八の皿 月光と猫缶
文字数 1,587文字
「いい香り」
夜10時を過ぎて帰宅した月は、家に入るなり顔を輝かせた。
仕事のミーティングがてら、彼女は夕食を外ですませてきた。もちろん、匙はあらかじめ聞いていたことだし、それで気が楽だったから、実家を訪ねることができたのだった。
――きっと、月も気が楽だったんだな。
匙は思う。
重荷を一つ下ろしてきたように、月の表情は軽い。
「本牧の実家の白百合? へえ、行ったんだ」
「ふらっとね」
「ふらっとって」
少し笑って、月は白百合に鼻を近づける。
「お母さま、元気だった?」
「相変わらずってとこだったよ」
穏やかな気分だった。ここ最近の緊張が、ゆるゆるとほどけた。
「ちょっと、散歩に行かないか」
これから?
と、言わんばかりに月は、大きな目をさらに大きく見開いた。しかし、
「雨、あがったもんね」
バッグを置き、スマホだけ取り出して、パンツのポケットに入れる。
疲れているだろうに――。
文句など言わず、つき合ってくれる妻の優しさに、今日は甘えようと匙は思う。
太った月が、星空で笑っている。そんなふうに光っている。
散り散りに浮かんだ雲が、月光に映え、印象派の絵画みたいだ。
森林公園の木々は、黒い影をまとってざわめいている。金属の震えるような首螽斯 の鳴き声が、地上の闇を貫いている。
生ぬるい風が吹き、人影はない。月と匙は並んで森の中の遊歩道をゆく。
「なんか怖いね。けど少しわくわくする」
月は腕を胸の前で交差させ、左右の肘のあたりをさすった。
神様は、どうして月に味覚を与えてくれなかったんだろう。
ふと思い、匙はすぐさま打ち消した。
おいしさは、共有できない。
父の件も、CDRCでしていた店の評価にしてもそうだ。匙が抜群に旨いと感じた店だって、メンバーの評価にはばらつきがあった。
味覚なんて、そんなものだ。そんなものなのだ。
味覚がないと月は言う。
けれど、まったくないのかどうか、匙には確かめようがない。他の人と違うからといって、「彼女には与えられていない」などと考えるのは、傲慢だ。
月には月の「おいしい」感覚があるのかもしれないじゃないか。
突然、変な音がした。月がとっさに身を寄せる。
匙は足を止め、傾聴した。
音の主は、こちらの出方を窺うように黙していたが、しばらくして、再び細い声を発した。
ふたりは顔を見合わせた。
仔猫じゃないか? しかも弱って、「助けて」と訴えている――。
瞬時に捜索を開始した。仔猫は悲痛に鳴き続けている。匙はしゃがんで木の下をのぞき、月は両手で繁みをかき分けた。
「いた!」
月が、草むらから白黒のブチの仔猫を抱き上げた。
小さい。そして、やせている。目やにがたまっているから、親猫とはぐれたのだろう。放っておけるはずがない。
匙はコンビニに走り、猫缶とカリカリと猫砂を買った。月は仔猫を抱いて家に帰った。
リビングのフローリングに紙を敷き、小皿を3つ出してカリカリと水、猫缶を出してのせた。
仔猫はおぼつかない足取りで皿に近づき、鼻をひくつかせて3つを順にかいだと思うと、迷わず猫缶に食いついた。
「おいしそう」
「え?」匙は思わず聞き返す。
「私が言ったら、変?」
月はきまりの悪そうな、はにかんだ顔をした。
仔猫は猫缶をたいらげ、水をぴちゃぴちゃと舐めてから、カリカリにかかった。
「そんなことないよ。でも」
「見てたら、幸せな気持ちになるでしょう。だから」
――それが、月にとっての「おいしい」の基準、ということなのか。
「私が何かを食べておいしいって言うと、匙はいつも、すごくうれしそうにする。私にはそれが、何よりのごちそうなんだよ」
仔猫は、ふくらんだ腹と四肢を投げ出して、ぷっつりと眠りについた。
夜10時を過ぎて帰宅した月は、家に入るなり顔を輝かせた。
仕事のミーティングがてら、彼女は夕食を外ですませてきた。もちろん、匙はあらかじめ聞いていたことだし、それで気が楽だったから、実家を訪ねることができたのだった。
――きっと、月も気が楽だったんだな。
匙は思う。
重荷を一つ下ろしてきたように、月の表情は軽い。
「本牧の実家の白百合? へえ、行ったんだ」
「ふらっとね」
「ふらっとって」
少し笑って、月は白百合に鼻を近づける。
「お母さま、元気だった?」
「相変わらずってとこだったよ」
穏やかな気分だった。ここ最近の緊張が、ゆるゆるとほどけた。
「ちょっと、散歩に行かないか」
これから?
と、言わんばかりに月は、大きな目をさらに大きく見開いた。しかし、
「雨、あがったもんね」
バッグを置き、スマホだけ取り出して、パンツのポケットに入れる。
疲れているだろうに――。
文句など言わず、つき合ってくれる妻の優しさに、今日は甘えようと匙は思う。
太った月が、星空で笑っている。そんなふうに光っている。
散り散りに浮かんだ雲が、月光に映え、印象派の絵画みたいだ。
森林公園の木々は、黒い影をまとってざわめいている。金属の震えるような
生ぬるい風が吹き、人影はない。月と匙は並んで森の中の遊歩道をゆく。
「なんか怖いね。けど少しわくわくする」
月は腕を胸の前で交差させ、左右の肘のあたりをさすった。
神様は、どうして月に味覚を与えてくれなかったんだろう。
ふと思い、匙はすぐさま打ち消した。
おいしさは、共有できない。
父の件も、CDRCでしていた店の評価にしてもそうだ。匙が抜群に旨いと感じた店だって、メンバーの評価にはばらつきがあった。
味覚なんて、そんなものだ。そんなものなのだ。
味覚がないと月は言う。
けれど、まったくないのかどうか、匙には確かめようがない。他の人と違うからといって、「彼女には与えられていない」などと考えるのは、傲慢だ。
月には月の「おいしい」感覚があるのかもしれないじゃないか。
突然、変な音がした。月がとっさに身を寄せる。
匙は足を止め、傾聴した。
音の主は、こちらの出方を窺うように黙していたが、しばらくして、再び細い声を発した。
ふたりは顔を見合わせた。
仔猫じゃないか? しかも弱って、「助けて」と訴えている――。
瞬時に捜索を開始した。仔猫は悲痛に鳴き続けている。匙はしゃがんで木の下をのぞき、月は両手で繁みをかき分けた。
「いた!」
月が、草むらから白黒のブチの仔猫を抱き上げた。
小さい。そして、やせている。目やにがたまっているから、親猫とはぐれたのだろう。放っておけるはずがない。
匙はコンビニに走り、猫缶とカリカリと猫砂を買った。月は仔猫を抱いて家に帰った。
リビングのフローリングに紙を敷き、小皿を3つ出してカリカリと水、猫缶を出してのせた。
仔猫はおぼつかない足取りで皿に近づき、鼻をひくつかせて3つを順にかいだと思うと、迷わず猫缶に食いついた。
「おいしそう」
「え?」匙は思わず聞き返す。
「私が言ったら、変?」
月はきまりの悪そうな、はにかんだ顔をした。
仔猫は猫缶をたいらげ、水をぴちゃぴちゃと舐めてから、カリカリにかかった。
「そんなことないよ。でも」
「見てたら、幸せな気持ちになるでしょう。だから」
――それが、月にとっての「おいしい」の基準、ということなのか。
「私が何かを食べておいしいって言うと、匙はいつも、すごくうれしそうにする。私にはそれが、何よりのごちそうなんだよ」
仔猫は、ふくらんだ腹と四肢を投げ出して、ぷっつりと眠りについた。