2 (1)

文字数 2,309文字

 船旅は徒歩よりも楽である。殊に川を下るのであれば尚更。注意すべきは船頭に荷を盗まれた挙げ句その辺に放り出されることだが、リアンたちにはそんな心配をする必要は無かった。船頭の商人は若く、妻子が無いと言った。帝国の侵略を知っていたがあまり深刻には考えていなさそうである。

 船は喫水が浅く細い形状をしている。荒波がたてば転覆しそうであるが全くそんな事は起こらない。テベレ川は平たんであり、一部の急流や分岐を除いて、川の流れに任せれば船は海へと流れ着く。船には客二人を含めた大きな荷があり、これを幾人かの漕ぎ手と水流が動かす。二人は横並びに座り、揃って動く櫂を眺めていたが、飽きたのか変わり映えのない景色に目を移す。春の頭の川下りは凍えるほど寒く、アンナが外套に首をうずめる。
「これからどうなさるのですか?」
 二人は互いに見合う。リアンは自身のことは決めていたが、アンナの処遇に困り軽い返答をする。
「フィラハの都フィルへ行きます」
「どこですか?」
「このまま五日もすれば着きます。歩けば一月はかかります」
 五日というのは歩いてきたリアンにすれば有り得ない速さだが、これは船頭の言である。本来は川下りに漕ぎ手など要らない。

 それきり二人は黙ってしまったが、アンナは黙っていると不安になると見えて、また口を開く。
「どうして旅をしてらして?」
 個人的なことをアンナが聞くのは初めてであったのでリアンは答えに迷った。
「……居場所がなかったんです」
「居場所が?」
「私には信仰が無いと言ったら信じますか」
「信仰の無い人なんていませんよ」
 諭すような口調で言う。
「信仰のある人は他人本位に生きます。それは偽善に見えても彼らにとっては充実した正しい生き方です」
「どういうことですか?」
「私には愛がないのかもしれません」
「そんなことはないですよ」
「なぜですか」
「もしあなたが人の心を知らぬ人非人なら今頃私はここにいません」
 そう言うアンナを見てリアンが聞く。
「後悔していないんですか」
「まだ後悔しているんですか?」
 くすくす笑いながら言うアンナ。波止場でも顔をぐしゃぐしゃにしていたのは侯爵夫妻だった。やはり強い娘なのかもしれない。
「心配ではないのですか?」
 彼は愚なことを聞いたと思った。アンナは笑うのををやめ、彼の顔を静かに見つめるばかりであった。

「さっきのはあなたが自分勝手に生きているということですか?」
 しばらくしてアンナが言った。あの言葉の意味を考えていたらしい。
「違います。いや、そうかも」
 彼はアンナがおしゃべりで、堅い話を解すことが分かった。普段は堅苦しい話し方をしないということも。
「あなたは信仰の為に生き信仰によって生きるのでしょう」
 おかしな語調である。
「また飛びました」
「いえ……」
 彼には総て同じことであった。
「……親を捨てた娘は天へなんて行かれませんわ」
 彼はまた後悔して、景色に目をやった。

 彼らはダボスという町で一晩休み、翌朝また船に乗った。話す事もなかったが、寂しげなアンナを見て話しかけることにした。
「寒くはありませんか」
「え?」
 彼女は突然話しかけられて聞き返したが、
「ほら。信仰心が無いなんて嘘じゃありませんか」
 そう言って笑った。
 信仰とは愛することであり、広義に取るまでもなく隣人愛が含まれる。
「まだそのことを考えていたのですか」
 彼は呆れた上に気を悪くした。
「信仰が無いだなんて言う人は初めてで……」
「別に嘘ではありませんよ。私には祈る主がいない」
 彼は何だか意固地になっていた。
「では私があなたの分も祈ってあげます」
 そう言ってまた笑い出した。彼は余計なことを言った昨日の自分を恨んだが、後日、度々この時のことを思い出しては可笑しく思うのであった。

(教養ある令嬢とはこんなであったか)
 アンナはしばらく笑い続けた。そうしてまたリアンに話しかけた。彼の返答を待って様子を窺うのだが、彼が気のない返事をすると不満げに押し黙る。そしてしばらくすると何やら楽しげに話しかけてくる。彼には興味の無いことばかりで適当に返す他無い。そして遂に言った。
「よくしゃべるな」
「あ……ごめんなさい。どれだけ話しても怒られないのが嬉しくて……」
 もちろんアンナは両親とはよく話した。だが同年代で好きなだけ話を聞いてくれるものなどいなかった。やってくる客達は自分のことばかり話す。おしゃべりな女を好む貴族の男は当時一般的ではない。
「迷惑でしたか?」
「ああ」
「ごめんなさい……」
 そうしてアンナは黙った。船全体が静かになってしまったように思えた。
 リアンは必要であればあっという間に嘘を並べ立てることができたが、少しでも不要と感じてしまうと嘘がつけぬ質であった。つまり余計な嘘はつかない。しかしこの時は、言ってからそれが却って嘘であるような気がした。
「嘘だ」
「気を使わないでください……」
「誰がお前に気など使うか」
 彼は面倒なことになったと思い、やや強引に話を進めた。
「え……」
 アンナはリアンのこの物言いが少し怖かった。でなくとも、人に、殊に男性にお前呼ばわりされるのは初めてである。リアンには怯えが伝わった。
「いや、失礼。でも自分は下らない嘘はつきません」
 彼の中では彼の発言は矛盾していない。
「……ありがとうございます」
 伝わったのか伝わらぬのか要領を得ない発言である。結局船上は静かになった。

─────────────────────
 無宗教=無道徳という考えを持つ方は今でもいるようです。日本では考え難いですが……一応、舞台的に「私は無信仰です」なんて声を大にしていったら、社会的に死ぬことは覚えておいて下さい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み