和歌解説(二)

文字数 3,842文字

■第十一服■
常磐にと植へしも幾世松の葉の
塵より山のかげを並べて

慶應義塾蔵 斯道文庫  尊鎮法親王親筆懐紙より

 常に変わらぬ岩のように植えた松の葉が幾世も葉が緑であるように
 塵(落ち葉か?)で作った山の姿と池に写った山の姿を並べてみましょう

 天文十年(西暦1541年)以降、天台座主となってから詠まれたと思われる和歌です。天台座主とは比叡山延暦寺の貫主であり、三大門跡(妙法院・青蓮院・三千院)から選ばれることが一般的になっていました。第一六三世天台座主となった尊鎮法親王は、永正元年(1504年)に生まれ、天文十九年(西暦1550年)に四七歳で歿してしまわれますが、花と茶を庇護し、こと茶の湯については侘数寄を好み村田宗珠を後援しました。

■第十二服■
庭ひろみ苔のみとりハかたよりて
あつき日影に白きまさこち

大永五年(一五二五)五月二一日、能登に下向していた冷泉為和が七尾城畠山左衛門佐(義総)亭で当座の和歌会に列席している。五月二五日同亭で連歌会が張行され、同二九日の「夏色」と題した和歌会では、為和が「庭ひろみ苔のみとりハかたよりてあつき日影に白きまさこち」と、義総亭にあった庭園を詠んでいる。まさこちは真砂地のことで、砂地の道。

「広い庭のそこかしこに苔が生えていて、それが夏の暑い陽射しに照らされて、まるで白い砂浜のように見えるではありませんか」という意味。

■第十三服■
種まきて 同じ武田の末なれど
荒れてぞ今は野となりにける

 武野紹鷗が詠んだと言われる歌。戦国大名となった若狭武田氏と武野紹鷗の祖である石和武田氏は同じ甲斐源氏の流れで、同じ武田氏の末裔であっても、自分の田は荒れ果てた(家が没落した)ので、野となってしまった(改姓した)という意味かと。
 武田信清の妻は逸見仲継の女、武田仲清の妻は伊東祐広の女、武田信久の妻は中坊秀国の女という。武野家は武家としての再興を望んでいたといわれ、武野紹鷗の子・宗瓦に二人の子があり、どちらとも織田有楽斎の紹介で徳川義直に仕えた。

■第十四服■
いくたびか世はうつりてもめぐりあふ
昔のままの月を見るらむ
          後柏原天皇謹製

 後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)は、寛正五年(西暦1464年)十月(11月)廿日(19日)に、後土御門天皇の第一皇子(母は贈皇太后源朝子)として生まれました。名は勝仁(かつひと)文明十二年(西暦1480年)に親王宣下され、元服の儀も行われ、文明十六年(西暦1484年)に勧修寺藤子が入内、明応五年(西暦1497年)には、その間に第二皇子知仁親王(後の後奈良天皇)が誕生します。
 明応九年(西暦1500年)十月(11月)廿五日(16日)に、父・後土御門天皇の崩御を受けて践祚し、第一〇四代とされる天皇となったものの、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、すぐに即位礼を行うことが出来ませんでした。永正四年(西暦1507年)に執政細川政元が暗殺され、兵革連続して洛中不穏の際に、伊勢神宮などをして天下の和平、国家の安全を祈らせます。
 経費節約をし、将軍足利義稙や大坂本願寺僧光兼の献金により、大永元年(西暦1521年)に即位廿二年目にして、ようやく即位の礼を執り行うことができました。また、朝儀の再興に努め、学を好み、仏教の信仰が深く、詩歌管絃や書道にも長じ、和歌集『柏玉集』、日記『後柏原天皇宸記』も残しています。
 大永五年(西暦1525年)の疱瘡大流行時に自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納したりしましたが、大永六年(西暦1526年)四月(5月)七日(18日)に京都において、六十三歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされました。

この歌は「人の世がどんなに変わっても決して変わることのない昔のままの月に巡り合うことができる」というほどの意味です。当時は幕府の将軍が次々と変わっていた時代でした。将軍が変わっても、変わらず政権を担い続ける高国に相応しい歌と思い、取り上げました。

■第十五服■
埋れ木の花さく事もなかりしに
身のなるはてぞ悲しかりける
        源頼政辞世

〈現代語訳〉
 埋れ木に花の咲くことがないように、私も世間からうち捨てられ華やかに出世することもなかったが、今ここで死んでゆく我が身のなれの果てが悲しい。
〈解説〉
 源頼政は平安時代末期の武将。保元の乱・平治の乱で勝者の側に加担。平氏政権下で源氏の氏の長者となった。平氏一門が続々と公卿となっていくのを横目で見ている中、「のぼるべきたよりなき身は木の下に椎をひろひて世をわたるかな」と詠んだ。頼政が未だ四位であることを知った清盛は治承元年(西暦1177年)、従三位へ昇進させる。治承四年(西暦1180年)、以仁王の挙兵に応じたが、平氏の大軍に囲まれ平等院で自害した。頼政自身は挙兵に反対であり、平氏への不満はなかったとも言われる。

■第十六服
常よりも 睦まじきかな ほととぎす
 死出の山路の 友と思へば
        鳥羽天皇 辞世の歌

〈現代語訳〉
 死出の山道の案内をしてくれると思うとほととぎすがいつもよりも親しく思えてくるようだ。

〈解説〉
 鳥羽天皇は嘉承二年(西暦1107年)に即位した天皇で、保安四年(西暦1123年)崇徳天皇に譲位します。当時は白河法皇の院政が行われていましたが、大治四年(西暦1129年)に白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇が約三十年間、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代にわたって院政を実施しました。なお、崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子ではありますが、実際は白河法皇と鳥羽天皇の后の子であったとも言われています。鳥羽天皇は崇徳天皇を冷遇しており、崇徳天皇が院政を敷くことはありませんでした。このことが、のちに崇徳天皇と後白河天皇が争うこととなる保元の乱へと繋がります。歌中にある「死出の山」は死後に越えるとされている山で、仏教の死後の世界にあります。鳥羽天皇は深く仏教を信仰し、様々な寺院を建てました。それがうかがえるような和歌と言えます。また「ほととぎす」は、鳴き声から別名を「しでのたをさ」(死出の田長とする説が多い)とされており、「死」を連想させる語ともいわれ、死後の世界である「冥土」に通う鳥とされましたが、凶鳥ではなく、冥土へ安全に案内する鳥ともいわれます。
 
■第十七服■
たらちねはかかれとてしもむばたまの
我が黒髪をなでずやありけむ
        遍昭法師 後撰和歌集
〈現代語訳〉
 老いた母はまさか私が出家剃髪するようにと思って烏玉のような黒髪を撫でいつくしんだのではなかったろうに。

〈解説〉
 桓武天皇が下女に産ませた子の良岑安世の子として生まれ良岑宗貞といい、仁明天皇に寵愛され、出世街道を歩んでいました。しかし、三十六歳のとき、仁明天皇が急逝し、その七日後に剃髪、出家してしまいます。天皇に殉じる気持ちと母への申し訳無さとがせめぎ合う心を歌に詠んだものです。遍昭の出家に際して共に落飾したのが素性法師で、この方は父親に無理矢理出家させられたようで、僧侶らしからぬ逸話がたくさん残っています。

■第十八服■
狭井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり畝火山(うねびやま)
木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
      『古事記』伊須気余理比売(いすけよりひめ)
〈現代語訳〉
 狭井河の方から雲が立ち起こって、畝傍山の樹の葉が騒いでいます。いまにも風が吹き出してきそうです。

〈解説〉
 神武天皇が歿すると、その庶兄の当芸志美美命が、皇后の伊須気余理比売に言い寄るのであるがその時に、三人の皇子たちを殺そうとして謀ったので、伊須気余理比売が歌でこの事を御子たちに知らせたという件が古事記に載っています。叙景歌ですが、危急を知らせる風刺歌でもあり、「風吹かむとす」は危険が迫っていることの隠喩。

■第十九服■
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
島隠れゆく舟をしぞ思ふ 
           詠人不知

〈現代語訳〉
 ゆっくりと明るくなっていく明石の浦に立ち込める朝霧の中を島に隠れようとしている舟をつよく思いを寄せています。

〈解説〉
 ほんのりと明るんでいく明石の浦、その明石の浦に立ち込める朝霧の中を、島隠れに行く舟をしみじみと感慨深く眺める情景とその景色に入り込んだ叙情を詠んだ歌です。徐々に明け行く明石の浦の朝霧の中はぼっとかすみ、やがて点景となって消えてゆく舟に、危険の多い航路、旅に伴う不安を想いやり無事を祈る作者の心が詠まれているようにも感じられます。

 明石は播磨で、摂津ではないのですが、摂津の諸将が先行きの不安を感じて五里霧中となっていく様子にぴったりだと思い選びました。

■第二十服■
大海の磯もとどろに寄する波
われて砕けて裂けて散るかも
        『金槐和歌集』源実朝

〈現代語訳〉
海岸の磯にとどろくばかりに打ち寄せる波、その荒波が岩にぶつかってくだけて、裂けて、細かなしぶきとなって散っている。

〈解説〉
 源実朝は藤原定家に和歌を学んだ歌人としても知られ、この歌は『金槐和歌集』に収録されてる建暦二年(西暦1222年)三月九日三浦海岸にある三崎御所にて詠まれた歌です。この和歌には本歌があり、『万葉集』収録の|笠女郎《かさのいらつめ)の「伊勢の海の磯もとどろに寄する波恐かしこき人に恋ひわたるかも」です。笠女郎が、大伴家持おおとものやかもちに贈った24首のうちの一つで、現代語訳では、「伊勢の海をとどろかせて寄せてくる波のように、畏怖を抱くほど立派なあなたを恋し続けます」という意味合いの恋の和歌です。それに対し、実朝の歌は写実的でありながら、政治に苦悩する実朝の姿が浮かび上がって来ます。万感の思いを政治に持ち、よりよい国造りのためにと思っても、自分は宿老たちの担いだ御輿に過ぎず、進むべき道は見えていても、そこへ向かうことは難しい……と言っているようです。国破れて山河あり……の杜甫にも通じる国を思う気持ちを垣間みれる気がいたします。
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