第5話 ハーモニー

文字数 15,187文字

 義手の繋ぎ目に薬を縫っていたネブラは、爽やかな秋風に乗って響く、花の蜜のように蠱惑的な歌声を聞きつけた。悪寒がする。背筋をムカデが這うような、胃の中をナメクジが泳ぐような、そんな不気味なメロディー。
 一階の居間から外へ出るための扉へと歩いていけば、その歌声は近くなる。先刻、ケートスの授業を終えたコメットとミラが庭のほうへ出たのを見た。嫌な予感がむずむずと大きくなっていく。そのとき、ちょうど歌声がやんだので、ネブラは外へ出て行くことにした。

「……って、おい!」

 案の定、あの旋律を歌ったであろうミラと——酩酊して倒れたコメットが、四季がいっぺんに訪れたかのような庭の真ん中にいた。
 ネブラはぞっとして足を止めた。まるで原生林のような植物の茂りは、今朝までの面影なんて微塵もない。ざっと百年は時を経たかのようなありさまだった。ミラは両手で口元を覆って、ぐったりとしたコメットを見つめている。目を瞬かせてからその肩を揺すった。コメットが低い呻き声を上げた。
 やっと正気を取り戻したネブラは、突き飛ばされたように駆けだして、コメットのもとへと向かった。コメットは細い睫毛を震わせながら浅く息をしている。ネブラはその肩を掴んで抱き起こし、「おい、しっかりしろ、コメット」と呼びかけた。

「ぁ……っう、わ……」
「コメット。聞こえるか。返事をしろ」

 コメットはぐったりとしていて、話すのもつらいようだった。ネブラは小さく舌を打って、左手でコメットの耳に触れる。顔を近づけて、浅い息に耳を澄ませた。

「……典型的な魔法中毒だな」ネブラは顔を離す。「ミラ。お前なんの魔法使った」

 ネブラは睨むようにミラを見た。ミラは一度小さく震えたけれど、すぐに指輪を差しだして、『歌っただけ』と答えた。んなもんわかってるわ。ネブラは苛立ちながら、「なんの歌」と質問を重ねた。

『なんでもない』
「なんでもなくねえからこんなことになってんだろ。いいからどんな魔法か言え」
『魔法なんて……嬉しくて歌っただけ』
「はあ?」
「ふゎふぁ」
「なんだその間抜けな声は」
『コメットがしゃべった!』

 ネブラとミラはコメットの顔を覗きこむ。コメットはほとんど眠っているような覚束ない状態で、譫言のように「ふわふあの、うた」「すごい」「うたって、ミラ、もっとお」とこぼした。致命的なまでに減った語彙をふんだんに用いて、自分の耳にしたものがいかに素晴らしかったかを訴えた。こんなになってまでアンコールを求めているあたりがコメットの危機感のなさを物語っている。
 ネブラはミラを一瞥して、「絶対歌うなよ」と釘を刺した。ミラは両手を組んでしかと頷いたが、ネブラがそれを見ることはなかった。コメットの脇に腕を入れ、小さな腹を肩に預けるようにして抱える。その粗雑な対応には、さすがにミラもぎょっとした。しかし、話すことはできなかったので、指輪から驚愕した顔の絵を出した。
 それを無視したネブラがいざコメットを運ぼうとしたとき、異常を察知したケートスが家から出てきた。俵のように抱えられたコメットを見つけて、「まさか、ミラが!?」と駆け寄った。

「歌ったらしい。コメットがねだったんだろ。おかげで歌声にあてられた」
「ネブラ。コメットの状態は?」
「意識が朦朧としてるし、いつもの二倍は馬鹿になった」

 そのように話すネブラとケートスの後を追うミラの背中は、風に押されたアメジストセージのように力ないものだった。見るからに落ちこんでいるその姿を見る者はいない。ネブラは苛立った足取りで歩いているし、ケートスも苦々しい顔で口を閉ざしていた。ケートスが「代わろう」と言って浮遊魔法でコメットを浮かせたので、ネブラは抱えていた手を離す。
 三人は家に戻って、ベッドへ寝かせようとコメットの自室へ入った。半分ほど空いた窓からは風が吹きこみ、檸檬のように眩しい黄色のカーテンを静かに揺らしている。吊るされたタンジーのスワッグは、ベルリラから譲り受けたもので、磔刑になった花束とネブラが称したものだった。香りにつられたわけでもあるまいに、羽虫がちょこんと留まっている。
 ケートスはベッドの上のコメットを寝かせて、星座の模様のブランケットを被せる。寝苦しいかと思って髪留めも外した。邪魔にならないよう、枕のそばに置いてやる。それを眺めたのち、ネブラは口を開いた。

「……ミラはまだ魔法をコントロールできねえから話せねえんだっけ。詳しいことは知らんが。無意識に魔法を使ったって言ってたぞ、なんなんだこいつ」

 魔法使いは音に魔力を乗せて魔法を使う。だからこそ、自分の奏でる音色や歌声に、意思を乗せるのだ。たとえば、箒よ空を飛べ、扉を開けよ、水を汲め、火よ点け、傷を癒やせ。よほど使い慣れた呪文や魔法であれば、綿密な意思や想像力がなくとも魔法が発動する場合はあるけれど、しかし、そばにいた人間を魔法中毒にするほど強力な魔法を、ミラのように年若い娘が無意識で発動させたなど、ネブラには信じられなかった。
 ケートスは暗い表情でいたけれど、ややあってから「52Hzの鯨」と口を開いた。






 サダルメリクが仕事から帰ってきたとき、庭がとんでもないことになっていた。何事だと思いつつ家に入っても、居間には誰もいなかった。調理場にも人影はなく、二階にいるのだろうか、と足を向ける。星の綺麗ないい夜だったので、子供たちには悪いけれど、ケートスと一緒に酒を飲みに出かけるのもいいな、と思っていた。階段を上がれば、コメットの部屋の扉が開けっ放しになっていて、おまけに何人かの気配もあったので、サダルメリクは儀礼的なノックで開いた扉を叩き、中の様子を伺った。

「ただいま。ケートス、今夜は飲もうよ。いつものようにライラも誘ってさ」

 と、声をかけたところで、ケートスとネブラとミラが、ベッドを囲うようにして椅子に座っていることに気がついた。ベッドには部屋の主であるコメットが静かに横たわっていて、どことない雰囲気の重さに、「えっ、コメット死んだ?」とサダルメリクはこぼした。

「縁起でもないことを言うものではありませんよ……」ケートスは嘆息しながら返した。「気を失っているだけです。一時的な魔法中毒のようで。昼間に倒れてからずっと眠りつづけているのですが、薬を煎じたので、様子を見に来ていたのです。ご覧のように、まだ眠っているようですが」

 サダルメリクは「魔法中毒って、なんでまた」と目を瞬かせた。すると、ミラが少しだけ俯いたので、サダルメリクはたちまちに察した。なるほど、彼女がなにかやらかしたらしい。サダルメリクはどこか感心したように頷く。

「さすがだね、ミラ。かの魔法使いカロンをも魅入らせた、生まれながらにして魔法使いの娘。庭の異変も君の仕業か。いったいどんな歌声を奏でたのやら」
「……先生、知ってんのか?」
「ああ。その様子だと、ネブラも聞いたんだね」サダルメリクは続ける。「彼女の養父はファスティトカロン。魔法使いとしてはカロンという名のほうが有名かもね。星と共に海の怪物の名も戴いた、一等級の魔法使い。一昔前まではそこそこ名も知れていたけれど、ここ何十年かは隠匿生活を送っていた。アトランティス大陸からほどなくした距離にある無垢の島でね。外界から隔絶された孤島は、一人の娘を純真培養した。魔法を知らない魔法使い。それが彼女だ」

 ネブラはサダルメリクの話を聞きながら、先刻ケートスから聞いた話を思い出していた。魔法を知らない魔法使い——異端の娘ミランダ。
 曰く、彼女は長年、魔法を魔法と知らずに歌っていたのだという。魔法使い見習いは、正確な魔法を学ぶため、意識的にしろ無意識的にしろ、自己を制御するすべを身につける。音に魔力を乗せる魔法使いは、なんの気もなしに発した言葉すら、魔法となる可能性がある。思ってもみない魔法が発動することだってあるし、制御できずに魔法が暴走するおそれもある。そのために律する。調律する。
 しかし、彼女にはそれがなかった。来る日も来る日もただ歌った。誰とも交わらず、誰にも顧みない、ただただ楽しいだけの歌を。歌のような魔法を。

「……実際にファスティトカロンとの血縁関係があったかははっきりとしておりません。ファスティトカロンに妻がいたという話は聞いたことがありませんし。ただ、ファスティトカロンは、彼女のことをミランダと呼び、娘のようにかわいがっていました。また、彼女の魔法の師でもありました。ファスティトカロンは彼女に心のままに歌わせ、そんなファスティトカロンを彼女も父のように慕っていた」
「なんでケートス先生の弟子になったんだ?」
「ファスティトカロンが死んだんだよ」サダルメリクが答えた。「まあ、歳のいった魔法使いだったから、老衰だろうね。魔力も枯渇するくらいの年齢だったんじゃないかな。長寿のための魔法が解けて死んじゃって、その後、無垢の島の周辺は嵐に襲われた。いくつもの船が難破するような惨憺たる状態だったみたいだよ。調査の末、無垢の島から嵐の原因となる魔法が聞こえた。嵐の中に、彼女がいたんだ」

 あのときの衝撃を、ケートスはいまでもよく覚えている。
 嵐の吹き荒ぶ昏い島、その館の中で、朝焼けの髪の乙女が独りですすり泣いていた。その泣き声こそ、鎮魂歌(レクイエム)であり、哀歌(ラメント)であり、魔法であった。父を失った悲しみを持て余している彼女は実に憐れだった。

「俺は鯨座の不思議星(ミラ・ケーティー)という名を与え、彼女を弟子にすることにしたのです。しかし、それまでの人生で、無意識に無差別に魔法を使うことを常態としている彼女にとって、魔法の制御というのは艱難辛苦を極めました」
「この歳になるまで矯正もしてないようじゃ、魔法を使うときよりも、使わないときのほうが問題だよね。些細な言葉でさえも針穴に糸を通すような繊細な気配りを求められる。しかも、魔法を使う意思のない泣き声ですら、魔法になるときた」サダルメリクは顎に手を遣った。「どういう原理なんだろうね。例を見ないよ。失語症や構音障害ではないし、吃音症や歌病(かへい)の類とも違うね」
「ヴォカリーズに近いのでしょう。歌詞のない母音だけの歌。ファスティトカロンのもとで歌っていたときも、ミラは母音唱法を特に好んでいたようですし……ときたまに意味のない架空言語で歌うときもあったようで」
「うわあ。それはまた一辺倒な英才教育だ」
「そのために、強すぎる表現力が養われました。癖みたいなものですね。魔法を使う気がなくとも使ってしまう。今回、コメットが倒れたのも、ミラは魔法を使おうとしたわけではなく、気分がよくなって歌っただけだと言っています」
「無垢の島ではそれが許されただろうけれど、一歩外の世界へ出れば違う。特にこのアトランティス帝国では、法によって魔法規制がされているから、私有地以外での魔法使用は原則禁止。ハンカチを拾ってくれひとに

と言っただけで、ミラは違反を犯す可能性だってあるわけだ」
「ハンカチ……?」
「ミラ、落としそうじゃない? それで誰かに拾ってもらいそう」
「こいつの魔法が不安定ってのはわかったけど、」ネブラは割って入った。「そんな状態で、普通の魔法は使えんのか? 会話自体が危険だって話なんだろうが、だったら、魔法自体はどうなんだ?」

 ケートスは「まったく問題がないとは言えませんが……不自由はありません」と答えた。

「あくまでミラは、

使

というだけです。意図的に使うぶんには、むしろ玄人ですよ。ずっと魔法を使いっ放しの生活を送っていたほどですからね」
「じゃあ、ないとは言いきれない問題って言うのは?」
「……実践して見せたほうが早いでしょう」

 サダルメリクは魔法でコーディアルの入ったピッチャーを出現させた。それを窓枠に置く。ケートスは「ネブラ。あのピッチャーを、魔法で呼び寄せていただけますか」と指示した。

「“ピッチャー、来い”」

 ネブラがそう唱えると、ピッチャーは、中のコーディアルを一滴たりともこぼさないよう、緩やかな速度で浮かびあがり、ネブラの目の前で止まった。サダルメリクは「上出来」と笑う。ネブラはピッチャーを元の位置に戻す。

「これが一般的な魔法の発動ですな」ケートスが言う。「次はミラの番」
「“おいでピッチャー”」

 ミラが唱えた途端、箒で振り抜かれたのかというスピードでピッチャーが飛び、ミラとネブラの背後の壁に激突し、砕け散った。ミラの纏う優雅な雰囲気からはかけ離れた、荒々しい大暴投だった。ちなみに、中のコーディアルは飛んだ勢いでこぼれ出てしまったため、全部ネブラが(こうむ)った。頭からコーディアルを滴らせるネブラを、ミラは口を押さえて見つめる。ケートスは「“さよならコーディアル”」と唱え、ネブラの身を清めた。
 サダルメリクは「“ピッチャー、おかわりちょうだい”」と唱え、砕け散ったピッチャーを蘇生させ、再び中にコーディアルを満たす。ケートスは「ミラ、今度は好きなように」と告げた。
 指示されたミラは、小声でハミングをした。一小節ほどの短い音色だったけれど、さきほど呪文を唱えたときとは違い、ピッチャーは、中のコーディアルを揺らしながら浮かびあがり、ミラの足取りのように優雅に動いてミラの前で止まった。

「なるほどね……

を用いれば用いるほど不安定になる。ミラの表現力に言葉のほうが狂ってしまうのか」悪くはないけど、とサダルメリクが続ける。「言葉を正しく操ることにも慣れないと、彼女は先の人生で永遠に口を閉ざして生きてゆかなくちゃならない。それに、無意識での発動なら、彼女は自分の魔法の理屈を知らないということだ。再現性があまりに低い。誰も彼女の魔法を理解できない」

 誰にも理解されない魔法。嵐を呼び、花を狂わせたのは、彼女自身ですら予測せず、また、理解できない事態だったはずだ。魔法を操るのには長けているのに、言葉を操ることが甚だしく不得手で、彼女のことを唯一理解できたであろう魔法使いはとうに亡くなっている。
 ケートスは、弟子が孤独になることを憂いていた。 





 寝疲れた心地で目を覚ます。コメットが瞼を震わせたときには、日の光は一寸もなく、いくつかの蝋燭の火が部屋を照らしているだけだった。夜風の涼しさと、降り落ちるタンジーの匂いで完璧に覚醒した。喉が渇いていたため声が上手に出なくて、「みい」と鳴き声のように呻くしかなかった。

「気づいたか」

 コメットははっとなって視線を巡らせる。枕元の椅子に、おばけみたいな人影が座っていた。ほとんど闇の化身だ。蝋燭の灯りさえなければ、それが己の魔法の師であることに気づかなかった。

「ネブラ」
「ネブラ先生な」
「飽きてるでしょ、この会話」
「お前がいつまで経ってもふざけるからだろ」
「ネブラ先生はなんで僕の部屋に? 眠れないの?」
「そうだよ、眠れなかったんだよ。どっかの馬鹿弟子がぶっ倒れやがるから」

 コメットはぼんやりとして首を傾げたが、たちまち「あっ」と声を漏らした。昼間に自分がミラの歌声で意識を失ったことを思い出したからだ。あれからずっと眠っていたらしいことに気がつく。ネブラは椅子の背凭れに首を乗せて、「まじでだるい」と体勢を崩した。

「目を覚ましたら薬を飲ませろって言いつけられてんだよ。いいからとっとと飲め」

 よく見ると、ネブラの隣にはもう一脚の椅子があり、その上には浅い皿が乗っていた。スープのような液体が入っている。ネブラからそれを受け取って、コメットは口をつけた。すごく苦い。コメットは「ウグゥ」と顔を顰めた。

「……これさあ、全部飲まなきゃだめえ?」
「飲め。飲み終わったら俺は戻る」
「飲みきれないよう。半分こしよ?」
「一人で飲めや。治りたくねえのか」
「ていうか、なんの薬?」
「さあな。自律神経をどうとかケートス先生は言ってたけど」
「そもそも僕はなんで倒れたの?」
「魔法中毒」ネブラは粗雑に足を組んだ。「たまにあるんだよ。強すぎる魔法を(じか)に浴びると、()てられるんだ。お前のは急性中毒だったけど、魔法使いで構成されたオーケストラの客なんかは、慢性中毒になりやすいらしいぜ」

 ネブラの言葉に「エッ、魔法使いのオーケストラなんてあるんだ! 聞いてみたい!」とはしゃぎはじめたコメットだったけれど、「ミラの歌でもろに食らったお前がか? やめとけ」と鼻で笑われて、ア、とこぼす。ミラの歌を聞いたときの、あの夢見心地のような気分を思い出したのだ。コメットは噛み締めるように言う。

「……ミラの歌、すごかった。楽器みたいな声だった。喉自体が楽器みたいな、まるでヴァイオリンでも弾いてるみたいな。圧倒されて、どきどきした。もっと聞きたいって思った。たくさんの花がミラの歌を喜んでたんだ。あれはなんて魔法なの?」
「魔法のつもりで歌ったんじゃねえんだとよ。楽しくて歌ったらそれが魔法になったらしい。お前も運がなかったな」
「まさか! 僕は本当に

よ……だって、歌ってるミラが本当に楽しそうで、だから僕も楽しくなって、すごく気持ちがよかったんだ」

 あんなに美しい歌を他に知らない、とうっとりしていたコメットに、「いいから薬を飲め」とネブラが水を差す。(にべ)もない。コメットはむくれた。
 この師匠、早く部屋に戻りたいからって、僕の話を全然聞いてくれない。自分が起きるのをずっと待っていてくれたことには感謝しているし、申し訳なくも思っているけれど、ここまで露骨にあしらわなくてもいいじゃないか。
 どれだけ馬鹿だと言われても、コメットだって十五歳。大人と子供の真ん中で健やかに生きている。なので当然、ネブラが自分を鬱陶しく思っていることには気づいていた。本人も合意とはいえ、半ば無理矢理、コメットは自身を弟子の座に捩じこませたのだ。そして、のうのうと居座りつづけている。正直な話、骨を埋める覚悟だった。遺骨は燃やしてアトランティス沖に流してくれて結構。
 ところで、ネブラとて、ただ師の言いなりになってコメットを弟子にしたわけではない。コメットの自覚どおり、世間知らずな田舎者の子供なんてお荷物もお荷物、鬱陶しいことこの上ないが、当初は雑用を押しつけてやろうという打算のもと、方便としてコメットを弟子にしてやったのだ。その方便を真実へと変えてしまえ。この無邪気な子供に世界の不条理を教えてやって、心が折れたところを見計らい、再び「森へお帰り」と囁いてやる算段だ。ネブラは自分のことにしか興味がないので、思う存分コメットを蔑ろにできた。
 そんなことを二人揃って考えているとなると、最早、ネブラが折れるのが先か、コメットがへばるのが先かという、一種のチキンレースである。コメットはネブラの弟子をやめる気も魔法使いになるのを諦める気も毛頭ないので、ネブラには早いこと観念してもらいたいものだった。このままなし崩しの師弟関係がずるずると続くよりも、お互いに心を開いたほうが居心地がいいに決まっているのに。

「ねえねえ、僕の話ちゃんと聞いてる~?」
「なんでお前はそんなに面倒くさいの?」
「だって、僕はいま起きたばっかりだし、最近はネブラ先生とあんまりおしゃべりできてなかったしさ。もうちょっと話そうよ。リハビリだっけ、腕の調子はどう?」
「お前がそれを飲んでくれたらよくなる」
「嘘つき! ちゃんと僕とお話して!」
「もういっそ魔法で飲ませてやろうか……」
「いーん! 大先生ーっ! ネブラ先生が僕のことを蔑ろにするよう!」
「やめろ!」
「ムグーッ!」

 騒ぎたてるコメットの口を左手で塞いだネブラは、「こんな深夜に先生を起こすな!」と睨みつけた。正論すぎたので、コメットは塞がれた口で「あい」と返事をし、素直に黙った。しょうがなく薬の皿に口をつける。ちびちびと飲みながら「拗ねるほど苦いのにな」と愚痴を漏らした。

「お前のための薬だぞ。いいから黙って飲め」ったく、とネブラは目を瞑る。「先生たちはあんなに困り果ててたってのに、当のお前はお気楽なもんだ」

 そんなことを言われたって、ケートスがわざわざ薬を作る意味も、あのネブラが甲斐甲斐しく自分が目を覚ますのを待っている意味も、コメットには理解できなかった。だって、コメットはミラの歌を聞いたって、ちっとも困りはしないのだ。気を失うとわかっているのなら、枕を用意しておねだりに行く。その程度のことだった。
 けれど、ネブラは「それが依存してるってことなんだろ」と断じた。

「魔法中毒が抜けきってない証拠だ。だから薬を飲めってんだ。飲み終わったらしっかり寝て、そうしたら全部忘れられるよ」
「……忘れちゃうの?」
「陶酔感はな。そんな(ツラ)すんな。お前はいま感覚が麻痺してんだよ」
「そんなことない!」コメットは強く言った。「僕が感動したのは本当なの!」

 ミラの魔法の異端性を、異常性を、コメットは一寸も気にしていない。だって、歌っているときのミラは、あんなに楽しそうだった。それでいいのに。今回のことは、ミラが楽しく歌を歌って、コメットが楽しくそれを聞いた。ただそれだけのことだ。
 コメットはずっと、ミラは無口な子なんだな、と思っていたけれど、本当はそんなことはなくて、きっとおしゃべりも歌うのも好きな子なのだ。それが知れて嬉しかった。楽しかった。彼女みたいに自分も歌えたら。

「ネブラ先生。どうやったら僕にもあんな魔法が使える?」

 そう尋ねたコメットに、ネブラは瞳を大きく膨らませた。

「お前本気? 寝たら記憶飛ぶの? 馬鹿って便利だな……」
「おいネブラ」
「その記憶は飛ばすな。ネブラ先生と呼べ」
「僕の先生なら真面目に考えて」
「真面目に考えてやってるから言ったんだ。意識まで失ったくせに。理解に苦しむ」
「僕にとって魔法に憧れることは、なにも不思議じゃないし変でもないけどなあ」

 よっぽど魔法のない環境で育ったのだろうとネブラは思った。コメットの出身は田舎の孤児院らしいし、身の回りに魔法の類が見られなかったのだろうと。だからなんにでも感動してしまう。些細な魔法にも、危険な魔法にも。コメットは目を輝かせて「どうやったらあんなふうに歌える?」と尋ねた。

「言っとくけど、あれは無理だぞ。やろうとしてやれるもんじゃねえ。ヴォカリーズも修練が必要だし、年がら年中歌いまくってたミラだからできることだ。魔法そのものについても……先生の受け売りだが、再現性が乏しい。言ったろ、ミラは魔法を使おうとしたわけじゃない。なのに魔法になった。ミラ自身がどうしてあんなふうになったのか理解してねえんだよ」

 だからケートスが手を焼いているのだ。元より弟子想いのケートスだが、ミラには格別の情を注いでいるのが見てとれる。誰にも理解されず、自らも理解できない、そんな孤独な魔法しか使えない彼女を憐れんでいる。
 ネブラには知ったこっちゃないけれど、彼女の魔法の異常性は理解できた。他者があんなふうに魔法を使いたいと願ったところで、それを実現するのは難しい。あんなふうに魔法を使うのは無理だ。けれど。

「お前って馬鹿だけど猿真似はできるから、あれに近いなにかには仕上がるだろうな」

 こんなお節介、普段のまともなネブラなら絶対にしない。しかし、今宵は違っていた。簡潔に言うと、とにかく眠たかった。ただただ寝たかった。早く解放されたくて言ったネブラの台詞に、コメットは「本当?」と喜色に染まる。

「俺と初めて会ったときもそうだし、ギロに頼まれて椅子を修理したときもそうだ。お前は誰かの魔法に合わせて歌うのが上手い。物覚えも悪くねえから、即興で合わせちまう。

なる」
「天才?」
「馬鹿」ネブラは断じた。「魔法の練習ってのは、基本、すでにある魔法の反復だ。楽室にあるような譜の暗唱。呪文の暗記。それをこなして大抵の魔法は習得できる。が、それでミラみたいに歌うってのは絶対に無理だ。あれは独創性が高すぎる。だから、下手に学ぶより、いっそ形から入っちまったほうがいいって話だ」
「ネブラ先生が言いたいのは、ミラに合わせて僕が歌う、ってこと?」
「そのまんま歌っても、魔法中毒を倍で食らう可能性もあるけどな」ネブラはため息をつく。「魔法は音に乗る以上、音が増えれば魔法も強くなる。猿真似とはいえお前の魔法まで乗るんだぞ。自分の魔法で中毒を起こすことはないだろうが、お前はミラにお熱ときてる、引きずられる可能性はあるわな」
「ふうん」

 コメットは喉を鳴らして薬を飲み干した。皿から口を離した瞬間に目をぎゅっと縛るほどに顔を顰めたけれど、ややあってから表情を整えた。

「ありがとう。ネブラ先生。僕、がんばる!」
「どういたしまして。俺は寝る」





 次の日、コメットはけろっと起きて、ネブラと朝食の支度をして、サダルメリクのために新聞を持ってきて、ケートスとミラを含む六人で朝食を摂った。案の定、ミラはしゅんとした顔でコメットに『昨日はごめんね』と言ったので、コメットも「気にしないで。本当に。絶対に。世界一」と念を押した。
 サダルメリクからネブラへと言いつけた仕事をそのままネブラから押しつけられ、その半分を午前で終わらせて、ケートスの授業を受けて、もう半分を授業の後に終わらせて。
 夕焼けも間近という涼しい時間帯になってから、コメットとミラは庭の手入れをしはじめた。昨日のミラの魔法で生い茂った庭を、どうにかしなくてはならなかったのだ。伸びきった雑草は引っこ抜き、枯れた花や葉はごみとしてまとめる。季節はずれに実った果実はもいで、ジャムかジュースを作ろうという話になった。楽しみだね、とコメットはミラに笑って言った。ミラは控えめに笑った。
 ミラの元気がないと、コメットには一目でわかった。薔薇色の頬も、引力さえ感じる瞳も、昨日と同じように麗しいのに、どこか影が落ちている。まだ気にしているのかしら、とコメットは思った。ミラに抱かれる花たちが「元気を出して」と言って泣いたように見えた。花やコメットの心さえも味方につけた少女に、僕たちの音が届けばいいのに。
 コメットは息を吸い、微睡みの向こうで朧げになった、あの旋律をハミングする。
 鼻腔の奥で鈴が転がるように。風に乗って飛んでいくように。
 けれど、あの旋律を、コメットは完璧には奏でられなかった。独特の音のピースはあちこちが欠けていて、鼻声は不器用に裏返った。あやふやな意識の中で一度聞いただけでは、当然、覚えられるわけがなかった。
 音をやませる。ミラは目を白黒とさせて、苦笑いするコメットを見ていた。

「……君の歌が忘れられなくて、なのに、自分で歌うと下手くそになっちゃうんだ。ねえ、ミラ、手本を見せて。君の歌を聞かせて」

 空は夕下がりへと姿を変えていく。アメジストセージを揺らす秋風が吹いた。ミラの朝焼け色の髪がふわふわとめくられながら靡く。ややあってから、ミラは『だめよ』と言葉を綴る。魔法で綴った文字は風に吹き撒かれて散っていく。
 コメットが「どうして?」と聞けば、ミラは『私の歌が、魔法が、普通とは違うから』と答えた。他の魔法使いとは違う。ミラ自身が自分の魔法を知らない。これまでずっと歌っていたものが魔法だっただけだ。昨日だってあんなことをするつもりはなかったのに。

「もし、普通じゃないことが魔法を使えない理由なら、怖がらなくていいよ。僕にとっては、どんな魔法も特別で、普通じゃない」コメットは穏やかに言った。「それにね、君のそれがただの歌であっても、魔法であっても、僕は聞かせてってねだったと思うよ。歌う君は本当に楽しそうだったから。いつもウンウンって僕の話を聞いてくれるけど、僕も君のことを聞きたいんだ。知りたいんだ。君はなにが好きで、なにが楽しくて、なにに心臓が高鳴るのか。君は歌うことが好きなんだね」

 その言葉を聞いたのがネブラだったら「馬鹿って無敵なんだなあ」と呆れただろうし、ケートスだったら「だとしてもいけませんよ」と叱った。サダルメリクだったら一度は面白がるけれど、最終的にはそれをよしとはしないはずだ。しかし、それを聞いたのはミラだった。

「僕も君と歌いたい」

 それ以上の言葉は不要だ。
 ミラが歌う。その細い喉から艶やかな音色を奏でる。詞を脱した怪奇な旋律が豊かに響く。ミラが声に乗せて手を翳せば、光が弾け、花が咲いた。コメットは陶酔に溺れそうになりながら、ミラの魔法に耳を(そばだ)て、その音色を追った。
 一巡。
 そこで、コメットも加わった。ミラの華奢な手を取るように、鏡合わせのステップを踏むように、音と光が脈動するのを感じながら歌を重ねた。歌詞なんてない。意味なんてない。楽しいから思わず奏でてしまった、心からのスキャット。ミラがコメットを見つめる。その瞳は互いに爛々ときらめいていた。
 ミラは思う——こんなふうに自由に歌えるのはいつぶりだろう。自分の歌で花が乱れるのも、水が暴れるのも、炎が狂うのも、あの島にいたときはなんてことがなかった。けれど、それではだめなのだと教わって、世界を知って、話すことさえやめてしまったというのに。それなのに、自分はこうして歌っている。花が揺れるのは風のせい。コメットは楽しそう。どうして。

「……重唱(デュエット)による和声詠唱(ハーモニー)

 歌を聞きつけて庭へと下りたケートスは、二人の少女が歌っているのを見つめながら、そう漏らした。驚きに立ちつくしていた。自制の効かないミラの魔法が鳴りを潜めている。下りてきたケートスに気づかないほど夢中になって歌っているのに、足元にいる花は揺れるばかりで乱れはしない。
 コメットの歌声が、ミラの魔法を調律し、矯正しているのだ。反対魔法による相殺ではなく、鎮静魔法による抑制でもない。ミラの不安定で危うい魔法を、無意識の

を、コメットが補っていた。音を重ねることで魔法に意味を与えた。
——ミラが笑ってくれますように。
 その魔法が叶ったのが、この今だ。

「あっ——ケートス先生!」

 そのとき、コメットは、離れたところで呆然としているケートスを見つけた。それに合わせてミラの声もやむ。けれど、魔法はかけられたままだった。ミラの口元は緩んでいて、頬は上気していて、瞳は柔らかい。幸せそうだった。純真に笑う弟子の姿を、ケートスははじめて見た。
 ややあってから、二人の顔に気まずい色が乗った。もしかしなくとも怒られるんだろうな、という雰囲気がインクのように滲みでていた。ケートスは苦笑しながら近づいて、二人に拍手を贈った。

「お見事でしたよ、二人とも」ケートスは言った。「ミラの歌に、コメットはよく合わせていましたね。異なる音程を重ね、あるいは音を補完することで、不安定な魔法を別のものに変質させた。粗削りだが形にはなっていた……重唱(デュエット)なんて魔法様式、いったい誰から教わったのですか?」
「ミラに合わせたらって、ネブラ先生が言ったんです」
「言ったんです、って……コメット……」

 そんなの、ほとんど独学だ。否、碌に学んでもいないのだから、いっそセンスに近い。魔法使いが息を合わせて魔法を奏でるのは容易なことではない。しかも、相手はミラときている。ケートスですら彼女の魔法を理解できなかった。それなのに、コメットはミラに独りきりで歌わせることなく、和声詠唱(ハーモニー)を成してしまって、挙げ句、「ちゃんと歌えてよかった」「楽しかったなあ」などとこぼしている。
 そんなコメットの隣で、ミラが笑っていた。ケートスはなんとも言えずに息をついた。言いつけを守らなかったことや、反省しなかったことには、目を瞑ることにしたのだ。孤独を嘆っていた弟子が、こんなに楽しそうにしているのだから、それが悪い魔法であるはずがないとケートスは思った。

「……コメット。よい魔法の使いかたをしましたね」

 そのように告げたケートスを、コメットは首を傾げて見上げる。
 無垢なる瞳が知らなくとも、ケートスは知っている。彼女の師が、あるいは自分の弟弟子が、なんのために魔法使いになったのか。
 本人やサダルメリクに聞いたわけではないけれど、長く生き、多くのことを知ってきたケートスだからこそ、彼の本心を見抜くのは瞬く間だった。そのいじましい胸の奥では、いまもなお業火が猛っているはずだ。だから、彼はいつかきっと、呪いのように魔法を使う。

「魔法には意思が宿るものです。意思がなければ魔力は暴れ、意思が弱ければ魔法も弱まる。水が欲しいと、空を飛びたいと願うから、魔法は叶うのです。ミラに笑ってほしいと願った、コメットの魔法とて、同じこと。君がいつまでもそんなふうに魔法を使うことを祈っていますよ」

 流れ星にお願いをするように、ケートスが目を瞑って告げたものだから、コメットは、まるで自分が本当に星になったかのような錯覚に陥った。暗闇の中でもきらきらと輝き、人々を照らす、燦然たる光。たとえ見習いであったとしても、コメットは星を冠する異能の賢者、魔法使いだ。まだ一人前でなくとも、その望みを叶えたいと思った。コメットは今日、小さく決意する。

「“コメット”」

 そのとき、声を弾ませるように、ミラが言った。声だけでなく、心臓も弾んでいた。ミラは胸をとくとくと瞬かせながら、コメットと目を合わせる。はにかんだように笑って、コメットの手を取った。
 コメットは痺れたように動けなくなっていた。自分の手をするりと攫っていったミラを見つめる。ミラはにぱっと歯を見せて笑ったので、コメットはびっくりしてしまった。そんなふうに笑うなんて!

「“楽しかったね”」

 蜂蜜や果蜜や、とにかく甘いものを集めてたっぷりと溶かしたみたいな、そんな生温かい囁きに、コメットは腰が砕けそうになった。実際に足から崩れた。ほどけた小指が熱を持っているみたいだった。その手でどきどきとする胸を押さえて、「お熱が出そう」と漏らした。
 そんなコメットを、ミラはぎょっとして見下ろす。手で口元は押さえていたけれど、明らかに「やらかした」という顔をしていた。ケートスも、「ミラにはまだまだ修行が必要ですな」とため息をついていた。
 ただ、ミラの孤独な魔法をコメットが救ったことを、ケートスは忘れない。部屋から歌声を聞きつけていたネブラなどは、昨晩の適当な助言どおりにしでかしたコメットを見て、やはり「馬鹿って無敵だな……」と呆れたのだけれど。





 その後、ケートスやミラとの日々は(つつが)なくすぎていった。コメットはミラと共にケートスから魔法についての知識を学び、ケートスがネブラの義手のメンテナンスをしているときは、ミラと遊んだ。そうやって数日が経ったころ、無事にネブラの義手のメンテナンスも終わったということで、ケートスとミラはサダルメリクの家を発つことになった。

「ごめんね、なんのおもてなしもできなくって」
「とんでもない。コメットにはミラがたいへんよくしてもらいました」
「こちらこそ、ネブラのことはありがとう。いつも助かってるよ、ケートス。次に会うときはゆっくり飲もうか」
「楽しみにしています」

 サダルメリクとケートスが挨拶を交わす。二人の会話を邪魔しないように、ネブラは寒そうにしながら、開けっ放しになった扉を背で押さえていた。その隣では、ミラとコメットが別れを惜しんでいる。コメットは「ミラ。絶対にまた会おうね」と約束を交わす。

『手紙、書いてもいい?』
「嬉しい! 待ってる」
『コメットも返事をくれる?』
「もちろん。絶対に書くよ、すぐに書く」
『また一緒に歌おうね』
「喜んで」
『今度は、』ミラは続ける。『今度は私が合わせてコメットに歌う番。あの歌、コメットにあげるから……いつか、コメットの言葉にして。ちゃんとした魔法にして』
「ありがとう。そのときが来たら、一緒に歌おう」

 友達になった二人の様子を、ケートスは微笑ましく眺める。その視線に気づいたコメットは、ケートスへと向き直り、「数日間お世話になりました、ケートス先生」とお礼を言った。ケートスは「いえいえ。こちらこそ楽しかったです」と笑って返した。そして、ネブラへと視線を向ける。

「もう師のもとを去ったと言えど、俺は君の兄弟子です。自分の弟子と同じように君のことを気にかけているし、なにか相談したいことがあれば……メリクさまや俺に言うんだよ」

 いま、ケートスが言えるのは、たったこれだけだ。そして、これだけの言葉も、きっと無意味なのだろうと理解している。
 あの夜、ネブラを助けたのはケートスではない。風が吹けば飛んでいってしまいそうなほどか弱い少年だった彼を、本当の意味で気にかけていたのはサダルメリクだった。自分の腕を切り落とした彼の瞳の色を見るまで、ケートスにとって、彼の全ては他人事だった。杖腕をやったのもサダルメリクが頼んだからだ。医者として治療をし、こうして定期的に検診もしているけれど、彼について、ケートスは

人間だ。
 ケートスが「元気で」と労わるように声をかけたのを、ネブラは「ん」と返事する。手を振って見送ろうともせず、(かじか)みそうな両腕を互い違いに外套(ガウン)の袖へ突っこんでいる。
 ケートスのかつての師であるサダルメリクは、掴みどころのないものの、実に頼れる魔法使いだ。サダルメリクに任せていれば大丈夫だろうとは思うのだけれど——憂いも迷いもなく、ただ楽しそうに歌っていた、コメットという小さな魔法使い見習いに、「もしかしたら」と期待してしまう。
 あのときのハーモニーを忘れられないのは、ケートスも同じだ。
 二人が約束していたそのときが来たら、手の平が真っ赤になるほどの拍手を贈ってやりたいと思う。
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