第14章 明るい夜

文字数 4,438文字

 午後9時から始まったディスカバリー・チャンネルの『20世紀の偉人:モハメド・アリ』が終わったというのに、妹はまだ戻ってこない。まあ、ボツボツ帰ってくるだろう。カボチャ自身がはずれだったので、決してうまいとは言えないが、寒い中を帰ってくるんだから、ほうとうは温かくていい。しかし、股間がピリピリする。柚子を湯船に長く入れすぎていたかもしれない。エビス・ザ・ブラックの酔いが回れば忘れるだろう。これならエアコンも要らない。んー、しかし、地球にやさしい生活は肝臓にはやさしくない。あいつはギネスの方が好きだから、ザ・ブラックも俺に飲まれた方が幸せだ。二日酔いの朝に『マルセリーノの歌』が聞こえてくるが、最近は、そういう機会がない。いい傾向だ。

 テーブルのイエメン産の乳香の香りを感じながら、ベージュのカーテンを左手で中指の長さくらい開け、右手で窓の結露を拭いて外を見てみる。雨がしとしとと降り、部屋の蛍光灯の明かりが庭を覆う雨粒に当たり、にじむように乱反射している。窓を開けたら、吐く息が白くなるに違いない。防犯灯が切れている。仕事納めの前までには管理会社に連絡しなきゃ。

 『北回帰線』は次のように幕を閉じる。

 人間は異様な動物や植物をつくっている。遠くから見れば、人間はとるに足らぬ名でもないものに見える。近寄るにつれ、集鬼、悪意にみちたものに見ある。何物にもまして、彼らは十分な空間をもってとりかこまれている必要がある──時間よりも空間が必要なのだ。

 太陽は沈みかけている。俺はこの河が俺の中に流れこんでゆくのを感じる──その過去、その古代よりの上、その移り変る風土を。丘々は、やさしくその周囲を囲繞している。だがその行程は一定しているのだ。

 太陽はもう沈んでいる。けれども、まだあたりは明るい。一年で一番長いはずの夜はいつ始まっている?現代社会の夜に暗闇はもうない。人は太陽以上に月や星を見つめ、暦を作成したり、占いをしたり、方角を判断したりしてきた歴史がある。だけど、俺にはそうした人類の歴史を感じることができない。明るくて月も星も見えやしない。蟹座はどこだ?蟹座は春の星座の中では最も西寄りに位置し、限りなく冬に近い。でも、雨が降っていなくて、ふさわしい季節であったとしても、見えないに違いない。だから、「河」などどこにも見当たらない。歴史から切り離されている。

 暗闇は屋内に人工的につくられている。社会の矛盾や問題は明るさによって隠されている。暗さによってではない。なるほど、俺の場合は緑内障だけでなく、飛蚊症もあるから、視野欠損に、黒い虫が浮遊しているのが見える。キサラタン点眼液をさっき注したけれど、まあ、いずれ俺の目からも光が失われてしまうだろう。それは別に、社会の暗闇などどこにある?アンダーグラウンドなどどこにある?心の闇だって?光は明らかにすると同時に、隠す。村上春樹や内田樹のような愛読者たちはどこに目をつけている?ハジキだってヤクだってそこにあるじゃないか!子どもの手の届くところにあるじゃねえか!裏社会にひっそりとあるんじゃねえんだ!インターネットがそれをよく物語る。爆弾の製造法だって公開されている。光の届かぬところに何かが潜んでいるのではない。光自身がそれを隠蔽している。まぶしすぎる光は視力を奪う。エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の手紙の隠し方のように、一番身近なところに見落としたものや目を背けたくなるものが潜んでいる。

暗いのが夜じゃ。
夜まで昼のように明るくては困る。
星も見えないような
明るい夜なんて嫌だよ
(黒澤明『夢』)

 玄関の鍵の回る音が響き渡る。さあ、火入れっか。
 「ただいまー!」

If I could save time in a bottle
The first thing that Id like to do
Is to save every day
Till eternity passes away
Just to spend them with you

If I could make days last forever
If words could make wishes come true
Id save every day like a treasure and then,
Again, I would spend them with you

But there never seems to be enough time
To do the things you want to do
Once you find them
I’ve looked around enough to know
That you’re the one I want to go
Through time with

If I had a box just for wishes
And dreams that had never come true
The box would be empty
Except for the memory
Of how they were answered by you

But there never seems to be enough time
To do the things you want to do
Once you find them
I’ve looked around enough to know
That you’re the one I want to go
Through time with
(Jim Crocce “Time in a Bottle”)
〈了〉
参照文献
ヘンリー・ミラー、『北回帰線』、大久保康雄訳、新潮文庫、1969年
同、『南回帰線』、河野一郎訳、講談社文芸文庫、2000年
同、『母、中国、そして世界の果て』、生田文夫訳、エディション・イレーヌ、2004年
トゥインカ・スィーボード編、『回想するヘンリー・ミラー』、本田康典他訳、水声社、2005年
『ヘンリー・ミラー全集』全13巻、新潮社、1966~71年

相原茂、『はじめての中国語』、講談社現代新書、1990年
石川統、『環境と生物進化』、放送大学教育振興会、2002年
岩谷徹、『パックマンのゲーム学入門』、エンターブレイン、2005年
内田樹、『村上春樹にご用心』、アルテスパブリッシング、2007年
江川温、『新訂ヨーロッパの歴史』、放送大学教育振興会、2005年
大久保康雄、『ヘンリー・ミラー』、早川書房、1980年
小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送協会出版、2005年
笠原潔他、『音楽理論の基礎』、放送大学教育振興会、2007年
柄谷行人、『マルクスその可能性の中心』、講談社文庫、1985年
同、『終焉をめぐって』、講談社学術文庫、1995年
金田一秀穂、『新しい日本語の予習法』、角川oneテーマ21、2003年
同、『ふしぎ日本語ゼミナール』、生活人新書、2006年
同、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版教会、2007年
さいとうちほ、『さいとうちほのまんがアカデミア』、小学館、1990年
柴田元幸、『アメリカ文学のレッスン』、講談社現代新書、2000年
田澤晴海、『ヘンリー・ミラー研究』、芸林書房、1996年
高野陽太郎他、『認知心理学概論』、放送大学教育振興会、2006年
高橋淳子、『東京「農」23区』、文芸社、2007年
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1990年
筒井正明、『ヘンリー・ミラーとその世界』、南雲堂、1973年
道明三保子他、『アジアの風土と服飾文化』、放送大学教育振興会、2004年
豊田泰光、『オレが許さん!波瀾万丈交友録―語り継ぐべき昭和の先達』、ベースボールマガジン社、2006年
同、『豊田泰光のチェンジアップ人生論』、日本経済新聞社、2006年
鳥飼玖美子、『歴史をかえた誤訳』、新潮OH!文庫、2001年
長谷川眞理子他、『進化と人間行動』、放送大学教育振興会。2007年
原田信男、『日本の食文化』、放送大学教育振興会、2004年
福岡伸一、『生物と無生物のあいだ』、講談社現代新書、2007年
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藤原帰一、『国際政治』、放送大学教育振興会、2007年
藤原康晴他、『服飾と心理』、放送大学教育振興会、2005年
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本田康典、『ヘンリー・ミラーを読む』、水声社、2000年
水谷加奈、『ON AIR 女子アナ 恋モード、仕事モード』、講談社文庫、2001年
村上春樹、『ノルウェイの森』上下、講談社文庫、2004年
都甲潔他、『自己組織化とは何か』、講談社ブルーバックス、1999年
森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年
同、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006年
若桑みどり、『イメージの歴史』、放送大学教育振興会、2000年

カール・マルクス、『経済学批判』、武田隆夫訳、岩波文庫、1956年
ヴァルター・シュミーレ、『ヘンリー・ミラー』、深田甫訳、理想社、1967年
キングスリー・ウィッドマー、『ヘンリー・ミラー』、田中西二郎他訳、北星堂書店、1971年
イーハブ・ハッサン、『沈黙の文学 ヘンリー・ミラーとサミュエル・ベケット』、近藤耕人他訳、研究社、1973年
ブラッサイ、『作家の誕生ヘンリー・ミラー』、飯島耕一他訳 みすず書房、1979年
ノーマン・メイラー、『天才と肉欲 ヘンリー・ミラーの世界を旅して』、野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1980年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年
メアリー・V・ディアボーン、『この世で一番幸せな男 ヘンリー・ミラーの生涯と作品』、室岡博訳、水声社、2004年

DVD『エンカルタ総合大百科』、マイクロソフト社、2006年
DVD『「朝日ニュース映画で見る」 昭和』全8巻、日本映画社、2006年
DVD『夢 Akira Kurisawa‘s DREAMS』、ワーナー・ホーム・ビデオ、2003年

荻窪警察署、「管内の知識」
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/ogikubo/mytown_ogikubo/mytown_ogikubo.htm
The Star Wars Holiday Special
http://video.google.com/videoplay?docid=323909610753051544
Wagner James Au, Second Life: New World Notes
http://nwn.blogs.com/
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