第5話

文字数 11,894文字

  *

 激しかった雨も30分ほどで止んだ。夕立が間違って真夜中にやって来たような感じだったな、と朝彦は思った。
 彼は、あの、奇妙な形の鳥居の向かいの階段に腰掛けていた。石段は濡れていたが、自身の服も水浸しだったので、気にならなかった。
 夏とは思えないほど気温が下がっているうえに服がずぶ濡れなので寒くて仕方がない。
 当然の報いだ。
 そう思って彼はそこから動かなかった。低体温症で死んだって構うものか。息子を連れて帰るか、さもなければ死ぬかだ。
「そうか。俺は、ここで死ぬのか。」
 惨めな気持ちが心に広がる。
 だが、死んでいいなら、この鳥居をくぐるべきなのではないか。
「よし。」
 朝彦は立ち上がり、丸鳥居の方へとゆっくりと歩いて行った。そして、東に向かってくぐったのだが。
 何も起きなかった。ただ、鳥居の向こう側に出ただけだ。
 腕時計を見ると0時37分を示していた。知らないうちに日付けが変わっていたのだ。
 朝彦は、天を仰いだ。なにをやってもダメな人間だ。
「しかし、あの子は、もとの時代に戻れたんだろうか?」急に別の疑問が湧いてきた。
 幸せだった子供時代の記憶に刻まれたあの少年、俊。息子が生まれるまで、生涯で最も大事に思った少年。それゆえ、息子にも同じ名前を付けたあの少年は?
 この鳥居を抜けて、姿が見えなくなったきり、消息を知ることは出来なかったのだが。
 そりゃあ、当然、もとの時代の伏見稲荷の両親のもとに帰ることが出来たはずだ。
 そこまで考えて、朝彦は、電気で撃たれたように、飛び上がった。
 伏見稲荷?それは、彼自身が暮らす土地でもある。
 ということは?
「待て待て、じっくり考えるんだ。」
 彼は、再び石段に座って、10歳の夏の出来事を、事細かに反芻し始めた。
 最初に蘇ったのは、なぜか、クワガタ採りに行った時の記憶だった。

「俊、友達から聞いたんやけど、神楽岡にクワガタがよく見つかるクヌギの木があるらしいわ。」朝彦は秘密めかした小声で言った。
 夕食後に、布団を敷いている時だった。
「ほんま?どの木か分かってるん?」
「うん。よく木登りして遊んだ木やって言ってたから、一つしかない。朝早くに行ったら、見つかるんやって。」
「へえ、じゃ、明日の朝行こうよ。」俊が言ったが、朝彦は母親の方をチラッと窺って、さらに声を低めた。
「「おはよう会」があるやろ。」
「休めへんの?」俊も、顔を近付けてきた。
「風邪の時とか、下痢した時は、休ませてもらったけど・・・」
「じゃあ、風邪ってことにしたら?」
「そしたら、俊が1人で連れて行かれることになるで。」
「えー、それはイヤ。」俊は首を振ってイヤイヤをした。
「そやろ。だから、思い切り早起きして抜け出すんや。」
「そんなことして、大丈夫?」
「怒られるやろうけど、それは、しょうがない。」
 そういうわけで、二人の陰謀者は、その日はやけに早く寝て、父母を驚かせたのだった。
 翌朝、緊張のためか、まだ真っ暗なうちに二人は目を覚ましていた。
「今、何時?」俊が声を潜めて聞いた。
 朝彦は、食卓の上にあるデジタル時計(と言っても、それは、数字を書いた札が回転して時間を表示するという、おそろしくアナログな仕組みのものだったが)を見に行った。
「まだ、3時10分や。」
「ちょっと早いかな。」
「いや、4時にはお母ちゃんは起きて来るから、それまでに出た方がええ。」
「よし、起きよう。」
 子供たちは、暗い中で、枕元に置いてある服に着替え、足音がしないように気を付けながら、部屋を出て、玄関に向かった。
「待って。手紙を書いとく。」朝彦は食卓のところへ行って、メモ帳を切り取って“クワガタ採りに行きます”と走り書きした。
 それから、息を殺して玄関で靴をつっかけ、いつもはガタピシいう玄関扉を神業的な静かさで開け閉めして外へ出た。
 戸外はまだ真っ暗だった。それで、二人は、ゆっくりゆっくりと歩いて神楽岡に向かった。
 麓についても、まだ暗かったので、参道の広い石段に腰掛けて時間つぶしをしていると、少しずつ空が白み始め、明るみが広がるとともに鳥の声も聞こえるようになった。
 神楽岡は広葉樹と松が入り混じった、比較的風通しのよい感じの(うっそうとしていないという意味だが)森に覆われていたが、日の出前なので、薄暗く、樹々はほとんどシルエットにしか見えなかった。
 目的のクヌギの木にはすぐにたどり着いた。
 少年二人は、薄明りの下、目を凝らし、樹液が沁み出している、虫たちの食事場に、クワガタムシの姿を探したが、蛾1匹とカナブン数匹の他には、恐ろしく大きなムカデが一匹いるだけだった
「うわあ、気色悪い。」俊が言った。
「ムカデも樹液を吸うんや。」朝彦も、妙に感動しながらも、嫌なものを見てしまったという気分で、げっそりした。
 樹液が出ている部分以外にも、クヌギの木を隈なく見渡したが、クワガタ虫もカブト虫も見当たらなかった。
 
 「おはよう会」から帰って来た母は鬼の形相で、朝彦は心底ビビった。俊も容赦されず、反省のための黙想を、朝彦と一緒に正座して1時間強、続けさせられた挙句、1日中、宿題をするように命じられたのだった。
「宿題は家に置いてきた。」と俊が言うと、
「じゃあ、取って来(き)い。」母は、癇癪を爆発させたが、「いや違う。あんたは、「おはよう会」の模範実践集を1冊読んで、何が書いてあったか作文に書きなさい。」と言い直した。
「えー、そんな。」俊は青ざめた。「アサ君の宿題を一緒にやるよ。」
「あかん。遊んで邪魔するだけなんやから。」母は決めつけた。
 俊は、見るからに元気をなくして卓袱台に向かった。
 朝彦は、のろのろと宿題の回答を書きながら、横の俊をちらちらと見た。「模範実践集」とタイトルが印字された小冊子を開きながら、彼は1文字も書き付けることなく、涙を浮かべていた。
「大丈夫?」朝彦は小声で聞いた。
「全然、頭に入って来ない。読めへん漢字も多いし。」
「宿題、交換しよう。俺が作文したるわ。小4の算数分かる?」と朝彦は持ち掛けた。
「公文(くもん)で1学年先までやってたから大丈夫やと思う。でも、作文できるの?」
「毎日、「おはよー会」に出てるからな。何書いてあるか読まんでも分かるわ。」
 俊は小さく笑って、自分の宿題と朝彦のそれとを素早く取り換えた。
 そして何食わぬ顔をして、俊は朝彦の算数のドリルをやり、朝彦は、作文の拷問に取り組むのだった。
 時々、母が部屋に近付いて来るたびに、二人は慌てて宿題を取り換えた。
 俊が「なるほど、そういうことなのか。ためになるなあ。」などとわざとらしく声に出すと、朝彦はこらえきれずに、笑い声を漏らした。
 そうやって午前中は、宿題ばかりやって過ごした。
 昼食を食べてから、宿題を再開して、こんなことが夜まで続くのかとうんざりしていた時に、朝彦の友人らが、野球に誘いに来た。
 校区外にあるグラウンドまで自転車で行って、そこで別の小学校の子どもらと軟式のボールで試合をするのだという。
 朝の怒りがまだ溶けない「鬼母」は、行くことを許さなかったが、朝彦の友人たちが、それでは人数がそろわないから試合が出来ないと猛抗議した。
 それで、母も、とうとう、行くことを許可してくれた。
 試合の結果がどうだったかは、憶えていない。ただ、本格的なグラウンドでやる試合が楽しくてしょうがなかったこと、仲良しの「川ちゃん」が攻守に大活躍したこと、敵チームも味方チームも激しくヤジを飛ばしあい、それを俊が目を丸くして見ていたことなどはよく覚えていた。

   *

 俊は、毎朝の苦行と2日おきの黙想を除けば、毎日が遊園地のように楽しかった。
 俊にとって、朝彦は今まで出会った中で最高の友達だった。朝彦くらい、一緒にいて楽しく、いつも新鮮な驚きを与えてくれる子供はいなかった。
 1つ年上ではあるが、「お兄ちゃん」ではなく、「友達」と言う感覚だった。色んなことを知っているし、遊びのアイデアを考える「天才」だと思うのだが、俊がいなければ、何一つとしてアイデアを実現できないということも分かっていた。それは、朝彦のおもちゃ箱から引っ張り出されて、今や立派に出来上がったいくつものおもちゃが証明していた。
 二人は最高の「相棒」なのだ。
 その相棒が、実は未来の自分の父であるという事は、そう簡単に受け入れられたわけではない。少年・朝彦は大好きだが、大人になった父・朝彦は好きだったとは言えない。
 いや、違う。好きだったこともある。小さな頃はそれこそ最高の相棒だったはず。いつから、そうでなくなったのか。
 いくつかショッキングな出来事を思い出す。
 5歳くらいの時だったろうか?保育園が休みの日、(母方の方の)お祖母ちゃんの家で過ごしていた俊は、自宅に居るはずの父と遊びたくなり、いつもは親と一緒の帰路を一人で歩いて帰ってきた。
 そして、自宅の呼鈴を鳴らす。玄関の扉を開けて父・朝彦が出て来た。
 俊は、透かし彫りの門扉の向こうへ満面の笑顔を見せた。
 言葉はいらないはずだった。「パパ帰って来たよ。一緒に遊びたいと思ったんだ。だからひとりで帰って来たんだよ。」ということは、笑顔だけで充分伝えられる。そして、パパはそれを喜んでくれるに違いない。そう信じていたのだが、その時、父の顔に表れたのは、「何で来たんだ?帰って来るなよ。邪魔な奴だな。」と言うような邪険で不機嫌なものだった。
 その理由は、まったく分からなかったが、それ以来、俊は、心底から親しみのこもった笑顔を父親に見せることはなくなった。そして、もしかしたら、他の人にも。
 それから、忘れられないのは、父が自分の遊び相手になることを止めた日だった。それがいつだったか、はっきりと分かっている。合気道の昇段のご褒美として買ってもらった、大きな宇宙船のレゴを作っていた時のことだった。
 門扉での、心が凍り付くような出来事よりは後のことだったが、まだ父のことは信じていた。普段は機嫌よく遊んでくれたり、絵本を読んでくれたりしていたからだ。
 レゴは難易度で言えば最高レベルの大きなものだったので、「パパ」に手伝ってもらいながらでも、完成させるまでには相当な時間がかかった。
 作っているうちから、出来上がった宇宙船で遊ぶのが楽しみでワクワクした。何なのかよく分からない不思議な装置がいくつも付いているのだが、パパならそれがどういうものか教えてくれるはずだし、楽しい遊び方が見つけられるはずなのだ。
 ところが、完成した途端、父の態度が一変した。「遊ぶのは、悠祐としなさい。」と言うのだ。3歳も年下で、それまで一緒に遊ぶようなこともなかった(面白くないからだ)弟と遊んでもつまらないからいやだ、と訴えても、父は聞く耳を持たなかった。「そろそろ、一緒に遊んでもいい年齢や。」とか意味の分からないことを言って。
 とうとう俊は泣き出した。大声で泣きながら、家の中をさまよった。こんなに泣いていたら、きっと父は可哀そうに思わずにはいられないだろう、そして遊ぼうと言ってくれるだろう。いつも優しかったのだから。
 そう信じていたのだが、結局、父は冷酷な態度を変えなかった。
 その日から、俊は、父に「遊ぼう。」と言う事は無くなった。また断られるのが怖かったし、遊んでくれても本心では「面倒だ」と思っているなら、嫌だった。父の方から誘ってくれることも、もちろん、無かった。
 完成した宇宙船のレゴは、そのまま手を付けることもなく、部屋の一角に置きっぱなしになっていた。
 最高の相棒はいなくなったのだ。
 でも、それが、今、目の前にいる朝彦と同一人物なのだとしたら、どう考えたらいいのだろう。
 大人になってしまうと、素晴らしい人間も、嫌な鬱陶しい奴になってしまうものなのか?でも、「アサ君」がそんな風になるとは思いたくない。
 もしかしたら、あの残酷な仕打ちにも何か理由があったのかもしれない。パパには、何か、やらねばならない大事な事があって、そんな状況でも、俊のために割くことのできる最大限の時間は割いてくれていたのだが、上限を越えてしまうと、拒絶モードになってしまったのかもしれない。
 こちらから「遊んで」と言えば、時間さえあれば、嫌がらずに遊んでくれたかもしれないではないか。
 だが、それを確認することはもう出来ない。父の方の朝彦は遠い未来の世界にいるのだから。
パパやママや弟にもう会うことはできないのだろうか?そう考えると、悲しくて涙を流すこともあった。
 でも、不思議な事だが、「いつかは未来の世界に戻るはず。」という確信のようなものがあるのだった。
 証拠と言っては何だが、もし自分がずっと今の時代に残っていて、少年・朝彦とともに成長して行くのだとすると、未来の自分は、親戚に俊という名の叔父さんを持っていなければおかしいのだが、そんな叔父さんはいない。
 それまでに自分は亡くなっているという恐ろしい可能性もあるが、それなら、父が、亡くなった大好きな弟のことを話す時に、彼とそっくりなもう一人の大好きな子供も亡くなったと話していたはず。
 こういったことも、時々、考えるのだが、大部分の時間は、朝彦のお陰で、楽しく過ごせていた。
 遊びの時間は、たいてい、おもちゃ箱にため込まれていた朝彦の作りかけのおもちゃを完成させることに費やされた。どれも上手くできたのだが、集大成として取り組んだモノレール製作だけは、失敗に終わりそうな雲行きだった。
 モノレールの路線から列車から、駅や街並みに至るまですべて厚紙で作ることに無理があったのだろう。
 当初、二人で夢中になって描いた完成予想図のようにカッコよくもリアルにも出来ておらず、全体が直線ばかりなので、一見しただけでは、何であるかも分からない。
 おまけに、肝心のモノレールの列車が、スムーズに動かない。
「本物のモノレールみたいに、車輪で挟むようにしたらどうやろう。」
と俊が提案した。
「車輪ってどうやって作るねん。」朝彦がぼそっと答えた。やればやるほど理想から離れていくことで、疲れて投げやりになってきているらしい。
「えーと、糸巻とか。」
「糸巻?そんなん、どうやって取り付けるねん。適当な事言うな。」
 朝彦からきつい言葉を浴びせられ、俊も腹が立って、「じゃあ、勝手にしろよ。もう俺はやーめた。」と立ち上がった。
「ああ、やめろや。役に立たん奴はいらんわ。」朝彦は、これ見よがしに背中を向けて、また、出来の悪い列車をいじり始めた。
 なんや、嫌な奴やな、やっぱり「パパ」と一緒や。俊は、憤然と部屋を出て行きかけたが、この家は他に行く場所もないほど狭いのだった。
 仕方なく、また部屋に戻り、隅の方、朝彦から出来るだけ離れた位置で三角座りした。
 何もやることがないので、たちまち退屈になり、仲たがいしたことが後悔されるようになった。
 横目で朝彦を覗うと、朝彦は、俊を無視したまま、ぶつぶつ何か言いながら、手直しを入れているが、そろそろうんざりしてきていることは、なんとなく分かった。
 モノレール作りは、ここらで終わりにしていいのじゃないか。
 俊は、膝を抱えていた手を床に着き、尻を持ち上げると、尺取虫のように、尻を前に移動した。
 それから、足を前に出して再び三角座りすると、また手を床について、朝彦の方に少しだけ移動した。
 朝彦は反応を示さない。
 俊はもう一度、尺取虫式の移動をして、また少しだけ朝彦に近付いた。
 朝彦はまだ振り返らないが、拒絶や敵意は感じられないので、俊はまたもう一尺、前に前進した。そうやって、「ヒョコ、ヒョコ、ヒョコ」と少しずつ距離を詰めると、朝彦の横に行く替わりにおもちゃ箱のところまで行って中を覗き込んだ。
 ふと、新聞の折り込み広告らしいものが、折りたたんで入れてあるのに目が留まった。
 取り出して開いてみると、それは薄緑色の紙に、手書きの字体で、「もぎたて青空市場」というタイトルや、その期間や場所などが印刷されたチラシで、裏の白紙部分には、朝彦が描いたと思われる鉛筆書きの絵がびっしりと描き込まれていた。
 それは、木の上に家を建てる、「ツリーハウス」のアイデアを描いたものらしかった。
 木の幹の間に木材を差し渡して、地面より高いところに土台を組み、その上に三角形の小屋が置かれている。小屋は、崖のそばに建てられていて、そこから「タラップ」なるものが崖下から生えている大きな木の上部の、枝分かれが始まる部分まで伸びていて、その先には、柵を巡らした「見張り台」なるものが描かれていた。
 さらに、いくつか拡大図が書かれていて、土台の木材の組み方や幹への括り付け方や、寸法や材料についても細かく書き込まれている。
 例えば、三角の小屋は、ベニヤ板で作られ、間口150センチ、奥行き220センチ、高さ150センチあることになっており、さらにその上に、日光と雨を防ぐためのブルーシートを張り渡すことになっていた。
 また、見張り台は、地上8メートルの高さにあり、安全のための柵は、荷造りテープで作る予定らしかった。
「うわー、すっげー。」思わず、声が出た。
 朝彦が、こちらを見て、飛んできて、「勝手に見るなよ。」と、その設計図を奪い取った。怒りではなく、恥ずかしがっているように見える。
「見せてよ。すごいやん、これ。いつ作るん?」俊は、先ほどのいさかいのことなど、100万光年の彼方に忘れ去って、興奮して尋ねた。
「これは、家の設計図や。自分の家が欲しいと思って。」どうでもよさそうに朝彦は答える。
「え、なんで作ろうと思ったん?」
 やたらと興味を示す俊に対して、始めは隠そうとしていた朝彦も、だんだんと熱を帯びて自分の計画を話し出した。テレビもなく(「おはよう会」の教祖が禁じているのだ)、食事も美味しくなく、自由のない家で、いつも、一人きりになれる家が欲しいと思っていたこと、作るなら神楽岡なので、森の中に溶け込むような木の家にしようと考えたこと、等々。
「実際に作ってみたん?」俊は聞いた。
「いや、友達に話しても、そんなん出来るはずないとか言われるし、一人では、なんか空しいしな。まだ、計画しただけやな。」
「ふうん。材料はどうやって手に入れるつもりやったん?」
「神楽岡の向こうに製材所があるんやけど、そこで失敗した木材をもらえへんかって思ってた。」
「頼んでみたん?」
「いや・・・」朝彦は、歯切れ悪く答えた。
「頼んでみよう。今から行こうよ。」
「そ、そうやな。」
 俊の熱心さに押し切られる形で、急に家造りが動き出すことになり、蝉の合唱が喧しい午後3時、二人は神楽岡に向かった。
 二人とも、お揃いの近鉄バファローズの赤青白の野球帽をかぶって。俊のは、今は亡きタカシが使っていたものだ。
 まず、朝彦が案内したのは、家の建設予定地だった。ちゃんと、具体的に場所を選んでから、そこに合った計画を立てたのだという。
 確かに、そこは、斜面がすぱっと切り取られたように、急に落ち込んでいて、崖のようになっていた。
「あれが、見張り台の木や。」
 朝彦が指さす先に、崖下からすっくと幹を伸ばした大きな木がいくつも太い枝を枝分かれさせていて、今居る崖上と同じ高さの位置までは、4メートルくらいの距離があった。
「あそこまでどうやって行くの?」俊が尋ねた。
「梯子を向こうまで渡して、その上を這って行こうと思ってたんやけど。」
「うまく渡せるの?」
「うーん、結構人数が必要かもしれへんなあ。梯子の先が下に落ちてしまったら、枝の上に引っ掛けられへんからな。」
「でも、まずは家を作ることが先やねえ。」俊は腕組みして言った。
「そうやな。」
 朝彦も同意し、木材を手に入れるため、製材所に向かうことにした。
 それは、神楽岡を東側、つまり大文字山の方に下り、少し行ったところ、住宅街の中に忽然と現れた。
 周囲が5メートル以上もある高い木の塀で覆われ、その上にトタンの屋根がかけられている。上の方には、すりガラスの窓が正面に2つ、側面に3つずつ。看板には、「(有)半田製材所」の文字。その閉鎖的なたたずまいに、朝彦も俊も気後れを覚えて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「どうする?」いつになく弱気に朝彦が俊に意見を求めた。
「ノックしてみようか。」俊は小さな声で言った。
 朝彦は、大きな観音開きの扉に近付くと、ノックした。
「はい!」野太い不愛想な声が返って来て、二人は縮み上がった。
 互いに顔を見合わし、朝彦が俊を指さすと、俊は朝彦を指さし返す。
 覚悟を決めて朝彦が扉を開け、中に入ると、額に捩じったタオルを巻いた、いかつい顔つきの親仁が胡乱な目つきでこちらを見ている。下着のような白い半そでシャツから出ている腕は恐ろしく太い。
 奥の方には、もう一人、もっと若い男がいたが、子どもには何の興味も示さず、黙々と木材を運んでいる。
 一瞬、言葉に詰まった朝彦だが、つっかえながら、小さな家を作るための木材が欲しいので、もし余っている木材があったら分けてもらえないか、ということを聞いた。
 答えは、「そんな無駄にできる木なんかあるかい。やるもんはない。」とにべもなく、言い終わる時には、既にこちらを見ていなかった。  
 親仁は、背を向けて、奥に立てかけられた長い木材を持ち上げ、運び始めた。
 全身が「帰れ」と言っている気がして、2人はそれ以上何も言うことが出来ず、すごすごと扉を閉めて、炎天下の街路を、神楽岡の方へ戻って行った。
 しばらくは、製材所で受けた酷い仕打ち(と子どもたちには映った)のショックから無言だったが、
「木材がなかったら作れないよね?」と俊が小さな声で言った。
「いいよ。初めから、あんな製材所なんか、当てにしてなかったし。神楽岡には、いっぱい落ちてる枝とかあるから、それで作ったらええんや。」と朝彦は強がった。
「枝なんてまっすぐじゃないし、使えへんやろう。それに、小屋はどうやって建てるん?ベニヤ板がいるんやろ?」
「うるさいなあ。あそこでもらえなかったら、ほかで探せばええやろう。」朝彦は、道の左右に目を向けながら、苛立たし気に答えたが、小さなスーパーマーケットの前で足を止め、「あった。」と言った。
 指さす先には、スーパーの裏手、駐車場に面したところに積み上げられた段ボールがあった。
「これで家が作れる。」明るい表情に戻った朝彦は、今度は、躊躇なく店の中へ入って行って、レジのところにいた店員の女性に、段ボールをもらえないかと聞いた。こちらは愛想よく、「いらないものだから、いくらでも持って行っていいよ。」と言ってくれた。
「よおし、これで材料が手に入ったぞ。」すっかり元気になった朝彦は、「持てるだけ持って山まで運ぼう。足りなかったら、またもらいにくればいいし。」と言った。
「えー、段ボールってホームレスみたいやん。」俊は不平の声を上げた。
「つまり、段ボールで家は作れるって事やろう。何が悪いねん。」
 朝彦は、意に介さず、4枚の、伸ばして平にされた段ボールを胸に抱えた。
 仕方なく、俊も3枚を抱えて、朝彦と一緒に神楽岡への道を、汗を垂らしながら戻って行ったが、心の中では、「段ボールなんて家ちゃうやろう。」と不平たらたらだった。
 朝彦の方は、段ボールを使ってこう組み立てようかとか、いやこうした方がいいか、などと、色々アイデアをしゃべってくるが、俊は、ほとんど聞いていない。
 朝から続くギラギラした晴天でフライパンのように熱くなった地面が照り返す熱気と、頭上から降り注ぐ直射日光で、蒸し焼きになりそうな気がして、俊は立ち止った。
「暑い。重い。」
 朝彦も頷いて、段ボールをいったん地面に立てかけて、ズレがないように揃えると、頭の上に地面と水平に載せて左右から手で支えた。
「お、こっちの方が持ちやすいし、日除けにもなるぞ。」
 汗を滴らせながら、言うので、俊も半信半疑に真似てみると、こちらの方が楽な気がした。
 そうして、二人で大原女のように頭に荷物を載せて神楽岡を登って行ったが、道行く人がみなこちらに目を向けるのが、恥ずかしかった。
 森の中のツリーハウス建設予定地まで戻って来た時には、二人とも疲労困憊。
「段ボールをまたもらいに行くのは、涼しくなってからにしようか。」
 朝彦が苦しい息をして言った。

「段ボールを使って小屋を作る方法やけど。」朝彦が、現場の森に立って説明した。「平らになった今の形のままガムテープで繋いで大きな板にしようと思うねん。ベニヤ板の代わりやな。」
「設計図と同じ形で作れるってこと?」俊は聞いた。
「そうそう。一部を重ねて繋いだら、結構頑丈になると思うねん。そんで、両側の板が合わさる天辺を、段ボールの切れっ端で作った補強材で覆って雨漏りせんようにするんや。」
「でも、段ボールだとだんだん形が崩れて来ないかな。クチャって。何か、支える硬いもんがいるんちゃう?」
「そやな。」朝彦は思案し、「じゃあ、前と後ろの2か所に棒で支柱を立てよう。三角テントと同じ感じで。うちのお母ちゃんが家庭菜園のために買ってきた緑のポールが何本か余ってたし、それを使おう。」と提案した。
 俊は、小屋の完成した姿を想像し、材料は違っても、元の計画通りに出来そうだと思ったので、だいぶ機嫌を直した。
「とりあえず、作ってみようか。」
「うん。家に道具とか、取りに帰ろう。」朝彦は頷いて、「えーと、要るもんは、ロープみたいな紐と、ハサミとカッターと、荷造り紐とガムテープと、長さを図るメジャーと、あと定規と鉛筆もあった方がええかな。それとポールやな。あ、それにノコギリも。」
 家に戻りながら、俊と朝彦は、二人の秘密基地の計画を熱心に話し合った。
「お父さんは手伝ってくれる?」俊は聞いた。
「くれるはずない。」朝彦は即答した。
「お母さんは?」
「無理無理。自然食と瞑想にしか興味がないし。」
「悲しい家やなあ。家建てたいって思う理由が分かるわ。」
 朝彦は苦笑して、「俊のお父さん、お母さんは、どんな人なん?一緒に遊んでくれた?」と訊いた。
「うーん。そうやなあ。」俊は考えこんだ。「小さい頃は、よく遊んでくれたかな。庭でテント張って、キャンプごっこみたいなことを何度かしたことある。」
「へええ。いいなあ。」
「そうかな。」俊は答えた。
 この頃は、父親のことを思い出しても、嫌な気分になることは、無くなっていた。

「今日は何をして遊んだん?」夕食時に祖母が聞いてきた。
「今日は神楽岡で、」
 俊が言いかけた時、食卓の下から、朝彦が蹴って来た。それで、「銀玉鉄砲の撃ち合いをしてん。」と、別の日に朝彦の友達4人を交えてやったことにすり替えて報告した。
 銀玉鉄砲というものは、この時代に来て初めて目にしたものだった。プラスチック製で、ワルサーP38とかコルトガバメントとか、実際にある拳銃をそれなりにリアルに再現してあるのだが、やたらと軽く、大きさも子どもサイズで小さいので、さすがに本物の拳銃使いになったような気分にはなれないが、石膏を丸めて表面に銀色の塗装をした「銀玉」をたくさん詰め込んで連射できるようになっており、撃ち合いをすると、結構楽しい。
 神楽岡の森の中でやった時は、木とか藪で身を守りながら、銀玉を撃ち合ったが、なかなか当たらない。銀玉鉄砲の威力では5メートル以内に近付かないと、狙ったところに命中させることが出来ないので。
 そこで、自然発生的に、皆、何か盾になるものを左手に持って、至近距離まで接近して撃とうとするようになった。盾は、森の中で拾ったゴミ箱の蓋とか、トレーとか、松の木の折れた枝葉とかだった。
 盾で身を守りながら喊声を上げて突撃し、1メートル前後の近さで撃ちまくり合っていると、みな興奮してきて、大声を上げて笑ったり、「お前、今当たったやろ。倒れろや。」「盾に当たっただけじゃ。」などと言い合ったりして、めっぽう楽しかった。
 それにも飽きてくると、今度は、「けいどろ」に銀玉鉄砲を取り入れて遊び始めた。
 けいどろ(刑泥)遊びでは、普通は、刑事側は泥棒側の者にタッチしたら捕まえたことになるのだが、この日は、銀玉鉄砲で銃撃して、命中したら逮捕したことになるルールに変えていた。
「犯人を見つけたらすぐ撃ってくる刑事ってすごいよな。」
「いたら怖いな。」
 そう言って皆は笑い合ったが、こちらもすごく楽しかった。
 こういったことを祖母に話して聞かせたが、実際に今日やったことは、森の中の崖際にある、たいらになった一画で、三角形の小屋を据え付けるための「土台」(と二人は呼んでいたが、正確に言うと高床)を作るところまでをやった。
 まず、「土台」を支えるための木を4本選び、二人の腰くらいの高さに枝を渡してそれを荒い布のロープ(というか紐)で幹に括り付ける。それを4回繰り返すと、上から見ると、長方形が出来上がる。
 この長方形に、そこらに落ちている枝を手当たり次第、架け渡して床を作った所までで、今日の作業は終了した。
 明日は、この上に、段ボールで小屋を建てることになる。
 
 二人とも、9時頃に寝床を設えて布団にもぐりこんだので、祖母は驚きつつ怪しみ、「明日、おはよう会をサボろうとかしたら承知せえへんで。」と釘を刺した。
 布団の中で、2人の少年は声を潜め、
「明日、完成するかな。」
「楽しみやな。」
と言い合った。
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