第十七服 剃髪落飾

文字数 7,630文字

髪を()りて飾りを(おと)

たらちねはかかれとてしもぬばたまの
我が黒髪をなでずやありけむ
        遍昭法師 後撰和歌集

 大永六年(西暦1526年)八月(9月)十三日(19日)。中秋の名月を二日後に控えたこの日、(しも)(ぎょう)の村田(そう)(じゅ)ら奈良派の門人たちが連日開く茶会の初日を迎えた。十三日(19日)から廿三日(29日)までの十一日間、毎日誰かが茶席を持つことになっている。客はそれぞれが在京に限らず、縁のある茶人らを招いていた。

 宗珠は(しょう)(れん)(いん)(もん)(ぜき)の座敷がこの茶会の幕開けに相応しいと、(そん)(ちん)法親王に請うて借りていた。最終日は四条の奈良屋邸にある()(しょう)(あん)に場所を移して再び宗珠が釜を()けることになっている。

新三郎(鳥居引拙)殿、本日は宜しくお頼み申します」
宗匠(村田宗珠)、頭をお上げください。()(よう)な晴れ舞台に釜を()けるなぞ、天王寺屋新三郎、生涯の誉れなれば、礼を申し上げねばならぬのは、私の方にございます。誠にありがとう存じます」

 (いん)(せつ)は、宗珠に深々と頭を下げた。宗珠から茶席に花を添えてほしいと席持ちを頼まれたのが半年前。それからというもの、何を持ってくるかを考えては会記を書いてみるものの納得が行かず、()()が山のようになった。特に今日は引拙が考案した道具の披露でもある。引拙は台子しかなかった茶道の歴史に初めて道具を飾り付ける茶道具――後世、棚物と呼ばれる物を作ったのだ。

「それで、これが例のものですか」
「はい。台子ではありませんので、『()』と呼ぶのが良かろうと思いまして」

 台子とは、茶の湯で用いる点前道具を飾る物の中で最も格が高いとされる。それは二枚の一枚板――天板と地板を四本柱で繫いでいた。風炉・水指・杓立・建水・蓋置・天目台・茶入盆を組み合わせて飾り付ける。文永四年(西暦1267年)、越前国(そう)(ふく)()(なん)()(じょう)(みょう)が宋の(きん)(ざん)()から持ち帰ったものが、後に京都の大徳寺に渡った。これを京都五山第一位・天竜寺の()(そう)()(せき)が初めて点茶に使用したと伝わる。

 元々は唐の高官らが膳として用いていたものとも言われ、南浦紹明が持ち帰った台子は巾一間(約1・82メートル)もの大きさであった。また、別のものは高さが二尺九寸(約0・88メートル)もあったと伝わる。この内、能阿弥が点前用に好んだ大きさが、現代にも伝わっている台子の寸法となった。

「これは小と同寸ですか?」
「はい。据え置くのに台子と違いまして重たいですから」

 能阿弥は台子に大小を定め、小は『風炉を載せず』とし、(しょう)(こく)()(ほう)(かい)(もん)前の()()()()()五郎に作らせて炉に用いた。引拙はその台子小の寸法を元に、()を考案したのである。ちなみに羽門田五郎は羽田とも書き、茶入盆の羽田盆の創案者で、足利義政の御用を務めた京塗師の名工であった。

 ()は桐木地で天板と同じ大きさの中板があり、中板と地板の間は立板で三方を覆い袋戸棚にし、前面には二枚の引違戸にもなる倹飩板が嵌め込まれていた。()(たい)は真塗ではなく敢えて溜塗にしている。真台子とは異なりつつも持前の格調高さを残したのだ。倹飩板の端には鍍金(金メッキ)された菱形の短冊下がり金具が摘みとしてついており、彩りを添えている。

「副床にありそうな袋戸をあえて倹飩にされたのですな」
(ひき)(ちがい)()のままにしてしまいますと、道具が隠れたままになりますので」

 のちに『棚』は袋棚と称されるが、『棚』は戸を外して使うところに違いがあった。長菱摘みを持ち上げ、戸の左端の中板に手を添え倹飩板を持ち上げ、下から外して、脇に添えてみせた。戸を二枚とも外すと袋の部分がすっきりして、中の様子がよく見える。

「これは好いですね。戸が取り払われれば、道具が一望できます」
「折角の道具ですから、皆様に(しょう)(がん)いただかなくては」

 現代でこそ「目垢が付く」などといって、道具を秘蔵したがる風潮があるが、当時は、所有者は「預かっている」という意識が強く、賞翫に重きが有る。飾られている引拙の道具組みは唐物中心であり、当時としては珍しさは無かったが、()()()が奈良派らしさを醸していた。しかも、風炉を炉の位置に据えており、炉畳ではなく炉蓋――二枚歯の下駄を大きくしたような正方形の木の板――が嵌め込まれている。その風炉には平釜が杉の透木に合わせてあった。この引拙の工夫を宗珠は面白そうにこれを眺める。ちなみに土風炉とは珠光が考案したもので、素焼の陶製風炉を窯で(いぶ)し、丹念に磨き上げた漆黒の風炉だ。奈良流の門人が使うため奈良風炉とも呼ばれる。

「普段は副床に置けるようにしている訳ですか。よく考えられて居られる。流石は新三郎殿」
「いえ、堺には唐木の職人は多いのですが、京指物はなかなか作っては貰えぬので、大工の棟梁に相談したのですよ」
「それは(かえ)ってよかったかもしれません」

 引拙が宗珠の言に頷く。室町期には指物を専業とする指物師が登場するが、専業で成り立つのはまだ京周辺だけであった。京以外では大工が指物もすることが多い。その上、堺はどちらかというと鉄工や織工の街で、刀鍛冶や鎧師の他などが先に専業化していた。また、指物といえば堺では唐木指物が主で、桐や檜材を用いる京指物とは求められるものも技術も異なる。このため、茶道具指物専業の職人は堺にはまだ居らず、引拙は仕方無しに町大工に相談したのだ。また、ちなみに大坂の唐木指物は奈良時代に端を発し、江戸時代に入って一大産業となった。

「それにしても惜しみなくお持ちになられましたな」
「お持ちせねば先代(村田珠光)に叱られてしまいます」

 珠光は弟子らが欲しいといえば惜しみなく譲った人物で、道具は占有するものではないという考え方であった。それ故、当時の茶の湯をする豪商らの中で、群を抜いた三十種ほどの名物道具を所持していた引拙であるが、珠光から譲られた物も多い。この日はその中から、特に珠光に縁の深い物を出していた。

 一つは天下三肩衝と呼ばれる(おお)(めい)(ぶつ)・大肩衝茶入の「(なら)(しば)」である。足利義政公が所持し、珠光へと伝わり、引拙に譲ったものであった。釉色が()()飴色で、これを「()」にかけて『万葉集』にある「()(かり)する(かり)()()()(なら)(しば)(なれ)はまさらで(こい)ぞまされる」の歌に因んで義政公が銘している。金地鉄線金襴の仕覆に包まれ、盆に載せられ『棚』の中板の上に据えられていた。その緖は結われて居らず、休め緖と呼ばれる円を三つ重ねた状態になっていた。これは、茶入に茶が入っていないことを示し、緒が経年劣化しないようにという工夫である。

「まさか楢柴までとは」
「これは亡き珠光さまより譲られたもの。使わずとも、違い棚に飾れば皆様喜びましょう」

 手許に既にない物は待ってこれぬが、ある物は惜しみなく、但し重ねることは避けたので、他の茶入などは置いて来ている。懐かしそうに宗珠が楢柴を見た。

 引拙が頼まれたのは、薄茶を出すの余韻の席であり、濃茶を出す本席は宗珠が担う。つまり、茶入を飾る必要はないのだが、宗珠の席を華やかに彩るため持参したのだ。添えられた盆は唐物彫漆盆で、牡丹唐草模様の描かれた堆朱の盆である。これは足利義政公が楢柴に相応しいと添えられた物であった。

 引拙の持つ天目は(はい)(かつぎ)で、見込みと釉溜まりには黒釉の色が見られるが、これは二重に掛けられた釉薬が腰のあたりで変化し、柿色を呈していた。

 添台は黒塗の尼崎天目台で、脚の内部に「百足(むかで)印」と呼ばれる朱漆の印がある。「尼崎」の銘は尼崎浜に漂着した唐船に積まれていたという伝承に由来し、百足印以外にも星印と梅鉢印があり、それぞれ星台・梅鉢台と呼ばれていた。

「こうして楢柴と柿色の灰被を見ますと、義父(ちち)を思い出します」
「そう仰っていただけると持ってきた甲斐があります」

 引拙はほっとした様子で道具を見やる。これら引拙の唐物組みに対し、宗珠は当然の如く珠光好の竹台子で乱飾を披露した。

 竹台子とは、桐の一枚板の天板と地板を竹の四本柱で繋いだ台子である。白木で漆などは用いず、真台子が書院の台子と呼ばれるのに対し、竹台子は数寄屋の台子と呼ばれた。

 乱飾とは、尺一(一尺一寸)《約33センチメートル》の真塗丸盆に天目台を据え、(ふる)()()(だい)(かい)茶入を仕覆で(くる)んで蜻蛉(トンボ)に結び、真形の竹茶杓を添え、竹台子に奈良風炉と瀬戸の一重口水指に塗蓋を用いる。本来唐物で揃えていた組み合わせに(くに)(やき)(いま)(もの)を取り入れたものだ。特に竹杓の真形はこれに端を発しており、瀬戸の一重口が国焼水指の中で最も格が高いとされるのもこれに由来する。竹台子の左にある奈良風炉の透木の上に羽根の付いた大釜が載っていた。

 道具を不揃いにすることで、和漢の間を紛らかした奈良流ならではの飾り方であった。「和漢の狭間を紛らかす」とは()作と()作の融合を意味している。これは、それまでの漢作唐物を頂点としていた書院の茶にはない、侘数寄の(だい)()味であり、新たな時代の風を誰にでも感じさせた。亭主は若手の門人・若狭屋鈴木宗可が務め、後見には十四屋松本宗伍が付く。

「では皆様、粗相の無いように」

 茶会は恙無く盛況の内に終わり、宗珠が出した珠光青磁の茶盌がその白眉であったと噂された。珠光青磁は一つではなく、珠光が気に入った十ほどもある(かず)のものであるが、弟子らに譲り渡していた。この茶会のため、門人らに声を掛け、借り受けたのである。一人ひとり違う珠光青磁の茶盌にて茶を呈されると、感嘆して濃茶を服した。


 
 与右衛門も、鳥居引拙の社中としてこの茶会に参加したのであるが、翌日には帰堺し、一頻り感想を捲し立てると、自室に籠もり大人しくなっていた。しかし、思うところがあったのだろう。与兵衛を呼んで唐突に家督を譲ると言い出したのである。

「わしゃ、隠居する」

 与兵衛は開いた口が塞がらなかった。意外でもないのだが、既に隠居したようなものであるのに、態々宣言することも無いだろう……というのが正直な感想である。

「そらまた、なんかあったんか?」

 喋りたそうにしている与右衛門を前に仕方なく応じる与兵衛。与右衛門は我が意を得たりとばかりに畳み掛ける。

「志郎も五歳になった。孫も二人とも無事に育ちよる。そろそろ身代をお前に譲って、わしゃあ、茶の湯に精進したいと思っての」

 そのまま、京での茶会の話をし始める。与兵衛は胡散臭そうに感じながら、今更何を……と言わんばかりの顔をした。京の茶会に行ったかと思えば、津田宗柏の月見の茶会にも行ったばかりで、与兵衛からすれば年がら年中茶会に出掛けており、与右衛門が自分でも茶会を開きたいと道具を買い集めているのも知っていた。

「それでな、顕本寺で(とく)()することにした」
「はぁ?」

 与兵衛が素頓狂な声を挙げた。得度とは、僧侶になることである。与兵衛は、思わず声を挙げてしまったが、よくよく考えれば与右衛門は僧侶になるのではなく、茶人として受戒することを言っているのだと思い至った。

「それは殊勝で結構なことやけんど、その後はどないするんや」
「志郎も入門させてはどないや?」

 噛み合わない会話に苦笑いしながら、与兵衛は考え込んだ。讃岐の十河との取引も順調に運び、(みせ)は堅調である。寧波の乱以後取り止めとなった日明貿易の冷え込み分を鑑みても、取り戻せてはいた。間に十河氏と下香西氏を挟んでも大内氏勢力圏の博多と交易するのは旨味が多い。特に堺の塩はほぼ芸予諸島頼りであった。

「それやったら、儂も挨拶に行かねばならんやろ」
「いんや、構わん。引拙先生にはもう承諾いただいとる」

 与兵衛は頭を抱えた。あまりにも勝手過ぎる。志郎丸の親は自分であり、志郎丸には算術や読み書きを習わせるために千熊丸の学友とした。千熊丸は乳離れと共に顕本寺に移り、日演和尚が直々に学問を教え始めている。千熊丸も五歳となり、そろそろ武芸の稽古を始めねばならぬと、之秀は師を探していた。

 顕本寺から引拙の天王寺屋は近い。通わすことは(やぶさ)かではないが、本人の意思があるのかは気になった。常日頃より、与右衛門が志郎丸を連れて稽古に行っており、嫌がる様子はない。しかし、習うということはまた別のことであると与兵衛は考えた。

「ほな、本人に(たし)かめまひょか」
「そぉやな。本人の口から聞いた方が御前も納得しよう」

 志郎丸に厭はなく、引拙から手解きを受けることになる。ただし、引拙は子供のうちは入門させずともよいと云い、ついで故、広く子供らに教えようと、与右衛門を介して日演に話を持っていった。日演は快諾し、顕本寺に茶の湯を教える場を作ることになる。志郎丸としては仲の良い千熊丸と共に学べるのが嬉しかった。

 八月廿三日、与右衛門は志郎丸を連れて顕本寺へと来ていた。得度のためである。

「志郎はそこいらで遊んで居りなさい」
「はい、おじいさま。和尚さま、千熊さまは今、遊べますか?」
「今日は休みにしておる故、一緒に遊ぶといい」

 日演ににっこりと笑顔を返すと、丁寧にお辞儀をして裏庭の方へと走っていった。案の定、裏庭に千熊丸はいた。縁に坐って脚をブラブラとさせている。

「千熊さま」
「志郎! 今日はどうしたのだ? 来るのは明日であろう?」

 祖父の付き添いで来たことと今から遊んでいいと日演の許可をもらったことを話すと、千熊丸は志郎丸に抱きついた。

「よし! それならこっちだ!」

 志郎丸は人並みより首一つ出るほど大柄であったが、どちらかというと物静かで学問の方が好きであったが、千熊丸が誘えば、何処へでもついて行くため、まるで千熊丸の従者のようである。背の高さからすると志郎丸がいくつか年上のようであった。

「志郎、今日は木登りをしよう」
「千熊さま、木登りは危のうございませんか」

 過保護で止めようというのではない。志郎としては、千熊丸の意思を慥かめているだけだ。千熊丸もそれを承知で黙って背を叩く。すると志郎はひょいと千熊丸の股座に首を入れて肩車をし始めた。

「志郎、木を伝うから、ゆっくり起きるんだ」
「気をつけてくださいね」

 千熊丸が木の幹を掴んで、志郎丸がゆっくりと立ち上がる。少しずつ千熊丸の身体が一番下の枝に近づいていった。

「よしっ、もう少しだ……掴んだっ」

 太い枝を捕むために、志郎丸の肩に立ち上がる。志郎丸は腰を矯めてぐらつかないように(しっか)りと踏ん張った。掴んだ途端、千熊丸の身体は猿の如くスルスルと木を登っていく。志郎丸も幹に手を回して、甲虫(かぶとむし)が木を這い上がるように後を追った。

「千熊さまは速いですね」
「みよ、あれの向こうに父の国がある」

 あぁ、そうか――と志郎丸は納得した。千熊丸は父が恋しいのだと。母の()の出が悪く田中家に預けられた千熊丸は、故郷で暮らした記憶がなかった。それでも、繰り返し聞かされる祖父・之長の偉大さや父の武勇に目を輝かす。それが郷愁を生むのであろう。

「淡路の向こうに阿波が見えまする」
「志郎はそんなに遠くが見えるのか? まるで鷹だな」

 千熊丸は隣に立つ志郎丸を驚いたようにみた。実際には、志郎丸は目が良かったのではなく、知識の眼で阿波をみたのであるが、多弁でない志郎丸は語らぬ。

「我らは乳兄弟故、志郎も千を名乗れ。鷹のように遠くを見通せるから千鷹丸でどうじゃ」
「千鷹丸……ですか」

 満足気に千熊丸は微笑んだ。戸惑う千鷹丸を得度した祖父・道悦が下から見守っていた。

「志郎」
「おじいさま」

 呼ばれた志郎丸が振り向いた途端、枝がミシミシと音を立てた。バキッ――と音がして志郎丸の体が沈む。

「千鷹!」
「志郎!」

 与右衛門は慌てて志郎丸を受け止めようと駆けつける。それを追い越して派手な恰好をした武士が割って入るや志郎丸を抱きとめた。

「危のうござった」
「ありがとうございます。貴方様は……」
「いやなに、名乗るほどのもんじゃありゃせん」

 生暖かい目で見ていた日演が口を挟む。その表情にはこの悪たれ坊主が何を恰好付けておるのかと言わんばかりであった。

「摂津の松永孫左衛門尉殿ンところの悪タレじゃ」
「和尚! 悪タレたぁ酷いじゃないか。もう元服もしておるぞ」

 折角に恰好つけたことにオチをつけられて、青年はガクッと膝から崩れ落ちた。恨めしそうに日演を見上げているが、風貌からして厳つい男でありながら、何処か憎めない愛嬌があり、それでいて大仰な振りと大袈裟な物言いがまるで狂言回しのようである。

「これはこれは。孫の危ない所をありがとう存じます。私は田中与うぇ――あ、いや、道悦と申します」
「これは丁寧に。いやなに、親爺殿の用事で和尚に硯を届けに参った所でな。何事もなくてよかった。坊主、怪我はないか?」
「はい、ありませぬ。ありがとうございました……ええっと」

 言い慣れない戒名に俗名を言い掛けた道悦に頷きつつ、グシャグシャと無造作に志郎丸の頭を撫でる青年に、志郎丸は聢りと礼を口にする。少しばかり驚いた顔をしたものの、好し好しと手櫛で髪を整えた。志郎丸が歳の割に聢りした口振りであったのが意外だったのだろう。木から落ちたことで鈍いのではないかと思っていたのかもしれない。

 この男は摂津国島上郡()()(ずみ)の土豪・松永孫左衛門(ひさ)(なが)の嫡子で、彦六郎久秀といった。久長は摂津の国人で高槻城主の入江駿河守政重に属き、政重は細川高国に従っていた。寄親は細川尹賢であり、久秀は今ひとつ尹賢が好きになれず見聞を広めるためと、諸国を巡って自由に生きている。

「名前か? そうじゃな、儂のことは(ひこ)(ろく)とでも呼べばよい!」
「……彦六様」

 彦六がそう挨拶している横から、千熊丸が志郎丸仁飛びついた。必死に一人で木から降りてきたのだろう。召し物の彼方此方が汚れていた。

「千鷹! だ、大丈夫か? 怪我はないか?」

 オロオロとしながらも志郎丸の体中を撫で回す。撫で回されても痛そうにしない志郎丸にようやく安心したのか、胸を撫で下ろした。

「流石に空は飛べぬか」
「千熊さま、私は人でございます」

 真面目くさって言う志郎丸に千熊丸が大笑いで応える。そのやり取りを久秀が不思議そうに眺めていた。千鷹と呼ばれた大柄な稚児は道悦の孫である。では、この武士然とした稚児は誰であるかと思案していた。

「……筑前様の御子か?」
「如何にも。我は三好筑前が嫡子、千熊丸である」

 久秀は膝を付いて頭を下げた。子供とはいえ、無双の武人三好之長の孫で細川讃州家の重鎮三好家の御曹司である。国人に従う土豪の倅の久秀とは身分が違った。

「そちが助けた千鷹は我が乳兄弟なれば、褒美を取らそう」
「褒美などと、滅相もない!」
「何! 我の褒美が受け取れぬと申すか!」
「いやいやいや、そうではありませぬが……」

 久秀は少しばかり考え

「そうですな、それでしたら、千熊さまがご当主になられた暁には、某を直臣に取り立てていただくというのは如何?」

 千熊丸が当主となるのは早くても三十年ぐらい後のことだ。その頃には久秀は家督を継いで入江政重の補佐役になっているだろうから、実現せぬと踏んでの発言である。そもそもこんな口約束を守る者は居なければ、信じて待つ者も居りはしなかった。

「許す」
「ははっ! 有り難き幸せ」

 だが、その時まで十年も無いことなど、まだ誰も知らなかった。
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