四の皿 自家製パンとココナッツオイル
文字数 1,116文字
パンの焼き上がる匂いには、不思議な力がある。
どんなに心の沈んだ朝も、タイマーセットしたホームベーカリーからその匂いが漂うと、ほとんど強制的に救われてしまう。この匂いに勝てるほどの嘆きを、人は持ち合わせていないのだ。
匙はつくづくそう思いながら、のん気な電子音でパンの出来上がりを告げているホームベーカリーのふたを開けた。
きつね色に焼けた、まだ熱い山型のパンを、匙は慎重にスライスしてオーブンに入れ、トーストする。
対面キッチンから見えるのは、白いフローリングに、カラフルな家具を並べたリビングだ。有名な北欧発の大型家具店――意外と安価だ――でそろえたインテリアに、初夏の朝陽がさしている。
食事のしたくを整えていると、月がまぶたを腫 らして寝室から出てきた。
「腹、減っただろ。朝は食ってけよ」
努めて明るく話しかけてみる。
「……食欲ない」
月は見るからに元気もない。だるそうに片目をこすり、それでも素直に食卓の椅子に腰を下ろした。
こんがり焼けたトーストを、匙はオーブンから出して水色の皿にのせる。
「で、両親は? 知ってるのか」
トーストをのせたふたつの皿を、いったんカウンターに置き、キッチンからリビング側に回りこんで再び手に取り、食卓へ運んで、自分も月の向かいに座った。
「まさか」
ため息をつき、彼女は自動人形 のように、白いテーブルからココナッツオイルを取って、バターナイフでトーストにぬった。
「小さい頃から、何でも食べてくれて助かったって、今も言ってる」
月の両親は共働きで、二人とも鎌倉市役所の職員である。仕事と育児の両立はたいへんだったのだろうし、あるいは娘の食べ方に些細な違和を感じても、信じまいとしてきたのかもしれない。
「ほかに、誰か知ってる人は」
「いないよ、匙がはじめて」
「誰も、気づかなかったのか」
尋ねてみて、匙は自己嫌悪した。実際、自分も昨日まで、気がつかなかったのだ。
月は乾いた表情で、両肩をすくめる。
「みんな、ただ単に、好き嫌いのない人って思ってるんじゃないかな」
「だけどそれ、実際は嫌いもないけど、好きもないってことだろ」
そうかな、と、月はトーストにかじりついた。こんなときまで、大口で。
その様子に匙は見とれ、そして、呆れた。
「しっかしおまえ、旨そうに食うよな」
「筋金入りデスからね」
ようやく月は、口角を上げた。
空元気なのは明らかだった。
しかし彼女は朝食をきれいにたいらげて、自分を奮い立たせるようにハイヒールを履き、いつもどおりに背筋を伸ばして出勤して行ったのだった。マンションに、匙を残して。
どんなに心の沈んだ朝も、タイマーセットしたホームベーカリーからその匂いが漂うと、ほとんど強制的に救われてしまう。この匂いに勝てるほどの嘆きを、人は持ち合わせていないのだ。
匙はつくづくそう思いながら、のん気な電子音でパンの出来上がりを告げているホームベーカリーのふたを開けた。
きつね色に焼けた、まだ熱い山型のパンを、匙は慎重にスライスしてオーブンに入れ、トーストする。
対面キッチンから見えるのは、白いフローリングに、カラフルな家具を並べたリビングだ。有名な北欧発の大型家具店――意外と安価だ――でそろえたインテリアに、初夏の朝陽がさしている。
食事のしたくを整えていると、月がまぶたを
「腹、減っただろ。朝は食ってけよ」
努めて明るく話しかけてみる。
「……食欲ない」
月は見るからに元気もない。だるそうに片目をこすり、それでも素直に食卓の椅子に腰を下ろした。
こんがり焼けたトーストを、匙はオーブンから出して水色の皿にのせる。
「で、両親は? 知ってるのか」
トーストをのせたふたつの皿を、いったんカウンターに置き、キッチンからリビング側に回りこんで再び手に取り、食卓へ運んで、自分も月の向かいに座った。
「まさか」
ため息をつき、彼女は
「小さい頃から、何でも食べてくれて助かったって、今も言ってる」
月の両親は共働きで、二人とも鎌倉市役所の職員である。仕事と育児の両立はたいへんだったのだろうし、あるいは娘の食べ方に些細な違和を感じても、信じまいとしてきたのかもしれない。
「ほかに、誰か知ってる人は」
「いないよ、匙がはじめて」
「誰も、気づかなかったのか」
尋ねてみて、匙は自己嫌悪した。実際、自分も昨日まで、気がつかなかったのだ。
月は乾いた表情で、両肩をすくめる。
「みんな、ただ単に、好き嫌いのない人って思ってるんじゃないかな」
「だけどそれ、実際は嫌いもないけど、好きもないってことだろ」
そうかな、と、月はトーストにかじりついた。こんなときまで、大口で。
その様子に匙は見とれ、そして、呆れた。
「しっかしおまえ、旨そうに食うよな」
「筋金入りデスからね」
ようやく月は、口角を上げた。
空元気なのは明らかだった。
しかし彼女は朝食をきれいにたいらげて、自分を奮い立たせるようにハイヒールを履き、いつもどおりに背筋を伸ばして出勤して行ったのだった。マンションに、匙を残して。