第十二服 受持戒律

文字数 6,861文字

庭ひろみ苔のみとり()ハかたよりて
あつき日影に白きまさこち(真砂路)
     能登()(そう)亭にて(れい)(ぜい)(ため)(かず)(よむ)

 細川高国の弟・虎益丸と(ただ)(かた)の嫡男・(きゅう)寿(じゅ)丸の元服は翌年に持ち越されることが、新年早々に決まった。今年が高国の厄年にあたることから、(とく)()して家督を稙国に譲ると年始参賀の席で明言したからである。元服できると喜んでいた虎益丸は気落ちして、塞ぎ込んでいた。

「源五、虎益は出て来ぬか」
「虎益様は元服を愉しみにしておいででしたから」

 自分には分かりかねるがという響きを残しつつ、側に控える源五と呼ばれた()(しょう)が答える。源五は細川(げん)()(のかみ)家の幼き当主、高国の側近である(うえ)()玄蕃入道――()(きょ)(いち)(うん)の養孫・細川源五郎(くに)(よし)である。玄蕃頭家の家政は一雲が取り仕切っているため、国慶は高国の小姓として仕えていた。通常、小姓は元服前までの奉公であるが、まだ幼い国慶については、高国がそのままで良いとしている。国慶には様々な社会経験を積ませようということであった。それには高国の側に控えさせるのが一番である。

 少し前、国慶に虎益丸の様子を見てくるよう申し付けたこともあり尋ねたのだが、仲の良い源五でも無駄足であった。致し方なし、と高国は寝殿へと向かいつつ、国慶へ虎益丸の相手をするように言い置く。人と会う約束をしており、虎益丸だけにかまけている暇はなかった。あまり待たせては痺れを切らして席を立ってしまいそうな相手である。

 そもそも高国の剃髪に伴う稙国の家督継承は既定路線だ。第一、隠居といっても高国が政務から退く訳ではない。あくまで京兆家の家督を野州家が継いでいくことを讃州家閥に知らしめる意図が強かった。元服は家督継承の準備や政務の整理を行う必要もあり、準備期間と予算の面から延期が望ましだけである。虎益丸が不貞腐れるのは仕方がなかった。

(まだ子供よのう)

 高国は虎益丸が早く大人になってくれはしまいかと思いながら、邪念を払いつつ寝殿に入ると、既に二人の姿があった。その一人が頭を巡らす。

「叔父上、本日は()()(よう)か」

 声を発したのは畠山稙長だ。稙長の母は高国の姉――即ち高国の(おい)にあたる。当年廿四歳の若武者でありながら、父・卜山(畠山尚慶)と対立しても、高国との友好関係を続けるなど、時流を読む政治感覚が鋭い。戦はそれほど強くはないが、畠山総州家との戦いは一進一退であり、弱いということもなかった。

「まぁまぁ、そう焦るでないぞ、(おい)御殿」
「……」

 稙長は(たしな)められて不満顔になる。これこそが、高国が稙長と組んだ最大の理由であった。無表情(ポーカーフェイス)を相手にその考えを読むのは難しいが、稙長は優秀ではあるものの(とう)(かい)にまで考えが及んでいない。どちらかと言えば才気(かん)(ぱつ)という方が近く、表情を読みやすかった。それに対し、総州家の義宣は十六歳という若さでありながら(とう)(こう)(よう)(かい)を実践しているように見え、駒として動かすのは難しいと高国は判じている。

 稙長と並んで坐るのは三十代の畠山(しゅ)()(たい)()(よし)(ふさ)だ。義総は畠山(しょう)(さく)家の第七代当主で、第四代当主だった伯父・左馬介(よし)(もと)が重臣らに追放されると、父・弥次郎(よし)(むね)が擁立されたため、義総は跡継ぎとなる。しかし、永正三年(西暦1506年)、義元が当主に復帰し、その養嗣子となった。義元歿後は慶致と共に能登を治めている。

 匠作とは、修理大夫の唐名で、代々の当主が修理大夫であったことによる。匠作家の初代は畠山(みつ)(のり)で、三代将軍義満公の逆鱗に触れて(ちっ)(きょ)させられた兄・満家に代わって惣領家当主となっていたが、義満公歿後に満家が(しゃ)(めん)されると当主を返上し、天下の美挙と(うた)われた。これに感謝した満家は分国のうち能登を満慶に与え、相伴衆に補した。

 満慶の子・(よし)(ただ)までは在京していたが、三代(よし)(むね)が能登に下向して以後、強固な支配体制を築いて戦国大名化していく。家格としては、惣領家に次ぐものであった。それ故、稙長の後ろではなく、肩を並べて坐っている。しかし、稙長からすると自分は惣領家の当主であり、匠作家は分家に過ぎず、並んで坐るのは無礼であると考えているのは見て明らかだった。

修理大夫(畠山義総)殿も、楽にしてくだされ」

 天下の(しっ)(せい)である高国に三条坊門御所へ呼ばれたのであれば、幕府内の公式なものであると分かる。だが、今は()(てい)に招かれていた。(うたげ)でも、(きょう)(おう)でもないとなれば、難題を吹っ掛けられるのではないかと身構えもする。(ひっ)(きょう)、義総は能面のような無表情さを貼り付けていた。

「左様に申されますが、武蔵守(細川高国)殿の私邸に招かれるほど、この義総、細川家とは深き付き合いが御座いませぬ」

 義総はきっぱりと言い切った。能登は北陸で最も栄えた七尾を擁する。北から京へ運ばれる荷は必ず七尾に寄ってから難所の能登半島を回航し、中継拠点として寄港しない船はなかった。それ故、侮られぬぞと意気込んでいるのだろう。

「そう怖い顔をなさるな、()()殿()。のぅ、姪御殿」
「如何にも。次郎(義総)従兄(あに)も叔父上の仰る通り(くつろ)がれよ」

 高国が稙長を姪御と呼んだのは、尾州家と匠作家の(いん)(せき)関係を考えてのことである。義総の母は稙長の祖父・政長の(むすめ)であったからだ。高国と稙長との血縁を強調すれば、高国と義総は直接の親戚でなくとも、畠山氏全体から見れば他家よりも親しい存在である。

表弟(いとこ)殿がそう仰られるならば」

 義総は内心で稙長を(ののし)りながら顔を伏せた。勿論、目は笑っていない。義総が素直に従ったことで満足気に(うなず)く稙長を、高国も義総も別の意味で思慮のなさと判じた。高国は我が策成れりと心の中で(ほく)()笑み、義総は稙長を惣領の器に非ずと目に(あざけ)りの色を微かに浮かべる。

「堅苦しい話は抜きして、先ずは一献。誰か、酒を持て」
「あ、いや(それがし)は……」

 義総は断ろうと声を挙げたが、高国は敢えて無視した。予め用意して部屋の外に控えていたのだろう、断る間もなく、酒膳の支度が整う。思案顔の義総に稙長がしたり顔で声を掛けた。

「次郎従兄、叔父上の出される酒なら柳酒に違いない。能登ではなかなか飲めぬであろう?」
「それは……確かに」

 義総とて柳酒の名は知っているが、口にしたことはない。この頃の酒は生酒であり、日保ちしないからだ。()()に七尾が北陸一の(みなと)とはいえ、京の(すみ)(ざけ)がおいそれと運ばれるはずもない。

「では、一献だけ……」
「遠慮は無用にござる。酒はたんと用意してござれば、いくらでもお飲みくだされ。ささ、先ずは一献」

 酒に飲まれてはなるまいと、警戒心の強い義総ではあったが、終始高国に主導権を握られていた。高国は既に四二歳であり、常に中央の政局に関わってきたのに対し、義総は七つ下の丗五歳である。海千山千の高国に(ほん)(ろう)されつつも、一線を画し続けられているだけ大した男だった。

「それで先日千句の会を開きましてな」
「それは、さぞ盛大な宴でございましたでしょうなぁ。(それがし)も末席に連なりとう御座った」

 酒が進むと話は自然と歌の話となる。義総も高国も歌に造詣が深かった。高国は当代一の歌人・(さん)(じょう)西(にし)(さね)(たか)と家族ぐるみの付き合いであり、義総も小京都と呼ばれるほどに七尾を発展させ、連歌の名手と名高い(れい)(ぜい)(ため)(ひろ)と交流している。

武州(細川高国)殿は逍遥院(三条西実隆)様とは(じっ)(こん)の間柄とか」
「左様、左様。先年の上様(足利義晴)御成の折にも西の方様御同伴で宴にも越し下さり申した」
「……けっ」

 (れん)()や香を好む義総からすれば、羨む仲である。但し、高国からすれば羨ましがられることではなく、単なる同好の士との付き合いに過ぎなかった。朝廷への影響力も考えわせれば、付き合わぬことこそ不利益である。

 義総と高国が歌の話で盛り上がる中、稙長は一人つまらなそうに酒を(あお)っていた。流石に目上の高国には向けぬものの、義総へはあからさまに侮蔑の視線を送っている。時代的には稙長の方が異端であるのだが、長引く戦乱で教養に(たん)(でき)するのを()()する向きもあり、()()すべきものとの認識を強める愚か者は増えつつあった。無論、稙長とて歌を詠めぬ訳ではない。

「なればこの義総、伏して武州(細川高国)殿にお願いが御座る」
匠作(畠山義総)殿、同好の士なれば、我がことは六郎とお呼びくだされ。ささ、顔を上げられよ」

 義総は座を外して膳の隣で額を(ゆか)板に打ち付けんばかりに伏した。高国は流石に驚いた顔を見せ、立ち上がると伏したままの義総の腕を取り、顔を上げるように促す。

「されば、我がことは次郎とお呼びください。して、六郎(細川高国)様。是非とも(それがし)逍遥院(三条西実隆)様をご紹介くだされまいか」
容易(たやす)いことよ。明日にも逍遥院(三条西実隆)様に紹介いたそう。これよりはこの高国、次郎殿とは肝胆相照らす同好の士よ」

 突然のことに何事かと訝しがった高国であるが、義総の嘆願を聞いて破顔した。ひと呼吸入れて、互いに高々と盃を掲げて、干す。更に盃を酒で満たした。

(しか)らば物は相談だが、我よりも一つ願いを申し上げてもよろしいか?」

 満面の笑みで義総に向く高国。義総は一瞬、狼狽(うろた)え、(わず)かにしてやられたという表情を誤魔化して、すぐさま「喜んで承る」と返した。取っ掛かりのなかった義総からの申し出は、高国からすれば渡りに舟であった。どのように(ろう)(らく)したものか、と考え(あぐ)ねていたのである。こうして義総は高国の願いを受け入れることとなった。

 大永五年(西暦1525年)四月(4月)三日(25日)、義総は稙長とともに(りゅう)(えい)作事の惣奉行を申し付けられた。これ以後、畠山匠作家は中央から遠ざかり、義総は二度と京に上らぬと心に誓う。翌年五月、義総は冷泉為広・為和父子が戦火を避けて七尾に疎開してくると、連歌の会を催し千句の連歌を詠んだ。

 柳営作事をまんまと畠山稙長と義総に押し付けた高国は、ひと心地着いたとばかりに得度の支度へ取り掛かった。得度の儀は仮御所としても使われた岩栖院で行われる。()(りょう)を辞してのことであるので、義晴公の参列は辞退し内々の者のみに限ることにしたが、そうは言っても細川一門の主立った者は出席する旨を伝えてきていた。その為、ある程度の格式を整える必要はある。加えて、それに続いて執り行う家督継承の儀のこともあった。

 此度はどちらも上野一雲が取り仕切っている。一雲は一門の長老でもあり、高国の家督継承を主導した人物だ。高国が幼き頃より側に居り、高国の器量を高く評し、公私に渡って高国を世話している。だが、一雲は高国の家臣ではない。将軍家の奉公衆である細川一門・細川玄蕃頭家の先々代当主で、俗名を(もと)(はる)という。本家は土佐守護代の細川遠州家で、兄・勝益が当主となった。子に恵まれなかった一雲は、兄の三子を養子に迎え、(もと)(よし)と名乗らせ家督を譲っていたが昨年歿している。その遠州家も、永正の錯乱の際に土佐を離れ上京して京兆家を支えたが、勝益の長子・(まさ)(ます)、次子・(くに)(ます)ともに討死したため、以後、土佐は守護・守護代不在の地となった。一雲はまだ十四歳の養孫・国慶に遠州家再興の期待を掛けている。

「本日よりは大殿、とお呼びすべきですかな」
「辞めてくれ、(げん)(じい)

 はにかんだ顔の高国など、滅多に見られるものではないが、流石に高国を幼い頃から知る一雲にだけ向けるものがある。源爺とは、高国が(たつ)(ます)丸と名乗っていた頃に、一雲の仮名・源五郎をもじった呼び名だ。高国も流石に人前では玄蕃入道や箕踞軒などと呼ぶが、二人きりの時はくだけた物言いである。

 今は国慶を下がらせていた。高国には政元のような稚児狂いの気はない。衆道は人並みに嗜むが、それは若い間のことであり、官位を戴いて以後は控えるのが常識であった。

「それにしても豆州(武田元光)()、丹後を寄越せとはな」
発心寺(武田元光)殿が、というよりも、家中の怨みが強いのでしょう」

 ふむ、と顎を撫でる。確かに言われてみれば一雲の言うことも尤もだ。それに丹後半島は若狭から続く海賊の根城である。海運に力を入れている逸見駿州などは丹後の港を欲しているのは明らかだった。

「此処は貸しを作っておくのも、宜しいかと存ずる」
「爺もそう思うか」

 一雲は無言で首肯(うなず )いた。若狭武田氏は政元以来の盟友である。恩を仇で返すことはあるまいと、高国は奏上することを決めた。丹後守護職の内示を与えればそれで良い。丹後一円支配の暁には丹後守護職を追認すると約しても、武田元光では丹後併呑は難しかろうと高国は高を括っていた。

 丹後国は東から()()郡・()()郡・丹波郡・(たけ)野郡()(くま)()郡があり、国力等級が中国、距離等級が近国の山陰道の入口にあたる。のちの太閤検地では十一万石ほどで、面積の割には国力が高かった。元は丹波の北部五郡で、和銅六年(西暦713年)四月三日に分割されたもので、丹後のことを丹北とも呼ぶことからも分かる。

 丹後守護職は山名(みつ)(ゆき)より一色(みつ)(のり)に変わったが、足利義教公の命によって満範の子・(よし)(つら)が武田信栄に誅されると、若狭武田氏に取って代わられた。これにより丹後一色氏と若狭武田氏は不倶戴天の敵となる。義貫以後、一時、分家の(のり)(ちか)が家督するが、のち義貫の子・(よし)(ただ)が惣領となり守護職に復帰、嫡子・(よし)(はる)、次子・(よし)(ひで)と続いている。

 丹後は細川氏の領国丹波に近いが、ここを取ると武田氏・山名氏に挟まれるため、高国としては旨味がない。

「だが、左様な仕儀では一色殿が煩さそうではある」
「然り。されど、殿と左京大夫殿は血縁(えん)所縁(ゆかり)もないお方。お聞き流しになれば宜しい。どうせ石川御館と奉られているだけに御座れば」

 高国の妻は一色(よし)(あり)の妹であるが、義有は永正九年(西暦1512年)七月(8月)十日(21日)に歿している。義有は義直の弟・(よし)(とお)の庶子または義直の近親者といわれ、義秀が歿すると当主に就いたが、廿六歳の若さで亡くなり継嗣がなかった。そのため、南禅寺の僧であった義秀の弟・季岳が還俗して、五郎(よし)(すえ)を称し当主に名乗り出るも、室が若狭武田氏の出であるため国人の反発を招いてしまう。進退(きわ)まった義季は与謝郡()()城主の石川()()()左衛門尉(なお)(つね)を頼り、加悦城に()(ぐう)した。代わりに義季の子・(よし)(きよ)が、石川直経のほか、与謝郡宮津城主の小倉播磨(はりま)(ただ)(ゆき)・熊野郡久美浜城主の伊賀()(きょう)(のすけ)(ただ)(とし)らの支持を得て当主に就く。ちなみに直経は一色義春に仕えた石川修理(しゅり)(のじょう)(なお)(きよ)の子で、丹後石川氏の惣領であった。

 だが、守護代(のべ)(なが)修理進(はる)(のぶ)は三河より呼び寄せた一色九郎(もと)(きよ)を擁して石川直経に対抗する。延永氏は加佐郡倉橋郷を領した守護代家で、義貫より延永(ます)(のぶ)が守護代に任じられており、子の(ます)(ゆき)も守護代として義春を支えた。石川氏らは奉行衆であり、守護代の延永氏とは元々険悪である。

 そのため、両者の対立は深まるばかりで、ついに永正十四年(西暦1517年)六月(6月)二日(20日)、春信が加悦城を攻めてこれを陥した。義清と直経は武田氏に助勢を求めて若狭に奔る。これを知った春信は若狭の逸見河内守国清と合力して若狭へ侵攻し、和田城の岡本主馬助国利を葬り、小浜へ迫った。しかし、幕府の命にて朝倉孝景・教景の援軍を得た武田元信の逆撃に合い敗走。丹後国加佐郡倉橋城に立て籠もるも四面を取り囲まれ、八月(8月)九日(25日)に降伏する。九郎元清は自害、それにより春信は助命された。程なく義清も歿しており、家督は弟・新五郎義定が継いでいる。

 以後、一色氏が丹後を統治していることにはなっているが、実権はなく石川氏・小倉氏・伊賀氏による三竦みが続いている。一応、妻の誼もあって一色氏と盟してはいるものの、高国陣営としては然程重視していなかった。

「丹後のことは内藤に任せるといたそう」
「それが良うございます」

 内藤とは内藤備前守貞正・弾正忠国貞父子のことである。丹波の守護代で在京する国貞を支えるように父・貞正が丹波国船井郡八木城に入って、丹波北部を治めていた。

 丹波は北部が丹後として分割されたため、現在の丹波北部は中丹という。南部は南丹のままだ。丹後と同じく山陰道に属し、丹後が北陸道からの入口に当たるように、丹波は京からの入口に当たる。国力等級は上国、距離等級は近国、太閤検地によると二六万三〇〇〇石で、丹後の倍以上の石高があった。古くは「タニハ」と呼ばれた土地で「田庭」のことであるという。丹後分割以前は但馬も丹波の領域であったため、丹波・丹後・但馬を併せて三丹ともいい、丹後と丹波のみを指す場合は両丹と総称した。

 こうして四月(5月)廿一日(13日)、高国は武蔵守を辞し、厄落しの得度を済ませ、(どう)(えい)と号した。以後、稙国が京兆家の家督を担い、官位を右京大夫に進める。高国は大永元年に武蔵守となっており、稙国への継承を待っていた。ようやく、讃州家打倒と将軍家分裂を正すことに専念できるというものである。

 同月廿六日(18日)には、畠山稙長と義総による柳原御所新造普請が始まり、京は俄に活気づく。五月中旬には、武田元光が丹後へ侵攻。一色氏からは高国に悲鳴のような書簡が引っ切り無しに届いたが、先年の敗戦を理由にして、金品の支援に留める。道永の見るところ元光も、家臣の逸見氏と粟屋氏の反目により、軍勢のまとまりが悪く、攻めあぐねるのが分かりきっていた。しかも、此度は朽木や朝倉の支援はない。元光単独での与謝郡侵攻では、石川直経辺りの奮戦で撤退するに違いなかった。

 しかも、この年の夏は暑い。入梅を迎えてもなお異常な暑さが続いる。長対陣はあるまい、と目を細めて団扇の風を愉しんだ。
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