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文字数 3,046文字

 リード侯爵はひどく上機嫌であった。それがリアンにとっては最も忌々しかった。彼は未だに侯爵を説得する方法を考えていたが、仕舞には旨い食事とその場の空気に流されて、諦めてしまった。

「やあ、本当によかったよ。君が受け入れてくれて。これ以上の喜びはないよ!神に誓っても良い。ああ!そうとも!」
 食事中侯爵はこんなことをしきりに言った。リアンは絶え間なく話しかけてくる侯爵に上手く合わせていたが、内心はもっと実のある話をしたかった。いつ出立するのか、とか、今帝国軍はどの辺か、とかそのあたりを聞きたかった。しかし、まるで示し合わせたかのように、それらが話題になることはなかった。何度かリアンは口にしようとしたが、その度に侯爵が新しい口調で喜びを口にするのだった。
 使用人たちも厄介であった。彼らは、侯爵家にリアンを含めた四人の手前に座っていたが、リアンとアンナの吉事としか聞かされていないようで、享楽的な空気をつくり出すのに一役買った。彼らにもご馳走が与えられ、侯爵と同様、上機嫌であったのだった。

 一方で、侯爵夫人は宴の雰囲気に呑まれなかった。帝国軍が迫っているのを知っていたこともあったが、夫がリアンのどこを見込んで娘を預けようと言うのかが理解できなかったからだ。この件について、昨夜遅く夫妻喧嘩寸前にまでなった。なるほど彼は頭のいい青年であることには違いない。それは彼と話した皆が思うことであった。だが、彼には何もないと夫人は考えた。せめて確固たる身分さえあれば、商人でも良かったのに、彼は各地を当てもなくさまよっているというではないか。そんな男に娘を預ければ、娘はいずれ餓死して死んでしまうと、夫人は本気で思った。でなくとも、まともな暮らしは望めないに違いなかった。仲の深い商人に娘を託す方がよっぽどましだと侯爵に言った。侯爵は侯爵でリアン以外にはありえないと考えていたので、両者は一歩も退かず、深夜にして怒号が飛び交うところであった。そうはならなかったのは一枚の紙のお陰である。エリアス二世の勅書であった。

 エリアス二世は、かつて帝国に対抗するために結ばれた、諸侯同盟の盟主エリアス一世の孫で、現在でも同盟を束ねている、優秀なフィラハの王である。勅書とは、リアンのフィラハ王都からバーゼルへの旅路を保証するものである。尤も、エリアス王が有力といえど、名目上諸侯は同格なので、多分にお願い口調ではあった。

 ともかく、リード侯爵がこのリアンの身分証明書を引き合いに出したことで、議論は決着した。リアンがフィラハの王に認められた高貴な身分であることの証明に成功したのだ。リアンが下る南東には王都があるのも強みだった。よってこのときは、夫人は引き下がったが、一度生じた感想はなかなか消えないもので、それどころか、今や彼への人格攻撃にへと昇華していた。夫人は、夫の性格から、覆しようがないと分かっていたので、食事中に直接何か言うことはなかった。しかし、人は己に向いた敵意には敏感であり、彼がこの敵意に気がつかぬはずはなかった。これも、彼が宴を楽しめない一因であった。


 宴が終わるとリアンはアンナと二人で話がしたいと言った。当人は困惑したが、侯爵が喜んで勧めた。彼は宴のためにかえって頭が冴えており、唯一、旅について小声で何度も聞いてきたアンナなら、まともに話せると思ったのだった。己から、嫌われていると分かっている相手のもとへ足を運ぶほど、彼は大胆でもなかった。
 アンナとは何度か話したことはあったが、二人だけで話すのは初めてであった。二人はアンナの私室にいた。広い部屋には丸テーブルと対の椅子があり、向き合って座った。アンナは頬を染めていた。しかしそれは少女が、この先当てにして生きていく青年を前にして、気恥ずかしがったという程度でしかない。リアンの方は明日以降の予定について考えていた。ここまで二人はなにもしゃべらず、気まずい空気が漂っていた。

「……旅の支度は出来ましたか」
 そう切り出した。
「あ、はい。でも、何が必要か分からなくて……見てくださいますか?」
 おずおずと尋ねる。
「構いませんが……そもそもいつの出立か御存知ですか」
「明日中のできるだけ早くと父上がおっしゃっていました」
 リアンは教えられていないことを恨んだが、ついさっきまでの侯爵の様子を思い出して、侯爵を憎めなかった。
「あの、やっぱりなにかあったのでしょうか」
「なにもお聞きでないのですか?」
「はい……父上がこれからはあなたを愛し生きていくように……と」
 頬を染めるアンナの可愛らしさは、この部屋では、リアンにとっては、場違いでしか無かった。
 この場合なにも伝えずに送り出そうとした侯爵は責められるべきか否か。そしてあまりにもばかばかしく思ったリアンが、ありのままを話してしまったこと誰が責められようか。いや、それはやはりリアンの過失だったのかもしれない。何にせよ、リアンはこれが祝福すべき結婚などとはかけ離れた事態であることを告げずにはいられなかった。

 このときのアンナの狼狽ぶりはいっそ凄惨なものであった。死地に父母を残して一人だけ逃げることを、この娘が了承できるはずがなかった。

(そんな……!?どうしてパパはそんな大切なことを言ってくれなかったのだろう!いえ、それはわかりきったことよ!)
(やっぱり!私を逃がすために!でも私に両親を見捨てることなんてできるはずがないのに!)
(そんなこと従える筈がありませんわ!私はここに残ります!でも残ったところで私はどうするの?私には何もできることなんかないのに!)
(逃げるならママとパパも一緒に……ああ!そんなことできはしないんだ!私がママとパパを捨てては行けないように、ママはパパを捨てては行けないし、パパはこの街を捨てては行けない!)
(でもその上で私には逃げろというの?そんなことできない!私のことを何にもわかってない!ママもパパも目の前のこの人も!誰も私には心があることを知らないんだ!)
(ああ……!だから私には何も言ってはくれなかった、パパは私のことをよくわかっていたから!でもできるはずない!できるはずがない……!)


「覚悟を決めてください。……あなたの両親のように」
 落ち着いてから彼が言った。アンナは椅子から崩れ落ちており、泣いていた。彼は突っ立って居るわけにもいかず、膝をついていた。
「そんな……できません……」
「では、一家揃って討ち死にしますか?」
 彼は最悪の可能性を口にした。冷淡な言い方だったが、彼が薄情であったのではない。無論そういった面も持ち合わせてはいたが、平生はむしろ、情に厚かった。
 これは彼が旅人であることに関係が深い。旅人というと自己完結した一匹狼の感があるが、その実、常に人の助けを必要としていた。数日分の水と食料を運ぶことは不可能だったからである。村々を渡り歩き、人の手を借り、又あるときは人に手を貸し生きる人種が薄情では、すぐに飢え死んでしまう。
 ともかく、その時は、アンナを逃すというのが、彼が望んだ展開では無かったのに、彼女を説得しなければいけなくなり、いい加減面倒に思えてきたのだった。あるいは、彼自身通った道を彼女に再び見せつけられ、自身を投影しているようで苛ついたのかもしれない。彼は言ってから後悔したが遅かった。
「あなたはそれでいいのですか!父の世話になっておきながら自分は逃げる算段を立てているだなんて!恥ずかしくないのですか!」
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