第廿二服 調永離城
文字数 7,920文字
調って永を城から離さんとす
討つ者も討たるる者も土器よ
くだけて後はもとの塊
三浦義同 辞世
伊丹城を囲む三好筑前守元長の許へ、京に残留した叔父・三好蔵人之秀から早馬が来た。宿敵・細川武蔵入道道永が吉祥寺まで進出したことを報せる使者である。敵方の詳細な情報と絵図を添えての書状は、慌てることのない之秀の性格を思わせた。書状を取り次いだ三好伊賀守連盛が側に控える。
連盛は先頃、帯刀左衛門尉を伊賀守に改めたばかりの一門衆だ。それまで元長の取次は亡くなった次兄・孫四郎長光の家臣・三好伊賀守長直が務めていたが、次兄の遺児・孫四郎長縁が元服したため、長縁家中の家宰となり、備中守を継いだからである。そこで空いた取次に連盛が取り立てられた。
「京は如何にござる?」
「武蔵入道奴、囲魏救趙とばかりに、のこのこと出てきたそうだ。右典厩あたりが天狗になっていることだろうよ。――城に使者を送るぞ。伊州、御上人をこれへ」
囲魏救趙とは『兵法三十六計』にある第二計である。大陸の戦国時代、魏が趙と戦った際に、趙は次第に追い詰められ、ついに都の邯鄲を魏軍に包囲された。趙は同盟国であった斉に援軍を求め、斉の威王はすぐさま田忌と孫臏に命じて、趙を救援させるべく軍を発す。孫臏は邯鄲に向かおうとする田忌を途中で留め、魏の都の大梁を包囲することで、魏軍を趙から撤退させ、引き返して来た龐涓率いる魏軍を桂陵の戦いで大破して趙を救った。
孫臏は魏に滞在していた際、同門の龐涓に裏切られ、臏刑――膝蓋骨を取り去る刑と、黥刑――罪人の証として額に刺青を施す刑に処された。一命を取り留めた孫臏は田忌に連れられて斉へ入国し軍師となり、この復讐のために表舞台に立たず、雌伏していたといわれる。
この故事は南北朝時代の宋――東晋の恭帝から禅譲を受けた劉裕の興した国で北宋・南宋と区別するため劉宋と呼ばれる――に仕えた檀道済が著した『兵法三十六計』に取り上げられ、日本にも広く伝わった。『三十六計逃げるに如かず』という諺の基にもなっている。兵法を学ぶ者にとって武経七書が聖典であるが、『兵法三十六計』は故事・教訓が盛り込まれており入門書としては取っ付き易い書であった。この時代は文盲も多い中、比較的平易な兵法書として人気を博している。
武経七書とは『孫子』、『呉子』、『尉繚子』、『六韜』、『三略』、『司馬法』、『李衛公問対』で、その中でも『孫子』が最上とされた。ちなみに、孫臏も孫子であるが、『孫子』を著したのは孫武で、孫臏はその後裔にあたり、孫臏の兵法書は『孫臏兵法』と呼ばれる。
細川右馬頭尹賢は伊丹城を趙と見做し、京を攻めることで元長の兵を退かせようと考えたのだろう。しかし、それこそが柳本弾正忠賢治の罠であった。そもそも、この計略の要諦は敵の戦力を分散させることにある。つまり、地理的制約によって兵力の集中が行えないことが条件なのだ。邯鄲から大梁までは五六里半で、強行軍でも十一日の距離である。伊丹城から神尾山城を経由しても京まで十七里半の距離で、普通に行軍しても六日の距離であった。
つまり、細川道永は誘い出されて京に進出したのだ。朝倉・六角の軍勢はバラバラに陣取り、足並みを揃えることが難しい。細川道永・尹賢主従をよく知る柳本賢治の読みはここまで尽く当っていたが、本番はこれからだ。
「畏まってござる」
兵法に疎い連盛は囲魏救趙が分からなかったのであろう。首を傾げながら、本陣を張った本堂を出て、使者の控える薬師堂へと向かった。使者は尼崎にある法華宗・本興寺の日承である。日承は式部卿・伏見宮邦高親王――安養院慧空入道親王――の子である。伊丹兵庫助元扶と媾和するための使者として元長が招いていた。
ちなみに上人とは法華宗・浄土宗・浄土真宗で使われる高僧の位で、帝より上人号の綸旨を受けた者を言う。元々は僧侶の位である法橋上人の略だ。
「いよいよですな。囲むだけの戦は体が鈍っていかん」
大きな伸びをした篠原大和守長政は、長滞陣に飽きていたのか体を解しはじめる。長政は灰白に銀鼠の混ざった総髪で薄鈍の鬚を備えた老境にありながら、怪力で鳴らした槍の名手であった。元長からすると父よりも祖父に近い故、言葉遣いも遠慮が入る。
「和州殿は戦がお好きか?」
「戦は武士の本分なれば」
「では、戦果を期待させてもらうとしましょう」
呵々大笑した長政を元長は頼もしげに見遣る。この後、元長にとって、長政は必勝の槍となった。
しばらくすると、連盛が日承を伴って本陣の幕内に入ってきた。日承は気品ある出で立ちで、比叡山延暦寺の肥えた坊主どもと違い、痩身で二十七歳の若者である。穏やかな表情と力強い目が印象的であった。
「御上人。御足労いただき忝ない」
「お招きいただき、拙僧としても有り難く存じております」
「上人様、こちらにござる」
日承は示された床几に腰掛ける。床几とは折畳式の椅子で、交差した木組みが一対あり、それぞれの片端を棒で繋ぎ布を張ったものであるが、元長の床几は特別製で長い板に折り畳める脚の付いた大型の物であった。これは篠原長政がいくつも床几を壊す元長を見兼ねて、堺の唐木職人に作らせた物である。
「それで、条件などはございますか?」
「特には。ただ子息を人質に出してもらわねばなりませぬ」
「それは……」
「御上人から見ても甘いですかな」
ニタリと元長が嗤う。普通の降伏勧告というのは厳し目に条件を出し、折り合いを付けていくものであった。それに対し、元長は最初から人質以外求めぬという。日承としては条件が緩く相手が受け入れやすい方が交渉が簡単に済むので有り難いのだが、些か引っ掛かる物があった。
「というのも、降伏が済んだ後に兵を出させまする」
「嗚呼、成程。そういうことでしたか」
「某もようやく理解が追いついたでござる」
連盛は官吏畑であり、日承もやんごとなき家柄の出、分からないのも仕方がない。しかし、長政などは頭から「戦は腕でするもの」とばかり策戦に関心がなかった。元長としてはそれでは困る。次世代の若者たちに兵法を学ばせる必要を感じていた。
「このことは、私から兵庫殿に伝えます」
「では、そのように」
日承は思いの外、楽に依頼を終わらせられそうであることに安堵した。まだ、外交僧としての経験は浅い。使者であっても逆上した敵将によって命を奪われることなど当たり前である。
「これで兵庫殿が無事降れば、本興寺の発展に力を貸してくださるお約束、お願いいたします」
「無論。我らとて法華の徒なれば」
元長が断言する。三好一族は多くが法華宗であり、主家である細川氏も法華宗であった。元長も日頃から南海道の末寺頭たる堺の顕本寺に訪れている。本興寺も摂津の末寺頭であり、三好氏としては顕本寺以外にも頼れる寺を持っておきたい処だった。但し、子息や一族たちを学ばせに預けることが多い故、寺で兵法が学べることが望ましい。当時の寺では、顕本寺の日演のように兵法に通じている僧は珍しかった。それでも碁を打つ者は多いため、碁が兵法の訓練になると元長は考えている。当然ながら元長も碁を嗜んでいた。
「では。いってまいります」
「ご足労をお掛けいたします。伊州、御上人を必ずお守り致せ」
「畏まってござる」
日承は連盛らを護衛として、伊丹城内へ入り、伊丹元扶と談合した。伊丹元扶は既に降伏の意を固めており、元長の条件を訝しがりながらも受け容れる。この時、伊丹城は桂川原の戦いから籠城し続けていたために兵糧が尽きており、伊丹元扶は元長に降る以外の選択肢を持たなかった。
日承は元扶の次子・千代松を連れて墨染寺へと戻って来た。千代松は六歳である。ここに摂津最大の抵抗勢力であった伊丹氏が堺陣営に下り、六郎の懸念は払拭された。元長は千代松を六郎の許へ送る手筈を整え、早馬にて賢治へ報せを送る。京での反撃体制を整えるべく、諸将に撤収を告げた。
十月廿八日、包囲を解いた元長は軍を京へ向ける。この軍には降伏したばかりの伊丹元扶も加わり、三好勢は総勢一万五〇〇〇となった。元長の瞳に獰猛な光が宿る。『阿波の島熊』と渾名通りであった。
その頃、川勝寺城では、畠山右衛門督義堯と松井越前守宗信が口論となっていた。畠山義堯は痺れを切らして出陣しようとし、それを松井宗信が押し留めるという図である。同席した三好之秀は我関せずと素知らぬ顔をしていた。
「金吾様、出陣は成りませぬ!」
「黙れ越前、余に指図するか!」
「然れど、まだ弾正殿からも家宰殿からも報せは御座いませぬ」
「何を吐かすか越前殿。我が殿は細川様が盟友。筑前殿や弾正殿の指図を受ける身ではないわ」
松井宗信が談合の場を出ようとした畠山義堯を制止して振り解かれてひっくり返り、遊佐河内入道印叟に罵られた。朝倉勢は下京四条に陣を構えて、繰り返し川勝寺城に挑発を行っている。それに乗せられた無謀な出陣と松井宗信は考えていた。
「越前、これ以上余に指図するならば、お主を斬る!」
「なんと無体な……」
「越前殿、金吾様は御屋形様の盟友なれば、御随意に動かれて当然。お留めせぬ方がよいのではないかのぅ」
騒ぎを無関心に眺めていた三好之秀が、鼻毛を抜いて、フッと吹き飛ばしながら事も無げに言った。然程大きな声でもないのによく通る声である。
「蔵人殿まで何を……」
「いや、何。ここまで仰られるからには、なにか策がお有りであろうよ。河入殿、如何ですかな?」
憮然とした表情でその場に坐った畠山義堯を遊佐印叟が支えた。その印叟がギロリと松井宗信を睨んできっぱりと言い切る。
「策はござる。但し、夕郎殿の助けが必要じゃがな」
「この老いぼれの助けとな?」
「そうじゃ。貴殿の助けが要る」
「所司代の私を差し置いて、話を進めるなっ」
遊佐印叟はどっかりと坐って断言した。無骨で狷介な表情をしているが、悪い人間ではない。戦場を幾つも流離いながら畠山義堯を支え続けた遊佐越州家の逸材であった。だが、それ故に武人でない者を信用しない。松井宗信も悪い人間ではないのだが、こと戦では無用の長物であった。ちなみに夕郎とは、蔵人の唐名である。
「これは共に戦場を駆けた夕郎殿にしかできん」
お主は黙っておれと言わんばかりの睨めつけに松井宗信は怯えた。これは官吏蔑視ではある。細川氏被官では官吏的な仕事が多いため、どうしても平時の官吏専門の人間が増える傾向にあった。それは京兆家に限らず、讃州家でも同じである。これは武人の家には政が苦手な者が多いという問題を解決する為でもある。政の苦手な重臣に官吏の寄騎を付けるという形を取れば、自然と後方支援が整うからだ。政戦両略を出来る三好氏や遊佐氏が稀なのだが、遊佐印叟に自覚はない。
「なれば、河入殿の策をお聞かせいただこう」
「無謀な策であれば反対いたしまするぞ」
松井宗信が食い下がる。三好之秀は厄介なことに巻き込まれたと思いながら、損なわぬことを考えるしかなかった。自身の役目は元長が戻るまで、敵を京に引きつけておくことである。その為には、畠山勢がどうなろうと己の手の外だ。
「応よ! それでこそ三好の猛者よ!」
遊佐印叟が身を乗り出して策を披露した。
翌廿九日、川勝寺城を北から出た畠山義堯の軍が足利義晴公が陣を張る東寺に向かった。兵力は一万二〇〇〇。東寺法輪院に収まりきれない兵たちは方々に陣を張り、畠山義堯が狙ったのは西門前の二〇〇〇の陣だった。だが、下京四条に陣した朝倉勢がこの動きを察知せぬはずもない。
「なにぃ? 畠山に動きあり、だと?」
智将・朝倉左衛門入道宗滴が畠山義堯の狙いを怪しむ。畠山勢は精々が五〇〇〇にも満たない小勢であるにも関わらず、大軍に襲撃を懸ける無謀さに違和感があったのだ。
「怪しいな。総州の動きが不自然すぎる」
「然れど義父上、公方様の兵は左程強くはありませぬ。早くせねば、崩れるやも」
朝倉九郎左衛門尉景紀の正しい指摘に宗適が逡巡する。少し肩を落として、いささか煩わしそうに呟いた。
「仕方あるまいな。儂は公方様をお助けに参る。義息よ、この陣を五五〇〇で守れ。儂は五〇〇でよい」
「義父上、それではあまりにも兵が少なすぎまするっ」
畠山勢は少なくとも三〜四〇〇〇の兵を擁する。そこに五〇〇の寡兵では、幾ら戦上手の宗適と言えど、身が危ういとの懸念だ。
「畠山の弱兵など五〇〇でも多いほどぞ?」
「せめて二〇〇〇はお連れくだされ」
宗滴は静かに頭を振った。
「相分かった。一〇〇〇は連れて征こう。されど、此処の陣は脇の要、それ以上は駄目じゃ。抜かれることが万が一にもあっては朝倉の名が廃る。よいな?」
宗滴としては不本意ながらも、景紀の意見を容れて一〇〇〇の兵を動かした。義晴公の危急を知って無視したのでは、この戦全体が負けになってしまう。畠山の弱兵如き、後背を突けば崩れると踏んでいた。
そして直ぐに一〇〇〇の寡兵が畠山義堯勢の後ろに現れる。これを警戒していた斥候が遊佐印叟に報せた。
「殿! 左衛門入道奴、引掛りましたぞ」
「よし! 全軍後背の敵を討て!」
「放てぇい!」
義堯の号令一下、兵が向きを一斉に変える。駆け寄った朝倉勢に矢の雨を降らせた。
「ちぃっ。謀られたか――者共、円陣を組めぃっ。徒歩の者を中へ、侍は外だっ。急げ!」
動揺もせず、宗滴は一喝する。そんな宗滴に兵らは絶対の信頼を置いていた。一糸乱れぬ動きに、畠山義堯も遊佐印叟も舌を巻く。付け入る隙の無さは流石に名将であった。そして、宗滴はそのまま、ジリジリと陣を後退させる。寡兵であったことがこの退却を容易にさせた。
「思ったより兵が少ないな」
「それは侮られたということでござるな」
畠山義堯は宗滴の率いてきた兵が、予想より少ないことを指摘する。遊佐印叟は直ぐに宗滴の考えに思い至った。慥かに朝倉宗滴率いる敦賀衆は、宗滴自ら鍛え、数々の戦に従ってきた強兵である。国を逐われて兵を傭った畠山勢を侮っても当然だ。所詮、傭われ兵など不利を悟れば離散してしまうのだから。
現に粘る朝倉勢に数で勝る畠山勢が気圧されている。三好勢からも借りてきた弓を、射ては居るものの、誰も近寄ろうとはしなかった。だが、畠山義堯もそのままにしていた訳ではない。軍勢の両翼を伸ばし、半包囲の体制を取りつつあった。だが……其処へ
「義父上をお助けせよ!」
朝倉景紀の手勢一〇〇〇が駆けつけた。もう少し時が稼げれば、朝倉宗滴を討ち取れたやも知れない。こうなっては、遮二無二に戦う朝倉勢を押し込むのは難しかった。
「ここまでだな」
「口惜しゅうござる……が、ここは逃げるが勝ちかと。殿軍は某が」
「……死なれては困るぞ」
畠山義堯は手勢を纏めると北廻りで帰投した。朝倉宗滴は追撃しようとする景紀を抑えて兵を退かせる。何より宗滴が疲労していたのだ。
「陣から離れる奴があるか」
「まだまだ未熟者故、義父上がご無事で何よりです」
悪怯れず言ってのける景紀に頼もしさを感じた宗滴であった。
「陣の方は大事ないか?」
「三好勢が陣の近くまでは来ましたが、ウロウロとするだけででしたので、丹後殿に預けて参りました」
「ならば好し」
結果として、畠山義堯は足利義晴の本陣であった東寺を襲撃したものの、朝倉宗滴・朝倉景紀ら朝倉勢と川勝寺口にて戦い、撃退された形になった。
十一月半ばに入り、柳本賢治が赤井勢を従えて、三好元長と共に長坂口から姿を現した。道永としては挟撃体制を執るであろうと踏んでいた為、軍勢は洛中の南に偏っている。道永は慌てて陣を動かそうとするも、三好・柳本勢は川勝寺城に入らず、足利義晴公の東寺を攻めた。十七日のことである。
義晴公の陣は大混乱に陥ったが、三好・柳本・赤井勢はそのまま軍を北に向け、本圀寺に陣を構えた。これは細川道永らと足利義晴公の通路を塞ぐ形となる。さらに波多野秀忠は本能寺に兵を進めた。
翌十八日、元長は朝倉勢を牽制しつつ西院へ移動しようとして、威力偵察に出ていた印牧丹後守美次と遭遇戦となり、不意を突かれて兵五〇も討ち取られた。が、大勢には影響なく、そのまま西院に陣取る。
西院とは源氏長者が任じられる淳和奨学両院別当の淳和院のことである。義満公以来足利将軍家が源氏長者を務めたが、明応の政変以後は将軍不在もあって再び村上源氏の久我家が務めるようになり、次第に足利将軍家と交代で就任するようになった。但し、淳和院別当は名誉職であり、淳和院そのものは応仁の乱で衰微し、荒廃している。しかし、此処を占拠することは大きな意味を持っていた。讃州陣営が此処を押さえたということは、次の源氏長者に奉戴する足利義維公が名乗りを上げたというに等しい。しかし、足利義晴公はこれを座視し、道永もまた反撃する様子は見せなかった。
柳本賢治率いる丹波勢が本圀寺、三好元長率いる阿波勢が西院、畠山義堯の河内勢が川勝寺城、波多野秀忠が本能寺という戦況は、西院を本陣として、南東に勢力を張り出した形である。廿日、川勝寺城から畠山義堯が、本圀寺から柳本賢治が顔を見せ、合議の場が設けられた。
「ここまでは弾正殿の思惑通りにことが運びましたな」
「典厩は策謀が得意でも、戦はそれ程でもありませんから。とはいうものの、ここに至っては智将・宗滴殿がどう出るか」
「余の動きへの対応も機敏であったしな」
戦でいい所の無かった畠山義堯は些か不貞腐れ気味である。これには元長も賢治も苦笑気味だ。畠山義堯の役回りは朝倉勢に消耗を強いることで、宗滴の兵を幾分でも減らしており、充分に役目を果たしたと言えた。だが、本人は華々しい活躍をしたかったと見え、口惜しがっている。
「それはそうと、前刑部卿の所に慈照院様の御物が預物となっているとか」
「それは誠かっ?」
雑談とばかりに松井宗信が拾ってきた噂を披露した。これに飛びついたのは元長である。元長自身は興味は無かったが、叔父の長当や之秀は流行りの茶の湯や能楽、連歌などに通じており、こうした物が高値で取引されることを知っていた。
預物とは、中世において土倉に預けおいた物をいい、土倉とは高利貸しである。
前刑部卿は、和気典薬頭家の前当主で正三位に昇った親就のことで、大永二年、入道して宗成と号している。そして、和気典薬頭家は薬師の家系で、朝廷の典医として、幕府とも関わりがあり、屠蘇散などの薬で成した財で武家相手の大名土倉を営んでいた。
「何でも、此度の動座で持ち出せなかったものを預けているとの専らの噂で」
「蔵人、早速確かめよ」
「では早速」
之秀に噂の裏取りをさせた元長は、十一月廿六日、和気典薬頭家の別邸に討ち入った。降って湧いたような三好の軍勢を前に、和気親就は怯えて抵抗せず、蔵を開けて元長に預物を献上したという。
「これが伊佐七左入道宋雲が宗源院殿から与えられたという『如意宝珠』の茶入なのか?」
「本物かどうか私には分かりませぬが、これを使って一つ、仕掛けてみますか」
胡散臭そうに茶入を眺める元長に、面白いことを思いついたとばかりに目を細めて笑顔の柳本賢治が対照的であった。
一方、十一月廿九日には江州方に、新たな援軍として越前から前波藤右衛門尉吉当・左衛門景定、小泉藤左衛門尉長孝ら三〇〇〇の兵が到着、朝倉勢は総勢九〇〇〇となるも動かなかった。
翌十二月十四日、足利義晴公との連絡線を確保しようとした細川道永と、これを遮断したままにしたい三好元長・柳本賢治との戦いが起こる。が、これは偶発的な戦いで、全面攻勢には至らず、戦線は膠着状態となった。
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