第6話 空がこんなに眩しいのは

文字数 20,861文字

 コメットがベッドの上で目を覚ましたとき、視界の隅を黒い点が横切ったので、「はあ」とため息をついた。例の羽虫がまだこの部屋に居座っているのを見つけたのだ。挙げ句の果てに、虫除けにと吊ったタンジーの葉に羽虫がとまったので、自分が心底無力であることにコメットは打ちひしがれた。
 もぞりと上半身だけ起こして、タンジーの上で羽を休める虫を睨む。
 いろいろ試したのだ。一日中窓を開けっ放しにして、羽虫が自然と外へ出るように促したりだとか。秋も深まり冬の近づいたこの時季、ずっと窓を開けていると、部屋の温度がどんどん冷たくなっていって、夜には氷漬けになったみたいにひんやりしてしまうのだ。その中で寝ることも厭わずに、コメットは幾度となく窓を開放したのだが、羽虫は一歩だって部屋から出なかった。そうだよね、こんなに寒いんだから、君だってわざわざ外に出たくはないよね……。凍えるコメットは毛布を体に巻きつけながら渋々納得して、「それならば」と虫除けの魔法を試してみた。
 先日のケートスの授業にて、「部屋の中でおこなえる魔法から練習してみてはいかがでしょう」と言われたのだ。ネブラも「大抵の魔法は楽譜になっている」「その譜を練習することで魔法は習得される」と言っていた。常日頃から「魔法を教えて」とネブラにせがんでいるけれど、同じ魔法使い見習いのネブラに教えを乞うても得られるものなど高が知れているのも確かだよな、と思った——その態度が透けて見えたのか、ネブラからさらなる雑用を言い渡された。不服である——ので、コメットは楽室にある入門から初級までの魔法を実践してみることにした。
 そんな自習の甲斐あって、部屋に持ち帰った楽譜の中に、ちょうどよく“虫除けの魔法”を見つけたのだ。曰く、手拍子でリズムを取りながら「“いけない虫ムシ、君は無視むし、どっか行っちゃえお邪魔虫~”」と唱える——なにそれ絶対楽しい。
 コメットはわくわくしながらその魔法を唱えた。しかし、練習で唱えた魔法だったからか、あるいは下手くそだったからか、羽虫は部屋から消えることなく、ただ、ちむちむとその羽を動かした。もしやそれは拍手のつもりだろうか。コメットはもやもやしながらその様子をじっと眺めた。もしかしたら、遅効性の魔法で、朝になったら消えているのかも……そんな淡い期待を抱いて眠りについたのが昨晩。そして目覚めたついさっき。
 タンジーにとまる羽虫は「つれない態度を取ってくれるなよ」とでも言いたげだったけれど、コメットは自分の部屋と意識を占領されている気になって、どうしても苦々しい気持ちになってしまうのだ。

「もう大先生にお願いして、追っ払ってもらおうかな……」

 そう呟くと、羽虫はそれを嫌がるように、コメットの顔の周りをぷんぷんと飛び回った。コメットが「ウワッ! ヤーッ、あっちいけぇ」と手足をばたつかせても、羽虫はぷんぷんと羽を鳴らす。コメットはわちゃわちゃとベッドから降りて、羽虫のいるほうを睨みつける。冬に片足を突っこんで沈みかけている寒気に身を震わせた。
 生憎とコメットの部屋には暖炉がないのだ。寝間着から着替えなければ延々と寒い思いをするだけだ。そうこうしているうちに、羽虫を見失ってしまったので、コメットは身支度を整えることにしたのだった。
 ケートスとミラがこの家を発ってから、二週間近く経っていた。コメットにとって初めての同世代の魔法使いだったので、これからも仲良くしたい思いはあったけれど、お互いに師は違い、加えて住む場所も違うので、滅多に会えないのだろうなと寂しい気持ちでいた。けれど、そんなコメットの感傷とは裏腹に、ミラは約束どおりに便りを寄越してくれた。
 それは、リボンのように細長い花菖蒲の葉に文字を綴った、世にも不思議な手紙だった。ある日突然、ひらひらと窓から飛んできて、コメットの手元に落ちたのだ。

葉書(はがき)だな」一部始終を見ていたネブラが教えてくれた。「魔法使い流の手紙だよ。風に乗って飛んでいくから、郵便で手紙を届けるより速いってんで、よく使われる手法だ」

 なにそれお洒落! 早く僕もお返事したい!
 わくわくしたコメットはすぐに返事の葉書を綴り、教わった魔法で飛ばした。
 それから、二人の文通はずっと続いている。話すのは他愛もないことだ。好きな天気はどうとか、今日のごはんがどうとか。そもそも、葉っぱに文字を書くので、多くのことは語れない。けれど、ミラは丁寧な言葉で葉書をくれるので、コメットもなるたけ丁寧な言葉と文字で『親愛なるミラへ』と葉書を送った。送るたびにコメットはミラからの返事を楽しみにした。

『親愛なるコメットへ。雨の日の前の曇りの日って、破滅するのはわかりきっているけれどその瞬間までは生に従事しましょうねっていうモラトリアムみたいな空気が漂ってて、憂鬱な色が透けてるのがいいですね』

 ミラから届いた葉書を見つめ、コメットは「ミラは感性まで素敵だなあ」と胸をときめかせた。一緒になって覗きこんでいたネブラは、奇っ怪なものを一度に二つも見たという顔でその場を去っていった。
 コメットはあんまり嬉しかったので、いつでも葉書を眺められるよう、部屋の壁に糊づけして貼っていた。けれど、ただの葉に書いている文なので、そのうち日差しで乾いて劣化してしまった。コメットがサダルメリクに泣きつくと、手垢も残らないような保護呪文を葉書にかけてくれた。おかげで、コメットの部屋の壁には、ミラからの葉書が、可憐なままに保存されている。
 いつものブラウスの上に一張羅の外套(ケープ)を羽織る。不思議とぽかぽかしてくる体。タイツも厚みのある素材のものを選び、防寒に努めれば、自然と体温も上がっていった。冷たい水で顔を洗いたくなかったので、目脂は手払いで済ましてしまおう。目頭をごしごしと擦ったコメットは「これでよし」と部屋から出ていった。
 いつからか、朝食を作るのはコメットの仕事になっていた。その前まではネブラの手伝いをしていたのだけれど、三人分作るのに辟易としていたネブラが「仕事だ、馬鹿弟子」と言ってコメットに託したのだ。本当はそのままコメットが食事当番を担う予定だったのだけれど、コメットは碌に料理を作ったことがなく、ネブラの手伝いをしていただけで、作れる品も高が知れていた。そんなわけで「簡単なところから始めよう」と、朝食を任されたのだった。
 コメットはネブラも使うエプロンを着て、調理場に立つ。目玉焼きになるように卵を焼いて、ベーコンとマヨネーズを乗せて、じゅわじゅわという音と香ばしい匂いがしたところで火を止めた。ミラと採った実で作ったジャムがまだ残っていたはずだ、それをトーストに乗せてしまおう。今日は朝から寒いから牛乳をあっためて——そうこうしているうちに、サダルメリクが起きてきた。

「ん、いい匂い」
「おはようございます、大先生」
「おはよう、コメット」
「今ちょうどできたところです。並べるので召し上がってくださいね」

 サダルメリクは「ありがとう」と言って椅子を引いた。
 いつもはゆったりと準備をするサダルメリクだったけれど、今日は居間の席に着くのが早かった。身支度はすっかり整えられていて、あとはいつもの外套(マント)と三角帽子を被るだけだ。黒いクロスタイを装飾する石までぴかぴかだった。
 ややあってから、ネブラが部屋から出てきた。居間には寄らずに洗面台へと一直線だった。コメットはネブラの席に朝食を置いてやり、エプロンを外して自分も席に着いた。そうしてから、顔を洗い終わったネブラが居間まで入ってくる。
 ネブラは目が合うなり睨みつけてきたけれど、本当に不機嫌なのではなくて、とりあえず目の前のものは睨んでおくという、彼の習性に近いなにかであるのを、コメットは知っている。だから、どれだけすげなくされてもコメットは気にしなかった。

「おはよう、ネブラ。顔は洗ったのに髪は梳かなかったの?」

 ごちん。

「いったあ!」
「第一に、ネブラ

。第二に、癖毛を馬鹿にすんな。ぶつぞ」
「ぶったじゃん!」
「ま、いいじゃない。せっかくコメットが作ってくれたんだし、冷める前にネブラ先生も座りなよ」
「あんたはその呼びかたをするな、先生」

 ネブラは顔を顰めながら席に着いた。殴られた頭を押さえていたコメットは、フォークを目玉焼きに突き刺して、その味を確認する。うん、おいしい。

「そういえば大先生、今日は起きてくるの早かったですね?」
「うん。今日からちょっと仕事のほうが忙しくなるんだよね」サダルメリクはテーブルをノックし、朝刊を呼び寄せた。「ほら、今朝の新聞にも書いてあるでしょ。かの公国からご遊学のために公子さまが来国したんだよ」

 コメットは朝刊を覗きこむ。アトランティス帝国の識字率は特別高くもなかったけれど、孤児院時代に習っていたのでコメットにも読むことはできた。サダルメリクの言うとおり、隣の大陸にある公国から、公子がいらっしゃるのだという。アトランティス帝国と少なからず親交のある国だということで、貴族を中心に出迎えることになっているそうだ。
 けれど、コメットは目を瞬かせる。いくらここが帝都で、しかも、ブルース侯爵の治める土地だからって、別にサダルメリクが貴族なわけでもなし、ラリマー公子となんの関係があるのだろう。どうして仕事が忙しくなったりするんだろう。

「あのう、ずっと聞いてなかったんですけど、そういえば大先生って、普段はなんの仕事をしてるんですか?」
「近衛星団」
「……このえせいだん?」
「まさか、お前、知らねえの?」ネブラは信じられないものを見る目でコメットを見た。「皇帝直属の魔法騎士組織だよ。所謂、宮廷魔法使い」

 皇帝直属。宮廷魔法使い。
 つまりサダルメリクは皇帝に仕える魔法使いということだ。
 コメットの瞳に火花が散った。

「すごい! えっ! 大先生すごい!」
「いまさらだろ、その反応」
「あはは、コメットには言ってなかったかもね」サダルメリクは笑った。「といっても、団長みたいな五百歳を超える大物の魔法使いと違って、僕はそんなに大した役職もない、一介の団員でしかないよ」
「それでもすごいです! 僕、大先生って本当に仕事なんてしてるのかな、って思ってた!」
「そんなこと思われてたんだ」
「だって、魔法使いなのに別に仕事をしてるなんて、なんか変な感じがして……」コメットは慌てて言葉を続けた。「ケートス先生のときも思ったんですけど、魔法使いでも、お医者さんだったり宮廷に仕えたりするんですね」

 ネブラは「そりゃそうだろ」と眇めたが、サダルメリクは「なるほどねえ、」と頷いた。

「コメットにとって、魔法使いは職業なんだね」
「違うんですか?」
「職業というよりも技能に近い。その技能を利用して、近衛兵や医者をしているってわけさ」サダルメリクは続ける。「一昔前ならともかく、魔法使いってだけじゃ、今時生きていけないからね。まあ、金持ちや高貴な方々が相手なら、雇われ魔法使いってのも成立はするけど、そんな方々にお金を払ってもらえるほどの魔法使いなんて限られてるかな。それこそ、僕みたいに宮廷お抱えの魔法使いになるくらいしかないと思うよ」
「へえ~」
「そもそも、正式な魔法使いになるためには魔導資格(ソーサライセンス)を取得する必要があるわけだけど、その魔導資格(ソーサライセンス)の本質は、公の魔法使用と、魔法の追究だ。魔法はあくまでもなにかを為すための方法でしかない。だからこそ、魔導資格(ソーサライセンス)を持っているだけのただの魔法使いなんて仕事にならない。大事なのは、魔法使いになってからなにをするか。なんのために、魔法を使うのか」

 なんのために魔法を使うか。
 魔法の使いかた。
 コメットは目を瞬かせて、「近衛星団ってどんな仕事をするんですか?」と尋ねる。

「うーん。いろいろやるよ? 宮廷お抱えの魔法使いなんて聞こえはいいけど、実際にやるのは雑用が多いし。皇室の護衛、伝達係、建物や調度品の修繕、騎士団と連携した各所の警備、帝都の警邏、魔法犯罪があればその調査をさせられることもあるし、今回みたく、要人警護の場合もある」
「要人警護って……」今度はネブラが訪ねた。「まさか、その公子か?」
「そう。かの公国から魔法の勉強のためにいらっしゃるラリマー公子の、その護衛を、近衛星団が仰せつかったんだ」

 コメットが「はいっ」と手を挙げて、「その公子さまは、どうして自国で魔法を学ばないんですか?」と尋ねると、サダルメリクは「おっ、いい質問だね、コメット」と褒めた。コメットは小さな喜びを握りしめながら手を下ろす。

「魔法使いになれるのは、55mB(マジベル)以上の魔力を持つ者だけ。世界的に見て魔法使いは少数であり、魔法を学ぶための学校も存在しない。二等級以上の魔法使いに直接弟子入りするしかない」

 たとえば、近衛星団に所属するサダルメリク、また、ケートスなどは、それぞれ二等級の魔導資格(ソーサライセンス)を持っている。二人の弟子であるネブラとミラは魔法使い見習いにあたり、師のもとで魔法を勉強し、認定試験を受けて、そこではじめて魔法使いとしての資格を得るのだ。

「アトランティス帝国には魔法使いが多く、また、トリスメギストスのような優秀な魔法使いも存在する。認定試験をおこなう魔導協会の本部もアトランティス帝国にあるね。魔法を学ぶにはうってつけで、魔導資格(ソーサライセンス)の取得にも勝手がいいのさ。ラリマー公子だって自国に魔法の師はいただろうけれど、アトランティス帝国で魔法を学ぶほうが有意義だって思ったんじゃないかな?」
「それでわざわざ帝国に来たんですね」
「でも、なんで先生が?」ネブラは尋ねた。「新聞の一面を飾るくらいその公子が高貴なお方なんだったら、もともと護衛だってつけてるだろ。なのに、近衛星団が召集されるってのは、国交的なパフォーマンスとしてか?」
「公国だって大事な公子を送りだすんだから過敏にもなるでしょ。帝国の過激派の連中は、いつだって公国との戦争の火種を探している。もしかしたら暗殺を計画している可能性だってあるかも」サダルメリクは肘をついて言う。「もちろん、ネブラの言うとおり、公子には御側付きの従者もいらっしゃるから、実際は大したことはしないけど……まあ、なにが起きるかわからないからね。念には念をってことだよ」

 コメットには難しい話はわからなかったけれど、その公子さまの護衛を、近衛星団が担当することになっているらしい。なるほど、忙しそうだ。サダルメリクの朝の支度が早かったのはこのためか、とコメットは納得した。

「俺に手伝えることはある?」

 そのとき、ネブラがカトラリーを置いて、そう言った。
 およ、とコメットは口を開けた。サダルメリクの仕事に対して、ネブラがこういうふうに言うのははじめてだった。ちょっとだけ驚いたけれど、「そろそろちゃんと弟子としての仕事が欲しい」とネブラが続けたので、コメットは得心がいった。
 コメットがネブラから言い渡される仕事も大概だったが、ネブラがサダルメリクから言い渡される仕事も大概だった。外套(マント)と三角帽子の手入れをしておくこと、炊事や洗濯ものをしておくこと、切らしたものがあれば買い足しておくこと、楽室にある楽器や楽譜の整理。完璧な雑用だ。休みの日にはたまに授業をおこなっているようだし、サダルメリクが大掛かりな魔法を使うときはその手助けもしていたけれど、そんなことも滅多にないくらいだ。
 ネブラも魔法使いの弟子として、もっと魔法を学ぶ機会が欲しいのだ。せっかく、近衛星団の一人であり、ブルースでも指折りの魔法使いであるサダルメリクが、自らの魔法の師なのだから。
 しかし、サダルメリクは「えー」と困ったように曖昧に笑うだけだった。ネブラは眉間に皺を寄せて、「

じゃねえ」と突っ返した。

「前に、ブルース侯爵から猫探しの依頼を受けたときも、ライラが結婚詐欺に遭いそうになったときも、俺に手伝わせてくれただろ」
「それはそれというか、これはこれというか……今回の仕事は、単なる猫探しや友人の身の危険とは違うでしょ」
「だからこそ、逆に、弟子の出番なんじゃねえの」ネブラはサダルメリクに吹っかけた。「要人警護ってんなら人手は多いほうがいいし。念には念をってことだろ?」

 コメットは「すごい! ああ言えばこう言う!」と内心で感服していた。サダルメリクを篭絡しようとする底意地の悪い顔が、実に頼もしく見えてしまった。
 コメットだって、たまには魔法使いの弟子っぽいことがしたいのだ。厳密には弟子の弟子だけれど、弟子であるネブラに仕事が回ってくれば、その弟子であるコメットにだって仕事が回るかもしれない。
 サダルメリクはペリドットの髪で眼差しを陰らせて、思い悩むように唸った。
 ネブラは勝機を見出した——これは押せばいけるのでは。

「俺は先生の弟子だ!」
「僕は大先生の弟子の弟子です!」

 脇から土筆(つくし)のように生えてきた馬鹿弟子はさておき、ネブラは熱烈な視線をサダルメリクに送る。もう水汲みも雑用もうんざりだ。自分はそんなことをして足踏みをしている場合などではない。一刻も早く一人前の魔法使いになりたい。将来的に認定試験を受けることを考えるなら、実践経験は多いに越したことはない。
 サダルメリクは小さく息をつき、肘をついて手に頬を乗せて、「そこまで言うのなら、しょうがないな」と薄く笑った。

「では、君たちにも任務を与えよう」

 ネブラとコメットは目を輝かせた。
 そんな二人に、サダルメリクは言い渡す。





「町の警護って……要するに子供は遊んでなさいってことだよね」

 人通りの多い商店街を、コメットとネブラの二人がむくれて歩く。二人とも明らかに気落ちしていたけれど、ネブラなんてあからさまに不機嫌だった。さしてよくもない目つきを殊更に悪くして、せっかくの上背も獣のような猫背にして、目につくもの全てを威嚇して歩いていた。すれ違う人々に舌打ちをくれてやらないかが心配で、コメットは隣ではらはらしていた。
 結局、二人がかりでお願いしても、サダルメリクはまともに取り合ってはくれなかった。一応は言いつけられたとおりに町へと出てみた二人だけれど、帝都のはずれにある平穏なブルースで大きな事件があるとは到底思えない。(てい)よくあしらわれたのは明白だった。
 挙げ句の果てにはお小遣いまで渡された。体裁もなく、「遊べ」と言っている。子供だからってそれで満足するとでも思っているのだろうか。お金はあれば使う、がコメットの信条なのでもちろん使わせていただくけれども。
 南通りの露店にはお手軽な食べ物屋さんも多い。ガーリックバターの風味が香ばしいチキンの串焼きを二本買い、コメットとネブラは一本ずつありついた。

「くっそ、先生のわからず屋め」

 串焼きに齧りつくネブラは、いまにも獣のような低い唸り声を上げそうだった。
 そんなネブラをコメットは横目で見上げる。
 ネブラが珍しく縋りついても、サダルメリクは歯牙にもかけなかった。コメットは「やっぱり大先生は、先生に魔法を教えないつもりなんだ」と確信してしまった。
 コメットは串焼きを啄みながら、どうしたもんか、と目を瞑った。
 こんなことネブラには言えないし、けれど、黙っているのはネブラが可哀想だ。愚痴をこぼしたりはするものの、ネブラがサダルメリクのことを慕っているのはコメットにもわかるのだ。二人のあいだには、コメットには知る由もない信頼関係があった。だから、コメットはサダルメリクの言葉に半信半疑でいたのだけれど、今日、考えれば考えるほど「そのとおりじゃん」という結論にいきつく。
 隣のネブラは不貞腐れたまま、空を睨みながら舌を打ったけれど、それを最後に「まあいい」と息をついた。

「ぶっちゃけ駄目元だった。先生の言うとおり、これまでの仕事とはわけが違う」
「ていうか、ネブラ先生は大先生のお手伝いとかしてたんだ」
「弟子ってのは本来そういうものだろ」
「いいなあ。羨ましい。僕なんて本当の雑用ばっかりなんだよ?」
「へえ、可哀想に、碌な師匠を持たなかったんだな。辞めれば?」
「辞めない! ネブラ先生の意地悪!」

 コメットは拗ねたような顔をしてむきになるけれど、ネブラとしては「本当に辞めればいいのに」といった心境だ。魔法を教えてやる気がない以上に、ネブラは自分のことで精一杯だ。コメットにかまう時間だって惜しい。その生意気な口で「辞めたいです」と言われたなら、一も二もなく手放してやるのに。思わず漏れ出した「お幸せなやつだよな、お前は」という自分の声は、なんの感情もない淡々としたものだ。
 コメットがどう感じているかは知らないけれど、ネブラとてコメットを憎かったり嫌ったりしているわけではない。能天気で世間知らずで、癪に障るほどの図々しさを発揮することがあるけれど、コメットがそのようにいられるのは、きっと満たされて生きてきたからだ。自分とは違う。魔法使いになりたいと願った理由すら、二人は一線を画すのだ。
 コメットはネブラの声に、がりりっという音を思い出した。木の枝で地面を引っ掻くあの音である。今、線を引かれたんだな、と察した。ネブラの陰鬱な前髪の奥の瞳は乾いて見えた。コメットになんて興味がありませんって眼差し。その横顔を見てコメットが思うのは、だけどこのひとは自分から僕のことを突き放す気はないんだ、という確信。
 なんでこのひとはそうなんだろう——コメットは思った。僕のことを心底面倒くさがっているようなのに、強く遠ざけようとはしない。摩訶不思議。変なの。そうやって口に出したら、今度こそ突き放してやろうとするのだろうか。そうはならない気がした。
 コメットから見て、ネブラが自ら行動に出るのは、魔法について、ただそれだけ。ネブラがどうして魔法使いになりたいのかは知らないけれど、その邪魔さえしなければ、どれだけびったりくっついても、ネブラは自分を突き放したりはしないはずだと考えていた。そして、それは正鵠を射ている。
 ネブラのぶっきらぼうな態度なんて、コメットはちっとも怖くないのだ。

「ふふふ、そうだね、幸せ」
「皮肉で言ったんだけど」
「知ってるよ。真に受けて返されたら嫌だろうな、って思って」
「お前……意外と性格悪いんか?」
「ネブラ先生よりはうんと

だよ」

 そのとき、コメットは見知った顔を二人分見つけた。クレープ屋の前に立つ、歳の離れた兄弟。ギロとベルリラだ。
 コメットが「おーい」と手を振ると、それに気づいた二人が振り返る。ベルリラは瑞々しい白桃のような頬を片手で押さえていた。コメットとネブラに気づいてもその手を離さなかったので、近づいたコメットは「どしたの。虫歯?」と尋ねた。

「奥歯がぐらぐらしてるんだ」しゃべりづらそうにしているベルリラの代わりに、ギロが答える。「生え変わりの時期だから。食べてるあいだに歯が抜けて、飲みこんじゃったらどうしようって、クレープを買うのも悩んでる」

 ネブラはどうでもよさそうな顔で「へえ」とだけ言った。どうでもよいのを隠しもしない態度である。ギロもベルリラも慣れているのでなんとも思わなかったけれど、コメットはネブラの横腹を肘で突いて、「可哀想なベルリラ」とこぼした。

「抜けかけてるのと違うほうの歯で噛んで食べたら?」
「そっちだけ虫歯になったらどうしよう……」
「ちゃんと歯磨きしたら大丈夫。永久歯以外はどうせ抜けるし」

 ギロとコメットはベルリラを宥める。ネブラはガーリックバターに舌なめずりをしてから「その歯が

なら大丈夫」と言った。ベルリラが「なにそれ?」と首を傾げると、ネブラは「神経の繋がってない歯のことだ」と答える。

「乳歯から永久歯に生え変わるまでに、いろんな歯が生えてくるんだよ。たとえば、歯並びも気にせず自由に生えてくるのは口語自由歯、小臼歯は小休歯、前から六番目以降にある歯は四分の三拍歯」

 純粋に「へえ〜」と頷くコメットとベルリラに、ギロは「嘘だ嘘」と耳打ちした。

「ちなみに、どの歯を枕の下に潜ませておくかで、歯の妖精が換金してくれる額も変わるんだ。四分の三拍歯は平均額の四分の三になるからおすすめはしない」
「でたらめにも程がある……」
「ちょっと面白くなってきたからもう少し聞かせて」
「続きはまた明日な」

 適当なことばかりで話を打ち切ったネブラに、ギロは「寝物語じゃあるまいし」と目を細めて呆れた。
 結局、ベルリラは、苺とバニラアイスにキャラメルソースのかかったクレープを買い、ギロと二人で分けることにした。いつ歯が抜けてもいいように慎重に食べる様子が愛らしくて、コメットはほっこりした。
 ギロは「そういえば、コメットとネブラはどうしてここまで?」と話を振る。

「町の警備」
「うちの先生からの言いつけだよ。噂の公子さまがいらっしゃるから、不審者がいないか見回りしてくれってな」
「……宮廷からも離れた、ブルースの町を?」
「要するに厄介払いってこと」ネブラが吐きだす。「その公子とやらは朝一に帝国の港に着いて、そこからは空間転移魔法で移動すんだろ? てことは、いまごろ宮廷にいるはずだろうが。こんなとこ見回ったってなんの意味もない」

 この際、仕事どうこうはともかくとして——コメットとしても、一度その公子さまを見てみたかったなあ、と思う。サダルメリクの読んでいた新聞にはその肖像画も載っていたし、実に高貴で麗しいお方として紹介されていた。
 淡い水色の髪に浅瀬を思わせる爽やかな瞳。海を越えてきたというか、海から来たようなお方なのだという。かの公国のお召し物はアトランティス帝国には見ない独特のデザインをしていて、異国情緒の香りがした。
 そのとき、ベルリラがくいくいと、コメットの外套(ケープ)を引っ張った。コメットがなにかしらと思い、ベルリラを見遣ると、ベルリラは頬を押さえていた手を口元に遣りながら、とあるほうへと指差した。コメットはそれを目で追う。途端、その真ん丸な瞳をさらに丸めた。隣にいたネブラの外套(ガウン)をぎゅっと握る。ネブラが「あん?」と振り向くより先に、コメットはベルリラと同じほうを指差した。その指の先をネブラが追って、やはり、驚愕の顔をする。
 淡い水色の髪に、浅瀬を思わせる爽やかな眼差し。思わず見惚れてしまうような美麗な(かんばせ)。詰襟を持つ外套(マント)は珍しい形をしていて、黄金色の弦のような金具で固定されてある。その陰に隠れるように佩いてある短剣はたいそう煌びやかだ。彼のその、賑やかな町中には似つかわしくない、流麗な身のこなしは、まさに貴公子。
 かの国の公子——ラリマー公子が、帝都のはずれのブルースの商店街にいた。





「そんなことってある?」ギロも動揺していた。「公国の公子っていやあ、ほとんど王子みたいなもんだろ。そんなお方が従者もつけずに町中をふらふらするかな」

 ラリマー公子を見つけた四人は、公子に気づかれないよう、店や屋台の陰に隠れるようにして、公子を尾行していた。こういうとき、未成年であることは、かえって都合がいい。大の大人がしていれば怪しく見える行動も、十二歳の少女を連れた子供たちがしていれば、「なんの遊びかしら」「仲がいいね」と微笑ましく見られるだけだ。四人の雑な尾行はある意味で成功していた。
 さきほどのギロの呟きに、ネブラは「お忍びなんじゃねえの」と返した。

「高貴な方々のお考えは俺らにはわからんけど、市井に下りたくなったとか」
「それで、商店街に?」
「わからんけど。見た感じ、護衛が離れてついてるってわけでもなさそうだな。俺たちの尾行なんて高が知れてるし、公子はともかく護衛なら気づくだろ。いくら未成年だからって注意くらいはしそうなもんなのに、それがないときてる」

 そのとき、コメットのもとに葉書が舞い降りる。先刻、鎌をかけてみようと、コメットはサダルメリクへ『大先生はいまなにしてますか?』と葉書を送ったのだ。本来ならば近衛星団に属するサダルメリクは公子の護衛をしているはずだし、そうでなくとも仕事中だ。葉書の返事は期待できなかったけれど、その期待を大いに破った結果となった。

「大先生から返事だよ。『公子失踪。僕てんてこまい』だってさ」
「撒かれてんじゃねえか」ネブラは吐き捨てるように言った。「決まりだな。あそこにいるのは本物のラリマー公子。理由は知らんが護衛も従者も振り切って逃亡中」

 ギロは「こんな偶然ってあるんだな……」とクレープを一口食んで、ベルリラに渡した。両手で受け取ったベルリラは「バタフライピーみたいなひと」と公子を見つめる。バタフライピーはアップルガースの店でも売っている人気商品だ。
 ギロは偶然と言ったけれど、コメットはこれを偶然ではなく僥倖だと思った。同じように、ネブラは好機だと捉えた。合図したわけでもないのに二人の目が合う。

「コメット、たぶん俺たち、同じ考えだよな?」
「わかってるよ、ネブラ先生」コメットは歯を見せて笑った。「ここで大先生のもとまで公子を送り届けたら、きっと大先生も僕たちのことを認めてくれるよね! 任務の手伝いができるかも!」
「馬鹿弟子め! 帰すわけねえだろ!」ネブラは悪どい顔をした。「どうせ連れてったって、ごくろう、で終わりだよ。俺たちを手伝わせたりするもんか。それよか、このまま市中を引きずり回して、俺たちがその警護役を買ってでんだよ。これが本当の任務ってもんだろ!」

 ネブラが「クククッ!」と笑みを噛み殺すのを、コメットは愕然として見た。外道を見る目だった。
 とりあえず、サダルメリクへの葉書は保留にして、公子へと近づこうとするネブラの後を追うコメット。その後ろではギロとベルリラが「俺たちはどうする?」「気になるしついてく」と話し合っていた。
 ネブラは公子の目の前で立ち止まった。そして、一切の礼儀や敬意を感じさせない調子で「すんませーん」と話しかける。公子は突然現れた男に眉を顰めた。

「……誰だ、貴様ら」
「あんた、ラリマー公子だよな?」ネブラは首を傾げて言った。「探したよ。俺は近衛星団所属サダルメリク・ハーメルンの弟子、ネブラだ。うちの先生から護衛対象であるラリマー公子がいなくなったって連絡が入ったのさ。まさかこんなところにいらっしゃるとは驚きだよ、公子」

 ギロは小声で「うわ、不敬」と漏らしていた。コメットは「わかる」と思った。きっとミラみたいに上品なお辞儀をするのがふさわしい相手なのに。しかも、先生から連絡が入ったとかなんとか、嘘まで言ってるし。けれど、ラリマーの中で芽生えた警戒心を注意にまで下げるにはその手しかなかったはずだ。ネブラの言葉を真に受けたラリマーは、「もう見つかるとは」と不機嫌にこぼしていた。

「見つかるもなにも、あんた変装もしてないだろ」
「市井の人間が俺の顔を知っているわけがないからな」
「や、ばっちり新聞に載ってますよ」控えめにギロが言う。「さっきからちらちらこっちを伺ってるひともいますし……純粋に話しかけられなかっただけだと思います」

 ギロの言葉に、ラリマーは「なんと」と少しだけ驚いた。方便にもすっかり騙されたことといい、世間擦れしていないのだろうな、とネブラは思った。
 ネブラやコメットのことをサダルメリクからの遣いだと勘違いしたラリマーは、「俺を近衛星団につきだすのか」と言った。是非ともそうしたいところだけど——とコメットが口を開くよりも先に、ネブラはその口に杖腕を遣って制した。

「いいや? あんたにもなにか理由があって護衛を掻い潜ってきたんだろう。俺たちに言いつけられたのは、見つけ次第お守りしろ、ってことだけだ。どこへ向かうかはあんたが決めていいぜ、公子さま」
「ほう」ラリマーは顎に手を遣った。「ハーメルン氏は実に気の利く弟子をお持ちのようだ。お前、名をネブラと言ったか……いいだろう! お前に俺の護衛を任せてやる。ちょうど町を案内する人間が欲しかったところだ。後ろにいるお前たちも来い」

 飾ることなく、いとも容易く他者を使ってみせ、それを当然と心得ている、傲慢であり鷹揚な振る舞い——なるほど、さすがは公子さま、根っからに尊いお方らしい、とネブラは冷静に分析した。ラリマーの態度にギロは唖然としていたし、ベルリラは困惑していた。コメットなどは見るからに「えらそうなひとだなあ」と顔に書いてあった。そのわかりやすい顔を仕舞え、とネブラは思った。
 ネブラが冷静でいられるのは、こういった手合いに慣れているからだ。過去に働いていた旅館には上級貴族が宿泊に来ることはなかったけれど、まるでその血統だとでも言いたげな態度のでかい人間は、大概見てきた。相手をすること自体は苦手ではない、どれだけ虫唾が走ろうと流してしまえばいい。サダルメリクに認めてもらうという目的さえなければ、絶対に自分からは関わろうとしない相手だけれど。
 その後、ラリマーの要望どおり、ネブラたちは商店街を案内した。南通りに立ち並ぶ食べ物は、公国では見られないものもあり、ラリマーは「マロングラッセとはなんだ」「栗の砂糖漬けです」「あれを食べたい」と目を輝かせた。手持ちの金がないということで、ちょうどよくお小遣いをもらっているコメットに「立て替えろ」と言って集った。コメットはお小遣いがみるみるうちに減っていくのを惜しむこともなく、むしろ「美味しいよね」「わかるう」「次あそこ行こ!」と自ら先導した。あっちこっちに目を移ろわせるラリマーに、少し前の自分を重ねたのだ。うんうんそのレモン味の綿菓子も格別だぞ、と目を細める。とっくに通い慣れたコメットは先輩風をびゅうびゅうに吹かせていた。チョコバナナケーキ、炙り焼きにした羊肉にトマトソースとヨーグルトを添えたもの、苺と葡萄の鼈甲飴。いろんなものを買い食いした末に、「もう食えん。なにか面白いことはあるか」とラリマーが言ったので、ギロの提案で、商店街の中央にある広場へと向かうことにした。
 四つの通りを結ぶ中央広場は吹き抜けになっていて、柔らかな日差しと豊かな風を浴びられる、絶好のスポットだ。小花の咲いた芝生は寝転ぶと気持ちがよく、噴水のせせらぎは心を癒やす。今日は運よくたくさんの音楽隊が集っていたので、楽しげなメロディーで賑わっていた。
 ラリマーは「悪くない」と言い、近くにあったベンチに腰かける。この広場はよくベルリラと遊ぶ、コメットにとっての庭みたいなものだ。ラリマーが腰を落ち着けたので、コメットもベルリラも芝生に横になった。

「ねえ、ラリマーさん」コメットが見上げて言う。「どうしてラリマーさんは大先生たちの護衛を振り切って商店街まで来たの?」

 公子に対してその呼びかたはどうなんだとギロは思ったけれど、対するラリマーは意外にも寛容で、それを一切気にかけず、コメットへ答えた。

「一度、城下を見ておきたかった。俺は帝国に来るのははじめてのことだったし、国の雰囲気を知れたらと思ったんだ」ラリマーは続ける。「さすが帝国だな。あらゆるところに魔法が満ちていた。商店街のあちこちにあった魔法灯は、夜の商店街も明るく照らすだろうし、露店の食べ物を保護するためか、通りの道には、歩いても砂埃を立たせないようにする魔法がかけられていた」

 コメットは「え、そうなの?」とギロを振り返った。ギロは静かに頷いた。ベルリラもネブラもなにも言わなかったので、初耳なのは自分だけだったのかと理解した。

「世界一の魔法使いと名高いトリスメギストスのいるアトランティス帝国……どんなものかと思っていたのだが、やはり、魔法技術の先進国だな。できればここで見習い期間を終え、認定試験を受けたいところだ……五等級の魔法使いになれれば、あのグリモワ図書館にも入れると聞くし」
「勉強熱心なんだね、ラリマーさん」
「俺は公子だからな! 我が国のために魔法を学ぶのは当然だ」
「魔法を自分の国のために使いたいってこと? すごい! えらい!」
「君に言われなくとも俺はえらい立場にいる」
「立場じゃなくってラリマーさんの心意気を褒めたんだよ」
「そうか。ありがとう」ラリマーは気を取り直して続ける。「国のためだけではないが、魔法を使えて困ることはなにもない。勉強して身につけておくべきだ。帝国のグリモワ図書館には、世界でも類を見ないような、非常に便利な魔法も保存されていると聞いた。“恭順の魔法”などがそうだな」
「恭順の魔法? なにそれ」
「奴隷を抗えなくする魔法のことさ!」

 パキッ。
 なにかの音がコメットの耳朶を叩く。
 また線を引かれたのかしらと思ったけれど、それは違った。食べ終えた鼈甲飴の串の折れる音だった。ネブラの手の中で串が真っ二つに折れている。コメットにとってはとても大きな音のように聞こえたのに、ラリマーやベルリラたちは特に気にしていないようだった。コメットが違和感を抱いていることにも気づかず、ラリマーは言葉を続ける。

「俺も詳しくは知らない。奴隷を躾けるために苦痛を与える魔法や、鞭打ちのための魔法道具ならよく見るものだけれど、恭順の魔法は、主人の命令に逆らえなくする絶対服従の魔法なんだとか。人体に作用する魔法ならば禁書の可能性もあるが、その魔法さえあれば、今よりももっと効率よく、奴隷を教育できるだろう?」

 世界的な見かたとして、魔法使いと奴隷の数は反比例にあるとされている。所謂、仕事量的な問題だ。かねてより世界中のあちこちで奴隷制度は見られていたが、魔法技術の発展に合わせ、効率よく仕事を回すのに必要なのは、奴隷の人力ではなく、魔法利用だと認識されるようになった。
 ただし、魔法による革命が滞っている場所では、未だに奴隷は存在する。かつて大陸中の国々を征服してきたアトランティス帝国では、一部の原住民を奴隷にすることがあった。その名残もあり、魔法利用の活発な帝都ではほぼ見かけないものの、魔法の発展しにくい田舎での奴隷人口は多い。ラリマーのいる公国も同様だ。アトランティス帝国よりも魔法の発展が遅れているため、未だに労働力を奴隷で代替していた。

「もちろん魔法が発展すれば奴隷も不要になるが……我が国でその域に達するにはまだ時間がかかる」ラリマーは言う。「その繋ぎとして、まず奴隷教育や調教のための魔法に力を入れておきたいんだよ」

 コメットは顔を曇らせる。
 ラリマーはそれを、まるでとても素晴らしいことのように意志高々と語るけれど、それは正しいことなのだろうか。ギロもベルリラも気まずい表情でいる。国や文化の違いという言葉で片づけてよいものか、考えあぐねているのだ。
 逡巡、コメットは口を開いた。

「奴隷って、自分の言うことを他人に無理矢理聞かせることでしょ? しかも、それを魔法でなんて……そんなの、えっと、よくないと思うよ?」
「どうして?」ラリマーは純粋に尋ねた。「なにかをするのには労働力が絶対に必要で、それを奴隷が担っている。その効率化を図るのは当然のことだ」
「だけど……」

 だけど、コメットの知っている魔法は、そんなふうには使わない。
 ケートスが教えてくれた。魔法には意思が宿るのだと。たとえば、水が欲しいと、空を飛びたいと、誰かに笑ってほしいと願ったから、魔法は叶うのだと。誰かを傷つけたり、押さえつけたり、従わせたりするためなどでは、決してない。

「そういえば、ブルースでは奴隷を見なかったな」ラリマーは思い出したようにこぼした。「なるほど。お前からしたら、奴隷制度そのものが理解できないのかもしれないが……お前が知らないだけで、どの国でも当たり前にやってることだぞ。世界の常識だ。世の中には人の上に立つ者と、立たれる者がいる。言うなれば、星と塵屑(ごみくず)の違いだ」

 塵屑なんてと口を開くより先に、コメットは、いよいよネブラの様子がおかしいことに気がついた。まるでラリマーがネブラに意地悪をしているように見えて、なにかを言いたくて、でも、なにを言うんだろうと自分で不思議に思った。
 先刻までのネブラは、ラリマーの言うことなんてなにも気にしていませんという顔でいたはずなのに、険のある眼差しで、硬い喉仏を震わせて、折れた串を握り締めている。その手からわずかに血が滴った。コメットはネブラの手から串を取りあげようとしたけれど、その手があまりにも固くてこじ開けることができなかった。
 
「ラリマーさん、そんな言いかたはよくないよ」コメットは眉を顰める。「ね、ねえ、ネブラ先生、大丈夫? さっきから変だよ、ネブラ先生もなにか言って、」
「うるせえなあ!」

 そう叫んだネブラの足元の芝が、真っ黒に燃えた。刳り貫かれたようにそこだけが焼野になる。燃えたのは芝だけではない。ジリッと音を立てて、ラリマーの羽織っていた外套(マント)の裾に火が点いた。ベルリラが気づき、ラリマーもすぐにぱたぱたと靡かせて火を消したものの、「魔法なんてどういうつもりだ!」と荒い声を上げた。
 違う——コメットは気づいた。魔法だけど魔法じゃない。ミラの歌声を間近で聞いたコメットだからこそ理解できた。これはネブラの意思であり感情だ。感情が言葉になって、音に乗って、魔法を発現させる。
 ネブラが炎のように揺らめき、「そうだな、」と地を這うような声を上げた。

「そういう世界だよな。お前の言ってることはわかるよ。特にお前みたいなやつは、血筋がしっかりしてて身なりが整ってるから、勝手に人を踏みつけて、自分が上だって、綺麗なお星様気取り。俺たちは屑だから、塵屑だから、見上げることしかできねえんだよな。そういうふうにできてるんだ。反吐が出る」

 ネブラが言葉を吐けば吐くほど、あたりに火が灯る。燭台の見えない火のように浮遊する。呪いのような不気味な怪火(ウィル・オー・ザ・ウィスプ)。ネブラの杖腕が震える。

「俺をこんな気持ちにさせる、世界が嫌いだ」

 直感的にだめだとコメットは思った。
 ネブラがなにをそんなに苦しそうにしているかは、コメットにはわからい。どんな言葉ならネブラを慰められるかわからなかった。そもそも慰めるとはなんなのだろう。ネブラは泣いてはいないのに、怒っているだけなのに、なのに、どうして、こんな気持ちになるのだろう。このままじゃだめだ。だめなのだ。
 異変を感じ取ったひとたちの視線を感じる。いつの間にか音楽隊の演奏もやんでいた。ギロもベルリラも狼狽えるだけでどうするべきかわからないでいた。コメットだってわからない。けれど、魔法の使いかただけは知っていた。

「——“屑は屑でも星屑だ”」

 コメットの囁きに、ネブラは静かに息を呑む。
 その言葉にありとあらゆる音が吸われたようだった。乱れる息も、心臓の鼓動も、うるさい視線も、果てしない憎悪も。その、まるで心の弾んだ拍子に落っことしたかのような、軽やかで無垢な音階によって、まっさらに拭われた。
 ネブラはおもむろにコメットを見遣る。ネブラの火を反射してきらきらと光る瞳が、強く自分を見つめていた。ネブラだけに囁くようにコメットは言う。

「宝石よりも輝かしくきらめく……星と歌い、光を奏でる、僕たちは魔法使い」

 この世界に、自分とこの弟子しかいなかったとして、今この目に移っている光景こそがきっとそれだ。自分がどんな気持ちか、自分にとってそれがどんなことなのかもわからないまま、ネブラはただコメットから目を離せない。
 コメットはネブラの杖腕を取る。自分の手をそれに重ねた。

「ネブラ、そんなふうに使うよりも、こんなふうに使おう」

 振りあげられた杖がきらりと光った。
 コメットは深く息を吸いこむ。
 
「——“炎よ、色とりどりに咲け”!」

 あたりに浮かんでいた炎が鮮烈に弾け、空へと駆けあがる。渦巻いていた緊張の糸さえも焼ききって、その熱が吹き抜けた宙へと放たれた。
 花火だ。
 真っ青な空に極彩色の花が咲いた。ぱぱぱぱんっと小気味のいい音を立てて火花が炸裂する。突如として現れた大輪の花畑に、広場にいた誰もが空を見上げた。いずれ花は萎れて色を失くして、人々はくすぐったいだけの火の粉を浴びる。
 コメットは駆けだす。魔法を使うには熱量が必要だと教わった。ならば、こんな日陰ではだめだ。吹き抜けの真下、風と火の粉が舞うところ、太陽の祝福を受けたコメットは、もう一つ大きく息を吸った。
——想いは歌に。歌は魔法に。魔法は光になる。

「“火種は雲の中に埋めよう
 注ぐのは涙じゃない
 飛びっきりの花を咲かせて
 誰もが見上げる光を奏でよう”」

 降り注ぐ火の粉が息を吹き返す。ちかちかと瞬く火花が広場を元気よく跳ね回った。絵の具を撒き散らしたように色が散り、細やかな花がいくつも咲いた。
 ギロが近くの演奏家のところまで行き、歌うコメットを指さした。演奏家はその歌に合わせてヴァイオリンを奏ではじめる。それにつられて、ヴィオラが、リュートが、パンデイロが、ティンパニが鳴り渡る。いくつもの音が重なれば、ベルリラが体を揺らして手拍子を始めた。手拍子は伝播する。割れるような喝采がリズムを取る。

「“空がこんなに眩しいのは
 君が心を燃やすから
 この胸まで熱くなるんだ
 いま歌うから聞いていて”」

 光と魔法の循環。コメットの歌に合わせて花火が咲いて、その光の粒がコメットへと降り注いで、また魔法になる。ここは光の園だ。きっと永遠に終わらない。ふと見上げれば満開の花が、可視光線の限りに照り映える。
 呆然とその光景を眺めるネブラは、どこかで聞いたことのあるメロディーだと気づいた。そうだ、これは、コメットとミラの歌っていたメロディー。絶頂はもうすぐだ。コメットの歌声は一際大きくなる。あのときはミラが主音を担っていたけれど、今は違う。今このとき、コメットは誰がために歌うのか。
 楽しげに歌うコメットの瞳が、ネブラを射貫く——あとは瞬く間だった。

「“悲しみが迎えに来るまで
 お利口に待ってなくていいよ
 希望は見つけられるのを
 君が手を伸ばすのを、輝いて待ってる”」

 闇を切り裂くように走る一閃の星屑——その膨大な熱量をぶつけられた。
 これがただの歌だったら、ネブラだってきっと、その歌ごと焼き尽くしてやろうと思ったはずだ。けれど、それが魔法だったから。自分のためにかけられた世にもまばゆい魔法だったから、ネブラはコメットへと手を伸ばした。
 同じように、コメットもネブラに手を差しだす。心臓に刻みこむような楽器の音色と拍手が、まるで肌に当たって反響するかのように震えている。その身すら震わせながらネブラの手を取ったとき——(いま)だに花火の咲き乱れる吹き抜けの向こうから、箒に乗った魔法使いがやってきた。
 コメットはその魔法使いの姿を見て、目を見開かせる。

「大先生!?」
「やあ、コメット」箒から下りて、サダルメリクは駆け寄る。「君の魔法が見えたよ。はじめてにしては上出来じゃないか」
「どうしてここに?」
「様子がおかしかったからね。いきなり葉書を寄越すし、いきなり途絶えるし。まさかと思ってきてみたけれど……なるほど、ラリマー公子と一緒にいたんだね」

 サダルメリクは、少し離れたところで呆然としているラリマーを一瞥した。コメットは怒られるだろうかと身構えたけれど、自分の手をぎゅっと握られる感覚に思い出す。はっとなって視線を遣れば、ネブラはコメットの手を握ったまま、膝をついていた。コメットも膝をついて、その背中を(さす)る。

「大先生、ネブラが、」
「ああ。ラリマー公子に会ったらこうなると思っていた」サダルメリクは被せるように頷いた。「ここら一帯が火の海にならなかったことが驚きだよ。この子の魔力は昔から炎と相性がいいから。君のおかげだね、コメット。ネブラの師匠として言わせてほしい、彼を止めてくれてありがとう」

 そう言ってから、サダルメリクは、ネブラの髪に手を埋める。さらりと優しく撫でるようにして、その頬を掬った。おもむろの顔を上げさせれば、眩しそうに細められたネブラの瞳が、わずかに滲んでいるのが見えた。

「そんなふうに憎まないで、って言っても、難しいよね」
「先生……」
「でも、大丈夫。君はもうブラーではない」サダルメリクは囁く。「あの夜、ブラーは燃えて、空に上げられてしまったから。塵も積もれば山となるように、過去の君が降り積もって……いまの君になったんだよ、星雲(ネブラ)

 ブラーと呼ばれた彼が燃やしてくれと言ったから、サダルメリクはその成れの果ての星々を、新たな彼の名前にしたのだ。深い闇を濡らす小宇宙のきらめき。たくさんの命が燃え盛る様を、サダルメリクは彼に見出した。
 サダルメリクがネブラの頬を親指で撫でたので、涙の軌道が変わった。ネブラはあのころのように、ただじっとサダルメリクを見上げている。
 吹き抜けの向こうから、サダルメリクと同じような格好をした魔法使いが、次々とやってくる。近衛星団の魔法使いたちだ。彼らはラリマーを見つけるなり駆け寄っていった。ラリマーも逃げるつもりはないらしく、その場で質問を受けている。サダルメリクはその様子を確認して、自分の弟子たちが不利になる予感を覚えた。そもそも、見習いの魔法使いが公の場で魔法を使うことは禁止されているのだ。悪い方向に働かないよう、魔法の師として擁護しなくては。
 サダルメリクは「待ってて」と言い残して、コメットとネブラから踵を返す。師の手を失ったネブラはだらりと力を抜いた。その弾みで、コメットと繋がれていた手も緩まる。コメットはネブラを見て、逡巡、サダルメリクの後を追った。どうしても聞きたいことがあったのだ。聞くなら今だと思った。

「ねえ、どうして大先生は、ネブラ先生に魔法を教えたくないの?」

 ひそやかな声で、コメットは尋ねる。
 サダルメリクはぱちぱちと目を瞬かせて、ゆるりと苦笑した。

「彼が絶望のために魔法を使おうとしているからさ」

——俺を、こんなふうにする世界なんて、消えてなくなればいいのに。
 炎に焼かれ、血を流して、なにもかもに打ちひしがれた彼がそう言ったのを、サダルメリクはしかと覚えている。忘れもしない。忘れられない。サダルメリクはずっと後悔している。その胸に復讐心が(うわ)るより先に、彼を救っていればよかった。
 魔法は異能だ。きらめきであり、凶器だ。サダルメリクも長い時を生きた魔法使いなので知っている。この世界をきらきら輝かせることも、火の海に沈めることもできる。ネブラは生まれたときから後者の素養があった。そういう星の下に生まれてしまった。なるべくしてなった絶望で、恨みがましくも彼は、いつの日かこの世界なんて燃やし尽くしてやる心積もりでいる。

「それじゃだめなんだ。破滅は心底虚しいだけで、呪いとなんら変わらない。僕はね、コメット。ネブラに、希望のために魔法を使ってほしいんだよ」

 そうやって、どうしようかと思いあぐねているサダルメリクの前に——その名のにふさわしく、彗星のごとく現れた。きらきらしてて、かっこよくて、素敵だからという、ちっぽけな理由だけで、魔法使いになりたいと言った、ネブラとは正反対の純粋な少女。

「コメット。空駆ける星の名を冠した、無垢なる魔法使い見習いさん。どうか君の魔法で、彼に希望を見せてあげてほしい」

 遥か彼方で爆散する星に願いをこめるように、人々は異能の賢者と言って魔法使いを称える。誰かを幸せにする希望の光だと祈りを捧げる。だから魔法使いは星の名を戴くのだと、コメットは思った。
 花の残り香の舞う麗らかな空の下、今はじめて、この物語の幕が上がる。願わくば——魔法使いの弟子の弟子コメットが絶望から希望へと導く、そんな眩耀たるものでありますように。
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