプーンは曲がってしまうだろう。白い喉仏の奥で、唸るような低い息を吐きだす。

「……呪いみたいなものだ」
「またそんなこと言って」
「そうでないなら、魔法にかけられたようなものだ。俺たちは魔法使いだから」
「どうだろうね。かけられたんだとしたら、ボタンかな、とは思うけど」
「ボタン?」
「外しちゃだめだよ」

 そう言って、コメットはにへらと笑う。
 そのまぬけな顔に、ボタンだとしたらきっとかけ違えたんだとネブラは言いたかった。言いたかったのに、言えなかった。かけられたのは自分なのかもしれないと思ってしまった。最悪だ。これはだめだ。気づいたら負ける。

「部屋で食う」

 そう言うが早いか、ネブラは大きな音を立てて椅子を立った。突飛なことにコメットは目を丸くして、そのあいだにもネブラはポトフの入った皿を持つ。どすどすと居間を出てゆき、そのまま階段を踏み鳴らして部屋に戻ろうとしていた。毛を逆立てた獣のような様子のネブラに、コメットはさすがに焦った。
 ネブラを追って居間を出たコメットだが、かける言葉も見つからず、荒々しく階段を上っていくネブラに「ねえ」「待って」「待ってったら」と追い縋ることしかできなかった。そんなコメットに「来んな」「待たねえ」「どっかいけ」とネブラは冷静に返す。歩幅の差から、コメットが自分には決して追いつけないことはわかりきっている。そして、部屋の扉に施錠魔法を仕掛けているネブラは、逃げきったら勝ちなのだ。
 三階にまで辿りついたネブラは自分の部屋に入った途端、勢いよく扉を閉めた。壁にかかったものなど全部落っこちてしまいそうな音が響く。

「いーん! 開けてよう!」

 その扉をノックしながらコメットが喚く。ネブラからの返事がないので、額やお尻をすりすりと擦りつけて呼びたてたが、碌に声も聞けなかった。
 どうあっても開ける気がないようなので、まるで操り人形でも動かしているかのように手指をうにゃうにゃと揺らし、「“開けゴマ”!」と唱える。しかし、そんな安易な開錠呪文でネブラが扉を開かせるわけがなく、むしろ、下手な魔法を使ったせいで、ネブラが自分の扉にかけた防犯魔法が作動した。どこからともなく落っこちてきた金盥(かなだらい)がコメットの頭をゴンッと殴りつけた。扉の奥から「開かんゴマ」と煽られる始末だ。コメットは地団駄を踏む。腹いせに、金盥を太鼓のように叩き、扉の向こう側へ威嚇した。

「なになに、なんの儀式」

 すると、二階からサダルメリクと話を終えたらしいトーラスが上ってくる。あるいは、コメットとネブラの攻防が響いていたのか。コメットは甘えるように扉へと擦りつけていた頭を起こし、トーラスを見上げる。扉の向こうにも聞こえるような元気な声で答えた。

「凶悪な化け物を呼びだそうとしてる!」
「…………」
「ネブラ先生と呼べ、って言われない! どうしよう!」
「よくわからんが、どうしようもないんじゃないか?」
「いーん! うへーん!」
「本当にどうした。そこってネブラの部屋だよな」
「急に居間から飛びだしてった! 僕、気に障ること言ったかな!?」
「あちゃー。時すでに遅し。こぼれたミルクを嘆いても無駄だし、砂時計の落ちた砂も元には戻らないよ」

 きゃいんきゃいんと泣き喚くコメットを見下ろして、トーラスはしみじみと思う。
 この調子じゃあ、ネブラがコメットにほだされるには千年かかるぞ、と。
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