第9章 荻窪

文字数 4,069文字

 『ザ・センチネル』に続いて、『エネミー・ライン2─北朝鮮への潜入─』を見てしまう。顎鬚を手入れした後、風呂を掃除するが、また右足がつる。今日は朝から足がよくつる。四度目だ。肝臓の調子がよくないんだろう。飲みすぎか。その後、東信閣・大漁苑に、予約していたおせち料理の「舞」セットの料金を支払い、西友で食料品を買う。かまぼこと油揚げ、えのきだけ、それに柚子。今晩はほうとうだ。家を出たときにはやんでいた雨が、帰り道では、またポツポツと落ちてくる。

 俺が住み始めた頃の荻窪はラーメンの町だったが、今はそう思われてはいないだろう。とは言っても、幸いにも、変貌する都市というお決まりの物語も生まれそうにない。1990年の衆議院議員選挙の際に、オウム真理教が奇抜な選挙活動をしていたのも荻窪駅北口の駅前だ。荻窪はオウム真理教の麻原彰晃が立候補した旧東京4区に含まれている。オウムは地下にいたんじゃない。すぐそこで、真昼間に青空と太陽の下、歌い踊っていたのを忘れちゃいけない。

 花王バブのCMにさとうコロッケ店が出ていたからって、コロッケの町ってこともない。妹は、荻窪の人たちは立ち食いが嫌いなんじゃないかと言っている。妹はアイスクリームにとチョコレートに目がない。その手の店は必ずチェックしている。荻窪に進出したアイスクリーム店は31やキハチなどことごとく撤退に終わったけど、タウンセブンのニューコーミヤは生き残っている。あそこには販売スペースが接するエスカレーター脇にベンチがあって、そこで、足をばたばたさせながら、昔ながらのソフトクリームをぺろぺろなめている子どもをよく見かける。獣医の祖父もソフトクリームが好きでね。デパートなんかに行ったとき、いつも売り場に駆けつけ、ニコニコしながら口のまわりを白くしていたのを覚えている。祖父は裕福な地主の家の生まれで、子どもの頃、親に連れられて東京に来たことがあり、そこでアイスクリームの虜になってしまったらしい。言われてみれば、教会通りのやきとり慶屋は、店舗の前に椅子を置いている。

 ここ最近で、全国ニュースになったのは東京世田谷一家殺害事件の関連で、犯人の遺留品の一部が荻窪オリンピックで購入されたからだ。この時期になると毎年報道されるが、それは無念なことだ。まだ犯人が捕まってないってことだからだ。オリンピックはとり壊され、今はもうない。

 荻窪は空襲を免れたため、昔からの道なりが残っている。ほとんどの道が曲がりくねり、いくつかの道では行き止まりになる。「荻窪」の地名の由来は「荻」の生い茂る「窪地」だったというのが通説らしい。大学1年生のときに、手品の得意なマイクのクラスで住んでいるところの歴史を調べるテーマを出されて、中央図書館で史料にあたった記憶がある。その歴史は古く、光明院によると、708年(和銅元年)に遡れる。中世の荻窪は豊島郡に属し、1477年(文明九年)に豊島氏が太田道潅に滅ぼされると、まず、扇ヶ谷上杉氏、次に北条氏、その後は徳川氏の領地と移り変わっている。江戸時代初期には、荻窪村を京都に近い西側を上荻窪村、東側を下荻窪村に二分割され、下荻窪村は伊賀忍者でお馴染みの隊長服部半蔵の知行地、上荻窪村は伊賀同心8名の知行地となっている。そう、NINJAだ。これで落ち着いたわけではなく、下荻窪村は幕府直轄の天領となったかと思えば、1635年(寛永一二年)に麹町山王日枝神社領とめまぐるしく変わっている。上荻窪村も天領となっている。俺が荻窪生活で大半をすごしているのは、実は、天沼だ。天沼は荻窪と別で、かつては「天沼村」と呼ばれている。駅名で言った方が地元民以外にはわかりやすい。「天沼」の地名の由来は、8世紀に書かれた『続日本紀』の中に「乗潴(あまぬま)」に駅伝制の駅を設置したと奇術があり、そこが現在の阿佐谷と荻窪の間にある天沼ではないかと推測され、古くからの街道だったと考えられている。もっとも、荻窪にしろ、天沼にしろ、街道の頃も中央線開通してからも、長いこと農村地帯で、さして栄えていたというわけではない。「荻窪や野は枯れ果てて牛の声」(内藤鳴雪)。

 そんな荻窪でも、政治の中心にいたときがある。 「荻外荘政治」の頃だ。1937年、公爵近衛文麿は今の荻窪2丁目43番(2号)にあった入沢達吉博士邸を別邸として購入し、元老西園寺公望により「荻外荘」と名付けられている。その年の6月、近衛が首相となり、1941年末まで、荻外荘は多数の政治的要人が訪れ、重要な会合が開かれただけでなく、公的といっていい会議まで催されている。歴史に悪名高い「荻窪会談」も、1940年7月19日にここで開催され、近衛の他、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が集まっている。この私邸のおかげで高級住宅地というイメージまで荻窪についたほどだ。近衛は、1945年12月16日、戦犯の容疑者として拘束される直前、この館で服毒自殺している。その後、吉田茂が一時期ここを利用している。この屋敷の前の道は俺の散歩コースの一つだ。天沼と違って、こっちはアップダウンがあるんで、ウォーキングにはいい。そこにくると、だいたい3分の1くらいすぎたかなっていつも思う。

 何年か前に、ディスカバリー・チャンネルで『コミックヒーロー・ベスト10』を見ていたら、アメリカのマンガ研究者が、『AKIRA』を代表に、日本のマンガには都市破壊が多いという特長があるが、それはヒロシマ・ナガサキの経験があるからではないかと分析していたけれど、確かに、グラウンド・ゼロに限らず、空襲の光景は影響しているかもしれない。幕府は、いざというときに備えて、江戸の道をわかりにくくしたが、まさか空から攻められるとは想定していなかっただろう。1976年3月23日に、『東京エマニュエル夫人 個人教授』などでお馴染みの俳優の前野光保が等々力の児玉誉士夫邸へセスナで突入するなんてこともだ。東京は直線と曲線が入り混じった都市、直曲の都市だ。ここのところ、海外の映像作家が東京を舞台にした映画を撮っている。日本のサブカルチャーをノイズとして使っているのはうまいなあと思ったりするが、残念ながら、曲線の道を効果的に描いているのを目にした記憶がない。教会通りは道幅が狭く、午前中に、飲食店に種類を運ぶ業者のライトバンが入ってくるのを見ることがあるけれども、いっぱいいっぱいで、消防車が通れそうにない。おまけに、日中、みずほ銀行の脇の駐禁スペースを不心得者の自転車が占領している。火事になったら…禁煙の教会通りを火のついたタバコを手に歩いている奴にはわかんねえだろうな、この気持ち。太宰治も買っていたというタバコ屋の乙黒商店も同意してくれることと思うよ。

 うちに行くには、荻窪西友の前の横断歩道で青梅街道を渡り、みずほ銀行荻窪支店脇の教会通りを進むわけだが──こう自宅への道すがらについてしゃべっていると、舟木一夫の『ロックンロールふるさと』を思い出してしまうけども──、マンションの前の道の名前を俺は知らない。でも、別に、知りたいとも思わない。困っていないからだ。けれども、他の国ではそうもいかない。道の名前から住所がつくられているからだ。ニューヨーク・タイムズ紙本社の住所は” 620 Eighth Avenue New York, NY 10018”で、日本の朝日新聞東京本社の場合は「104-8011東京都中央区築地5-3-2」。この「築地」は居住ブロックであって、道の名前じゃない。道が町そのものであり、家はその両側に建てられているのに対し、日本においては、家の建っているところが町であり、道はそのブロックの間にあるスペースだ。

 ブルックリン橋で考えはじめたことは、白昼夢のように、俺の頭のなかで毎日あたためられていた思索であった。すなわち、はげしい日常の活動のさなかに感じられる人生の単調さ、退屈さに関する本のことであった。俺は何年もむかしから、その本について考え、毎日それを(頭のなかで)書きつづっていたのである。しかしその日は、沈みゆく夕陽や、燐光を発する死骸のように光っている摩天楼を、橋の上から眺めながら、過去の思い出にふけっていた。下を通りすぎる船。フォール・リヴァー定期船、アルバニー・デー定期船。俺はなぜ勤めに出かけるのか? 今晩俺は、なまあたたかい女の裸身のかたわらで、いったいなにをしようというのか? 逃げ出そう。そしてカウボーイになるんだ。河だ。ええ、めんどうくさい。まっさかさまに飛びこむか。いや、死ぬのはまだ早い。あと一日待て。運が向いてくるさ……。おそらく俺が(生れ故郷であり自宅のあるブルックリンと、職場であり遊び場であるマンハッタンの)両岸の中間の高い位置におり、人の往来を眼下に見おろし、生も死も超脱し、しかも両岸には高い墓石が落陽に映え、河は悠然として時の流れのように流れていたせいかもしれない――そして、俺がその上を通りすぎるたびに、なにものかが俺のそでを引き、俺をそそのかして、自己を語らせようとしたのかもしれない。いずれにしろ、俺は、その高い橋を通りすぎるときには、いつも心底から孤独になり、そうなるたびに、あの本はひとりでに書かれはじめ、俺が一度も表明しなかった意見、一度もかわしたことのない会話、一度も自認したことのない希望や夢や妄想を、声高らかに絶叫しつづけるのであった。
(『南回帰線』)

 ヘンリー・ミラーが都市を放浪するとき、道を彷徨っている。でも,東京の俺はそうじゃない。居住ブロックの間をうろつき回っている。ヘンリー・ミラーの道は他の道につながっている。俺の道はそうかもしれないし、行き止まりになるかもしれない。地図でも見なきゃわからない。知っている道から一歩離れると、どこに行くのかわからない。いつも不安で、冒険だ。俺は荻窪を知っていると同時に、荻窪を知らない。いつもいる街だが、いつもいない道がある。
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