第七服 光発若府

文字数 6,907文字

(こう)(じゃく)()(はっ)

逢ひ見てし後瀬の山の後もなど
通はぬ道の苦しかるらん


 陽射しが肌をやわらかく刺していた。室町時代は寒冷期だった江戸時代に比べるとやや温暖であるが、応仁以降少しずつではあるが、気温が下がり始める。とはいっても、体感ではっきりと分かるほどではなく、現代と大きく変わりはない。土肌が多く露出しており、街内も外も緑が豊富で風通しが良いため、体感温度が大きく違っていた。ジリジリとした陽射しであっても、暑いほどではない。風は寒気をはらんで乾いており、心地よく暑気を払ってくれるからだ。晩秋から初冬になろうとする(そう)(こう)の終わり、まるで春のような日――所謂(いわゆる)小春日和である。

 霜降というのは二十四節気の第十八、晩秋の中気の十五日間のことを指す。秋の終わり最後の半月で、(かん)()を過ぎて急に寒さが強まり、寒暖の差が大きくなって霜ができるようになる頃である――というのは(から)(くに)の話で、日本では奥羽地方(東北地方)でもなければ、まだ霜を見ることはない。江戸時代であれば、更衣(ころもがえ)の時期にあたり、(ひとえ)から(あわせ)に長着を改めるが、この当時は襌を(かさね)て着るのが当たり前であった。まだまだ袷は一般的ではなく、暖かい木綿はまだ国内で生産されていない。木綿の輸入量は年々増加しているが、博多や堺がその取引の中心であり、若狭ではまだあまり取り扱われていない高級品であった。若狭には堺から近江経由で入ってきているため、流通量も僅かである。そのため、布といえば(おお)(あさ)がほとんどであった。(しろぎぬ)は高級品ゆえに大名やその直臣ら、あるいは豪商などが手にするだけである。

 昨日までは秋の長雨が冷たく降り注ぎ、今冬の寒さを予感させていた。(わか)()は既に冬といってよい。

 若狭国は()(かた)郡・遠敷(おにゅう)郡・(おお)()郡からなる面積の小さい国である。国力等級は(ちゅう)(こく)、距離等級は(きん)(ごく)。おおよそ租税が二万五千貫、津々からの上納がしめて三万貫で、その多くが米ではなく貨幣代納となっている。これは京の貨幣経済の発達に伴い貨幣での納入が早くから推奨されていたからだ。のちの太閤検地では八万五千石とされているが、一貫=二石とされるので、おおよそ四万二五〇〇貫相当の石高とされたことになる。これには港湾や町方からの商業収入は含まれていない。租税は二公一民が基本であるが、殆どの農家が米以外の作物で金銭を得ており、石高ほど貧しくはなかった。古くは製塩が盛んで、租庸調のうち庸・調を塩で納めるよう定められている。日本海側の海運が集まり、京都への陸運も盛んで、物資豊かな(みなと)が軒を並べていた。そのため、国土面積の割には人口が多い。平城京の頃から「()(つけ)(くに)」と呼ばれ、京の食糧供給地になっていることが分かる。

 若狭の国府は遠敷郡()(ばま)に置かれ、長らく遠敷郡は(こく)()領であったが、鎌倉時代から徐々に(いま)(とみ)(のしょう)に組み込まれていき、現在は守護領の八割八分を占めていた。この(さい)(しょ)――平安・鎌倉時代、国衙においてその国の()税・官物の収納などのことをつかさどった役所――を今富(みょう)という。

 北から(えち)(ぜん)(おう)()(たん)()(たん)()に国を接している北陸の玄関口である若狭は、山陰道にも接している。(ぼっ)(かい)国からの使節が越前国()()(はま)に寄港し、松原客館に宿泊した後、()()()湖の畔にある()()の松原に泊まり京へと向かっており、()(ない)ではないが、京に最も近い若狭湾を擁した若狭国は京の外港として発展した。

 北国街道の難所木ノ芽峠が越前との国境で、野坂岳から三国山を経て赤坂山への峰が連なる。大日岳から三十三間山と連なり、駒ケ岳から百里ヶ岳へと広がる山々が近江との国境となり、三十三間山と駒ケ岳の間の熊川と近江の保坂が山を隔てて繋がっていた。西に広がる丹波山地は()(きん)(ざん)が丹波との国境に(そび)え、八ヶ峰の知井坂と頭巾山近くの尼来峠が通じている。丹後街道が高浜から吉坂峠を経て舞鶴へ向かっているが、難波江から塩汲峠を通り丹後国(あせ)()を経る迂回路もあった。北は奥州()()(みなと)、南は博多と船が往来し、交易の盛んな土地で水軍衆――海賊の多い土地柄であった。

 海賊というのは、交易を行う(かたわ)ら船舶や村への略奪、あるいは逆に金銭を取って船舶航行の警護を組織的に行った沿岸の国人・土豪のことだ。世間からは専ら略奪ばかりしているのだと誤解されている。実際には略奪を行うことはほとんどなく、()(べち)(せん)・や(けい)()料の取り立てで生計を立てていた。帆別銭は船ごとに課せられた港湾施設の使用料で、当時の交易船の主流が大型帆船であったため、帆に応じて課したのでこの名がある。警固料とは、幕府から公認された日明貿易の警固を担った海賊衆を警固衆と呼んだことによる。日明船だけでなく支配海域で通航する船の警固をして、他の海賊から積荷を守ることを請負った。この警固料がのちの保険の始まりであることは意外と知られていない。

 室町前期に若狭を治めていたのは一色氏であった。元々、一色氏は足利氏の一門で、足利高氏の挙兵に参加。その与力として名を馳せる。さらに、()()の都落ちに従って九州に下向。(ちん)西(ぜい)管領――のちの九州(たん)(だい)を担った。しかし、安定した在地管国を持てなかったため、政治基盤を構築することはもとより、国人の被官化もできず、最終的には九州での勢力を失ってしまう。

 (じょう)()の変で同じ一門の重鎮・()()(たか)(つね)が失脚して越前に下向すると、若狭守護で小侍所別当に任じられていた高経の五男・(よし)(たね)も罷免され、これに従った。この貞治の変は、専横の強い斯波高経と佐々木(どう)()の対立であり、高経が赤松氏など有力守護大名からも反発されていたため、(よし)(あきら)公が高経を放逐した政変である。

 空位となった若狭守護に、一色(のり)(みつ)が任じられ、守護大名として家勢を回復していくきっかけをつかんだ。

 しかし、そこには厳しい現実が立ち塞がる。一つには斯波義種の守護時代に、南朝方だった山名(とき)(うじ)を帰参させるために与えた今富名が守護領に含まれないことであった。守護でありながら領国に所領がほとんどない状態で領国経営を進めなければならなかったのである。

 もう一つは、室町幕府成立後、一色範光まで守護がのべ十六人に及び、平均在任は二年未満という状況であったため、国人たちと守護に信頼関係が構築できず、当然のことながら守護に従わず、反抗的な行動を取っていたことであった。

 範光は義弟で阿波小笠原氏の在京家当主である幕臣の蔵人(くらんど)大夫(のたいふ)(なが)(ふさ)を若狭守護代に任じ、現地に派遣、若狭の領国化を図った。範光と長房は(おう)(あん)の国人一揆を鎮圧して国人勢力の排除に成功する。さらに子の(あき)(のり)(めい)(とく)の乱の戦功で今富名を乞うて許され、ようやく若狭支配の基盤が整った。

 詮範の子・(みつ)(のり)は父とは別に丹後守護となり、独自の家臣団を形成することとなる。詮範歿後、父の家臣団を継承するが、満範直臣の丹後衆と詮範重臣の若狭衆が対立し、小笠原長房の子・出羽守(なが)(はる)(なが)(より)父子を京屋敷にて捕縛、丹後に監禁した。満範歿後、幕府の支持を取り付けた次子・(よし)(つら)と、長子・(もち)(のり)とが家督を争いはじめる。時を同じくして長春の弟で三河小守護芸州家当主の(なが)(まさ)が三河で挙兵。小笠原党の支援を受けた持範の勢力を削ぐため、義貫は監禁していた小笠原父子を丹後石河城にて自害させた。長正も敗れ、長正の一族郎党は族滅させられた。これにより一色氏の支配圏に守護代として勢力を伸ばした()()小笠原家は没落する。

 四代続いた一色氏の若狭支配も、(よし)(のり)公が義貫を逐ったことで終わりを告げた。丹後・山城・若狭・三河の守護を兼任して有力守護大名となった義貫の台頭を義教公が警戒したことや、度々出兵を拒否し義教公と対立していたことが原因とみられる。義教公は空いた若狭守護に自身の信任厚い安芸分郡守護家の武田(のぶ)(ひで)を任じた。若狭に下向した信栄は一色氏の残党の強い小浜を避け、大飯郡高浜に拠を定める。以後、二弟・(のぶ)(かた)、三弟・(くに)(のぶ)が跡を襲った。これは信栄・信賢兄弟に子がなかったためである。国信の跡は長子の(のぶ)(ちか)が継いだがこれにも嗣子なく、次子の(もと)(のぶ)が当主となり、孫の(もと)(みつ)と続いた。

 信栄以降の若狭武田家は室町幕府における武田家の在京惣領家である。幕府の信任を得て、武田家累代の官途名伊豆守を名乗る嫡流として屋形号を許された。若狭・丹後は小国とはいえ、畿内に近い。畿内で二国の守護を担う大名は他に、管領家の細川氏――畿内では摂津・和泉・丹波の三ヶ国の守護――と畠山氏――畿内では河内・大和の二ヶ国の守護――以外にはない。このことからも若狭武田家が如何に幕府から信任されていたかが見て取れる。

 この頃の甲斐武田家は信虎がようやく甲斐一国を統一し、信濃への足掛かりを模索している程度である。甲斐武田家がのちに名乗る屋形号は元々若狭武田氏のものであった。若狭武田家と管領細川氏との繋がりは元光の父が細川勝元より一字拝領して元信を名乗り、細川政元に与して義晴公の父・義澄公を奉戴したことで特に強くなった。

 政元歿後の永正の錯乱では(すみ)(もと)を支持して、幕政の安定を画策するが、澄元は野州家の高国と対立してしまう。その後、澄元と高国が争った両細川の乱では、元信は反大内氏の筆頭であったため、大内氏と結んで義稙公を推戴した高国とは対立し、幕府内で立場を失った。元信は隠居を口実に若狭へ下向、若狭守護を元光に譲り、若狭の領国化を進めた。戦国大名若狭武田家の誕生である。
 
 信栄の若狭入りには(あわ)()(えっ)(ちゅう)(のかみ)(しげ)(もり)()(きょう)(のすけ)(しげ)(なり)兄弟や(へん)()駿(する)()(しげ)(まさ)(だん)(じょう)(のじょう)(しげ)(つね)兄弟、(くま)(がい)()()(のぶ)(なお)(やま)(がた)(しも)(つけ)(のぶ)(まさ)らを伴っていた。粟屋氏は三方郡(くに)(よし)に入り国吉城を本拠とし、逸見氏は大飯郡(たか)(はま)に入り(さい)()(やま)城を築く。一色氏が丹後と若狭を掌握していたときは丹後水軍とともに一つの水軍として扱われていた若狭水軍であるが、武田信栄が高浜を掌握すると、武田家の()()に収まり、逸見氏に預けられた。

 海賊衆を掌握し、一門として重きを為せば勢力を拡大させるのは当然である。家中一を誇った逸見氏であったが、文明二年(西暦1470年)(かん)(しゅう)()の合戦で逸見繁経が討死、隠居していた駿河入道宗見(逸見繁正)が後見となり、宗見の女婿・三郎(くに)(きよ)が年若い繁経嫡子の代理として逸見党を仕切ることになった。しかし、文明六年(西暦1474年)九月、丹後遠征の主将だった宗見が、幕府の命に叛いて丹後を攻め続けたため、国信は援軍を送れず、結果一色氏の軍勢に包囲された宗見は自害してしまう。繁正(宗見)・繁経兄弟を失った国信は剃髪して隠居、(そう)(くん)と号し、家督を信親に相続させた。信親は命に従わなかった武断的な逸見党を遠ざけ、文化人でもある(あわ)()党を重用する。永正十一年(西暦1514年)に信親が歿し、元信が家督しても尚、粟屋氏の重用が変わらぬを不服として河内守国清は永正十四年(西暦1517年)、丹後守護代・(のべ)(なが)(はる)(のぶ)と共謀して、弟・美作守高清とともに砕導山城に反旗を掲げた。この暴挙は幕府の号令の下、朝倉・朽木の連合軍を援軍に得た元信によって鎮圧される。降伏した国清であるが、命は助けられたものの以後、逸見氏は逼塞せざるを得なくなった。元光は粟屋(そう)(うん)に命じて、繁経の遺児であった逸見(かた)(つね)の砕導山城を監視するようになる。

 その後、義稙公が出奔し、高国が義晴公を擁立したことで永正十八年(西暦1521年)八月、元信・元光父子は高国と和解。元信は若狭の兵を率いて上洛し、義晴公を供奉した。元信は在京して義晴公を支えることなり、同年十月四日(11月12日)、禁裏御所の修理費五〇〇〇疋を朝廷に献上し、功労により同月廿二日に守護としては異例の従三位に昇叙した。ちなみに疋とは祝儀の時にのみ用いられる銭貨の数え方で一〇〇疋で一貫となる。一貫は一〇〇〇文であった。

  元光も兵を督卒するために在京したのであるが、同大永元年(西暦1521年)末に元信が歿してしまう。元光は不穏を口実に領国体制を整えるために帰国した。

 若狭守護(だて)は小浜の(のち)()(やま)(さん)(ろく)にあり、背後に後瀬山城が(そび)えている。一色残党を払拭したことで、大永二年(西暦1522年)に築城し、西津より守護館を移した。それに先立って発心寺を建立したことで、元光は発心寺殿と呼ばれることになる。

 小浜から国境の(くま)(かわ)(現・福井県若狭町)を経て、近江国の(ほう)(ざか)から南に向かうと(くつ)()谷(現・滋賀県高島市)に出る。小浜から朽木のさらに先の京の柳の辻(現・出町柳)に至るまでを、若狭街道という。のちに鯖街道と呼ばれる若狭と京都を結ぶ街道の内、最も使われた街道である。若狭街道の朽木から保坂までを別名朽木街道ともいう。(あふ)()(のうみ)北西岸の今津と日本海側の小浜を結ぶ街道を()()(はん)(ごえ)とか九里半街道と呼び、今津から大津へ湖上交易で運ばれ、瀬田川から宇治川を通り、木津川、桂川と合流し、淀川となって摂津湾までの河川交通とつながっていた。勿論、最大の市場は京である。今津は北国街道西近江路の中心に位置する淡海湖北西岸の湖上交通の要衝でもあり、三方郡国吉・遠敷郡小浜・大飯郡高浜からの海産物を一手に担い、近江商人の名を京に響かせていた。

 そこを一〇〇〇もの軍勢が南下している。昨日までの雨が街道脇の地面を泥濘(ぬかる)ませているが、後五日もすれば立冬だ。街道にも天候にも問題はない。大永四年(西暦1524年)九月廿七日(11月2日)の朝に後瀬山城を出た軍勢の中程に、元光の騎乗した姿があった。遠い国境の向こうにある京を思い出すような視線を投げている。

 元光が瞬く間に領国体制を整えたことで高国は北陸道と山陰道に通じる後背を固めることができ、その視線を南に向けることができた。

 高国陣営は、西は摂津で細川讃州家と対峙、南は和泉で細川刑部家と対立している。北は武田元光が若狭を抑え、越前には朝倉孝景が、丹波は波多野元清が固めていた。東は近江に将軍相伴衆の朽木稙綱、そして近江半国守護の六角定頼が控える。ただし、近江は浅井亮政が台頭著しく、情勢は不安定だが、高国に直接の影響はない。それ故の元光の上洛であった。

 脇に控えていた近習がすっと馬を寄せる。元光の物言いたげな視線を察してのことであろうか。

「御屋形様、京は三年振りにございますな」
「ああ、久し振りだ。……そういえば、孫四郎(まごしろう)は初めての京であったな」

 孫四郎は、粟屋()()(もん)(のじょう)親栄の子で孫四郎(かつ)(はる)という。粟屋氏は若狭武田家の重臣で、惣領の越中家、総州家、防州家を中心に粟屋党と呼ばれる兵一〇〇〇を擁する。同じく重臣の逸見氏と武田家中の双璧を為していた。勝春は惣領家の出で、父は先代当主笑鷗(しょうおう)軒越中入道宗怡(そうい)――諱は(くに)(ひさ)の三弟に当たる。現当主は宗怡の弟・入道宗運(そううん)――諱は(くに)(まさ)だ。宗運に子がないため、宗怡の子・孫三郎元泰(もとやす)が継ぐことになっている。

 勝春が言った「御屋形様」というのは足利将軍家から屋形号を許された大名だけに用いられる呼称で、正式には「武田屋形」という。武田氏の惣領であると幕府から認められていることの証であった。

「父が京に居りましたのは(それがし)の生まれる前ですからなぁ。京のことは話でしか知りませぬ」
「左様であったな。四郎左(しろうざ)が京から戻らねば、丹後の手掛かりも失うておったやも知れぬ。そちも生まれなんだしの」

 元光は感慨深く幾度となく頷いた。

 四郎左とは武田信親が粟屋親栄につけた綽名(あだな)である。孫四郎左衛門尉を略したもので、元信もそう呼んでいた。親栄は元光の守役でこそなかったものの、元光が特に懐いて、父の真似をして四郎左と呼んでいた。当主宗怡、宗運に代わって戦に出ることの多かった親栄は永正四(西暦一五〇七)年六月に丹後侵攻の総大将を務めたが、戦況が悪化し、討死した。幼くして遺された勝春は母が総州家の出であったので、叔父である(しも)(うさ)(のかみ)(もと)(かつ)の後見を得て、大叔父・左衛門大夫(たいふ)(くに)(はる)の遺領と「春」の字、そして親栄の官途名・左衛門尉を継ぐことになっていた。

 勝春は唇を一文字に結んで何も言わぬ。亡父の死を悼んでくれる主君を有り難く思うものの、口さがない者たちから言い放った数々の侮りの言葉に対する怒りが口を突いて出そうだったからだ。これは親栄の家中での地位に比して粟屋党内での立場の弱さを表している。それもその筈、四郎左(粟屋親栄)は二人の兄たちとは母が違った。上の二人は武田国信より、親栄は信親より一字書出を受けており、三兄弟全員が重用されたのは、国信・信親の粟屋氏に掛ける期待の大きさであろう。ただし、祖父・越中守繁盛(しげもり)も父・越中守賢家(かたいえ)も既に歿しており、岳父・下総守賢行(かたゆき)も亡き後、親栄を後見する者がいなかったため、家中での立場は微妙であった。幸いなことに兄二人は親栄を可愛がり、親栄も武張ったことが苦手な兄二人に代わって、戦働きによって数々の功を挙げた。そして、左衛門尉を授かり、重臣の末席に列している。そんな父を誇りに勝春は育った。

「亡き父に代わり、御屋形様に(しん)(みょう)()してお仕えいたしまする!」
「そう気負うでないぞ、孫四郎。先ずは戦に出たらな、生きて帰ることよ。生きて居らねば恥を(すす)ぐことも叶わぬ」

 そう。立場を失った元光の父・元信は丹後守護を解かれ、若狭侵攻を狙う一色氏を警戒して若狭に下向した。そして、義晴公に供奉して京に凱旋したのである。一時の恥など、犬に喰わせてしまえばよいのだ。

「命を懸けてはなりませぬか」
「いや、そうではない。懸けるべきときを見誤るな、ということよ」

 元光は試すかのように勝春を見た。
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