第1章 荻窪の風林火山

文字数 3,903文字

北緯35度42分
─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』
Saven Satow
Dec. 22, 2007

「いったん息の根をとめてしまったあとなら、たとえ混沌のまっただなかにあろうと、あらゆるものが絶対確実になる」。
ヘンリー・ミラー『南回帰線』

 俺は荻窪に住んでいる。もう20回もここで冬を迎えている。1986年3月、中野で物件を探していたら、名前は忘れたが、ある不動産屋に荻窪なら空きがあると紹介されて、ポロン亭傍のマンションに入居して以来、この町以外で住んだことがない。愛着があるわけじゃない。たまたまそうなっているだけだ。ただだらだらと生まれてこのかた最も長く住んだことになる。住所は4回、電話番号は3回それぞれ変えている。最初のマンションに12年、次が2年、その後が4年、今のところが2年だ。1996年築の四階建鉄筋コンクリート・マンションの一階の角部屋、2LDK、専有面積は48.73㎡を賃貸している。毎朝、洗濯物を乾した後に、クイックルワイパーをかけているが、黴と埃、髪の毛に悩まされている。冷えてきてからは結露も出てきたので、ついでに、それも古布巾で拭きとるようにしている。だいたいは二枚ですんでるが、湿気が多い日には三枚要る。

 ここは、グーグル・アースによれば、北緯35度42分24.60秒、東経139度37分13.66秒、高度53mらしい。そこで「荻窪の風林火山」と呼ばれる俺のぬるま湯人生が続いている。 動かざること山の如し!

 俺はあまり外出しない。金がかかるからだ。たまに誰かに呼ばれて、銀座に行く程度だ。でも、銀座はいい。今、資生堂パーラー前の中国人観光客やソニービルのロシア人家族が示しているように、アジアや太平洋、ロシアの購買力を表象し、海外市場とつながっている街だ。

 うちにはあまり人が来ることはない。付加価値の高さを売り物にする戦略をとっている。訪れるのはたいていは妹の友達だ。その中でも、今年、何度か遊びに来たのはエジプト・コプトのマリーアとモンゴル人のシネくらいだ。たぶん、俺の名前は知らないのだろう。いつも「お兄さん」と呼ぶ。お客には、教会通り名物ってことで、さとうコロッケ店のコロッケか丸徳鶏肉店の焼き鳥を出すことにしているが、来る時間が合わないので、マリーアもシネもまだ食べたことがない。昔よく来たシリア出身のナディアは丸徳の焼き鳥を「おいしい、おいしい」と食べてたけど、ナディアはムスリマだから、コロッケは出していない。

 テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネットなどグルメ情報を得る手段は事欠かない。固有名詞さえわかれば、ケータイから検索するのは簡単だ。おまけに、地図情報だってある。荻窪の名物に関しても、俺が詳細に描写するより、それらを使って自分で調べた方がいい。そうやって洞察を磨いていくことで、リテラシーが向上する。

 俺には、外国人の方が気が楽だ。豊富に話題を提供し、下にもおかぬもてなしまでしなくとも、相手に敬意を払えばだいたいOK。日本の伝統的なことを意識的にしているのも、別にアイデンティティのためじゃない。そういう場面での話のネタになるからだ。そのときのために、起源や由来、意味を調べていいたりしている。3歳くらいなら、ブロック遊びに『あんぱんまん』の絵本、カレーライスで大喜びなのに、日本人とつきあうのは、なんせ、トヨタ2000GTのメンテナンスをするようなものだ。汚れは?傷は?エンジン・オイルは?ラジエーターの水は?…なかなか俺にゃあつとまらない。こっちは敬意じゃない。配慮だ。外国人は、何よりしゃべってくれるのがいい。自分の考えや経験を正しかろうが矛盾があろうが間違っていようが、調子がのってくれば、雄弁に語り続ける。それに、彼女たちの話を聞いて固定観念が覆されるのは快感だ。

 名物と言えば、教会通りを歩いていると、時々、長寿庵のご主人による昔ながらの蕎麦屋の出前が見れる。これは感動物だ。長嶋茂雄がバッティングにおけるフォロー・スルーの理想形と賞賛したあの蕎麦屋の出前だ。かの自転車の姿は一見の価値がある。

 マリーアは、本当は、「マリアム」だが、ケント・デリカットのような話し方で、一人称を使わず、自分のことを「マリーア」と呼んでいるから、そうしている。「リ」は巻き舌だ。マリーアは日本のアニメが好きで、黒髪だが、『キャンディ・キャンディ』のキャンディス・ホワイト・アードレーみたいなヘアー・スタイルでおめかししている。アラビア語のときは、エジプト・アンミーヤがほとんどで、積極的にはフスハーを話したがらない。石田あゆみ似のシネの本名は、教えてもらったことがあるけど、長すぎて覚えきれない。何度も聞き直すのもお互いに気まずくなるので、「シネ」にしている。カレン・カーペンターのような声で、ゆっくりと妙に艶っぽくしゃべる。

 日本に「三本の矢」というエピソードがあるが、シネによると、モンゴルにはほぼ同様の「五本の矢」があるらしい。さらに、モンゴル人は保護する器具をつけた親指一本で弓を引くのだそうだ。また、「チンギス・ハーン」を「ジンギス・カン」と呼ぶようになったのは、フランスの研究者がペルシアの文献を使って調べ始めたためらしい。マリーアに確認したから間違いないが、アラビア語に「チ」の発音はない。そこで、”j”の音を表すジームで置き換えて記していたのをそのままヨーロッパに紹介したというのが真相なそうだ。もっとも、マリーアはエジプト人なので、意識しないと、「ジ」が「ギ」になる。こういうことを知るのが俺は好きだ。俺の家でモンゴル人とアラブ人と日本人がいるというのは歴史の縮図さ。

 日本で生活している外国人は日本語を学んでいることも少なくない。その際に、敬語表現のことをよく尋ねられる。そういうときにはこういう話をすることがある。

 敬語は日本語のネイティヴ・スピーカーにも難しい。なぜなら、敬語はある一定年齢に達してから習得する言語だからだ。つまり、敬語のネイティヴ・スピーカーは、原理上、存在しない。難しくて当然。もし俺よりうまくできちゃうなら、俺の立つ瀬がない。だから、あんまりうまくなんないで。

 ま、それはそうと、敬語表現は、日本語に限らず、英語なんかでもセンテンスを完成させないという場合も少なくない。例えば、飲み屋のテーブルで上司に小皿をとってもらいたいとする。「すいませんが、お皿をとってくれませんか」よりも、「すいませんが、お皿…」と言う方が丁寧。なんでかって言うと、文章上は上司に頼んだことにはなっていないから。あくまでも上司が部下の思いに気がつき、心配りのできる上司として振舞ったということになっている。性格の悪い上司なら、もしセンテンスを完成させた方だったりすると、「私は皿回しの助手か?」って嫌味を言われるかもしんない。依頼は命令あるいは指図でもあるんで、目上の者に直接的な表現を用いるのは失礼にあたるってもの。ね?

 外国人たちと話していると、日本人が曖昧な表現が多いと愚痴をこぼすことが多い。でも、曖昧な表現はどんな言語にもあるし、必要だ。社会は複雑。単純に考えてはいけない。とは言うものの、コミュニケーションする際の日本語のセンテンスは、メッセージと態度表明によって構成されているが、近頃、この後者の部分がやたらと長い。OLが上司に「あのー、すいませんけれども、もしかして、それって違うんじゃないでしょうか?」と言った場合、「違う」がメッセージであり、その他はすべて態度表明である。まあ、若い人は経験がないから、どう言っていいかわかんない。それで、態度表明を増やす。

 金田一秀穂は『日本語のカタチとココロ』でいい喩えを使っている。コミュニケーション自体は料理で、メッセージは食材、態度表明は調理。一番大切なのはその料理を出された人がおいしいと満足できるかどうかだけど、評判のいい日本のレストランじゃ、シェフが出てきて、食材と調理をしゃべり始める。なんだかんだ言って、コミュニケーションからではなく、自分本位なんだな。料理自身でコミュニケーションしなきゃ。

 マリーアやシネには名で声をかけるけど、日本では元々は人を姓じゃなく、名で呼ぶことは、よくないとされている。目上だろうと、上司だろうと、そうしてはいけない。呼んでいいのは親だけだ。名で呼ぶことはその人を自分が支配しているという意味になる。

 金田一秀穂は、『ふしぎ日本語ゼミナール』において、固有名詞について次のように述べている。

 言葉はふつう、いつか誰かが作ったものですが、そのときに立ち会うことは出来ません。「ヒト」を「ヒト」と呼び始めたその最初の瞬間には、誰にもわかりません。
 しかし、固有名詞は、いつ、誰かがそう作ったのか、わかっています。あるいは、調べればわかります。「大和」とか「武蔵」など、古い地名は難しいです。しかし、「光が丘」にしろ「さくら市」にしろ、いずれ公募で選ばれたり、偉い人の一存で決まったりしたのだから、その言葉ができる瞬間を知ることができます。
 固有名詞は、私たち誰でも作れる言葉なのです。

 その反面、固有名詞は一番忘れやすい。高校時代に「濡れ場先生」というあだ名の英語教師がいたが、俺は彼の本名を何としても思い出せない。リーダーの授業で、『ロミオとジュリエット』を教材にしたとき、二人が結ばれるシーンを「濡れ場」と言い表わしたために、そう呼ばれるようになっている。かくのごとく、固有名詞は忘れられやすいと同時に、命名の瞬間に立ち会える語である。
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