七の皿 母の味、父の味、そして

文字数 2,996文字

 バスを降りると、雨だった。
 折り畳み傘を開き、匙は濡れた歩道を歩きだす。
 梅雨の湿気が身体の芯まで()みてくるウィークデーの昼下がり、前ぶれもなく実家を訪ねるなんて、自分でも気が知れない。
 月との食事時の重たい空気をどうにかしたくて……あるいは、逃げたくて?
 匙は銀色の路面に向かって、小さくため息をついた。

 本牧に増え続ける大型マンション群の狭間、意地を張るように残っている古い一軒家が匙の実家だ。
 7つ下の妹が、沖縄の何とかいう伝統工芸の職人に弟子入りすると言って2年前に家を出てからは、父と母の二人暮らしである。
 留守なら帰るつもりだったのだが――。
「あら、珍しい」
 玄関に出てきた匙の母は、どうしたの? などとは聞かず、平然と匙を迎え入れた。

「おなかは? お昼食べたの?」
 さっさと台所に向かった母に、匙は曖昧な返事をしてスニーカーを脱ぎ、茶の間に入る。
 この3週間、亜鉛を補充するための料理を匙は作り続けてきた。
 節約はひとまず脇に置き、牛モモ肉の赤ワイン煮、牡蠣(かき)とほうれん草のグラタン、かつおの味噌煮や中華風。どれも匙にとってはなかなかの味だったけれど、月は食べながら、だんだん苦しい顔をするようになった。
 そして昨夜、ついに泣かれた。
「ごめん。わかんない。せっかく作ってくれたのに、ごめんなさい」
 月の味覚に変化はなく、それを夫に伝えなければと、かえって追い込まれていたのだった。

――じゃあ俺は、いったいどうしたらよかったんだ?
 匙もまた、出口のない迷路にいる。
 知ってしまったら、知る前には戻れない。
 知ったのだから、何とかしてやりたい。
 それにもう、夕食を元に戻すきっかけがない。

 懐かしい畳敷きの実家の茶の間に匙は寝転び、何をするでもなく、天井を眺めた。すすけた茶色の天井には、見覚えのある染みが浮かんでいる。
 静かな雨音の中、置き時計の音が規則正しく響いている。
 金メッキの天使の飾りがついた置き時計は、匙が子どもの頃からあるものだ。
 湿った畳の匂いも、よく知っているものである。
 珠暖簾(たまのれん)が揺れ、母が盆を持って台所から出てきた。
「何にもないけど」
 言いながら、ちゃぶ台に湯気をあげる白飯を盛った茶碗、ひじきと大豆の煮物の小鉢、たくあんの手塩皿を並べていく。
「これ甘い玉子焼き。あんた、好きでしょ」
 最後に置いたのは、ふっくらと黄金色に焼き上がった玉子焼きの皿だった。

 またもや曖昧に返事をして匙は起き上がり、ちゃぶ台の前であぐらをかいた。
 実は出がけにインスタントのラーメンを食べて来たのだが、目の前に並べられた料理は別腹におさめられる気がして(はし)を持つ。
 玉子焼きを口に運んだ。
 懐かしい。飲みこむ前から体の一部であったように喉でとけて落ちていく。
 料理人である父は、家では台所に立たない人だった。だから専業主婦の母が、家族の食事を毎日3食作っていた。
 子ども心に、匙は母を可哀想だと思っていた。
「料理はお父さんのほうがうまいから」と、母は常に料理人の父に引け目を感じているように見えたからだ。

 その母はいま、ちゃぶ台の向こうで、気楽な顔で麦茶を飲んでいる。
 匙は尋ねた。
「あのさ、自分の料理を、プロの料理人に食べさせるのって、プレッシャーだった?」
「何よ、いきなり」
 むせながら、母は笑った。
「プレッシャーも何も、ただの家庭料理でしょ」
 父が、母の料理をおいしいと言っていた記憶は、匙にはない。
「でも外食禁止だっただろ、うち。買い食いもダメって父さんがうるさくて。俺ら子どもにはキツかったよ」
「まあねぇ、お父さん頑固だったからね」

 大学に入るまで、匙の家では基本的に、朝と夜は一家でちゃぶ台を囲むのがきまりだった。
 匙がCDRCに入ったのは、思いっきり外食を楽しんでみたかったせいもある。
 母はまた麦茶をひと口飲んでから、コップを軽く揺らして、波立つ液面に視線を落とした。バーボンでも入っているみたいに。
「あんたたちと一緒に食べたかったのよ。あの人、子どもの顔を見ながら食べるのが、一番旨いって、たまにしみじみ話していたから」
「そうなの? 初耳だよ。俺はライバル店で金を使っちゃいけないんだと思っていた」
「まさか」
 母はコップの中の液体をこぼす勢いで否定した。
「そんなセコイこと、ない、ない」

 父の働く洋食屋は、実家から自転車で5分。あの頃も、今もそうだ。
 ディナーの仕込みが落ち着いて、店が混み始める前の時間帯の、午後6時から30~40分が父の休憩時間となっていた。同時にそれは、匙たち一家の夕食時でもあった。
 父はいつも、自転車を飛ばして家に戻って来た。その父を待ち受けて、家族4人で夕食をとる。破ると激しく怒られた。
 友達の家より夕食の時間が早い分、門限も早い。匙も妹も厭々(いやいや)で、おいしいどころか、おいしさも半減していたのだが、それを父は一番旨いと感じていたのか。
 おいしさなんて、共有できるものではないのかもしれない。
 匙は煩悶(はんもん)した。
 じゃあ月は? 彼女は、何がおいしいと言っていたっけ?

「あんた、大学のサークルで、お父さんの店に行ったでしょ」
 母が朗らかに問うてきた。
「ああ、うん」
「どうだった?」
「どうって。ええと、まあ、安くて旨くて、いい店だったよ。メンバーからも高評価だった」
「そう」
 母は、何か別の答えを期待していたふうである。
 父の店に行ったのは、その一度きりだった。気張った装飾はないけれど、レトロな雰囲気のある店で、〝日本の洋食〟としてケチャップを使うべきところはトマトではなくケチャップを使い、肉や野菜は丁寧(ていねい)に下ごしらえをして料理していた。
 思い返して、匙はひと言つけ加える。
「父さんらしい味だったよ。真面目で」
「そう」
 今度は、母は満足げに(うなず)いた。

 空になった茶碗を置き、匙は再び畳に横になった。
 母の料理はまるで母そのものという味がする。
 では、月の料理は?
 匙が主夫になる前は、月の作った料理を食べていた。思い出そうとすると、しかし味より先に、旨そうに食べる月の顔ばかりが浮かぶ。
 そういえば料理する時、彼女はレシピの本と首っ引きで、きっちり計量していたはずだ。そういう性格、つまり几帳面(きちょうめん)なんだろうととらえていたけれど、よく考えたらふだんの月はぼんやりしていてズボラなほうだ。
 変だと思うべきだった。味見できない(してもわからない)から、あんなに真剣に計量していたのだ。

「ほらこれ、月ちゃんに」
 唐突に、視界に白いものが差し出され、つられて匙は半身を起こした。
「ちょうど今日、庭で咲いたから」
 白百合だった。昔から、狭い庭で母が毎年咲かせている。小ぶりなわりに香りがいい。
 家に帰ったら、ガラスのピッチャーに活けて食卓の中央に飾ってみよう。その風景を思い浮かべたら、重たかった胸が不思議と軽くなっていた。
 香りの強い花は食卓には不向きだが、どうせ今夜は、料理は並べないのだし――。
「帰るよ」
 いくぶん晴れやかな気分になって、匙は腰を上げた。

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