第三服 乱有寧波
文字数 6,901文字
かくばかり 遠き海果つ 寧ら波
今ぞみやこの 夏の黄昏
「すっかり手馴れた動きになられましたの」
台子の前に坐った
天王寺屋の屋号は津田紹怡が天王寺町の出身であることから付けた屋号で、材木町に居を構えている。宗柏は紀伊津田家に連なるとも噂されているが、宗柏は肯定も否定もせず、ただただ笑っているだけだ。しかし、与右衛門には「紀州の津田家は
「
言いながらひょいと
茶巾とは、上等の白麻布で網目になっている
茶筅とは半寸ほどの太さの竹の先を十六〜七二分割して外穂と内穂に分け、緖で
今年五十七歳になる与右衛門よりも宗繁の方が一回りも若いのだが、やはり津田宗柏の甥だけあって、茶の湯の腕はなかなかの物だった。
「千屋はんはそう言わはりますが、商いと一緒で手ぇも抜け目のぅ動かされますやろ、えろう器用でっせ」
「目の前のことだけやのぅて、二手先のことも気にしまへんと」
目の前のことが出来ていないのにと思うのは素人考えである。茶の湯の点前というのは非常に合理的であり、先のための準備をしていることが殆どで、だからこそ無駄がなく美しいのであり、研ぎ澄まされた洗練さがあるのだ。そして、それでもなお、間違いを許容する懐の広さがある。
「まぁ、ええでっしゃろ。まちごうたらあかん訳やないさかい」
この辺りは宗柏と宗繁は似ていなかった。宗柏は手を美しく見せることに厳しかったが、宗繁は人当りが柔らかい。しかし、言葉は柔らかくとも芯に冷えを感じさせる。つまり、人として厳しいのだ。決して冷酷な訳ではないし、人情がない訳でもない。自己研鑽を大事にするというか、大事にしない人を見放しているというか、長い目で見ているのかもしれない。これが
「与右衛門はん」
カチャン!
急に予想していない声に呼ばれて手許が狂い、
この時間に宗柏が顔を見せるのは珍しい。いつもなら
顕本寺というのは、和泉国の法華宗の中心で、
始まりは木屋
「伯父上」
「……なんや、まだかいな。えろう失礼したの。与右衛門どの、しまいに寄ってくれんかね?」
宗柏は与右衛門に話があるようだった。宗繁は渋々といった様子で頷くので、与右衛門は恐縮しながら頭を下げた。
半刻ほどして、稽古道具を片付けて水屋から出できたところに、
早足で廊下を振り返りつつ小僧が歩いていく。大分、宗柏に急かされたのか、今にも走り出しそうで、可笑しげであった。
部屋に通されると、宗柏が手招きをする。 そこは南蛮風の椅子と円卓が置かれた部屋で、
「えらいことになりよったで」
声を潜めて宗柏が言う。なんと、細川高国が送り出した遣明船の正使が
「そもそも、今回の遣明船はきな臭うての」
遣明船というのは、日本から明に派遣される朝貢使節を乗せた商船団である。春または秋に北東から吹く季節風に乗って出発し、
遣明船はそもそもは室町幕府が行っていたもので、足利義持公が朝貢を嫌って
その後、幕府は自力で派遣することが難しくなったため、足利義教公は
大内氏は兵庫津・博多津、細川氏は堺津という良港を擁していて、この日明貿易の経済効果を上手く利用し、それが故に対立していた。
しかし、
将軍に復した義尹公は名を改め
完全に決裂するのは、
この頃、義興は国許の情勢の不安定さもあって、麾下の武将たちが勝手に帰国するような状態であった。更に大内氏の領国に
こうして再び高国の単独政権となれば、大内義興への
大内氏は応仁の乱で得た播磨の兵庫津から瀬戸内を通り、山口・博多を経由する内海航路を抑えているのに対し、細川氏側は領国である淡路・阿波・土佐から、日向や薩摩に寄港して種子島へ渡る南海航路を扼している。
この弘治帝・正徳帝・嘉靖帝という言い方は日本独自のもので、明が一世一元の制度であり、皇帝一代の間は同じ元号を使い続ける制度であったことに因む。このため日本では明朝皇帝に元号を付けて呼ぶ習慣が生じた。新帝である嘉靖帝は
また、勘合とは、明王朝の発行した文書の名称で、割符のように突き合わせるものではないため、勘合符というものは存在しない。明王朝では国内の商取引のいくつかも勘合によって許可制になっていた。
最初は規模の大きかった遣明船も、応仁の乱以降は十年に一度で派遣船は三艘、乗員は三百人までと制限された。これは滞在費などを明側が持つため、財政難の続く明が支出の削減を狙ったものだと言われている。規模が小さくなったとはいえ、それでも、遣明船による日本側の利益は莫大で、細川氏と大内氏は熱望していた。
しかし、正徳勘合は大内氏の管轄であるため、高国は弘治勘合を幕府から強引に引き出すことになったのである。
そもそも、
大内船に遅れること数日、細川氏の弘治勘合遣明船が入港した。細川高国は正使に臨済宗の美濃国瑞光寺から相国寺住持に上がった
不可思議なことに寧波の市舶提挙司が行う臨検は、到着順で行われるのが基本であにも関わらず、市舶司
その夜、両使節団が招かれ、歓待の宴となったが、上座に細川方、下座に大内方という席次である。面白くないのは謙道宗設ら大内氏の使節団だ。臨検を待たされた挙げ句、あとから入港した細川氏らが先に臨検を受け、しかも上座に坐っている。歓待の宴は罵声の飛び交う修羅場となったが、居心地の悪さを感じる鸞岡瑞佐に対して、宋素卿は平然としており、それに謙道宗設はますます憎しみを滾らせ、月渚永乗か必死に宥めた。
宋素卿というのは、明人で貿易商である。明は民間の自由貿易を禁じていて、貿易をしていたということは、当然密貿易であり、倭寇と繋がりを持っていた。
しかし、遣明船が再開されると、倭寇が下火になることを察し、すぐさま明応四年(一四九五)の遣明船で明に渡っていた湯川新五郎に従って渡来、日本に居を構え「素卿」と名乗ったといわれる。これはどうも本名の朱縞を日本人が聞き取り間違えたものがそのまま定着した呼び名に漢字を宛てて名前らしくしたというのが真相のようだ。
堺を拠点に貿易で身を立てた宋素卿は、永正七年(一五一〇)四月、足利義澄公の使者として渡明した。あまり歓迎されていない中で、黄金一〇〇〇両を宦官の劉瑾に献上して、歓待を勝ち取り、前例のない飛魚服を得たという。この頃、正徳帝は劉瑾ら八人の宦官――八虎と言われた――に遊興を奨められ、政治を顧みず、一部の朝臣と結託し朝政を壟断した劉瑾ら八虎によって明の朝廷は収賄政治の坩堝と堕していた。
飛魚服というのは、錦衣衛や武将に皇帝から賜る朝服であり、軍服の一種である。宋素卿は皇帝の側近と同じ扱いを受けたに等しい。
しかし、宋素卿が賄賂を贈り誼を結んだ劉瑾は、同年に起きた安化王の乱の原因であると主張されていた。正徳帝の寵愛を失って粛清されることを恐れた劉瑾は、同年八月、史上初となる宦官による帝位簒奪を企てたが、同僚の密告により捕らえられ、凌遅刑となった。凌遅刑とは、死ぬまで少しずつ傷をつけ、肉を削ぐ刑であり、なんと、死に至るまで三三五七刀にも及んだという。
そんな政変があったとは知らない細川高国は翌永正八年(一五一一)、細川船の正使に宋素卿を任じた。しかし、宋素卿は
これは明朝が劉瑾の死を以てしても綱紀粛正されなかったからだった。劉瑾の変以後も正徳帝の浪費癖は治らず、今度は宮中で軍事教練を行い始め、自ら練兵し、慢性的な国庫不足に拍車をかけた。更には宮中教練に飽きると親征と称して軍を率い、各地で美女を捕らえて姦淫に耽る始末であった。明朝はこのまま上向くことなく衰退していく。
宿に戻った謙道宗設は、宋素卿の態度を思い出して更に怒りを募らせ、正式な使節は自分たちであることを頼恩に抗議した。しかし、頼恩は清廉潔白な謙道宗設が袖の下を贈らなかったため、取り合わない。そうなると謙道宗設は宋素卿が賄賂を頼恩に贈ったためだと断じて、事ここに及んでは是非も無しと、襲撃を決意。翌五月一日、船員三百人を率いて官庫を襲った。
預けていた貢納品と武器を強奪。東南の城門を占拠する。寧波府および同衛に宋素卿をはじめ細川氏の使節七十名が保護されたが、逃げ遅れた鸞岡瑞佐以下三十名が、謙道宗設らに捕らえられた。
翌二日、城門に立て籠もった大内方と寧波衛の攻防は一進一退が続くが、終始大内方が優勢であった。 勢いにのる大内方は三日、細川方の使節十数名を門外の河岸で斬首の上、死体を川に投げ込むと、港に押し入り細川方の船を貢納品ごと焼き払った。その隙に宋素卿は頼恩に嘆願し、紹興府へと逃亡した。
宋素卿に逃げられた大内方は、怒りが収まらず、その勢いのまま寧波衛を破り、頼恩を殺害、寧波衛指揮の
そのまま紹興に進軍した大内方に、紹興府は城門を閉ざしたため、大内方は宋素卿の引き渡しを要求したが、紹興府はこれを拒否。三百名足らずの軍勢では城攻めは難しく、大内方は寧波に引き返し、袁璡を捕虜としたまま、寧波を出港した。
「なんとまぁ……」
与右衛門は絶句した。筋が枉げられたことを怒るのは分かるが、これは国際問題である。正式な手続きで抗議を行うべきところを一介の正使ごときが相手国の外交官を殺害した上、官府を襲って役人のみならず住民まで手に掛けるとは……。
「細川さまは大層ご立腹であったとか」
「ほらほうでっしゃろ」
ここまでされて怒らない人はいない。完全に面目を潰されたのでだ。ただし、面目を潰されたのは大内義興もであり、もっと面子を潰されたのは明朝である。以後、
不幸な事件であったが、遣明船による貿易の利は、堺を潤していた大きな流れの一つである。これはその一つが絶たれる恐れがあった。宗柏が与右衛門を呼んだのはそれを聴かせるためであったのだ。
「これからどないなりますかな?」
「博多に引き合いのある
宗柏も同じ思いであるのか言葉を濁す。与右衛門は、昨年の三好之秀の話を思い出していた。これは時代が動きそうだと、商売人の勘が言っていた。