六の皿 ゆでたかつおと、ヴラマンク

文字数 2,005文字

 昼下がりのスーパーマーケットは、主婦ばかりかと思いきや、存外、男の客もいる。
 仕事途中で立ち寄ったらしきスーツ姿、自営業か、あるいはフリーターなのか、やけにしゃれた服装の男、さらには学生風、いかにも部屋着のスウェット上下、リタイア後だろうシニア層……等々、人生さまざまだな、と感じさせられる空間だ。
 匙は主夫となったはじめの頃こそ気後れしたが、自分など目立たないことに気づいて、すぐに慣れた。

 自動ドアの手前でプラスチック製のかごを手に取り、迷いのない足取りでカート置き場へ。何台も重なって収納されているカートから1台を引き抜き、かごをセットして、野菜売り場へ向かう。
 まずは特売のキャベツ、それに30%引きのシールが貼られた空豆を、いたんでいないか確かめてかごに入れ、匙は鮮魚売り場へ進んだ。
 初鰹(はつがつお)とラベルに書かれた、かつおのさくのトレーを手に取ってみる。
 その瞬間、なぜか思い出した。

 匙が失職し、マンションの膨大なローンに頭を抱えた、あの時の月の言葉だ。
「節約すれば、私のお給料だけでも何とかなるよ。資格取るとか、この際やりたいことに挑戦したらいいんじゃない」
 ヤリタイコトガアッタラ、コンナフウニハナッテナイヨ、ツキトチガッテ――言い返したい思いの愚痴を、匙は苦い思いで呑みこんだ。
 月に悪気がないのはわかっていた。
 彼女のやる気に水を差したくはなかった。
 というのもその頃、月はアシスタント・キュレーターからキュレーターに昇格し、給料も上がり、自分の企画が会議を通って、何事にも前向きだったのだ。

 月は、長かった髪をばっさり切った。
 匙は、現状を受け入れることに専念した。
 料理経験はゼロだったが、飯を炊くことから始めてみた。電気炊飯器の使い方は楽に覚えた。ホームベーカリーやエスプレッソマシンも同様で、家電を使うのはむしろ得意と言ってもよかった。
 おかずは素材を切るだけの刺身と野菜サラダから始め、焼き魚、生姜焼き、固形のルーを用いるシチュウやカレーと、順に習得した。市販の合わせ調味料を使ってではあるが、チンジャオロースや麻婆豆腐も。

 月は何でも「超おいしい!」と喜んで食べた。
 あの笑顔は何だったのか。匙はいまさらながら複雑な心境に陥っている。
 月を責める気持ちはさらさらない。湧いてくるのは、気づいてやれなかった、無理をさせ、苦しませ、孤独にさせていたという、自責の念だ。
「何やってたんだろうな、俺は」
 小さく吐き捨てて、匙はかつおのトレーを乱暴にかごに投げ入れた。

   ***

 夕飯は、ネットでレシピを調べ、ゆで魚というものにした。
 大きめの鍋に、生姜をひとかけ入れて湯を沸かし、さくのまま鰹をゆでる。それをスライスして大皿に盛り、塩をふってオリーブ油をかける。そのまま食べても、好みで醤油をつけてもいい。
 ゆで汁は捨てずに、灰汁(あく)をすくって、玉ねぎとキャベツと、そら豆を入れて味噌スープにした。
「へえ、凝ってるね。うん、おいしい」
 いつもどおり月は笑んだが、どことなく心もとない、中途半端な感じだった。

 無理もない。
「俺の前では、演技しなくていいよ」
 優しさのつもりで、匙は言った。
「演技とか、そんなんじゃなくて……」
 月は顔を翳らせて、ちらと夫に視線を向けた。
「匙の表情が……」
 しばし口籠(くちごも)っていたが、「いや、やっぱりいい」と、かつおを口に押しこんだ。
 それから、ふたりは黙々と夕飯を胃に収めた。

 食後、匙が食器を洗っていると、月は珍しく仕事の書類を食卓に広げた。
 ふだんは、家に仕事を持ち帰らないのが、暗黙の了解になっている。よほど忙しいのだろう。グラスをリビングの食器棚に仕舞うついでに匙が見やると、広げているのは企画展のチラシの校正紙だった。
「その展示、月が企画したやつだよな」
「うん」
「なんとかヴラマンクだっけ」
「うん、モーリス・ド・ヴラマンク」
「大学の頃から好きだった画家な」
「うん。自分で企画展が作れるなんて、夢みたい」
 月は校正紙から目を上げて、匙をふり向き、顔を輝かせる。
 頑張れ。
 声に出すかわりに頷くと、匙の胸はとりあえず晴れた。

 今秋の展示が終わるまで、このまま支えていたい気がする。
 月は頑張っている。
 その月を美しいと思うし、そんな月が匙は好きだ。
 再就職に焦って邪魔をしたくはなかった。このタイミングで失職したのは、神様の計らいではないかとさえ思う。「いい歳して、神様なんて」と笑われることもあるが、匙は感謝したり、文句をぶつけたりする対象を天においておくほうが楽だし、自然だと考えている。自分ではどうにもならない物事や、感情を、闇雲に人にぶつけてしまう前に、いったん天に預けて考えることができるからだ。
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