第3章 カネなし、職なし、病気持ち

文字数 1,604文字

 確かに、俺は定職についたことがない。バブルにもかかわらず、就職に失敗して以来、落ち続け、今では面接にさえこぎつけられない。それには、サブプライム・ローン問題や建築基準法の変更による直接的影響はない。考察に最も重要なのは洞察だ。問題解決は解くだけではない。解けないことを見抜くのも解決だ。それには洞察が要る。俺がこうなったのはその解けない問題に含まれる。で、時折、講談社や河出から仕事をもらっている。俺は文芸批評家だ。小説家じゃない。小説家になりたいと思ったこともない。俺は何を見るときも批評家としてそれに触れる。スポーツだろうと、料理だろうと、何でもだ。書くためにそう見える。その際、リテラシーに着目する。「リテラシー・スタディーズ」を提唱しているが、世間からの反応は特にない。リテラシーは、通常、識字力と見なされているが、OECDのPISA調査が示している通り、ある分野・領域における通時的・共時的に共有されている固有の知識・認識・技能などのことだ。それがそこの固有さにつながっている。

 リテラシーを知らなくても、確かに、芸術は味わえる。ロベルト・シューマンの『ピアノ五重奏曲』変ホ長調作品44もそうだろう。でも、知識があれば、こういう楽しみ方だってできる。「ある旋律が何調であるかは、どの音を使い、どの音を使わないかによって決定されるが、これを逆手に取った書法もある。(略)シューマンの《ピアノ五重奏曲》変ホ長調作品44の第1楽章の主題であるが、この主題の場合、2番目の和音に早くも主調である変ホ長調を否定する変ニの音が登場する(変ホ長調の旋律であれば、「変ニ」ではなく、「ニ」音を使用するはずである)。しかし、最後に置かれた変ホ長調の属和音─主和音の進行によって、この旋律は変ホ長調に落ち着く。このあたりがシューマンの旋律構成法の巧みな点であろう」(笠原潔『西洋近世の和声』)。

 で、俺は毎日書くようにしている。調子の悪いときにはそれなりのことをする。そうしていると、自分の都合じゃなく、読者を主体にせざるをえないから、自分から自由になれる。それは自分を他者として考えることだ。プロというのは毎日することだと思っている。金をもらっている云々じゃない。

 俺は無名で、オケラときている。去年までは、講談社文芸文庫の文献目録や年譜作成などで書いたものが少しは金になったが、2007年の年収は0円だ。年金の掛け金も、医療費も自分では払えない。姪にお年玉一つあげられない。生活のたしに、俺は、春や夏には、空きスペースに野菜を植えている。春菊と三つ葉が終わったら、次のニラと大葉の季節が来る。プチ・トマトを植えたけれども、あれは失敗だ。いつまで経っても赤い実がならないので、おかしいと思っていたら、ある朝早く起きたときに、その理由に納得する。カラスだ。

 おまけに、持病の緑内障が芳しくなく、視力も弱くなっていく一方だ。どうやっても両眼共に矯正視力が0.1を超えることはない。フリードリヒ・ニーチェやジェイムズ・ジョイスと同じく、弱視だ。視覚障碍者ってとこだ。それに飛蚊症まである。バイトを探すのも楽じゃない。三度の食事をつくり、妹の弁当をつめ、洗濯をし、放送大学を見て、風呂を洗い、日用品や食料品の買出しに行っているうちに、一日が終わっている。

 俺が出勤する一時間前から、すでに志願者がぎっしりつめかけていた。俺は事務所の階段をのぼるのに、文字どおり人の波をかきわけていかなければならなかった。帽子をぬぐひまもなく、しばらくは電話の応対に忙殺される。机の上には電話が3台あったが、それが同時に鳴り出すのだからたまらない。しかも、待ちかねた志願者たちは、俺が腰をおろして仕事にかかる前に、口やかましくわめきたてるのである。こうして、午後の5時か6時まで、小用をたす時間すらなかった。
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)

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