二の皿 ドライジンと、月の告白
文字数 1,267文字
言いかけてやめ、言いかけてやめをさんざん繰り返したあげく、月はやっと告白した。
「私には味覚がないの。たぶん、生まれたときから」
匙は、唖然 とするばかりだった。
月は下を向き、
「ごめん」
とつぶやいて、消え入りそうな声でつけ加える。
「だましてたみたいで……」
「いや。そうじゃなくて」
咄嗟 に匙の口から出た言葉は、彼自身にも意外なものだった。
「つらかっただろ、いままで」
でも声に出してから考えると、やはりそれ以外に、自分の気持ちを表す言葉はなかったようにも思われる。
月は泣き出した。
32年間、溜 め続けてきた涙があふれてやまない。そんな様子だった。
どうしようかと、匙は内心、うろたえた。しかし、なぜだか平然を装って、買い置きのレトルトカレーを黙々と温め、夕飯を食べ直した。
月はそれを気にもせず(少なくとも匙にはそう見えた)、何も口にせず、シャワーも浴びず、いいだけ泣いて、寝室へ引っこみ、ダブルベッドでことりと眠ったらしかった。
電池が、切れたみたいに。
「なんだかな……」
匙はキッチンで、まずレトルトカレーを食べた皿をきれいに洗い、それから失敗作のグリーンカレーを捨てて鍋と食器とカトラリーを洗い、水切りかごに並べてから、ふきんで手を拭き、耳を澄ませた。
寝室から、物音は聞こえない。
廊下も、居間も、やけに静かだ。
薄茶のフローリングに、ダウンライトが落ちている。狭い廊下を、足音を立てないよう気をつけて歩き、彼は寝室へ行き、ドアを開けた。
窓はレースのカーテンだけの状態で、内側の遮光カーテンは開いたままになっている。
月明かりが射しこんで、ベッドを薄青く照らしている。
淡いグレーの夏掛けがふっくらと盛り上がり、胎児のように丸まって、妻が寝息を立てている。
なかに入ってカーテンを閉めてやろうかと逡巡し、結局やめて、匙はいったん寝室を後にした。
水色のロックグラスに、氷を入れたら、透明な音が響いた。
グラスは結婚記念にと、ペアで買った北欧のシンプルなデザインのものだ。考えてみれば一人で使うのは、今日がはじめてかもしれなかった。
キッチンのシンクの横で、そのグラスにドライジンを注ぎ、片手に持って、匙は寝室へ取って返す。
先刻と同じように音を立てぬようドアを開け、息をひそめてベッドの横を通り抜け、窓辺に立った。
カーテンを閉めようとして、思い直す。レース越しに、しばらく月明りを眺めていたくなったのだ。
窓は閉まっているのだが、夜風が空を駆けている、気の遠くなるような遥かな音がかすかに聞こえる。
ベッドに腰をかけたら、月を起こしてしまいかねない。
壁に背をあずけ、匙は、月光にますます青く冴えたロックグラスを口に運んだ。ドライジンをちびちびと舐 め、妻との記憶を確かめにかかる。
――味覚がないなんて、まったく気がつかなかった。でも本当に? もっと早くに気づいてやれるサインが、どこかにあったのではないか?
「私には味覚がないの。たぶん、生まれたときから」
匙は、
月は下を向き、
「ごめん」
とつぶやいて、消え入りそうな声でつけ加える。
「だましてたみたいで……」
「いや。そうじゃなくて」
「つらかっただろ、いままで」
でも声に出してから考えると、やはりそれ以外に、自分の気持ちを表す言葉はなかったようにも思われる。
月は泣き出した。
32年間、
どうしようかと、匙は内心、うろたえた。しかし、なぜだか平然を装って、買い置きのレトルトカレーを黙々と温め、夕飯を食べ直した。
月はそれを気にもせず(少なくとも匙にはそう見えた)、何も口にせず、シャワーも浴びず、いいだけ泣いて、寝室へ引っこみ、ダブルベッドでことりと眠ったらしかった。
電池が、切れたみたいに。
「なんだかな……」
匙はキッチンで、まずレトルトカレーを食べた皿をきれいに洗い、それから失敗作のグリーンカレーを捨てて鍋と食器とカトラリーを洗い、水切りかごに並べてから、ふきんで手を拭き、耳を澄ませた。
寝室から、物音は聞こえない。
廊下も、居間も、やけに静かだ。
薄茶のフローリングに、ダウンライトが落ちている。狭い廊下を、足音を立てないよう気をつけて歩き、彼は寝室へ行き、ドアを開けた。
窓はレースのカーテンだけの状態で、内側の遮光カーテンは開いたままになっている。
月明かりが射しこんで、ベッドを薄青く照らしている。
淡いグレーの夏掛けがふっくらと盛り上がり、胎児のように丸まって、妻が寝息を立てている。
なかに入ってカーテンを閉めてやろうかと逡巡し、結局やめて、匙はいったん寝室を後にした。
水色のロックグラスに、氷を入れたら、透明な音が響いた。
グラスは結婚記念にと、ペアで買った北欧のシンプルなデザインのものだ。考えてみれば一人で使うのは、今日がはじめてかもしれなかった。
キッチンのシンクの横で、そのグラスにドライジンを注ぎ、片手に持って、匙は寝室へ取って返す。
先刻と同じように音を立てぬようドアを開け、息をひそめてベッドの横を通り抜け、窓辺に立った。
カーテンを閉めようとして、思い直す。レース越しに、しばらく月明りを眺めていたくなったのだ。
窓は閉まっているのだが、夜風が空を駆けている、気の遠くなるような遥かな音がかすかに聞こえる。
ベッドに腰をかけたら、月を起こしてしまいかねない。
壁に背をあずけ、匙は、月光にますます青く冴えたロックグラスを口に運んだ。ドライジンをちびちびと
――味覚がないなんて、まったく気がつかなかった。でも本当に? もっと早くに気づいてやれるサインが、どこかにあったのではないか?