ビル街/あるいは明け方の透明少女

文字数 2,483文字

走る、走る。
遠くへ、透明になるまで。




目映い透明な光のなかを、誰もいない誰のものでもない朝日のなかを、どこまでも走った。
身体はどんどん軽くなって、私の身体じゃないみたいに軽くなって、ずっと抱えていたちくちくする悲しみも、胸が潰れそうなせつなさも、もやもやしたやるせなさもなくなったみたいだ。

私の存在が、存在していないみたいだった。君と、恋をしてから。

きらきらした朝日を浴びながら、ビル街をひとり、走った。途中、足が痛くなる。
俯くと、君から貰った、私の好きではないネイビーのエナメルのパンプスが、きらきら、光った。
ポインテッドトゥの華奢なパンプス。君より私が大きくならないように、配慮したローヒール、2.5cm。




私の大きな足には、その尖りは少し窮屈で、だけど君に、君と恋に縛られているみたいで、嬉しかったんだ。

君が好きで、君が好きなものは苦手だった。

明け方の光が、目の前のショーウィンドウに反射する。立ち止まると、ずいぶん遠くまで走っていたとわかる。
私の顔と体を、朝日が映し出した。
顔は晴れやかで、服はーパジャマがわりのスウェットの上下は、走ったせいか少し上着がはだけて、足はー立ち方が、なんだか不格好だ。こんなに、違和感があるなんて。
私は思い切ってパンプスを脱いで、裸足で歩き出した。明け方のビル街、人もまばら。

アスファルトの上は、夜に捨てられた小さな、さまざまなものが、そこらに落ちている。
ガムとか、空き缶とか、マスクとか、きらきらひかるガラス。
瓶が割れたのかな、深緑のガラスは足を切りそうだから避けたけど、単純に、きれいだなって思った。




まるで恋が壊れてしまった私みたいだ。
きれい。可愛いじゃないんだ。可愛い、じゃない。君は、私をきれいって言ったね。

笑えないんだ、まだ。君との恋を失ったから。

あれは君に恋をしていたとき、雑誌を見ていると、君が好きなあのアイドルの女の子が笑っていて、女の子らしい女の子がにっこり笑っていて、とても可愛かった。
小さくて華奢な身体に、茶色くて透き通ったロングヘア、肌は漂白したみたいに白くて、無菌室にいるみたいに可愛い。
時にはカラフルな水着姿で、時には白いワンピース姿で。
存在が、存在していないみたいに。だけど彼女は存在してる。

そうなりたいのに、なれない。

いや、ほんとうは、そうなりたいわけではなかった。
君が好きだから、君が好きな女の子らしい女の子になりたかった。誰よりも可愛い、女の子になりたかったんだ。 

私は背が高くて、靴も標準な女の子のサイズでは見つからなくて、洋服も海外ブランドを着ていた。髪はボブヘア、背が高いことが苦しくて、背中を丸めて歩いてた。

君は、そんな私に、 
「君はキレイだよ」
って言ってくれたね。
私、ほんとうはキレイじゃなくて、君の好きな、可愛い女の子になりたかった。

君が私にくれたパンプス。一緒に避暑地のアウトレットで買った。
「いつもスニーカーやブーツでしょ?たまにはパンプス、履いてみたら?」
お店の鏡で見たら、私、すごくきらきらしてた。魔法にかかったみたいに、可愛い。
「似合ってる!プレゼントさせて。」
君から初めて貰ったプレゼント。君が初任給で買ってくれたプレゼント。嬉しかったな。でもね、家で、自分の部屋の鏡の前で履いてみたら、全然、似合わなかった。
しかも、窮屈。足のサイズって、一日のうち何度か変わるよね。でもね、ずっとずっと、窮屈だったんだ。

君は、おしゃれな酸っぱいドイツパンが好きだった。私は、酸っぱいドイツパンが嫌いだった。だけど、好きなフリしてた。君の好物だから。
いつも、そうだった。

初めて君の部屋に行った日。
私は君の部屋のベッドに腰かけた。どきどき、止まらなかった。狭い部屋に、君のギターと、綺麗に並んだ本棚がある。
そこには、ある恋愛作家の小説が並んでいた。
私は君の好きな恋愛作家が苦手だった。
ふわふわ、きらきら、眩い青春をおくるすてきな世界を描く作家さんで、私には不釣り合いだった。
だけど、好きなフリしてた。一生懸命読んだよ。
君は、こんな小説が好きで、きっとこんな恋愛をしてきたのかな、って胸がちくちくした。

私は君の好きな音楽が苦手だった。真っ直ぐで、衒いがなくて、耳に心地よい音楽。
私には合わなかった。だけど、好きなフリしてた。

君は、私にキスをした。
世界がきらきらする。
君といると、無条件に、世界は輝き出した。

私、君が好きなものが好きなんじゃなくて、君が好きだったんだ。
たまらなく、好きだったんだ。

だけど、恋を失うと、失った瞬間から、あの時間が存在していたのか、わからなくなるんだ。

私たちは学生時代に、地方から上京し恋をして、私たちの世界はきらきらしていた。
私たちは、お互いを愛して愛されて、幸せはずっと続くって思ってた。

だけれど気がつくと、私たちは大人になり、それぞれの郷里で就職して社会人になり、会う時間は減り、ウィルス騒ぎのせいにして連絡を途絶えさせ、距離はいつのまにか開いて、恋をしてたことも、きらきらも、薄れていった。

知っていたよ。ほんとうは、学生時代のきらきらも、お互いが我慢していたこと。

小さなズレや違和感や、ほんとうの気持ちや、熱い感情に蓋をして、お互いがお互いを思いやるふりして、恋に恋してたんだってこと。
お互いの正しさを尊重するふりして、戦わなかったこと。

昨日の夜、スマホで指いっぽんで、二人の関係は終わった。呆気なかった。

寂しくて人恋しくて、ワイヤレスイヤホンで夜のラジオを聴きながら、パジャマのまま、いつも履いてた、君からもらったパンプスで、夜の街をとぼとぼ歩いた。
気がついたら涙が頬をつたい、気がついたら知らないうちに走っていた。




遠くへ、遠くへ。
透明になりたい。
透明になりたい。

頬をつたった涙は走るうちに乾いて、足が痛くなるパンプスを脱いで手に持って、ゆっくりと歩き出したら、荒廃した世界は幾分、生きやすくなる。




恋を失ったって私たちは生きていく。
いや、生きていかなければならない。

明け方のビル街、世界が透き通って見えるんだ。
いま、一瞬だけ透明になれた。
また、生き直そう。
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