第4章 食と性

文字数 2,643文字

 スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』などを参照しつつ、柴田元幸は、『アメリカ文学のレッスン』の中で、あからさまな性描写ばかりが着目されがちだが、『北回帰線』の主人公が最も関心のあるのは「食べること」だと指摘している。きわどい性描写は、多くの場合、他の登場人物に関してなされているし、冒険的なセックス・ライフに耽っているのは彼らであって、主人公は時々性に興味を示すことがあっても、「ほとんど投げやりといいう印象」ですらある。

 「お前ときたら、俺が食事の話をするだけで目をぎらぎらさせるんだからな!」とカールは言う。そのとおりだ。食のことを──次の食事のことを──考えただけで、俺はいっぺんに若返る。食事を! つまりそれは、何かめざすものがあるってことだ。何時間かみっちり働くとか、ひょっとしたら勃起するとか、それは否定しない。俺には健康がある。しっかりたくましい動物的な健康が。俺と未来のあいだに立ちはだかっているものはただひとつ、それは食事だ、次の食事だ。
(『北回帰線』)

 ヘンリー・ミラーにとってだけでなく、食べることがどれだけ大切かは、あるゲームの開発秘話からもわかるだろう。1980年、ナムコのゲーム開発者だった岩谷徹は、マーケット拡大のために、男性に独占されていたゲーム・センターに女性客を呼びこむにはどうしたらいいかと女性の関心事について綿密なリサーチを始める。そこでたどり着いた結論は「女性の興味は食べることにある」だ。女性は食事の後にデザートを口にしているではないか!そのコンセプトに基づいてあれこれ考えていたときに、宅配されたピザからワン・ピースをとった瞬間、岩谷はそれをキャラクターのデザインとすることを思いつく。「パックマン」はこうして誕生する。2005年、「パックマン」は「最も成功した業務用ゲーム機」として『ギネス・ワールド・レコーズ』の認定を受けている。

 ヘンリー・ミラーはほとんどの場面で、「投げやり」だが、食事は別だ。とにかく三度三度の飯にどうやってありつこうかと苦心している。なるほど、最大の関心事は生き延びることに間違いない。金も職も希望もないけれども、三度三度の食事にありつき、生き延びている。それも、少なくとも読んだ印象では、決してわびしい食い物じゃなく、れっきとした料理だ。これができてんだから、食っていくために、あるいは誰かを養うために、嫌な奴に頭を下げることもないし、人間関係に煩わされることなんかない。将来の人生設計を立てて、自分をそのマトリックスに押しこめることもない。失うものは何もない。

 せっかくの自分にとっての人生というドラマなのに、早くから計画を固めてしまって、その通りに進むのではつまらない。実際には時代のほうが変わってくれるので、思ったようになることはあまりない。そのときに、計画を優先していると、思ったことにならないことがマイナスになってしまう。それよりは、人生のドラマの転回のきっかけになると、プラスに考えたほうがよい。転ばぬようにしたいが転んでしまうこともあるのが人生で、せっかく転んだからには、なにかを拾ったほうが得。
 このことは自分の生き方のようだが、人間の文化というものは、そのようにして発展してきた。計画によって進んだのではない。人生のドラマは、人間文化のドラマと似ている。ぼくだって、小さな計画くらい持つことはあるが、それは理想としてではなく、進路のための一種の必要悪と考えている。大学にいたころ、いちばん嫌だったのは、いろんな将来計画を作文させられることだった。何が創造の府だ。計画通りに進んだりしたら、創造なんてない。未来は、人間のちっぽけな創造を超えているからドラマなのに。
(森毅『地図にない未来』)

 ヘンリー・ミラーは、アメリカでは、みんないつの日か「大統領」になることしか考えないが、フランスにおいては「誰もがみな、潜在的にはゼロだ。もし何か一丁前の人間になったとしたら、それは偶然であり、奇跡なのだ」と言い、だからこそいいんだと次のように記している。

 だが、まさにチャンスがほとんどないからこそ、希望がほとんどないからこそ、こっちでは人生も楽しい。一日、一日ただすぎていく。昨日も明日もない。気圧計は一向に変らないし、旗はいつだって半旗になっている。(略)とにかく、絶対に絶望しないこと。
 カールとヴァン・ノーテンに俺が毎晩やかましく言っているのもその点だ。希望のない世界、だが絶望もなし。

 未来志向のアメリカを否定し、現在志向のヨーロッパを肯定しているというほど大袈裟なもんじゃねえ。「ロシアでは悲しい顔を見るのをいやがる。人が陽気で、熱狂的で、快活で、楽天的であることを欲する。これは俺には、すこぶるアメリカに似ているように思えた。俺は生れつき、そのような熱狂さをもっていなかった」(『北回帰線』)。目標を持って生きることの矛盾がヘンリー・ミラーにはよくわかっている。かりにうまくいったとしても、そこで得られるのは達成感であって、人生自身の楽しみではない。人生自身の生の楽しみが彼の生活にはある。なんだかんだ言いながら、やりくりして生きていく。それは自分自身から自由になることでさえある。

 ヘンリー・ミラーは、『ランボー論』において、中世では善や悪は生の形でありえたと次のように述べている。

 中世の人々が魔王の存在を認め悪の力に正当な敬意を払っていたことは石や写本の証拠から明らかである。しかし中世の人々は神についてもまた認め、信じていた。したがってその生活は強烈で豊かなものであった。いわばすべての音が鳴り響いていたのである。

 そこでは、善が善として、悪は悪として振舞い、何らの倒錯もない。ヘンリー・ミラーが追求しているのはあらゆるものにおけるこうした生粋の姿である。

 先の引用が示している通り、ヘンリー・ミラーにとって、むしろ、性は食の延長である。文化人類学的には、性を食の代替行為もしくはメタファーとして捉えることはありふれているだろう。しかし、ヘンリー・ミラーにとって重要なのは性を審美主義的に把握していない点である。性にまるで文明を根本から変革するような役割を見出したり、押しつけたりするようなことはしない。性は、食同様、暮らしの一部だ。

 なるほど、性は食の延長にあるかもしれない。俺もこんな夢を見た記憶がある。ただ、いつ見たのかまでは思い出せないし、途中からしか覚えていない。
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