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文字数 2,065文字

 彼が起きたのは早春の日が十分に登ってからであった。昨夜はその後も云々考え続け、最後には侯爵の言動は全て、目の前の危機に心を惑わした、親(という生き物)の妄言ということになっていた。彼がそれほどに悩んだのは、娘を連れて()()()()()()という話が、質の悪いことに、都合の良いことであり、提案を受ければ、将来をその親に託された娘を利用することになる、と、はっきり理解していたためでもあった。彼がその益を素直に受け取れる質では無いことは前述の通りである。

 これまで彼の朝は使用人と同じほど早く、そのために使用人が彼を起こす習慣は自然、無くなっており、朝食が終わってもやって来ないリアンを、遂には侯爵が召し使いをして呼びにやらせたのであった。
 食堂には侯爵しかいなかった。そして開口一番、
「考えてくれたか」
 と言う。意図的で無いにしろ、リアンの寝坊はリード侯爵を相当に焦らしていたらしい。朝食()に呼んだのも、待とう待とうと必死に自分を押さえつけていたからなのではないか。侯爵にしてみれば愛娘の命運が決まる話なのだ。
「残念ですが……」
 侯爵の顔が絶望に染まる。
「頼む!後生だ!」
「侯は私を買いかぶっておられる」
 読み上げる様に言う。
「頼む!頼む……!」
 すがりつく侯爵。
「私が責任をもって帝国軍と交渉致しますから……」
「そんなことはいい!それよりもアンナだ!あの子さえ無事なら私は……!頼む!頼む!後生だ!!」

 親心を理解した上で代案を用意しなかったのは彼の失策であった。結局まともな議論にはならず、リアンはアンナを押し付けられてしまった。リアンの決心と侯爵のそれでは、後者の方が熱量を持っていた。リアンは内心を口にできない性格だったので、侯爵の勢いに圧倒され、言うべきことも言えなかった。その後のアンナとその母の用意の良さから、この件は昨夜の時点で決定事項となっていたことを彼は知った。

 その日は忙しかった。当然アンナの支度の為である。一方リアンは身支度は済んでいたので午後には馬の様子を見に厩へ行った。彼の馬は、駄馬〈駄獣として使役される馬。荷馬。劣っていると言う意味は無い〉であったがアンナの為にもう一匹駄馬を選ぶ必要があった。ところが、彼は厩の男と話しながら馬を選んでいると、次第に二匹目が不必要に思えてきた。駄馬を持っているくせに、彼の荷物は常に大した量ではなかったからだ。水筒の皮袋二つ、鍋一つ、火打ち石、ナイフと弓矢、多少の金と身分証代わりの書類にそれらを入れる小袋。それと身につけているものが彼の全てだった。

「なあ、どう思う」
「好きにしてくだせえ。駄馬がいやなら乗り馬にでもしてしまえばええが」
「そうだな……カイ(リアンの馬。栗毛で背は低いが体格が厚い)と仲のいいやつにしてくれ」
 アンナは騎乗などできないことを知っていたので、乗り馬にすることを躊躇ったが、彼はそのとき、もう何でもいいような気分だったので適当に決めることにした。
「そいつさ」
 カイの隣にいる、カイよりもやや背は高く、体格は同等、同じく栗毛の馬をさして言う。
「名は?」
「トト。良い馬だからきっとあんたの言うこともよく聞くさね」
「じゃあ、そいつ」
「ああ。用意しておく。また来いよ」
 事も無げにリアンに言う。厩の主はリアンをそれなりに話のできる奴だと見ていた。彼は都市の危機を知らない。

 夜は正に晩餐であった。あまりに豪華な夕食に彼は驚いた。帝都に住む皇帝でもこれには遠く及ばないとさえ思った。しかし彼がそれよりも驚いたのは、アンナの楽しげな様子であった。それは、客観的に彼我の距離感をとらえていたはずのリアンを混乱させてしまった。
(お前はそれでいいのか?得体も知れぬ相手と……それとも全て親の言いなりか?)
 子は親の決める相手と結ばれるものであったから、親の言いなりというのは実際正しい。むしろそれを(明確に非難した積もりはなかったが)批判的にみる彼の方こそ異端である。リアンはこれを自覚していたが、それを思う度に自身の生まれを恨んだ。

 アンナはリアンとあまり親しくは無かったが、侯爵が常に彼を誉めては称えるために、彼を、彼女個人の第一印象以上に立派な人間とみなしていた。いずれは親の選ぶ相手と結婚する以上は、その実質的な相手がリアンであったことに安堵しないでもなかったが、まともに義式もとらない、突然の旅立ちであることに驚いていた。
 然して、アンナが恐ろしく不安だったのは事実であった。その証拠に彼女は幾度もリアンに、(楽しげを装いながら)旅について尋ねた。今後のことはリアンが全て上手くやってくれると父に言われていても、生まれてこの方慣れ親しんだ街を出たことがない彼女には、バーゼルを離れることが想像もできなかったし、親元を離れた自分がどうなるのかを考えるのも恐ろしかった。

 それでも侯爵と同じ様な感動と喜びを装った。そのせいか彼女は実際に感動もしていたし、喜んでもいた。彼女にとっては、親の喜ぶことに喜び、親の悲しむことに悲しむのが、最善の徳であるのだった。
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