映画館/あるいはアドレッセンス・イマジナリーライン

文字数 2,046文字




ひとりで映画館の闇のなかにいる。
幕が上がるまでの手持ち無沙汰な間、スマートフォンを取り出そうとカバンに手をかけるがやめた。
ふと、アドレッセンス期の兄の空白の映画館について思い出す。
もう、10年前のことだ。

その頃兄は僕の知らぬ間に、人生に悩んでいた。
これは兄から聴いた、ひとりの旅のはなし。

兄はその頃、なんだかよくわからないが、人生に絶望していた。
「なんで俺を産んだんだよ!」
これは、母親に言ってはいけない言葉の、最上位であると僕は思う。

僕の家庭はおそらく平穏な家庭で、父母は僕たち兄弟にたっぷりと愛情を注いでくれた。
父は実直な銀行員、母は僕が小学校低学年までは専業主婦、高学年になると近くのホームセンターで夕方までの短期パートをしていた。
ささやかながらも幸せな家庭。
母は子供たちをずっと褒めて育てた。おかげで僕は自己肯定感の非常に強い息子に育った。
しかし、兄の憂鬱が謎だった。

「行ってきます。」
その日、兄は制服を着て、ふつうに高校へ行った。
朝食はいつもの、母親手製のマヨネーズたっぷりのふわふわたまごトースト。
僕は無言で食べる兄のとなりで、朝のニュースを見ながら、すぐに記憶から無くなる取り止めもない話題に一喜一憂していた。と思う。

僕は中学では、特になんの不満も、希望も抱いてはいなかった。
帰宅部ですぐに中学から帰った僕に、パートから帰ったばかりの母親がおろおろしながら言った。
「お兄ちゃんが、高校へ行ってないみたいなの。先生から連絡があって…」
兄はその日、高校に初めて行かなかった。
僕と母は心配をし通しで、事故にあったのか?非行に走ったのか?家出なのか?と考えつく可能性を考えた。
ただ考えても時は過ぎて行き、僕たちは焦り、警察に連絡する?などと話していた。
しかし、それは杞憂に終わった。

「ただいま。」
「おっ…おかえり。」

兄はいつものように、18時頃に家に帰ってきたのだ。
そして、いつものようにリビングで夕飯を食べ(母はうろたえていたが平静を装って、すぐにレトルトの中華丼を準備した)、携帯ゲームをし(ちなみに当時はガラケーである)、ごろごろした後風呂に入り、何事もなかったように自室へ戻って行った。

ーにいちゃん、今日、どこ行ってたんだ?

僕たちー僕、母、父(はまだ帰っていなかったが、後から僕らに聴いて驚愕していた)は、平和で穏やかな家庭を壊したくなくて、兄の謎の一日だけの、空白の旅(?)について触れられないでいた。
実際、兄はその一日以外、普通に高校へ通っていた。

兄の旅(?)は僕の謎であり続けた。

兄は、高校を卒業すると関東の実家を出て、沖縄の海洋大学へ進学した。
生物、特に魚好きの兄は高校時代より陽気になり、沖縄の気候のせいかおおらかになったと思う。彼女もできたみたいだった。
暗黒の高校時代が嘘のようだった。

兄が空白の旅に出た年齢と同じー高校生になった僕は、休暇で実家に帰省していた兄に、意を決して尋ねた。
「にいちゃんさ、昔、一度だけ高校、行かなかっただろ?」
兄は特に考えることもなく、平然と答えた。
「あーうん。」
僕は拍子抜けし、同時に安堵する。
「僕、あれずっと気になってたんだよ。」
「いや、高校行く気なくてさ、電車乗って、どこまでも旅しようと思った。でも隣町で降りて映画見てた。」
「そうだったんだ。」
「だけど勇気いったよ、凄い。誰にも告げずに、ここではないどこかへ、って思ったけど、何も縛られない旅って凄え怖いのな。昼間の誰もいない映画館の暗闇、凄え不安になるのな。」
高校に行かず、ひとり田舎の映画館の暗闇にいる兄を想像する。あるいは、兄は僕に嘘をついている可能性も視野に入れる。

ただ、自分ひとりしか知らない空白の旅。

それはどんな旅よりも怖いと思う。
どこまでもいける(かもしれない)、どこにもいけない(かもしれない)。無限に広がる世界、有限に限られた世界。

アドレッセンスの只中にいる時、僕たちは無性に人生の旅に出たくなる。だけど、それはきっと可能性と不可能性の狭間で、恐ろしい空白に身を投じることなのだ。

その後兄はさまざまな国や地域を旅し、ぐれることなく、「真っ当な」会社員になった。
そして、数年前結婚して新婚旅行はオーストラリアに行っていた。
奥さんと、クルーザーで海釣りする様子が以前、年賀状で送られて来た。
それを見た時、僕は心底安堵した。
兄は現世で無事、誰かと旅できている。「真っ当な」人生を歩んでいる。

では、僕はー?

僕は今大学院で、身体表象を研究している。
文系で研究者になるなんて、夢みたいなことも考えてるんだ。
まさしくアドレッセンスの只中。
今日は研究に見せかけてサボって、映画館に来た。昔の映画の、リバイバル上映。




昼間の、誰もいない映画館の暗闇。静けさ。アドレッセンス期は凄く怖い。
イマジナリーラインは越えてはいけない、のはわかっているつもり。
だけど、どうだろうね?

どこまでもいける(かもしれない)、どこにもいけない(かもしれない)。

兄の空白の映画館を、追体験している気がした。
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