第廿一服 攻摂誘永
文字数 7,778文字
摂を攻めて永を誘う
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山やまざくらかな
千載集 詠人不知(平忠度)
大永七年二月十六日、柳本五郎左衛門尉賢治率いる丹波勢と三好主膳正長基率いる阿波衆は義晴公・細川武蔵入道道永の去った京に進軍、駐留した。
但し、二人の主将――三好長基にも柳本賢治にも占領行政の権限は与えられて居らず、出来るのは治安維持の為の警邏と宣撫工作だけである。それ故、続いて入京すると思われた細川六郎元であるが、驚いたことに阿波へ帰国してしまっていた。両主将は顔を見合わせるしかない。格上の畠山上総介義宣が横槍を入れてくれば、陪臣である両大将では掣肘できないと誰にでも分かることだった。
「一体、どういうことか」
怒気を孕む長基の横で、賢治は呆れていた。可竹軒周聡が送ってきた使者は、長基の怒気に萎縮しきってしまっており、先程からしどろもどろであるが、恐らく何も聞かされていないのだろう。長基とて分かっていないはずもなかった。
周聡の書状を読み終えた長基は賢治に渡した。賢治は一礼して受け取り、中を見てもう一度呆れる。長基は使者を追い返して、上座に坐る畠山義宣に向き直ったが、口を開いたのは賢治だった。
「如何なさる」
「私が迎えに行くしかありますまい」
戦場に馴れぬ六郎は勝瑞城の生活が恋しくなり、年賀の儀が済むと小姓らだけを連れて帰国したのである。これは、周聡の目を盗んでの行動であり、周聡は当然激怒した。ここで徒に時を重ねれば後手に回りかねないというのに駐京軍は待ち惚けとなる。
「細川殿を上洛させるには公方様に遷座していただけばよいのではないか?」
「慥かに」
公方が動けば六郎も動かざるを得なかろうという義宣の意見は尤もだった。三人の合意で、京の治安維持を柳本賢治に任せ、宣撫工作は畠山義宣に委ね、元長は阿波へ帰国する段取りとなる。
「で、兵は如何なさる」
「率いて帰る訳にもいきますまい。叔父が家中を纏めてくれますので、総州様に三好勢をお頼みいたします。阿波衆は……」
「それは某が。主膳殿、御案じ召さるな、この柳本五郎左衛門尉、留守の間に付け入らせるような真似はさせぬ」
「忝ない」
長基が深々と礼をしようとして、押し留めた賢治は任せておけと言わんばかりに、胸を叩いてみせた。長基も賢治に委ねることに不安はないが、義宣に阿波衆を預ける訳には行かない。それだけに阿波衆諸将の賢治への反撥が気掛かりではあった。
「……細川殿は上洛してくださるか?」
「どうでしょうなぁ……。然れど、正しく京を治めるには、御屋形様が京にお出ましになるか、所司代を置いて貰わねばどうにもなりませぬ。正直なところ、公方様がお渡りにならずとも構わぬが、御屋形様には上洛いただかねば」
賢治の言は畠山義宣への牽制も含まれていた。同陣営とはいえ、幕臣としては政敵である畠山義宣と一線を画したいという賢治の雰囲気を察せぬ義宣ではない。義宣としても、単独の武力では京を確保することも、河内を保持し続けるのも難しく、六郎を恃む処が大であり、讃州派の諸将の反感は買いたくなかった。ただし、恃んでいるのはその武力と兵力で、六郎が京に居てくれない方が都合が良いという本音が垣間見える。
ちなみに所司代とは侍所の長官補佐役のことで、侍所は山城国の警備と訴訟、及び軍事を担っている将軍直轄機関であった。侍所の所司は頭人とも呼ばれ、四職と呼ばれる赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏が任じられ、所司代は重臣が就いて在京していたが、室町中期頃から山城守護職が任じられるようになると、管轄が幕府直轄領と洛中に縮小された上、応仁の乱以降は就く者がなく空位となる。そのため、事務方筆頭の侍所開闔を独占していた奉行衆の松田氏と飯尾氏が所司・所司代に代わって侍所を指揮するようになっていた。
「それはそうだが……」
案の定、義宣は歯切れ悪い。賢治から見れば義宣の思惑は漁夫の利ではあるが、先を考えているだけ真面であり、主君の政敵とはいえ好感が持てた。まだ、六郎がどのような人物であるか見定められて居ないということもあって、将来的な保険の候補でもある。
「行ってみるしかありませぬな」
所司代の任命でも事は足りはする。されど、畠山義宣が在京しているのは管領就任を狙ってのこと故、此処は六郎の上洛が最善の手であった。
(……だがなぁ)
長基は心の中で、肩を落とす。実のところ長基にとって六郎は些か仕えにくい主君なのだ。十歳の年齢差は弟という感じであり、長基に対する悪感情はなく、本質的に素直な少年である。しかし、やや癇癖が強い所があり、兎角定見に欠けた。
これは六郎の元来の性癖ではない。問題は六郎を育んできた環境にあった。六郎は幼名を聡明丸といい、永正十一年に生まれる。父・澄元は両細川の乱で高国に追い落とされ、京・摂津を逐われて永正十七年に歿した。伯父の讃岐守之持も既に亡く、五つ下の弟・聡敏丸と共に一門の長老であった光勝院周適が傅育することとなる。しかし、大黒柱だった讃岐入道常喜(細川成之)を失っていた下屋形家は周適や三好長基が奔走せねばならぬ状況であった。そこで周適は細川紀州家出身の弟子・周聡を六郎の傅役として上屋形家に置くが、結局、周聡も当主の代理人と化してしまう。結果、六郎の周りは阿る家臣や幼年の遊び相手ばかりとなって、叱る大人が不在の侭、成長した。
今の所、周聡が常に側にあって破綻の無いように気を配っていた。周聡が居らねば、朝令暮改の如き方針変更となって収拾が付かぬことになっていたやも知れぬ。長基は心で溜息を吐いた。
本来は六郎の家宰である長基を所司代に任じ、占領行政を委ねるべきであるが、長基の父・筑前守之長が土一揆の張本と目され、京の人々に嫌われている。それ故、長基は所司代の打診を断った。
「それが妥当でしょうが、可竹軒殿のお考えも御座いましょうし……」
「何れにせよ、主膳殿に任せるしかあるまい」
「うむ。頼んだぞ、三好殿」
賢治は所詮外様であると身を弁えている。それ故に、六郎が譜代の家臣を疎んじてくれれば己の躍進の機会が広がると分かっており、火中の栗を拾うような真似はしなかった。敵に付け入る隙を与えなければ、家中の対立は歓迎である。いずれ長基と対立することは分かっているが、それは今ではなかった。長基が自分を敬ってくれていることもあって、できればその日は遅い方がよいとも考えている。また、義宣は味方ではあるが、このまま六郎が不在だと山城への影響力から実質的な守護として機能しかねない懸念があった。
(六郎様は如何なさりたいのか)
三好之長が非業の死を遂げたのは永正十七年、長基二十歳の時である。伊丹城に敗走した細川右京大夫澄元は病に倒れた。その澄元を野州家当主・細川民部少輔高国は容赦なく追い立て、摂津を逐う。そのため、播磨へ逃れた澄元は、病を押して阿波に帰国するしかなかった。
三好之長が澄元に属けられて以後、三好惣領家当主は讃州家の重臣であるとともに京兆家の家宰である。父の跡を継いだ長基は澄元を見舞い、そこでまだ七歳の六郎を主君と仰ぎ泰平の世を築くことを誓った。
以来、六郎を真の京兆家当主とすることに奔走している周聡と長基は大永元年の義稙公出奔に契機を見出したものの、義稙公は畿内での抵抗を続けたため、断念。畿内での足掛かりを失った義稙公が大永三年に来阿した直後に歿したため、大義名分を失った。此度の挙兵において義稙公の養子・義賢公を奉じたのはある意味、選択肢が他になかったからである。加えて義賢公は義晴公の兄であり、長幼の序を無視した道永の非を鳴らせるという正統性を担保していた。
「……勝てば正義……よな」
勝たねばすべてが徒労に終わる。必勝の決意を胸に堺へと長駆した。
現状、京から堺までは勢力圏であり、供廻りのみにしようとしたのであるが、「貴殿は阿呆か」の一言を寄騎の篠原大和守長政が言い放ち、吸った揉んだの挙句二〇〇の兵に落ち着いた。長政は「一〇〇〇でも少ない」と仲々譲ろうとはしなかったが、一宮小笠原宮内少輔成孝を随員に加えることで妥協したのである。
堺から阿波へは船で三日程。先ず岸和田へ向かい、淡路島の東航路を渡って洲本で停泊。洲本からは島の海岸沿いに進み、阿波国撫養に上陸。そこからは馬上の人となり、撫養から勝瑞城まで半日強ほど騎行するのが一般的である。
三月廿二日、足利義賢と細川六郎は阿波から和泉国堺に入った。京への上洛を促す長基に対し、義賢公は堺の四条道場引接寺を座所に定め、論功行賞を開くと通達する。これは可竹軒周聡と足利義賢公の慎重さであった。
諸将が一同に会した評定で、軍功第一は長基とされた。六郎より「元」の偏諱を賜り名を元長と改め、筑前守の名乗りを許される。他にも、賢治が弾正忠を、波多野孫右衛門元清が備前守を、三好新左衛門尉長家が遠江守を許された。また、可竹軒周聡は細川六郎に奏上して典厩家家臣・松井越前守宗信を所司代、賢治を目附頭に推薦し、京都の治安維持と行政を委ね、元長には家宰として、所司代を督させることにする。そして、自身は朝廷工作と幕府発足に向けて動き出した。
一方、桂川原の戦いで敗れた細川道永は同年二月十四日、足利義晴公を奉じて近江国坂本に逃げ落ちていた。二人を庇護した六角弾正少弼定頼は、蒲生郡武佐の長光寺を義晴公の御座所とし、道永をそのまま坂本の唐崎城に留めている。
「佐々木霜台奴、兵を出さなかったばかりか、余を見下しておる」
憤懣遣る方無い道永が附子っとした表情で独り言ちた。傍らには小姓頭の細川源五郎国慶が控えている。
「御屋形様、そうは申されましても今は霜台様におす――」
「余は必ず京へ戻る。戻らねばならんっ」
国慶の言葉を遮り、道永は帰京の決意を立ち上がって吼えた。道永の心の中には、己を逃がすために命を散らした荒木安芸守定氏・九郎兵衛尉氏綱父子の姿が焼き付いている。彼らの玉碎のお陰で助かった命は数不知、離散して京を落ち延びた者たちも三々五々坂本に集まりつつあった。それでも兵の数は、まだ桂川原の戦い前の半分にも満たない。
「ところで爺の怪我は如何か」
「薬師は三月ほどと申しておりました」
「そうか。無理をさせたな……」
箕踞軒一雲は、桂川原の戦いに無理を押して出陣したため、敗走の疲労で坂本に着くなり倒れていた。山城野田城の戦いで負った刀創が開いたが、十日もするとけろりと起き上がって動き回り、国慶を心配させている。
「御屋形様が心配なさるほどに、大人しくしてくれるといいのですが」
「はっはっはっはっ。爺がしょぼくれておっては爺ではないからの」
国慶との雑談で、少し気の晴れた道永は、再び京を取り戻す算段を始めた。少なくとも細川家だけで一万の兵を集めねばならぬ。その他に河内・和泉・摂津の公方派を糾合すれば五〇〇〇程。六角が最低でも一万、朝倉が最大一万五〇〇〇、義晴公直卒で一万。合わせれば五万の大軍も夢ではない。頼りにしていた武田伊豆守元光からは軍の立て直しのため兵は送れぬと謝罪の書状が届いていた。
「豆州の手勢が来ぬのはちと痛いが……」
「国許が安定しましたら、また力になってくれるに違いありません」
「そうだと良いが、な」
前向きに明るく振る舞う国慶に対して、道永は懐疑的である。元光を信頼してはいても、あの崩れ方は尋常ではなかった。救援に向かって敵勢の横腹を突いた筈の道永の軍でさえあの惨状である。道永の馬廻衆も多くが討死した。奇襲を受けた元光の軍勢の被害たるや如何程のことか。三好勢の強さは尋常ではなかった。
死人の数を近代戦の感覚で捉えると中世ではあまり人が死んでいないと感じるかも知れないが、大量殺戮兵器である機銃――回転式多銃身機関砲や機関銃登場以前の火縄銃さえ存在しない中世においては、人がその両手で人を殺さねばならない。それ故、人はそう簡単に死ななかった。戦における死者は大体十人~数十人程度で、兵の減少は負傷と敗走時の離散によるものが多い。つまり、桂川原の戦いのように雑兵で二〇〇もの屍者が出たのは、驚くべきことなのだ。
道永は戦が上手い方ではなかった。それは従弟の右馬頭尹賢もそうであるが、尹賢は謀略家であり、兵法にも明るい。それに対し、道永は基本的に政治家であり、政治的に優勢を作り出して勝ちを拾う。そこに戦上手の香西元盛や柳本賢治といった家臣を充てて政権を維持していた。それを手放す結果になったのは高国の招いたことである。
そして、此度の都落ちが、今までとは大きく様相を異にしていることも勘定に入れる必要がある。これまでも将軍や管領が京から落ち延びることは幾度となくあったが、評定衆や奉行衆といった官僚まで逃げ出したのは初めてだった。とはいえ、まだ幕府体制が傾くほどではない。
但し、西国の奉公衆の中には赴任先から戻らず、在地勢力となってしまう者も現れていた。兵を持たない奉行衆は義晴公に従ったが、讃州勢に投降する者も後を絶たない。辛うじて御供衆や同朋衆、公家の昵懇衆らについては殆どが随行しているため、朝廷工作はこちらが有利といえた。しかし、情勢如何では、いつ寝返るか分からない不確定要素でもある。
道永は六角定頼に対し義晴公を通じて軍勢催促を行いつつ、自身は単身越前へと向かい朝倉弾正左衛門尉孝景に面会しようとして、尹賢に押し留められた。幕閣との協議で朝倉への交渉は、公方側近の大舘伊予守尚氏に委ねられ、道永は尹賢とともに軍の再建に専念するようにとの公方直々の御言葉を賜る。ここで幕府に対する高国の影響力の低下が見られた。
月が変わる頃には大舘尚氏の交渉の成果か、朝倉氏や能登畠山氏の斡旋で、北陸の各地に散っていた奉公衆も帰参しつつあり、最終的には公方直卒の兵力は桂川原の戦いよりも増強される見込みとなる。
「澄元の小倅奴、首を洗って待っているがいい」
道永は地図を睨みながら、そう独り言ちた。六郎との対決まで、まだ時が掛かると分かってるが故の言葉である。
堺方は朝廷工作に、江州方は兵力増強に奔走する夏となった。
残暑厳しい七月十三日には、足利義賢公は義維と名を改め、将軍継嗣が任じられる従五位下左馬頭となり、上洛すれば将軍就任間違いなしと噂になっていた。諸大名や公家衆らは早速、堺公方、堺大樹と呼び始め、讃州家首脳部を歓ばせる。対して義晴公は江州大樹と呼ばれるようになった。
しかし、義維公は動かなかった――いや、動けなかった。何故ならば、六郎が動かなかったのである。それは摂津に未だ不穏分子が散在しており、京で孤立することへの危惧であった。その不安を一掃すべく、将軍に供奉して左衛門督に任じられた元長へ、摂津平定の軍を起こすよう六郎から命が下る。同時に柳本賢治も波多野元清とともに丹波平定を命じられた。二人は京を松井宗信と、右衛門督に任ぜられて義堯と名を改めた畠山義堯に任せて出陣する。
九月十四日、京から阿波衆のほぼ全軍を堺に集結させた元長は、細川六郎の閲兵を済ませ、堺の守護所で出立の挨拶をしていた。
「では、行って参ります」
「左衛門督、我が為に勝ってくるのだ」
「御意」
元長の力強い返事に、大きく首肯いて六郎は満足気であった。向かうは尼崎大覚寺城。摂津の抵抗勢力となった伊丹兵庫助元扶が籠もる伊丹城攻略である。元長には阿波衆一万二〇〇〇が預けられ、摂津平定戦が幕開けた。
九月十七日、三好元長は伊丹城下の墨染寺を本陣とし、伊丹城を包囲したが、城攻めはせず、本陣に詰めたままだ。
「殿、お攻めになりませんので?」
絵図を睨みこんだ元長に三好伊賀守連盛が尋ねた。城に籠もるのは高々二〇〇〇にも満たない兵である。連盛には疾く城を陥として急ぎ京へ戻った方が良いとしか思えなかった。
「これが城攻めをしているように見えるか?」
人好きのする笑みを浮かべた元長を前に、連盛はキョトンとした表情で、元長と絵図を見比べた。連盛は元長の側付の奉行人で、元長とは同世代であり、後に千熊丸の傅役となる人物である。元長の眼の前に広げられた絵図は畿内の地図であり、伊丹城の縄張り図ではなかった。一体、元長は誰と戦って居るのか――
「あ……」
「ようやく解ったか。伊賀よ、戦は眼の前の戦だけではない。二手、三手先まで読んで軍を起こさねば三好の当主は勤まらん。我々の敵は伊丹兵庫ではないのだ」
呵々と熊のような巨体を揺らして笑う元長に連盛は頼もしさを覚えていた。その巨体も本人からすれば、実の娘にさえ怖がられてしまう原因でしかないが。
そして、足利義晴公が長光寺より坂本に遷座し、細川道永が近江坂本の金宝寺で兵を挙げた。九月十九日のことである。このことを知った周聡は早馬を以て元長へと報せた。
細川道永の麾下には細川右馬頭尹賢、天竺越後守国勝、箕踞軒一雲、上野源五郎国慶、細川八郎晴国、細川次郎家綱、細川刑部少輔晴広、細川駿河守賢政、細川陸奥守晴経、細川兵部少輔晴忠に加え、波々伯部兵庫助正盛・源次郎国盛ら丹波衆の残党などを含め兵一〇、〇〇〇。
義晴公の下には、本郷大蔵少輔光泰、三淵掃部頭晴員、松任上野介利正、中条刑部少輔任家、荒川治部少輔氏隆、結城左衛門尉国縁、蜷川大和守親順、足助中務少輔氏秀、安威美作守貞脩、飯川近江守国信、千秋刑部少輔高季、小林小五郎国家、杉原伊賀守孝盛、高越後守師繁・同伊予守師宣、金山民部少輔孝実、大和民部少輔元綱・彦次郎晴完、下津屋三郎左衛門尉信直、狩野左京亮氏茂、進士美作守国秀、同十郎左衛門尉澄胤、小田加賀守重知など、ほぼ奉公衆の主力武将がそのまま帰参しており、総勢一万二〇〇〇を数える。
道永は義晴公を奉戴して上洛、愛宕山の中腹に位置する新護寺に、義晴公は若王寺に陣所を置いた。
またその加勢として近江勢は、先の戦いを無傷で後退した三雲源内左衛門行定・新左衛門定持父子と馬淵山城守宗綱・兵部少輔建綱父子に加え、「六角の両藤」と称される後藤但馬守高豊、進藤山城守貞治や、|蒲生下野守定秀、甲賀衆の山中大和守久俊、軍奉行の永原越前守重泰、同太郎左衛門重隆、宮城対馬守重祐、建部日向守秀昌、山﨑丹波守宗家、山岡美作守景之、青地右馬助長綱、吉田流弓術を興した吉田上野介重賢、小倉三河守実光、同左京亮実秀、新庄蔵人直寛らを六角定頼が従え、総勢二〇、〇〇〇の軍勢で鳥羽街道近くの東福寺に布陣する。
越前の朝倉からは朝倉左衛門入道宗滴・九郎左衛門尉景紀を主将とし、一門衆の朝倉次郎右衛門尉景高、印牧丹後守美次、新右衛門尉家次、山崎長門守長吉ら六〇〇〇が下京四条に陣を構えた。
これに対し、所司代・松井宗信は残留していた畠山義堯と諮って、軍勢を西七条の川勝寺城まで後退させ衝突を避けるも、幕府軍を迎え撃つ構えを示す。但し、松井宗信は川勝寺城に籠もり決して出陣させなかった。
「せめて神尾山殿だけでも居られれば、このような仕儀にならぬものを」
「越前殿、それは詮無きことよ」
「左様でございますな……」
数日の膠着を経て、堺方の攻勢がないと踏んだ道永は、十月廿五日、吉祥寺に陣を進め、義晴公も東寺法輪院に移られた。
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