一の皿 発端は、グリーンカレー

文字数 1,018文字

「おいしいね!」
 (つき)のその言葉に、(さじ)は耳を疑った。
 彼の舌の上でいま行き場を失っている物体が、あり得ないと語っている。
「待て食うな。ストップ! スト……」
 むせ返り、あわてて左手を口に当てる。
 料理(とはとても言えないシロモノ)を、あやうくテーブルに飛び散らせてしまうところだった。

 匙の向かいで、月は右手にスプーンを持ったまま、それを空中で静止させ、目を丸くして、かたまっている。
 モデルばりのベリーショートの黒髪。そんなとがった外見とは裏腹に、月はおっとりした女だ。
 匙は片手を伸ばして卓上の箱からティッシュを取り、べとべとになった手の平をぬぐった。ついでに口の中に残っていたモノも、月から見えないようにティッシュの中へそっと出し、丸めてズボンのポケットに入れる。
「おまえこれ、おいしいって言ったか? 言ったよな」
「え? 何、どうして」
 探りを入れると、月はとぼけた。
「そこまで無理して気を遣われると、俺もきついぞ」

 ハウスハズバンド――主夫。
 1年前からの匙の立場である。
 油断した。ちょっと料理に慣れてきたからって、味見をせずに食卓に出したのは、失敗だった。
 旨いかまずいかの問題じゃない。もったいないとかそういうレベルでもない。
 これを食ったら体に悪い。塩分過多だ。
 恨めしい気持ちで、匙はまだ湯気を立てている皿を見下ろす。
 見た目はきちんと、グリーンカレーだ。

 具は細切り(たけのこ)と、茄子(なす)としめじと鶏モモ肉。市販のグリーンカレーペーストのパッケージに刷られているレシピどおりに、ココナッツミルクとナンプラーを使い、仕上げに大さじ1杯の砂糖を入れたつもりだった。
 が、どうやら塩と間違えたらしい。
 舌にしつこく残る塩辛さを洗おうと、匙はグラスの麦茶を飲み干した。

 この決定的にまずいシロモノを、あろうことか、さっき月はスプーンに山盛りすくってうまそうに食べ、「おいしいね!」と笑顔でふたすくい目に進んだのだった。
 匙に止められて、月の顔には戸惑いの色が浮かんでいる。しかし彼女は改めて、宙ぶらりんのスプーンを口に運ぼうと動かした。
「待て、だから、食うなって」
 匙は素早く、妻からスプーンを奪い取った。
「あの……」
 空いた右手で、月は鼻の頭をこすっている。
 隠し事がある時の、それが妻の(くせ)であると、匙はもちろん知っていた。
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